第十話 呼びかける声
視界がぼんやりと滲んで見えた。焦点を結ぶまでに、ひどく時間がかかる。まぶたが重い。頭の奥がじんじんと痛み、喉は砂を飲み込んだみたいに焼けついている。息を吸うたび、乾いた薬草の香りが鼻の奥をくすぐった。
……ここは、どこだろう。かすかに体を動かそうとしても、四肢は鉛のように重くて、まるで自分のものでないみたいだった。指先をかすかに動かすだけでも、波のような倦怠が押し寄せてくる。
光が、ゆっくりと私の頬を照らしていった。窓から陽が差し込んでいるのだと気がついて、意識の奥底がようやく浮上してくるのを感じたころ、耳のすぐ傍で声がした。
「……ウィニフレッド!」
その声に、心臓が跳ねた。驚いて首を動かそうとするけど、動作がぎこちなくて、顔をわずかに横に傾けるだけでも精一杯だった。視界に入ったのは、ベッドの脇の椅子に座っているロイの姿。
彼の髪はところどころ乱れていて、目の下には深く暗い隈が刻まれていた。眠れない夜が幾度も過ぎたような表情。
けれど、それ以上に私の胸を突いたのは、今しがた彼の口から洩れた一言だった。今まで、エヴァリーとしか呼ばれなかったのに。私のことを、はっきりとウィニフレッドと呼んだ。
「……あなた、私の名前……知ってたんだね」
ロイは私の言葉に何も返さなかった。視線を逸らすように少し俯き、長い沈黙が落ちた。拳を強く握っている。その手の甲の血管が浮き上がっていて、指先は震えていた。怒っているのか、悲しんでいるのか、私にはわからない。
私が死ななかったことに安堵しているのか。それとも、私が無茶をしたことに呆れているのか。どちらでも、きっとどちらでもあるのだろう。
彼は長く息を吐き、かすかに肩を落とした。そして、かすれた声で一言だけ呟いた。
「……馬鹿なやつだ、君は」
呆れの色を帯びた声なのに、滲むように深い温度があった。私はただ、その声色の優しさに包まれて、何も言い返せなかった。
窓の外では、鳥のさえずりが響いていた。朝の光が少しずつ強くなり、カーテンの隙間から差し込む金の筋が、ぼんやりと私の手を照らしている。そこにロイの影が落ちる。
すると扉の向こうから、軽やかなノックの音が響いた。ロイが椅子から立ち上がり、無言で扉を開く。次の瞬間、白衣の裾を翻して入ってきたのは見慣れない女性だった。
「お目覚めになられたようですね。よかった、ずいぶん気を揉みましたよ」
そう言いながら近づいてくる声は落ち着いていて、部屋の空気を少しだけ明るくする。ロイは短く頭を下げてからわずかに身を引いた。どうやら、ここは病院らしい。
「気分はいかがですか?」
医師が私の枕元まで歩み寄り、穏やかな声で尋ねる。私はまだ少し喉が渇いていて、言葉を出すのに時間がかかった。
「……大丈夫です。少し頭が重いですけど」
自分の声がまるで別人のようにかすれている。けれど、確かに生きている。
脈を測られ、瞳孔を確かめられ、診察が続く。私は丸三日間目を覚まさなかったという。ジュリエットの水薬は、きちんと成功していたようだった。
「後遺症も今のところ見られません。体の反応も正常です。……本当に、運が良かったとしか言いようがありませんが」
私は小さく笑って、隣に立つロイを見た。彼は返事をしない。ただ視線を落としたまま、無言で拳を握っている。その横顔を見ているうちに、少しだけ胸が締めつけられるように痛んだ。
私があの薬を飲んでから彼はどんな気持ちで過ごしていたのだろう。いつもと違うその表情が物語っているような気もする。
「念のためもう三日は安静にしてもらいます。身体の平衡感覚や神経の反応は時間差で影響が出ることがありますからね」
医師はカルテに何かを書きつけながら続けた。それから、私の様子をもう一度確かめて彼女は立ち去っていく。扉が静かに閉じると、部屋には再び静寂が落ちた。
風にそよぐカーテンが柔らかく光を散らして、私の手の甲に淡い影を落とす。その影をぼんやりと見つめながら、私は自分の指を少し動かしてみる。ちゃんと動く。息を吸えば肺が痛いほど膨らむ。心臓が鼓動を打っている。
私、ちゃんと生きている。今になってようやく、実感が現実となって私を繋ぎとめてくれた。
「それで……ロイ、あれから何があったの?」
ベッドの上で身を起こして問いかけると、そばで立ち尽くしたままだったロイがこちらに視線を向けた。彼はしばらく何も言わず、椅子を少し引くとベッドの脇に腰を下ろす。
光の加減で金の髪が柔らかく揺れ、けれどその表情は少し難しいものだった。どう言葉を選べばいいのか考えているように見える。深く息を吐くような気配がして、それからようやく口を開きかけた——そのときだった。
病室の扉が控えめに叩かれ、次の瞬間、ローレルトン教授が姿を見せた。いつもよりわずかに乱れた外套の襟元が道すがらの慌ただしさを物語っている。知らせを受けて駆けつけてくれたのだろう。
「ミス・エヴァリー、よかった……。大事には至らなかったようだな」
そう言って微笑む教授の声には、安堵と疲労がないまぜになっていた。私は「ご心配をおかけしました」と答えたけれど、言葉の端が少し掠れてしまった。
「ミスター・グレイフォードからはすでに報告を受けた。だが、君自身の口からも聞かせてもらえるかね」
教授は椅子を持ってきて私たちのそばに座り、穏やかな口調で尋ねた。けれどその瞳の奥には、張り詰めた糸のような緊迫があった。
私は枕元に手を置き、できる限りの記憶を辿る。花のような魔法陣、危険な蔓と焔裂花が張り巡らされた壁、毒霧の漂う回廊——そして、最後の行き止まりの部屋。思い出すたびに、体の芯から冷えていく。
できるだけ順を追って話そうとしたけれど、途中で言葉に詰まってしまった。それでも教授は、私の説明を遮らずに聞いてくださった。
「……どの部屋も、魔法植物が関わっていたんです。罠は命を奪うように仕掛けられていて、知識がなかったらきっと私たちは助かりませんでした」
けれどそう口にした途端、教授の表情がわずかに曇った。
「……それ以上はいい。よく話してくれた」
その声には聞き慣れた穏やかさの裏に、ごくかすかな震えが混じっていた。学者らしい理性の奥に、恐れにも似た警戒の気配が見えた気がして、私は息を呑んで教授の顔を見上げる。けれど教授は視線を伏せ、言葉を飲み込むようにして立ち上がった。
「あとは我々が調べよう。君たちはよくやった。生きて帰ってきただけで十分だ」
その言葉に、ロイも私も黙ってうなずくしかない。教授は外套の裾を整え、鞄を持ち上げながら「学内の警護は厳重に強化された」と説明した。
「魔法陣がどこから出現したのか、誰が仕掛けたのか、なぜ大学の結界をすり抜けたのか……どれも説明がつかん。何より、被害が学生に及んだのだ。設立以来の異例事態だよ」
一部の学生は怯えて講義に出てこなくなり、いくつかの授業は休講になったそうだ。教授は「一時的に研究棟への立ち入りは禁止されている」とも言った。
私には実感が湧かなかった。まだ体が思うように動かず、窓の外の空を眺めながら、世界だけがどんどん先へ進んでいくような気がしていた。
ドアノブに手をかけたところで、教授はふと足を止めた。そのままこちらを振り返らずに、少し低い声で呟く。
「……植物を媒介にする術式など、知る者は限られているはずなんだがな」
私は一瞬意味がよく分からず、ただロイの方を見た。ロイは真剣な表情で顔を上げる。
「どういう意味ですか?」
彼の問いかけに教授はわずかに振り向くような仕草を見せたけれど、結局何も答えなかった。閉まりきる前の扉の隙間から冷たい廊下の風が入り込み、微かに白いシーツを揺らしていく。
——植物を媒介にする術式。
教授の言葉が、まるで枯葉の影のように頭の片隅に残った。そんなものがあるのだろうか。これまで何年も魔法植物について学んできたけれど、そんな話は一度も耳にしたことがない。
知る者は限られているという言葉は、たぶん誇張ではないのだと思う。だとしたら、一体誰がそんな術を知っていたというのだろう。
大学の結界をすり抜けるほどの力を持ち、あんな複雑な魔法陣を作り出せるほどの人間。考えれば考えるほど、背筋の奥がひやりと冷たくなっていく。
ロイの方を見ると、ちょうど彼の視線とぶつかった。けれどその一瞬のあいだに彼は気まずそうに目を逸らし、わずかに姿勢を崩して俯いた。
部屋の中には窓越しの柔らかな光と、病院特有の薬草の匂いが漂っている。遠くで小鳥の声が聞こえるのに、不思議とこの部屋の空気は静まり返っていた。
「……話しておいた方がいいか」
ロイがそう呟いて、椅子を少しこちらに引き寄せた。私はうなずき、彼の次の言葉を待つ。
彼はしばらく黙ってから、少しずつ語り始めた。
私が気を失ったあと、突然目の前に扉が現れたこと。そこを抜けると、まるで時間が巻き戻されたみたいに、元いた場所に戻っていたという。
すぐに医師を呼びに走ったけれど、私の心臓は止まっていて、どんな魔法を施しても反応がなかった。息もなく、肌も冷たく——死んでいるのと同じ状態だったと彼は言った。
「ジュリエットの水薬のことは説明した。でも君は教本通りに調合したわけじゃないだろ。だから、どんなふうに作用しているのか誰にも分からなかった。目が覚めるまでただ待つしかなかったんだ」
ロイはそう言って、ゆっくりと息を吐いた。その間にも、彼の手が膝の上で握られては開かれ、また握られていくのが見えた。
きっと、この三日間は長かったのだと思う。私は眠っていたけれど、彼はその間ずっと、ここで私の様子を見てくれていたのだ。
少し間をおいて、ロイはふいにうつむき、低い声で言った。
「……コイントスの話は、馬鹿だった」
自分を叱責するような言葉が空気を振るわせる。私が何かを言うより早く、彼は続けた。
「軽率だったのは俺の方だ。あんなことを言わなければ、君に無茶をさせることもなかったかもしれない。本当にすまなかった」
顔を上げたロイの瞳に、深い後悔の色がにじんでいた。言葉の奥に、焦燥や恐怖、後悔、そういった感情が混ざり合っているのが伝わってくる。
「……いいの」
少し声が掠れたけれど、言葉は自然に出てきた。
「二人で無事に戻って来られてよかったよ。それに、ずっとそばにいてくれてありがとう」
ロイは何も言わなかったけれど、眉がわずかに揺れて視線が一瞬だけ私の方をかすめた。私は小さく息を吸って、続けた。
「コイントスのことは……びっくりしたけど、もしあの時のことが、ロイが自分の命を軽く扱わないきっかけになるなら、それでいいの」
部屋の中に短い沈黙が落ちた。窓の外の風が薄いカーテンを揺らす。その白い布の影が光の加減で波のように揺れ、ベッドの上を静かに流れていく。
「……エヴァリー」
ロイがいつもの調子で呼びかけた。そう、いつもの調子で——何も気になるところはなかったはずなのに、自分でも気づかないうちに、言葉が口をついてしまった。
「……もうウィニフレッドって呼んでくれないの?」
声に出してしまった瞬間、私自身も驚いた。こんなことを言うつもりはなかったのに。
ロイはほんの一拍、目を大きくしてこちらを見つめ、それから視線を揺らした。まるで言葉を探す手が止まってしまったかのように、何も言えずにいる。その様子を見て、私の頬は一瞬で熱くなった。
「ご、ごめんね。……でも、いつまでもラストネームじゃ堅苦しいよ」
慌てて取り繕うように言う。自分でも少し笑ってしまうような、苦しい言い訳じみた言葉だった。
しばらくの間、風がカーテンを揺らしている音だけが部屋に満ちた。ロイは俯いたまま、長い沈黙のなかで考えこんでいるようだった。
「……わかった」
けれど、やがてほんのかすかな声でロイは呟いた。そのまま、落ち着いた声色で続ける。
「ウィニフレッド。無事に戻れたのは、間違いなく君の働きがあったからだ。感謝してる。本当にありがとう」
まっすぐな瞳で、まっすぐに飾らない言葉をくれたから、その響きはまるで光の筋みたいにまっすぐ胸の奥に届いていく。私は思わず笑ってしまう。泣き顔みたいな笑顔になっていないといいのだけど、でも今はもうどうでもよかった。
「私たち、もう良いお友達だね」
そう言いながら、自然に手を差し出していた。まだ腕が重たくて手のひらを持ち上げるには少し力が要ったけれど、この瞬間をつかまえたい気持ちのほうが強かった。
ロイは驚いたように一瞬まばたきをして、それからしっかりと私の手を握り返してくれた。指先に伝わるその温かさと力強さに、胸がほっとほどけるように軽くなっていく。
彼の手の感触を確かめるように、私は小さく微笑んだ。大きなことを成し遂げたわけじゃないけれど、この瞬間だけは、すべてが報われたような心地がした。
病室の窓から差し込む光が、私たちの手の上に淡く落ちている。名前を呼び、感謝の言葉を交わし、握った手の温かさを感じる。身体中にじんわり広がっていくようなこの幸福感は、きっと私たちが生きている証そのものだった。




