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王子と私は偽りの恋人だったはず

作者: 銀野きりん


懐かしい人と再会することになった。


昨日、魔法学校時代の友人であるメルリナが突然私の住む家に訪ねてきた。昔話に花を咲かせていると、彼女はふと、こんなことを切り出してきた。


「セフィロス王子があなたに会いたいと言っているんだけど、どうする?」


「別に、会ってもいいけど」


素っ気なく答えたが、内心は穏やかでなかった。


王子と私は、魔法学校の同級生であり、親友と呼べるほどの間柄だった。

平民の娘である私とセフィロス第三王子との間には、本来なら気軽に話すことさえ難しいほどの身分差があった。

それでも王子は周囲の目を気にせず、私に分け隔てなく接してくれた。

当然、私はセフィロスに惹かれていったし、彼もまた私に特別な感情を抱いてくれているようだった。

そんな彼と、また会えるというのか。

会わなくなってから、どれほどの時が経ったのだろう。

私が魔法学校を退学してから、もう五年になる。

十七歳になったセフィロスは、今もあの頃のように輝いているのだろうか。



※ ※ ※



そして今日、待ち合わせの噴水公園のベンチで座っていると、一人の背の高い青年が近づいてきた。

すぐに彼だとわかった。

彼も私に気づいたようで、笑顔を見せた。


「カサンドラ、久しぶりだな。元気だったか?」


「うん、まあ、そっちは?」


セフィロスは深刻そうな顔でこう答えた。

「実は、大変な病気になってしまって⋯⋯」


「えっ?」


「冗談だよ。相変わらずだまされやすいな」

セフィロスは軽く笑うと、何の前触れもなくこんなことを聞いてきた。


「今、彼氏いるのか?」


予期せぬ質問に一瞬息をのんだが、私の胸は高鳴った。あの約束を、セフィロスは覚えていたのだ。


「いないけど」


「だったら俺と付き合ってくれ」


やっぱり覚えていた⋯⋯。


それは、私が突然魔法学校を辞めることになった時の話だ。別れの挨拶を交わした時、セフィロスはこう言った。


「卒業したら、すぐに迎えに行く」


「迎えに?」


「お前と結婚したいんだ」



五年もの歳月を経て、そんな言葉などとっくに忘れていると思っていた。

たった十二歳の男の子が、勢いで口にしただけの言葉なのだから。

もしかして、あの時からずっと今も、私を想い続けてくれているのだろうか。


けれどそんな淡い期待は、彼の次の言葉によって、無残にも打ち砕かれた。


「俺と付き合ってくれ。形だけ、しかも一瞬だけでいいから」


「か、形だけ?」


「そう、形だけでいい。恋人のふりをしてほしい」


「ふり? どういうこと?」


セフィロスの説明はこうだった。

今付き合っているリラと別れるために、私と浮気をしているように装ってほしい、と。


「はあ? そんな別れ方したら、恨まれるわよ」


「それが俺の狙いなんだ。リラに二度と俺と会いたくないと思わせる。そうすれば、きっぱり別れられるだろ。だから頼む、俺と付き合っているふりをしてくれ」


「いやよ。そんな、人を騙すようなやり方⋯⋯。悪いけど、協力することはできない」


「カサンドラ、お前は断ることなどできないぞ」


「どういうことよ」


「これを覚えてるか?」


セフィロスは一枚の紙を、指先でひらひらと揺らしながら見せてきた。

彼が手にしていたのは、古びた紙切れだった。

そこに書かれていたのは、『なんでも言うこと聞く券』という子供じみた文言。その一番下には、私の名前、『カサンドラ』と記されている。


「何なの、これ?」


「お前が俺にくれたものだ」


そう言われると、おぼろげな記憶がよみがえってきた。

確かに昔、こんな紙をセフィロスに渡した気がする。

まあ、それほど、当時の私は彼に夢中だったということだけど。


私はセフィロスからその紙を取り上げた。

「こんなもの、もう無効よ」


「無効だって? 王家の俺に嘘をつく気か? そんなことをすれば、どうなるか分かっているのか?」


「嘘って⋯⋯」


「王家への嘘は、お前だけの問題で済まされないぞ。お前のご両親の存亡に関わることになる」


「私を脅すつもりなの?」


「まあ、そういうことだ。恋人のふり、どうしてもやってもらうぞ」


「セフィロス、あなた⋯⋯、変わったわね」


結局、セフィロスの言葉に逆らうことはできなかった。こんなことで、家族に迷惑をかけるわけにはいかないからだ。


こうして私は、セフィロスの指示に従い、彼の恋人役を演じることになってしまった。



※※※




家に帰ると、自然とため息がもれた。


十二歳の頃のセフィロスは、こんな男ではなかった。つき合っている女性と別れるために別の女性を利用するだなんて。


すると、ふとこんな考えが浮かんできた。


もし、私が魔法学校を辞めずにセフィロスのそばにいられたのなら、彼がこれほどまでに変わることなどなかったのでは⋯⋯。

私が魔法学校を辞めずに済んでいたなら⋯⋯。



魔法学校時代の私は、将来を嘱望された優秀な学生の一人だった。

しかし、あの出来事を境に、私は魔法を諦めざるを得なくなった。


魔法の属性は多岐にわたり、多くの場合、子どもから大人へと成長する時期に発現する。私の場合、五年前の十二歳になった時にその属性が明らかになった。

自分の魔法属性を知った時、私はただただ言葉を失ってしまった。

なぜなら、まさかの闇属性だったからだ。

信じられなかった。

闇魔法は、稀有であると同時に、人々から最も恐れられる属性でもあった。破壊しか生み出さないその力は、国からも禁止魔法として選定されているほどだ。


「カサンドラ、今後は闇魔法使いであることを隠し、魔法が使えない女性として生きなさい」


私の属性を知るや否や、母はそう告げると、急いで魔法学校の退学手続きを進めた。

そして、退学をすませた私に、一冊の本を手渡した。


「これは、私の祖母、つまりあなたの曾祖母から代々受け継がれている本よ」


「ひいおばあちゃん⋯⋯」


「祖母は、あなたと同じ闇属性の魔法使いだったのよ。この本は、今は禁書になっている闇魔法の呪言集なの。決して使うことはできないけれど、我が家の大切な家宝として代々受け継がれてきたものよ。カサンドラ、これからはあなたがこの本を持っていてちょうだい」


そんな母の言葉を思い出しながら、私は机の引き出しから、改めてその本を取り出した。

曾祖母が闇魔法使いだったという事実は、忌まわしい闇属性が遺伝するという証拠でもあった。だからこそ、この禁書は代々、我が家の家宝として受け継がれてきたのだろう


闇魔法使いが忌み嫌われている原因の一つには、この遺伝性があるに違いなかった。

もし私が結婚して子どもを授かったら、その子もまた、恐れられ忌み嫌われる闇属性を持って生まれてくるかもしれない。

そう考えると、私は結婚どころか、誰かと付き合うことさえためらうようになっていた。


どうせもう、私はセフィロスと結婚なんてできなかったのだし⋯⋯。

あんな嫌な男になってくれて、かえって諦めがついたわ⋯⋯。


そう思いながら私は、家宝の禁書を机の引き出しの奥へとしまい込んだのだった。




※ ※ ※





一週間後、私とセフィロスは魔法学校内にあるベンチに座っていた。美男子のセフィロスは相変わらず女生徒たちの注目の的だ。好奇の視線が、絶えずこちらに向けられる。

そんな中、講堂の陰に隠れるようにして、じっと私たちを見つめる一人の女性がいた。その生徒は、明らかに他の生徒たちとは違う、強い視線を私たちに向けていた。


「さあ行こう」


セフィロスは立ち上がり、私の肩に手を回すと、私を促すように歩き始めた。しばらく歩き、講堂の裏手にたどり着く。

先ほど強い視線を送っていた女生徒の姿はない。しかし、きっとどこかで見ているに違いない。そう思った途端、セフィロスが私の両肩をつかみ、私を講堂の壁へと押し当てた。

「ちょっと、何するのよ」

「じっとしていろ」

「ちょっと⋯⋯」

「いいから、じっとしていろ」


セフィロスはそう言いながら、私を見つめてきた。そして、ゆっくりと顔を近づけてきた。


「えっ……」


彼が何をしようとしているのかは、さすがに分かった。唇が、すぐ目の前に迫る。私は逃げ出そうとしたが、両肩をしっかりと押さえつけられており、身動きが取れない。

混乱した頭でなんとかセフィロスから視線を外すと、講堂の端に隠れている女生徒と目が合った。先ほど私たちに強い視線を向けていたあの女生徒だ。

彼女は今も、じっと私たちを見つめていた。そんな姿を見ていると、私の体はいっそう固まり、動けなくなってしまった。

そして、セフィロスは私に唇を重ねるふりをした。そう、ふりをしただけだった。寸前で動きを止め、触れることはなかったのだ。しかし、遠くから見ている彼女には、私たちがキスしているように見えただろう。


彼女の悔しそうな表情がはっきりと見て取れた。やがて彼女は唇をきつくかみ締め、視線を落とすと、くるりと背を向け、逃げるように走り去っていった。



「これだけ見せておけば大丈夫だろう」


あまりに冷たいセフィロスの言葉だった。


「ここまでする必要あるの?」


「はあ?」


「別れるのに、ここまでする必要あるのかって聞いているの。こんな、相手を傷つけるようなやり方⋯⋯」


「ふん」

セフィロスは鼻で笑い、こんな事を言ってきた。

「偽善者ぶるなよ。お前も協力したんだろ。リラを一番傷つけたのはお前だ」


なんという自分勝手な解釈だろうか。

私は頭に血が上り、思わずこう言った。


「そういえば、オスカー第二王子は元気にされているの?」


その言葉を聞き、セフィロスの顔が曇った。セフィロスとオスカーは仲が悪いことで有名だった。

こうしてオスカーの名前を出されるだけでも、嫌な気持ちになるはずだ。もちろん私は、それを知っていてあえて名前を出したのだけれど。


「オスカー王子って、素敵だったわ。密かに憧れてたのよね。久しぶりにお会いしたいわ」


「⋯⋯」


私はセフィロスの不満そうな顔を見ながら、彼のもとを去った。

ほんの少しだが、すっきりとした気分になった。



※※※※※※※※※※※




あの日から一ヶ月が過ぎた。

逃げるようにして走り去っていったリラは、今どうしているのだろう⋯⋯。

過度な男性不信になっていなければいいのだけど⋯⋯。


そんなことを心配している時、メルリナが再び私の家を訪れた。

応接間で二人して紅茶を飲んでいる時、彼女がこんな事を話しだした。


「ねえ、極秘事項があるのだけれど、知りたい?」

メルリナは王家の親戚筋であるため、世間には知られていない情報にも精通している。

そんな彼女から意味深なことを言われて、知りたくないと断る人などいるのだろうか。


「何? 教えて」


「セフィロス王子なんだけど⋯⋯」


あまり思い出したくない名前が出てきた。


「なんとなく予想がつく。とうせ、他国の美しいプリンセスと婚約でもしたのでしょ」


「違うわよ」

メルリナは持っていたティーカップを静かにソーサーに戻した。その表情は、先ほどまでの明るさが消え、ひどく神妙なものに変わっている。

「セフィロス王子が⋯⋯、呪いにかかっているそうよ」


「えっ」


あまりのことに、私は一瞬にして身動きが取れなくなった。そして、なぜセフィロスがあのような芝居をしたのか、その真意が読めてきた。


「呪いにかかったのは、いつごろなのか分かる?」


「一年ほど前よ。そして、もうあと一ヶ月の命と聞いているわ⋯⋯」


「あと一ヶ月⋯⋯」


だったら間違いない。

セフィロスが私に話した言葉の意味が、違う色合いを帯びてきた。

彼はこう言ったのだ。


「リラに二度と俺と会いたくないと思わせる。そうすれば、きっぱり別れられるだろ」


セフィロスはリラを嫌って言ったわけではない。むしろ、彼女を⋯⋯。

なんて馬鹿な王子だろう!



セフィロスの真意を知った私は、いてもたってもいられなくなった。普段から直感で行動する私は、一度思い立つとすぐ実行に移さずにはいられない。

メルリナから話を聞いた翌日、私はすぐに魔法学校へ向かった。

そして校門の外で、一人の女生徒が出てくるのをじっと待ち構えていた。


一度しか会っていなかったので見過ごしてしまうかと心配したが、それは杞憂に終わった。

薄い青みがかった長い髪に、きりっと整った顔立ち。校舎から出てきて校門に向かってくる女生徒は、間違いなくあの時見た彼女だった。

私はすぐに近づき、「リラさんね」と声をかけた。


リラは立ち止まり、私の顔を見た。一瞬目を大きく見開き私の顔を見つめたが、その後はまるでそこに誰もいないかのように再び歩き出した。

私はめげずにリラの後ろを追いかけ、「私の名前はカサンドラです」と声をかけた。しかし、返事はなかった。


「リラさんにどうしても伝えたいことがあって、会いに来たの」

私に対して良い感情を抱いていないであろうことは分かっていた。それでも、これだけは伝えなければならない。

「少しだけでいいから、話を聞いてくれないかしら」

「なんですか。私は忙しいのですが」

やっと返ってきた返事に、私は希望を見出した。


「時間は取らせないので」


私はそう述べてから、単刀直入に本題を切り出した。


「あの講堂での出来事は、全部演技だったのよ」


「演技?」

リラの足が止まった。


「そう、演技よ」


「演技とは、どういうこと?」


私は正直に説明した。

私とセフィロスは付き合ってなどいないこと。

彼は呪われており、あと一ヶ月の命だということ。

なので、リラさんと無理に別れるために、こんな芝居を打ったこと。


「セフィロス王子が……」


さすがのリラも驚きを隠せず、言葉を失っていた。そんな彼女に、私はこうお願いした。

「お願い、もう一度セフィロスに会ってあげて」


「でも……」


「やり方はどうであれ、セフィロスはあなたのことを思ってあんな別れ方をしたのよ」


「……」


「だから、もう一度会って話し合った方がいいと思うの」


私の言葉に、リラはしばらく沈黙した後、「わかった。近々会いに行くわ」と答えた。

私は胸をなでおろした。

リラの表情を見ていると、彼女がセフィロスに寄り添ってくれるであろうことが容易に想像できたからだ。

本当は、私がセフィロスの力になりたかった。しかし、こればかりは愛し合う二人の問題だ。私の入り込む隙間などない。

それに闇魔法使いの私なんかが、誰かと付き合っても迷惑かけるだけだし⋯⋯。

最後に、これだけは約束してもらわなければと思い、別れ際、私はリラにこうお願いした。


「セフィロス王子が呪われていることは、誰にも言わないでね」


「もちろんよ」

リラは、はっきりとそう答えた。



※ ※ ※




呪いの症状が現れ始めたセフィロスは、王宮を出て、郊外の平屋で一人静かに暮らしていた。

もちろん、呪いのことは誰にも明かさず、ひっそりと療養生活を送っていたのだ。


いろいろ思い残すこともあるが、カサンドラに恋人のふりをしてもらったおかげで、リラとの事は無事に解決できた。

公爵家との関係を築くため、互いに形だけの付き合いをするつもりだった。しかし、リラは違った。彼女はセフィロスとの結婚を望んでいるようだった。そのことを考えると、今後のリラが心配でたまらなかったのだ。

けれど、これでリラは俺を憎み、俺のことなどきっぱりと忘れてくれるだろう。そして彼女なら、すぐにでも新しい出会いがあるはずだ。そう思うと、心残りはあったものの、どこかで安心している自分がいた。


それに、好きだったカサンドラにも再会できたし⋯⋯。


もはや、思い残すことは何もない。あとはただ、運命の定めに身を任せるだけ。

そんなことを思いながら、日々過ごしている時、思いも寄らない人物が訪れてきた。

玄関先に立っていたのは、セフィロスとは二度と会いたくないと思っているはずのリラだった。


「一体、どうしたんだ?」

セフィロスは、困惑したままそうつぶやいた。


「セフィロス様のことが心配で、やって参りました」


「心配?」


「ええ、呪われてしまったと聞きましたもので」


「どうしてそんなことを知っているのだ?」


「カサンドラさんから聞きました」


そしてリラはこんな言葉を付け加えた。


「セフィロス王子が呪われていることを、カサンドラさんは至るところで言いふらしていますよ」


「カサンドラが⋯⋯、なんてことを⋯⋯」


「あと一ヶ月の命と聞いています。本当なのですか?」

リラはそう言うと、なぜか後ろを振り返った。すると、一人の男が姿を見せた。


「やあ、セフィロス、最近姿を見ないと思っていたら、大変なことになっていたんだな。呪われているなんて、何かの罰を背負ってしまったのかな」


そう述べたのは、セフィロスが顔も見たくないと思っていた男、オスカー第二王子だった。


「どうしてオスカーまで、ここにいるんだ?」


「いや、俺もリラから話を聞いて、心配で駆けつけたんだよ。ほんとにびっくりしたよ」

オスカーは微笑みながら頷いている。


セフィロスは、並んで立つ二人を見て、彼らが心配して来たのではないことを悟った。

それにしても、リラとオスカーは、これまでほとんど関わりがなかったはずだ。なぜ二人が連れ立ってやってきたのか、不思議に思った。すると、彼の心を読んだかのように、オスカーがリラを見つめながら口を開いた。


「俺とリラは、婚約したんだ」


オスカーがそう告げると同時に、リラが彼にそっと寄り添った。その顔には、冷たい笑みが浮かんでいた。


「婚約?」


「ああ、お前にもちゃんと報告しなければと思ってな」


「それは⋯⋯、おめでとう」


「そう言ってくれると嬉しいよ」

オスカーはそれだけ言うと、「さあ、帰ろうか」とリラを促した。

そして、「じゃあ、達者でな」とセフィロスに軽く別れを告げ、二人は並んで足早に去っていった。

その背中を見送りながら、セフィロスは小さく呟いた。


「最後にこんな仕打ちを受けるなんて、俺もとことん嫌われたものだ」


まあ、もともとリラに嫌われることを望んでいたのだから、これでよかったのだけれど⋯⋯。


※ ※ ※



机から闇魔法の呪言集を取り出そうとした時、思いがけない物を見つけた。


「うわ、懐かしい!」

私は思わず声を上げていた。


机の引き出しの奥から出てきたのは、昔、露店で買った安物の指輪だった。

当時は大切な宝物で、なくさないようにと机の奥にしまっていたのだが、いつの間にかその存在を忘れてしまっていた。

露店のおじさんが「これを付けていると幸せなことが起きるよ」と言っていたのを思い出す。まあ、商売文句なのだろうが。

懐かしさのあまり、さっそくその指輪を左手の薬指にはめてみた。指輪の側面には、細長い四つ葉のクローバーが彫られている。


「この四つ葉のクローバーが幸せを運んでくるんだよね」と、当時の私がそう話していたことを思い出した。

昔より少し痩せたのか、指輪はゆるく感じられた。


そして、しばらく指輪を眺めた後、本来の目的だった闇魔法の呪言集を引き出しから改めて取り出した。

ここ数日、私は何度も呪言集の特定のページばかりを見つめている。なぜなら、そこには、『呪いを破壊し、宿られた者を救う呪文』が記載されていたからだ。


これは、本当なのだろうか?


だいたい私は、この本に書かれている呪文を一度も試したことがない。

当然だ、闇魔法の使用は禁止されている。もし試したことが知られでもしたら、私は罪人として捕まってしまうからだ。

だから、この本に書かれている呪文が本当に使えるものなのか、私にはわからない。


まずは、確かめないと⋯⋯。


裏庭に忍び出た私は、何度もあたりを見回して誰もいないことを確認した。

地面に広げた呪言集の通りに、そっと腰をかがめて呪文を唱え始める。

「グリーム・ヴァイス・ノクティス・エルブス・イグニス・ルブラ⋯⋯」

植物を枯れさせる呪文だ。最後の言葉を唱え終えた瞬間、私の手から黒い煙が立ち上った。その煙を見たときは、正直、自分でもぞっとした。だが、ためらうことなく、その手で目の前の雑草に触れてみた。


「あれ?」

黒い煙がまとわりついた私の手に触れても、雑草には何の変化も見られない。

やっぱり、この呪文集は使えない偽物なのか。

私はがっかりしながら本を閉じ、地面から立ち上がった。


だが、翌日、私は庭を見て息をのんだ。

裏庭一面の雑草は、まるで命を吸い取られたかのように枯れ果てていた。

それだけではない。毎日水をやって育てていたキュウリやトマトも、すべてが茶色く干からび、乾いた土がむき出しになっていた。


これは、ひどい⋯⋯。

果たして、この地に再び植物が生えてくれるのだろうか⋯⋯。


闇魔法の恐ろしさを、身をもって知ることができた。

これでは、使用が厳しく禁じられているのも頷ける。

けれど、これで分かった。

この闇魔法呪言集は本物で、記載されている呪文は間違いなく効力を発揮する。

だったら、やってみるしかない⋯⋯。

私は机の引き出しを開け、露店で買った指輪を取り出した。

「幸せなこと、起きてよね」

店のおじさんの言葉を思い出しながら、私は指輪をそっと左手の薬指にはめた。




※ ※ ※



ここ数日で、セフィロス第三王子が呪われているという噂が世間に広まっている。

セフィロスは思った。

リラが言っていたことは本当だったのか。

俺が呪われてるということを、カサンドラが言いふらしてると言っていたが⋯⋯。

カサンドラがそんなことをするとは思えなかったが、何しろ俺は彼女をも怒らせてしまっている⋯⋯。なので、それが事実だとしても不思議ではない。


そんなことを考えている時、玄関の呼び鈴が鳴った。

扉を開け、外に立っている人物を見てあまりの姿に驚いた。

黒いロングコートに頭にはフードをかぶり、顔には真っ黒な仮面をつけていたのだ。


セフィロスが唖然として立っていると、向こうから声をかけてきた。


「こんにちは、消して怪しい者ではございません」


低い声を出していたが女性の声だ。

怪しい者ではないと言うが、外見は怪しい限りだ。


「何の用だ」


「セフィロス様の呪いを解きに来ました」


まただ。

セフィロスが呪いにかかったと噂が広がってから、呪いを解くと言って訪れる者が後を絶たない。

ただ、すでにセフィロスは、国中の名だたる解呪師たちの回復魔法を受けている。結果、誰一人として彼の呪いを解く事などできなかったのだが。


「結構だ。帰ってくれ」


「今までセフィロス様が試したことのない解呪を行います。是非に」


「試したことがない? 一体どんな方法だ?」


「闇魔法を使います」


「闇⋯⋯」

禁止されている闇魔法の使用を、公然と宣言するとは⋯⋯。


「これは、闇魔法の呪言集です。そしてここに、呪いを解く呪文が載っております」

仮面の女は、一冊の本を手に持っていた。


「見せてくれ」

女から手渡された本に、セフィロスは目を向けた。

紙は古びて茶色く焼けているが、大切に扱われてきたのだろう、傷んだ箇所は一つもない。本からにじみ出るような迫力が、本物の闇魔法呪言集だと物語っていた。

それにしても、この本も禁書のはず。それをこんなにも堂々と、俺に見せるとは⋯⋯。

そう考えながら、開いてあったページに目を落とした。

『呪いを破壊し、宿られた者を救う呪文』とある。

闇魔法は、破壊を専門とする魔法だと聞く。呪いさえも破壊するということか⋯⋯。


「わかった。その話、受けよう」


セフィロスは本を女に返し、部屋へと招き入れた。なぜこうもあっさり彼女を信用したのか、自分でも不思議だった。ただ、どこか懐かしい響きを持つ彼女の声が、無条件に信頼できると思わせたのだ。


「さっそく、やってくれるか」


「はい。では、ベッドに横になって、体に刻まれた呪い文字を見せてください」


言われるがままに服を脱ぎ、セフィロスは上半身を露わにしてベッドに仰向けに寝転んだ。彼の胸には、魔界の呪いの文字がくっきりと浮かび上がっていた。


「では」


女は開いた本をベッドの端に置くと、つけていた黒い手袋を外した。その時、何かが床に落ちる小さな音がした。だが、それが何だったのかは分からなかった。


「ヴァルキリオス・エクス・レヴィーナ・アウロラ・フィリエス⋯⋯」


女が本に目を落とし、呪文を唱え始めると、その右手から黒い煙のようなものが立ち上り始めた。

そのまま女は、黒い煙を放つ右手をセフィロスの胸へと押し当てた。彼女の掌が、呪い文字にぴったりと重なった。

しばらくその状態が続いた後、女の手から立ちのぼっていた黒い煙は、やがて跡形もなく消え去った。


「これで終わりです」


その言葉を聞き、セフィロスはさっそく自分の胸に刻まれている呪い文字を確認した。

けれど、呪い文字は消えておらず、依然としてくっきりと浮かび上がっている。


「駄目だったのか?」


「わかりません。少しの間、様子を見てください」


女はそう答えるやいなや、逃げるように部屋から立ち去り、そのまま姿を消してしまった。


女が去り、セフィロスがベッドから上体を起こした時、床に小さなものが転がっているのを見つけた。

近寄って拾い上げてみると、それは安っぽい指輪だった。



※ ※ ※



リラは思った。二つある恨みのうち、一つを晴らすことができた、と。

あの時リラは、オスカー第二王子に婚約者のふりをしてくれるよう頼み、セフィロスに会いに行ったのだった。事情を話すと、セフィロスと犬猿の仲であるオスカーは喜んで協力してくれた。

オスカーとの婚約を告げた時のセフィロスの顔を思い出すと、胸がすっとする。


「ふん、これで私と同じ気持ちを味わえたわね」


でも、まだ物足りない。

今度は、セフィロスが呪われているという事実を、どんどんと世間に広めていかなければ⋯⋯。


そして、残る一つの恨みを晴らさなければ⋯⋯。

平民の分際で、公爵令嬢である私をあんな気持ちにさせるなんて、絶対に許せない⋯⋯。

リラはすぐに執事を呼びつけると、こう命じた。


「街のならず者たちを使って、カサンドラをしっかりと痛めつけてやりなさい」


執事は無表情のまま、「承知いたしました」と答えたのだった。




※ ※ ※



呪いを解く、いや、正確に言えば呪いを破壊する闇魔法を使用した翌日、私は家の中を目的もなく歩き回っていた。

今の私には、二つの不安があった。

一つは、セフィロスが無事でいるかどうかということ。呪いが消えていればいいのだが、逆に彼の苦しみを増してしまったのではないかと気になって仕方がなかった。

もう一つの不安は、指輪のことだ。家に帰ってから、どこかに落としてしまったことに気がついた。


実はあの指輪、五年前にセフィロスと二人で露店で買ったお揃いのものだった。もしセフィロスの部屋で落としたのなら、彼は、闇魔法使いが私だと気づいてしまうかもしれない。

しかし、すぐに大丈夫だろうと思えてきた。五年前になんとなく買った安物の指輪のことなど、セフィロスが覚えているはずがない。私でさえ忘れていたくらいなのだから。

そう考えると、やはり指輪よりもセフィロスの体調が気がかりだった。


今の彼がどうなっているのか確認しに行かなければ⋯⋯。


そう思った私は、ひとまず彼の家へと向かうことにした。


玄関を出て数メートル歩くと、目の前に二人の男が現れた。薄ら笑いを浮かべ、こちらを見ている。

嫌な予感がした私は、すぐに後ろを向き、逃げ出そうとした。

けれど、後方にも別の男が立っていた。

気づけば三人の男が私を取り囲み、距離を詰めてくる。

目つきの悪い男が、チラリと手に持つナイフを見せてきた。


「姉ちゃん、悪く思うなよ。さあ、俺たちについて来い」


どうやら男たちは、私をどこかへ連れ去るつもりのようだ。


どうしたらいい⋯⋯。


一瞬、闇魔法を使うことも考えた。けれど、今の私は呪文など覚えておらず、あの呪言集がなければ魔法も使えないことに気づいた。


私はどうなってしまうのだろう⋯⋯。


不安でいっぱいになっている時だった。

突如として、私と男たちの間に空から氷の槍が降り注ぎ、凄まじい音を立てて地面に突き刺さった。


「これは、氷魔法⋯⋯」


突き刺さった槍を見つめ、ただただ驚いていると、取り囲む男たちの背後から別の男性が駆け寄ってきた。


「お前たち、俺の大切な友人に何をしている」


そう言って現れたのは他でもない、セフィロス王子だった。


「なんだ、てめぇは!」

男はそう怒鳴り、セフィロスにナイフを向けた。

しかし、次の瞬間、男たちの動きは完全に停止し、まるで彫像のように微動だにしなくなった。

これも、セフィロスの氷魔法によるものなのだろう。


「相手が悪すぎたな」

セフィロスは、ナイフを持った男に近づいた。

「どうして彼女を狙ったんだ? 誰かの差し金か?」


「⋯⋯」


黙る男に、セフィロスは男の持っていたナイフを取り上げ、その切っ先を彼の首筋に当てた。


「誰に言われて彼女を狙った?」


「た、助けて、ください」


「助けてほしければ、質問に答えろ」


男は苦しげに顔を歪ませ、絞り出すように言った。

「⋯⋯ストーンウッド公爵家のリラ様です」


その後もセフィロスの魔法で身動きの取れなくなった三人は、やがて訪れた王室衛兵たちに取り押さえられ、連行されていった。


「どうして、リラが私を⋯⋯」


「あの時のことを恨んでいるのだろう。だが、これはあまりにもやりすぎだ。一線を越えている。リラには、相応の罰を受けてもらう」


セフィロスはそう言うと、改めて私のすぐ目の前まで近づいてきた。


「怪我はないか?」


「⋯⋯大丈夫よ」


私は、率直に疑問を口にした。

「どうしてここに?」


「カサンドラに礼を言いにきた」


「お礼?」


「ああ、ありがとう」


「なぜ、あなたがお礼を言うの?」

私がとぼけると、セフィロスはポケットから何かを取り出した。それは、見覚えのある小さな指輪だった。


「これ、カサンドラのだろ。部屋で拾った」


「そんな、どこにでもありそうな指輪、知らないわ」


セフィロスは、私の言葉には耳を貸さずにこう続けた。

「カサンドラが急に魔法学校を辞めた理由が、ようやくわかったよ。闇魔法使いだということを隠すためだったんだな」


もうだめだと思った。

私が闇魔法使いだと、完全に気付いている。

セフィロスとの関係もこれで終わってしまう⋯⋯。

開き直った私は、一番気になっていることを聞いた。


「それで、呪いは解けたの?」


「ああ。呪い文字は完全に消えている」


「⋯⋯良かった」


セフィロスは私を見つめるとこう言った。

「お前が魔法学校を辞める時に俺と約束したことを覚えているか?」


「覚えてないわ」


「そうか⋯⋯。あの時俺はお前とこう約束した。『魔法学校を卒業したらお前を迎えに行って結婚する』と」


「⋯⋯」


「カサンドラ、俺と結婚してくれ」


「無理よ」

私は即答した。

「平民の私が、あなたと結婚などできるわけないわよ」


「身分など、俺は気にしない」


「あなたが気にしなくても、周りが気にするわ。あなた以外の全員が反対するわよ」


「そうだとしても俺は構わない。俺はお前と結婚して、お前を必ず幸せにしてみせる」


「絶対に無理」


「じゃあ、これでもか?」

そう言ってセフィロスは、一枚の紙を取り出した。

紙を見て、私は思わず笑ってしまった。

セフィロスが持っていたのは、あの『何でも言うことを聞く券』だったからだ。

私はいったい、何枚この券を彼に渡したのだろうか。それだけ当時の私は彼のことが好きだったということなんだろうけど。


「前にも言ったでしょ。それはもう無効だって」


私の答えを聞いたセフィロスは、無言で二つの指輪を差し出した。一つは私が落とした指輪、もう一つは同じデザインの一回り大きな指輪だった。


「俺がお前を迎えに行くと告げた後、最後に何と言ったか覚えているか?」


「だから、覚えていないって」


「俺はこう言ったはずだ。『その時はこんなおもちゃの指輪ではなく、本物の指輪を持っていく』と」


そう言って、セフィロスは内ポケットから小さな箱を取り出した。開けると、そこには赤い宝石がきらめく高級そうな指輪があった。

それを見た私は、ふと嫌な考えが頭をよぎった。

こんな立派な指輪、たった一日で用意できるはずがない。まさか、リラに渡すはずのものを私に流用しているのでは……。


「この指輪を、よく見てほしい」


言われたとおりに、私は新たに手に乗せられた指輪をじっと見つめた。

指輪の側面には、あの露店で買った物と同じように、細長い四つ葉のクローバーが彫られていた。そして内側には、「愛しのカサンドラへ」とも刻まれていた。


「この四つ葉のクローバーが、幸せを運んでくるんだ」

五年前に私が話した言葉を、今度はセフィロスが口にした。


「⋯⋯」


「カサンドラ、いつかお前に渡そうと思って、ずっと前から準備していた指輪だ。受け取ってくれるか」


「ごめんなさい⋯⋯。私に受け取る資格なんてない⋯⋯」


「資格がないとはどういうことだ?」


「私は⋯⋯、皆に忌み嫌われている闇魔法使いよ。結婚なんか考えられないの」


「どうしてだ?」


「どうしてって、闇属性は遺伝するのよ! もし子供ができたら、その子が苦しむことになるのよ!」

私の声は、自然と震えてしまっていた。


そんな私を、セフィロスはじっと見つめている。


「お前が一番心配していたのは、そのことだったんだな」


セフィロスは私の左手を取ると、その薬指にそっと指輪をはめた。


「お前の心配事は俺がなんとかする。だから俺を信用してついてきてくれ」


「⋯⋯」


「俺と結婚してくれ」


セフィロスはそう告げると、私の身体に手を回し、強く抱きしめてきたのだった。




※ ※ ※





あれから一年が過ぎた。この一年で、多くのことが変わった。


一つはリラのことだ。

私を襲ったリラは、傷害未遂の罪で一ヶ月の牢獄刑が言い渡された。牢を出た後、評判を落とした彼女は街を逃げるようにして去っていった。


それとは別に、もう一つ大きな変化が世の中に起こった。

呪われた事実が広まっていたセフィロスが、なぜ急に元気を取り戻したのか、人々はその理由を知りたがっていた。

そんな中、セフィロスは呪いが解けた理由を公表した。

誰も解くことができなかった呪いを、一人の闇魔法使いが簡単に解いたという事実を。

もちろん、私がその闇魔法使いだったことは伏せられたままだったのだが。


ただ、こうして闇魔法に呪いを解く力があると知るやいなや、世論は手のひらを返したように闇魔法使いを聖人扱いし始めた。

その結果、闇魔法の使用を禁じる法律はあっさりと廃止され、闇魔法使いたちは、自分の属性を隠しながら生きていく必要がなくなってしまった。皮肉なことに、リラが広めた噂が、闇魔法使いの運命をも変えるきっかけとなったのだ。



それと⋯⋯、あと一つあります⋯⋯。



来月、私とセフィロスは正式に結婚することになりました。


ありがとうございました

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