第二話 第Ⅲ級立入制限区域・エルダウッド森林
待ち望んでいた週末がとうとうやってきた。……いや、正直に言えば待ち望んでいたと言い切ってしまっていいのかどうか、自分でも少し疑わしい。心臓はわくわくと跳ねているのに、同時に心がきゅっと縮まるような緊張も消えてくれなかったから。
自室の机いっぱいに道具を広げて、ひとつひとつ確認していく。
まずは標本瓶。光を受けて淡い虹色を返すクリスタル製で、魔法植物を採取するにはこれがなければ始まらない。私は一本ずつ指で叩いて音を確かめ、欠けや傷がないか念入りに確かめた。澄んだ音が響くたびに、胸の奥で期待が弾ける。
次に取り出したのは、獣皮の防護グローブ。分厚く重たくて、手に馴染むまで少し時間がかかる。
かぶれる毒液や鋭い棘もものともしない心強さはあるけれど、その分細かい作業にはあまり向かないのだ。葉を摘むだけでも力が入りすぎて、「繊細な葉がちぎれた!」としょっちゅう嘆く羽目になる。まあ、棘や毒で指が腫れるよりはずっとましだけれど。
それからお気に入りのスコップ。魔晶石を砕いて鋳込んだ合金製で、根を掘り起こすときも魔力の干渉に耐えてくれる。刃の部分にはかすかに魔法陣の刻印が走っていて、光を受けるとひらひらと青白い紋様が浮かぶ。
ほかにも小さなルーペや、火傷や切り傷に効く薬草を煎じた小瓶……これらをすべて帆布のショルダーバッグに詰め込んでいく。中は空間拡張の呪文がかけられていて、底なしのように飲み込んでくれるのだ。瓶を五つ入れ、グローブを入れ、スコップを放り込んでも、外から見れば形はほとんど変わらない。
バッグの口をしっかりと閉じ、リボンを結んでから深呼吸をひとつ。胸の奥にまだ小さな不安の芽が残っていたけれど、それ以上にこれから始まる探究への高鳴りを抑えられなかった。
約束の時間に遅れてはいけないと思うと自然と足早になって、石畳を駆けて正門へと向かう。
けれど門に辿り着いたときには、まだロイの姿はなかった。待ち合わせの時間には早すぎると分かってはいたけれど、ひとりで立っていると、通り過ぎる学生たちの視線が何気なく気になってしまう。
私は門の柱に背を預け、そわそわと指先でスカートの布を弄りながら、彼の姿を探しては見つからず、また探しては肩をすくめる。
そうこうしているうちに、大聖堂の鐘が約束の時刻を告げた。その瞬間、まるでそれを待っていたかのように彼は姿を現す。寸分違わぬ正確さに思わず息を呑んだ。
「おはよう、ロイ。改めて、今日はよろしくね」
「ああ、おはよう」
私は努めて明るく声を張ったつもりだった。けれど、ロイはそれだけ返して足早に歩き出してしまう。
……わかっている。仲良くするつもりはないってことは。でも、それにしたって態度が冷たすぎる。少しはにこっとしてくれてもいいじゃない。
それに、もうほんの少しでも早く来てくれたっていいのに。私ばかりが乗り気のように見えるけれど、今日の探索は彼にとっても必要なものなのだし。
胸の奥の小さな文句は尽きないまま、私は慌てて彼の背中を追った。
目的地のエルダウッド森林へ向かうため、私たちは大学から特別に貸し出された学術用の馬車に乗り込む。扉には“ヴェイル大学”と古代のルーン文字で刻まれていて、厳かな雰囲気を漂わせていた。
馬車を引いているのは普通の馬ではなく、光と風の粒子でかたち作られた幻獣の馬だった。半透明のたてがみが淡くゆらめき、陽光を受けて虹色に散らしている。
蹄が石畳を踏むたび、鈴の音のような澄んだ響きが空気に溶けて、まるで夢の中に足を踏み入れたような気分になる。
けれどいざ腰を下ろすと、二人きりという事実が重くのしかかってきた。木の床が車輪の揺れに合わせてきしむ音がやけに大きく感じられる。
ロイは窓の外ばかり見て、私の方へは視線を寄越さない。話しかけたら、また不機嫌な顔をされるだろうか。沈黙のままでは息苦しいけれど、言葉を選び損ねるのも怖い。
どうしよう。頭の中で言葉を繰り返しては飲み込み、喉の奥が乾いていく。外の景色は刻一刻と変わっていくのに、馬車の中だけは時間が止まったみたいに張り詰めていた。
——私が一言でも声をかけられたら、この空気は変わるのかな。それとも、もっと険しくなってしまうのかな。考えるたび、胸の奥では不安と期待が綯い交ぜになって膨らんでいった。
◆
馬車を降りた途端目の前に広がったのは、陽光をほとんど飲み込んでしまうような鬱蒼とした木々だった。枝と枝が複雑に絡み合い、外の世界から切り離された別の領域を守るように立ち塞がっている。
入口に据えられた石板は長い年月を経て苔むし、淡く古代の紋様が浮き彫りになっていた。私は教授から預かった許可証を取り出し、そっとかざす。
すると石板の模様がかすかに光を帯び、ゆっくりと印が浮かび上がっていく。その瞬間、目の前の空気が裂けるように震え、結界に人ひとり分ほどの裂け目が現れた。
私が一歩を踏み出そうとしたところで、背後から声をかけられる。
「エヴァリー、ちょっと待ってくれ」
足を止め、振り返る。ロイは変わらず無機質な顔で私を見つめていた。
「君にはいくつか守って欲しいことがあるんだ」
続けて告げられたのは、結局のところ分かりきった注意ばかりだった。そばを離れないこと、勝手に道を外れないこと、危険があれば必ず指示に従うこと……。
子どもに言い聞かせるような口ぶりに、胸の奥で小さな反発心が芽生える。どうしてこういう時だけおしゃべりなのだろう。道中は私に目もくれなかったのに。
「ロイこそ、植物には不用意に触れないようにね」
つい意地悪く言い返してしまうと、彼もそんなこと分かりきっているとでも言いたげに目を細めた。
してやったり、と思いながらも、私はふと心の中で立ち止まる。……もしかすると今、はじめてこの人の感情らしいものを垣間見たのかもしれない。
その気配を胸の片隅に留めながら、私はふとバッグの中を探り、小さな瓶を取り出した。
「そうだ、忘れるところだったよ。これ、虫除けの香液。私が調合したんだ」
クリスタルの瓶を揺らすと、琥珀色の液体が光を受けてきらりと輝く。まるで朝露を閉じ込めた宝石みたいに見える。
「でもつけすぎないでね。……人まで寄り付かなくなっちゃうから」
軽口のつもりで笑いながら蓋を開けると、すぐに薬草の香りが立ちのぼった。できる限り良く言えば清涼感、とでも形容できるその香液に、ロイの眉間がきゅっと寄せられたのを私は見逃さなかった。
それから改めて二人並び、光の裂け目を抜けて、エルダウッド森林へと足を踏み入れる。
……その瞬間、空気が変わるのを感じ取った。
結界の外側で吸い込んでいたものよりも重たく、湿り気を帯びて、胸の奥にずしりと降りてくる。木々はさらに高く聳え、枝の重なりが空を覆い隠し、昼だというのに薄闇の世界が広がっていた。
私は胸の高鳴りを抑えられず、歩みを進めながら辺りを見回す。地面には苔が厚く茂り、その間から蔦や根が生きているかのようにするすると動いていた。一本が私の足元に這い寄ってくるのを見て、慌てて避ける。蔦は諦めたようにゆるりと別の方向へ伸びていった。
やっぱり、これまでの森とはまるで違う。生き物のように脈動する植物たち。ここが第Ⅲ級立入制限区域と呼ばれる所以を、改めて肌で感じた。
やがて不意に白い霧が立ち込めてきた。冷たい指が頬を撫でたかと思えば、一気に視界を覆い尽くす。
数歩先も見えなくなって立ち止まった私の横で、ロイが無言で杖を振る。すると淡い風が巻き起こり、霧を押し流していった。霧の向こうに、再び緑の濃淡が浮かび上がる。
私は息を詰めてその背中を見つめた。愛想がないとばかり思っていたけれど、やっぱり彼がいてくれて良かった、とその瞬間には素直に思えた。
森の奥へ進むほどに、空気はひんやりと澄んでいき、枝葉の重なりの合間から射す光も青白く揺らめいて見えた。耳に届くのは小さな羽虫の羽音と、根が地中を這う低いうなりだけ。
そんなとき、不意に視界の端で淡い銀の光が瞬いた。私は思わず歩みを止め、息を呑む。
木々の隙間から零れる光が、低く茂るシダの群れに吸い込まれるように集まり、葉脈をひと筋ひと筋照らしていた。
葉は深い緑を湛えているのに、その内側で銀色の筋がきらめき、まるで月光そのものを飲み込んで輝いているかのようだった。
「……月影のシダ」
小さくつぶやいた声が震える。魔力を安定させる効果があり、薬学や実験において不可欠とされる植物——けれど、市場に出回るのは人の手で育てやすく品種改良されたものばかり。自然の森に根を下ろしたままの株は稀少で、その効力は比べものにならないと伝え聞いていた。
その本物が、目の前にある。
胸の奥が熱くなり、思わずしゃがみ込んだ。指先が触れた葉は驚くほどひんやりしていて、わずかに光を散らしながら私の掌をすり抜けるようだった。自然の静けさに包まれ、耳まで赤くなるほど心臓が跳ねる。
「これが……本物……!」
私はそっと標本瓶を取り出した。口を開き、一枚の葉を慎重に切り取る。瓶に収められた瞬間、葉脈の銀が揺れ、閉じ込められた光が小さな星のように瓶の内側で瞬いた。その輝きを見つめながら、胸の奥がじんわりと満ちていく。
「ロイ、あなたも持っていったほうがいいよ。魔法薬学の講義で使えば、きっといい評価がもらえるし……それに、もし使わないなら市場に出したって十分価値があるはず」
振り返って呼びかけると、彼は淡々と頷くだけだった。興味がないのか表情は変わらない。けれどそれでも、無言でいくつかの葉を切り取り、瓶に詰めていた。ほんの少しだけ、私の熱にあてられたのかもしれない。
私は夢中で瓶に葉を収めながら、それでも一瓶に収まるだけに留めた。手を止めて深呼吸すると、足元のシダが微かに風に揺れていた。
「……終わりにしておこうかな」
瓶の蓋を閉めながら告げると、隣から思いがけない声が降ってきた。
「あんなに喜んでいたんだ。もう少し採っていけばいいだろ」
驚いて顔を上げると、ロイは変わらず無表情のまま、けれどほんの少しだけ眉をひそめてこちらを見ていた。善意なのか、それともただ不思議に思っただけなのか、判別がつかない。
私は小さく首を振って答える。
「採りすぎたらいけないの。残しておけば、また新しい芽を生やしてくれるから」
言いながらシダの群れを見やった。銀色の光はまだそこに脈打っていて、瓶の中に収めた数枚と響き合うように輝いていた。
自然が生んだものを前にしては、欲張ってはいけない。私たちは少し分けてもらえれば、それで十分なのだ。
「待たせちゃったね。さあ、行こう」
私が立ち上がると、ロイも何も言わず踵を返した。
まだ道は奥へと続いている。蒼炎草はさらに深い場所に根を張っているはずだ。森の奥には、まだ未知の輝きが待っている。それを想像すると、心臓が高鳴って止まなかった。




