第十五話 灯火の広場
休暇が迫るにつれて寒さはだんだんと厳しくなり、温室のガラス越しに差しこむ日差しは勢いを失っていく。私は明日の帰省に備えて、薬草室で鉢をひとつずつ浮かせて寮まで運んでいた。休みの間は世話をしてくれる方がいるけれど、温度管理が難しいものや水分調節の繊細な種類は、自分で見たほうが安心できる。
「……それ、傾いてるぞ。魔力の支点が後ろに寄ってる」
「あ、また?」
振り返ると、後ろでロイがすでに杖をかざしていた。私の揺れていた鉢は彼の魔力に触れた途端するすると姿勢を正して、まるで見えない線路の上を走るみたいに真っ直ぐ進み始める。
「ロイの魔法、安定してていいなあ。全然ふらつかない」
「浮遊魔法は本来こうあるべきだろ」
「うーん……そうなんだけど」
植物を三つほど浮かせたまま廊下へ出ると、クリスマス休暇前の学生たちが賑やかに往来していた。天井にはオーナメントがふわふわと浮いていて、時々ぱちりと光を弾いては道行く人を照らす。
「そういえば見た? 町の近くで準備してたやつ」
「見てない。……何の話だ?」
「クリスマスマーケット! 毎年やってるあれ。今年は規模が大きいんだって」
話題を出すのはたぶん、いつも私のほう。ロイの返事は短いけれど、それでも聞いていないわけじゃない。
「詳しいんだな」
「去年も行ったからね。人は多いけど、すごく綺麗なんだよ」
「そうか」
「行きたいなあ……時間あるかな、今日」
独り言のつもりで言ったのに、ロイの足がぴたりと止まった。私もつられて立ち止まると、彼は杖を持ったまま視線だけこちらに向けた。
「……見に行くか?」
静かで、抑えた声。それなのに胸の奥が一気に熱くなる。あのロイが、自分から誘ってくれるなんて。しばらく返事ができなくて、唇の内側に力が入った。
「い、行きたい! うん、行きたい。すごく」
彼は表情を変えないまま、ふっと小さく息を吐いた。安堵なのか、ただの呼吸なのか、判断できない。でもその歩調がわずかに私に合わせてゆっくりになる。
「先に部屋へ運ぼう。落とすとまずいだろ」
「うん!」
植物を寮の部屋に運び終えて、私たちはそのまま大学の門を抜け、坂道を下りて町へ向かった。冬の日暮れは早く、空はもう群青色に沈みはじめていたけれど、通りには同じ方向へ歩いていく学生や町の人たちがいて賑やかだった。
広場へ近づくほど空気に混じる甘い匂いや焚き木の香りが濃くなり、角を曲がった瞬間に視界がぱっと開けた。無数の屋台が円形に並び、その上を灯りが漂っている。赤や金の光の粒が吹雪みたいに空中で舞っていて、人々の笑い声がその光にまとわりついて弾む。
「……すごい人だな」
ロイは人混みを観察するように目を細めた。その横で私は胸が弾むのを止められない。クリスマスの雰囲気はやっぱり特別で、去年も来たはずなのに何度でも目を奪われてしまう。
「ねえ、あれ。キャンドルの屋台、今年も出てる」
手を伸ばすと、ロイも視線を向けた。木箱に詰められた小さな蝋燭たちは、火を入れると雪の幻が舞ったり、煙が星の形になったりと、実演担当のお兄さんが誇らしげに説明している。
「香りも種類があるんだよ。ほら、これはラベンダーと……えっと、森の香り?」
「抽象的すぎる」
「それがね、焚くとなんとなく森っぽい気持ちになるの!」
呟きながらも、ロイはキャンドルのひとつを手に取って光にかざした。表情は変わらないけれど、興味はあるらしい。お兄さんが火を灯すと、キャンドルの煙が星形になりながら空へ漂った。それを見上げる人たちの顔がいっせいに明るくなる。
「ね、きれいでしょ」
人混みを抜けて次の通りへ進むと、お菓子の屋台が並んでいた。色とりどりの飴や、煙突から湯気を立てるチョコの鍋。どれも子どもたちが目を輝かせて並んでいる。
「あっ、これ!」
弾けるみたいに声が出てしまって、思わず足を止めた。棚のいちばん手前に積まれているのは、舌に乗せると色が変わるキャンディ。噛むと香りが変わるチョコレートもすぐそばに山みたいに並んでいる。
「昔、よく買ってもらったんだよね……。あ、これもあるんだ」
気づいたときにはもう列に並んでいた。横を見ると、ロイは列には加わらず少し離れたところで待っている。人混みを避けるように、けれど遠すぎない距離で、私の方にちらりと視線を向ける。
「今でも買うんだな」
「うん、今でも好きだもん」
確かに並んでいるのは子どもばかりで、私は頭ひとつ抜けていたけれどなんてことはない。好きなものは好きだし、せっかく来たなら欲しいものを買わなきゃ。そういう気持ちをそのまま口にしたら、ロイはふっと短く息をこぼした。笑ったのかどうかはよくわからないけれど、あれは少なくとも否定ではなかった。
私は棚いっぱいの色とりどりのお菓子を前にして、どの味にするか真剣に悩んでしまう。いちご味もミント味も、柑橘の香りが変わるチョコも気になるし、パステルカラーの虹色に変わるキャンディは初めて見た。
「……全種類ください!」
ひとつに決めるなんてできっこなくて、しばらく考えたあとそう答えた。こんな贅沢、子どもの頃にはできない。あの頃は小銭を握りしめて、一つを選ぶのにすごく時間がかかっていた。だからやっぱり、今だからこそ来てよかったと思う。
「ロイもひとつ食べる?」
「俺はいい。全種類買うほど好きなら全部食べればいい」
「好きなものは大事な人と分けたいんだよ」
ロイは一瞬だけ言葉を失ったみたいに沈黙して、それからわずかに目をそらした。淡い光が頬のあたりを照らしていて、それが赤みに見えたのはきっと灯りの加減か、あるいは私の浮かれた気持ちのせいだった。
人混みのざわめきの向こう、遠くでクリスマスソングが笛に乗って流れてくる。キャンドルの香りが広場を包んで、空は雪の気配を漂わせていた。
ロイと歩くのは楽しい。理由をきちんと言葉にできたことは一度もないけれど、いつも気づけば笑っている自分がいる。並んで歩くその間の温度に、妙に安心してしまう。
夜もすっかり更けたころ、灯りがぽつりぽつりと足元の石畳に落ちていた。寮の門の前でロイが足を止める。
「じゃあ、良い休暇を」
「うん。ロイもね」
手を軽く振ったあとも、しばらく頬のゆるみがほどけなかった。ゆっくり寮へ向かいながら、広場で見た灯りのきらめきと屋台の香り、それからロイと歩いた時間の余韻がまだ肌に残っている気がした。
◆
クリスマスは久しぶりに家族全員が揃って、思った以上に賑やかだった。もうそんな歳じゃないと思っていたけれど、ツリーの下にはちゃっかり私の分のプレゼントも置かれていた。弟は紙を勢いよく破って笑い、母は「あなたの分もあるわよ」とウィンクしてきて、父は暖炉のそばで新聞を持ちながらも楽しそうにしていた。
気づけば冬はあっという間に過ぎて、大学に戻ればすぐに試験の嵐に巻き込まれた。魔導理論も治癒術の応用研究も、頭の中がぎゅうぎゅうになるほど覚えることだらけだったけれど、春季休暇がすぐそこまで迫っているという実感で頑張ることができた。
夏はずっと家を離れて過ごしたから、今年の春は実家でのんびり過ごすつもりだった。庭の手入れもしたいし、近くの森に自生している蕾も見に行きたい。寮の部屋にもすっかり馴染んでしまっていたけれど、故郷へ帰る列車の風は心地よくて、遠くに見える山の稜線さえ懐かしく見える。
駅に着くと母が真っ先に駆け寄ってきて、子どもの頃と寸分変わらない勢いでぎゅうっと抱きしめてくれた。父は玄関の灯のもとで腕を組んで待ち構えており、ダイニングには私の好きな料理がずらりと並んでいた。弟が階段を転げるように降りてきて、遠慮という言葉を辞書から抜き取ったかのように矢継ぎ早に質問を浴びせてくるのも懐かしい。
帰省して何日か経つと、天気のいい午後に私はふと思い立って箒を持ち出した。成人してからはもう許可証もいらず、好きなように空を飛べる。子どもの頃、地図を見て「行ってみたいな」と思っていた場所はたくさんあったのに、あの頃の私はただ歩くしかなくて結局ほとんど諦めていたのを思い出す。
箒にまたがって魔力を込めると、身体がふっと浮く。視界が地面から離れ、屋根の高さを越え、畑を越え、森の縁まで見渡せる。風が頬を撫でる感覚は、何度味わっても胸が高鳴る。
「わ、すご……」
思わず声が漏れるほど、いつも見ていた景色がまるで別物になった。高い位置から眺める森は濃淡の違う緑が波のように重なり合って、どこまで続くのか想像がつかない。風に乗っていくと、小さな川が光を跳ね返しながら流れているのが見えた。子どもの頃は危ないからと近づけなかった場所。今ではこんなにあっけなく上から見下ろせる。
気ままに飛んでいるうちに、私は家からかなり離れたあたりまで来ていた。本当ならそろそろ引き返す頃だけど、胸の奥がまだもう少し先へ、とくすぐるように誘ってくる。この季節の空気はほどよく乾いていて、魔力の流れも安定している。風に合わせて少しずつ高度を下げながら、森の深いほうへと箒を進めた。
そのとき——。
「……あれ?」
見覚えのない影が視界にひっかかった。
木々の隙間に、直線的な輪郭がちらりと顔を見せる。自然の形ではない。丸みも、歪みもない、人工的な線。
私はさらにゆっくり降下する。枝の合間からのぞいたそれは、建物——のように見えた。
けれど、こんな場所に?
このあたりは村の外れで、昔から手を加えられていなかったはず。地図にも何も記載がない。少なくとも、私が幼い頃に散々眺めていた古い地図には、影も形もなかった。
建物は苔むした石の外壁をしていて、半分ほど森に飲まれていた。存在を隠すように樹々が覆いかぶさっているのに、それでも確かに、そこに“ある”。
「……こんなの、あった?」
つぶやいた声は風にさらわれてしまった。好奇心かほんの少しの不安か、理由はわからないけれど、視線がどうしても離れない。春季休暇はどうやら、思っていたよりもずっと不思議な始まり方をしてしまったらしい。




