第十七話 ダンスパーティーと乙女心
休暇が明けてからというもの、大学の中庭は一気に色めき立っている。夏のダンスパーティーの話題が、あちらでもこちらでも弾んでいるからだ。
誰と行くの、とか。もう誘われたの、とか。思いがけない人から声をかけられたんだけどどうしよう、とか。
中庭に並んだベンチでは、そんな言葉が風に乗っていく。私は友人と並んで腰を下ろしながら、笑ったり相槌を打ったりしつつ、心は別の場所に置いてきてしまったような気がしていた。教授の研究室の前で耳にしてしまったあの会話が、まだ胸で燻っている。
「ねえ、ドレスはどうするの? 決めた?」
ぼんやりしていた視界の端に、エレンの顔が近づいた。私は慌てて意識を戻し、取り繕うように微笑む。
「あっ、ドレスね。まだ迷ってるの。休暇の間に何着か見てきたんだけど、どれも可愛くて」
「いいなあ、私も今度見に行こうと思ってるの。で、やっぱり私たち四人で一緒に行くんでしょう? それ、すごく楽しみなんだけど」
その言い方があんまりにも無邪気で、私は少し救われた気持ちになる。教授のことも、あの研究のことも、何も知らない人の顔だ。
「でもさ」
と、エレンは急に声を落とした。
「ロイ・グレイフォードを誘えばよかったのに、って思わない?」
「えっ?」
あまりにも自然に名前が出てきたから、私は間抜けな声を出してしまった。心臓が一瞬、変なふうに跳ねる。
「ど、どうして、ロイなの」
「だって、あなたたち仲いいでしょ? 講義のあととか、よく一緒に歩いてるの見かけるし。あと見た目はカッコいいし」
「そ、そんなこと……」
慌てて首を振る。だけど否定しようとしても、うまく言葉が出てこない。言い訳を探すみたいに、視線が中庭の向こうを彷徨う。
「ロイは、ああいうの興味ないと思うの。賑やかな場所、得意そうに見えないし。誘ったって困らせるだけだよ」
「うーん? そうかなあ」
エレンはまだ腑に落ちない様子で首を傾げるけれど、私は自分で言ってみて妙に納得してしまう。賑やかな人の輪の中で笑う彼なんて、どうしても想像できなかった。
「それに、もう女の子たちから山ほど誘われてると思う。……全部断ってそうだけど」
「ありそう」
ふたりで同時に頷いて、少しだけ笑ってしまう。目に浮かぶのは簡単だった。感情を表に出さないあの表情のまま、「行かない」と告げる姿。そこに嫌味はなくて、ただ、自分の境界線を守っているだけ。彼はそういうふうに見える。
「“興味がない”って顔して断って、それで終わり。でも、ウィニーの誘いだったら受けてたかもよ?」
「ないよ、そんなの」
ロイがダンスパーティーに行くところなんて、本当に考えられなかった。それに、私なんかの誘いで彼の予定が変わるとも思えない。
エレンはそれ以上は何も言わず、別の話題へと舵を切った。周囲では相変わらず、パーティーの話題が弾んでいる。けれど私はその輪の中心から、少しだけ離れた場所に立っているような気分のまま、彼女の言葉を聞いていた。
◆
午後の授業が近づいて、私たちは中庭を抜けて教室に戻ろうとしていた。ダンスパーティーの話題は、どうやら午前中だけで勢いを使い切ることはなかったらしい。あちこちで「もう決めた?」「ねえ、あの人は?」なんて声が聞こえてくる。
私はといえば、相変わらず歩きながら視線も気持ちも別の方向へ向いていた。そうやって頭のどこかが別の場所にいるときに限って、現実はひょいと目の前へ割り込んでくる。
「ねえ、ウィニーとエレンだよね?」
名前を呼ばれて顔を上げると、二人組の男子生徒がこちらへ向かって手を振っていた。笑っている。しかも、ちょっと妙に楽しそうに。
「えっ、うん、そうだけど」
返事をすると、前に出てきた方が勢いよく距離を詰めてくる。
「いきなりで悪いんだけどさ、ダンスパーティー、もうパートナー決まってる?」
「え、私?」
「そう。もしまだなら、俺と一緒に行かない?」
言い方は軽いけれど、彼はそれきり何も言わず、ちゃんと返事を待つ気でいるのが伝わる。悪ふざけではないとわかる程度の真面目さは残っているらしい。
「えっと……」
どう答えたらいいのかわからなくて視線を逸らすと、横にいたもう一人が今度はエレンのほうへ向き直った。
「それでさ、俺は君を誘いたいんだ。よかったらどう?」
「私? ……そうね。あなたがよければ、喜んで」
エレンはためらいなく答えてしまった。その返事を聞いた瞬間、私は小声で呼び止める。
「ちょっとエレン。アニーとルーシーと四人で行くんじゃなかったの?」
「ああ、それね」
エレンは少しだけ肩を寄せて、控えめに声を落とす。
「実はあの子たちも誘われてたのよ。でも私たち四人で行きたいってウィニーが言ってたから断ってたの」
「……そんな話、聞いてない」
「言わなかっただけ。断った理由を本人に言うのも、ちょっと悪い気がするでしょ?」
四人で行こうとしばらく前から約束していた。けれど、それは最初に「誰からも誘われなかったときの話」で、現実はどうやら少しだけ違ってきているらしい。
「それに、あなたも誘われてるんだしいいじゃない」
ふと視線を戻すと、私を誘った彼は少し緊張したみたいに様子を伺っていた。
「嫌だったらほんとに気にしないでいいよ。断られ慣れてるから」
少し慌てた声で付け加える。そんなことを冗談みたいに言うものだから、少し笑ってしまった。
「……ううん。こちらこそ、迷惑じゃないならお願いします」
「そんな。迷惑なんて!」
彼の顔が一気に明るくなる。その表情を見て、私もようやく安心して頷けた。
アニーとルーシーはどうするんだろう、と一瞬思ったけれど、きっと二人ならうまくやる。むしろ、私のほうがのろのろ考えすぎているだけなのかもしれない。
◆
学生たちの間で評判のブティックに入ると、鈴の音がころんと転がって、ほのかに甘い花のような香りが広がる。普段は窓から覗くだけで帰ってしまう場所だけど、今日はちゃんと扉を押した。
棚やマネキンには季節の色を掬い取ったようなドレスが並んでいて、それぞれ違う魔法が縫い込まれているのだと聞いたことがある。
「わあ……」
思わず声がこぼれる。エレンはというと、もうとっくに店の奥まで進んでいて、次々とドレスに手を伸ばしていた。
「見て、これ。可愛くない?」
エレンが抱えてきたのは星空のようなドレスだった。濃い群青の生地は夜の空そのもので、そこに細い銀糸で織り込まれた星座が静かに瞬いている。よく見ると、ただの刺繍じゃなかった。星々がかすかに瞬いているのだ。
「きれい。すごく似合いそう」
「ほんと? あのね、胸元のこのあたりが北の空で、裾のほうが夏の星座なんだって。時間によって星の配置も変わるらしいの」
エレンは嬉しそうに指先で星の位置をなぞった。触れるたび、小さな光がはじけて、すぐにまた元の場所に戻る。まるで彼女の指先が流れ星の軌跡になっているみたいだった。
別のラックに目を向けると、私はどうしても視線が止まってしまう一着を見つけた。淡いクリーム色のチュールが幾重にも重なっていて、その上に刺繍された小さな花々が、風もないのに揺れている。
「あー! それ、ウィニーに似合いそう。ねえ、着てみたら?」
エレンに押されるまま試着室へ入る。袖を通して、裾が床に触れた瞬間、すうっと何かが芽吹く音がしたような気がした。鏡の前に立つと、胸元から裾にかけて、細い蔓がゆっくりと伸びていくのが見えた。蔓の先では小さな蕾がひとつ、またひとつと開いていく。
「えっ、わ、すごい……!」
声が勝手に零れた。カーテンを開けると、エレンがぱっと顔を輝かせる。私は少し照れくさくて、けれど裾をつまんでくるりと回ってみる。花影がふわっと宙へ散って、消える前に甘い匂いを残した。
「ね、言ったでしょ? 絶対似合うって! 森の精霊みたい……あ、見て。蝶が」
エレンが指差した先で、肩に小さな薄緑の蝶が止まっていた。さっきまで布の模様の一部だった蝶がそっと羽ばたいては、また生地へ戻っていく。
別のドレスも広げてみた。深い葡萄色の生地に、夜咲きの花が息をしている。光を吸い込んだ花弁が、暗い水面に落ちた月みたいにほの白く輝く。歩けば足元に細い蔓が伸びて、すぐに霧のようにほどけていく。
また別の一着は麦畑の色をしていた。金の糸で縫い取られた穂が、誰も触れていないのに風を受けたみたいに波打つ。耳を澄ませると、遠くで草原が擦れる音がした気がする。
「どれにするの?」
エレンが楽しそうに覗き込む。私は鏡の中の自分を何度も眺めながら、胸の奥で揺れているものを確かめた。派手ではないけれど、そっと寄り添ってくれるような植物の魔法が、いちばん心地よかった。
「さっきの花のドレスかな。可愛いし、なんか着てると安心するの」
「うん、あれが一番ウィニーらしかった」
ダンスパーティー、ちょっと楽しみかもしれない──心の中で、こっそりそんな言葉が浮かんできた。どうせなら、その日は髪型ももう少しだけ頑張ってみよう。いつもより丁寧にブラシを通して、化粧にも時間をかけよう。
「髪飾りも欲しいなあ……」
小さくつぶやいて、自分で自分に笑ってしまった。花の刺繍に合う蔦の飾りとか、淡い花のバレッタとか。想像するだけで胸が弾んで、足取りまで軽くなる。
ああでも、せっかくなら。
おめかしした姿、ロイにも見てほしかったな。
ふいにそんな考えが頭をよぎって、鼓動が一拍、裏返ったみたいに乱れた。なに考えてるの、私。ロイは関係ないし。全然関係ないし。浮かしかけた思考を、慌てて手で払うみたいに追い払う。
「まあ、とにかく。せっかくだし楽しまなきゃね」
そう呟けば、くすぶっていた不安は花びらが散るみたいにほどけていった。きっと大丈夫。ダンスパーティーの夜は、笑っていられる。今日はそんな予感を胸に抱いておきたい気分だった。




