第十一話 日常と夏の息吹
三日が過ぎて、ようやく大学に戻る日が来た。正門をくぐると見慣れた石畳と高いアーチの影が朝の光の中に落ちていて、ほっと緊張がほどける。ほんの数日離れていただけなのに、空気の匂いや階段のきしむ音まで懐かしく感じるほどだった。
校舎の廊下を歩いていると、あちこちから私の名前を呼ぶ声がする。顔を合わせる友人たちは皆、心配そうな眼差しをこちらに向け、体調はどうか、どこか痛みはないかとひとつひとつ尋ねてくる。
そのたびに「大丈夫」と笑って答えながら、胸の奥でひとつの思いがよぎる。
私自身、意識がなかったあいだのことは実感としてほとんど覚えていない。気づけば戻ってきていたし、目が覚めてから体調に異変を感じたこともない。
けれど仮死状態で戻ったという事実だけを考えれば、友人たちの不安はもっともなことだ。自分が逆の立場だったら、きっと同じように何度も様子を確かめずにはいられなかっただろう。だから、みんなの心配を「大げさ」だなんて思う気にはとてもなれなかった。
幸い、あの一件のあと大学はほとんどの講義が休講になっていたから、授業についていけなくなる心配もなかった。教授たちの顔には疲れや苛立ちが見え隠れしていたけれど、そのおかげで私たち学生は少しの間、休息をとって心を回復する時間を持てた。
ようやく講義がすべて再開された日には、教室の窓から差し込む光までが新鮮で、チョークの粉っぽい匂いにすら安心を感じてしまったほどだ。
そんな中、ロイと顔を合わせることもあった。大学の広い中庭や講義棟の入り口、図書館の階段など、どこかでばったり会えば、私たちは短く挨拶を交わす。
一緒に死線をくぐり抜けたことが嘘のように、言葉はごく自然に、あっさりとした調子で出てくる。おもしろいのは、そのたびにお互いの友人たちが後ろで目を丸くしていることだった。
廊下の向こうから視線を感じてふと振り返ると、友人たちが驚きと好奇心の入り混じった顔で私たちを見ていて、まるで何か秘密を見つけてしまったような反応をしている。私が軽く笑って見せると慌てて視線をそらすけれど、その仕草まで微笑ましい。
私は内心で小さく苦笑しながら、教室へと足を運ぶ。あの日のことはまだ胸の奥に残っているけれど、それでもこうして少しずつ、日常が戻ってきている。
友人たちの笑い声、机にノートを広げる音、窓の外で鳴く小鳥の声……ひとつひとつが、今はとても貴重に思える。あの混乱の中から戻ってきた自分がここに座っていること自体が奇跡のようで、授業の開始を告げる鐘の音さえ、私にとっては喜ばしいものだった。
それからほどなくして、大学は試験期間に入った。年に二度の期末試験のうち、これで二回目。最初の頃こそそわそわと落ち着かなかったけれど、いざ始まってみれば思っていたよりも穏やかな気持ちで試験用紙に向かうことができた。
どの科目も、それなりに手応えはある。特に魔法植物学と魔法薬学は秋学期に良い評価をもらっていたから、今回も大きな失敗はないはず——多分。
最終日の午後、最後の試験を終えて講義棟を出ると、外の空気がひどく澄んで感じられた。窓を開け放した廊下には初夏の風が流れ込み、ペン先の擦れる音ももう聞こえない。長い一週間を終えたという安堵と、明日から始まる夏季休暇への期待が入り混じって、胸の奥が少し浮き立つ。
明日の朝の汽車で家に帰る。あの汽笛を聞くたび、子どものころに夏の光の中で出発した旅の記憶がふと蘇った。
もうほとんどの荷物は昨晩のうちにまとめてある。筆記用具の箱、研究用のノート、乾燥させた標本の瓶。——あれも、あれも、ちゃんと入れたよね、と頭の中で確認しながら詰め直していると、窓の外の鐘が午後五時を告げた。
ふと視線を上げてみると、曲がり角の先に人影を見つけた。伸びた背筋にプラチナブロンドの髪——ロイの姿だ。彼も試験を終えたところらしい。いつもより少し肩の力が抜けた様子で、手にはノートと筆箱をそのまま持っている。
「ロイ! お疲れさま!」
私が駆け寄って声をかけると、彼も短く頷いて「君も」と返した。五限目まで試験のある学生はもうほとんどいないせいか、校舎の中はひどく静かだった。
外から差し込む夕方の光が床の石に柔らかく反射して、私たちの足音だけが響く。自然に並んで歩きながら、取りとめのない話を交わした。
「……明日から夏季休暇だな」
「うん。朝の汽車で帰るつもり。あなたは?」
「俺も実家に戻る。顔を出さないと両親に小言を言われるんだ」
言いながらロイはほんのわずかに視線を遠くにやった。彼の家のことを詳しく聞いたことはないけれど、帰らないと小言を言われるということは、きっと仲の悪い関係ではないのだろう。
「ご家族、きっと喜ぶね。久しぶりなんでしょ?」
「そうだな。うるさいくらいだ」
その口調は少し苦笑を含んでいたけれど、優しい響きもあった。言葉の端々から、彼の育った家庭の気配が伝わってくる。
「君は?」
短く尋ねられ、私は歩調をゆるめながら答える。
「実家で少し過ごしたあと、低地地方に行くの。あのあたりでしか採れない植物があって」
そう話すと、ロイは少し眉をひそめた。
「……また危険な場所か?」
「大丈夫。今度はちゃんと現地の案内人もいるし、下調べもしてあるから」
なるべく明るく言ったつもりだったけれど、ロイの表情はあまり緩まなかった。
「懲りないな」
軽くため息をつきながらそう言ったロイの横顔は、呆れているというよりも心配を隠しきれないように見える。心配——私は彼にそんな風に思ってもらえているのだろうか。そう考えた途端、なぜか嬉しくなってしまった。
この数ヶ月で、ロイとはすごく仲良くなれたと思う。最初のころはお互いに必要最低限のことしか話さなかったのに、今ではこうして自然に並んで歩いている。彼の言葉の端々にある優しさにも、もう気づけるようになった。
夏季休暇はとても楽しみだ。久しぶりに家族に会えるし、新しい植物を見に行けるのも待ち遠しい。でも、それと同じくらい——休暇が終わって、また大学に戻ってくる日も楽しみだった。
◆
夏のあいだ、私はほとんどずっと低地地方で過ごしていた。あの騒動のあとだったから両親はずいぶん心配していたけれど、あれ以来とくに身のまわりで不思議なことも起きていないし、案内人も雇っていると話すとようやく折れてくれた。
犯人も分かっていないのに気安く出歩くなんて無謀だと思われても仕方がないけれど、それでも私はどうしても行きたかった。あの土地にしか咲かない植物があると知ってしまったから。
低地地方の夏は湿り気を帯びた風が強く、山に近づくにつれて空の色が濃くなる。どこまでも緑が続いて、葉の隙間から射す光が銀の粒のように地面で揺れていた。
今回の旅は、思っていたよりずっと実りが多かった。案内してくれたのは現地の薬草採取人の男性で、昔からこの山に通っているという。歩くたびに草を払いながら、彼はさまざまな魔法植物の知識を教えてくれた。彼の話を聞きながら、私はノートを濡らさないように抱えて歩いた。
なかでも、その人が教えてくれた中でいちばん心に残ったのが“アロレアの涙”という植物のことだった。名を聞いたとき、詩の一節のようだと思った。朝露を含んだ白銀の花弁は光を集めて滴を落とし、その雫を飲むと悲しみが軽くなる——そんな言い伝えが、この地方には古くからあるらしい。
戦乱の時代、亡くなった者の魂が野に留まらないようにと、人々は墓地や村のはずれにアロレアの涙を植えたのだという。露がこぼれるたび、悲しみに沈む人の心を鎮め、死者の魂を安息の地へ導くと信じられてきた。
アロレアの涙は低地地方ではそれほど珍しいものではないらしく、山の斜面のあちこちに咲いていた。持ち帰った標本を分析すると、確かに神経を鎮める成分が含まれていた。だからこそ、古くから悲しみを癒す花として信じられてきたのだろう。
植物と薬は切り離せない関係にある。葉や根を煎じて飲めば、痛みを和らげたり熱を下げたり、時に命を救うこともある。けれどそれだけじゃなく、人の心にも作用するもの——心を癒す植物に私は強く惹かれた。
医学にはあまり触れて来なかったけれど、もしこの研究をさらに進められたら、自分の知識がほんの少しでも誰かの役に立てるかもしれない。
夕暮れ時、採集を終えて山のふもとに腰を下ろすと、遠くの木々が金色に染まっていった。風が花を揺らし、白銀の花が光の中でかすかに瞬く。私はその光景を見つめながらノートを開いてゆっくりとペンを走らせた。
“アロレアの涙——心を癒す花。悲しみを鎮める露。”




