⑧2025年5月
少年時代の深夜はテレビに賑わいを求めた。家が静まった中で一人目が冴えていると、形容し難い寂寞を覚えた。不安が肌に纏わりついた。あの色鮮やかで発色の強い画面に反して流れる一定の高さの電子音が怖かった。しかし大人になった今では夜に閑静を求める。情報や人の目が飽和する社会の中で、その息苦しさから解放されたくなる。
「しっかりと話した方がいいよ」
倉持からそう言われ、自分の不在時に店へ訪れた晴間から聞き出したという電話番号を手渡された。彼女なりの気遣いだった。けじめをつけた方がいいと背中を押したのだ。
紙切れを見つめる。瀬尾はその十一桁の数字を暫く眺めていた。数字は歪んだり変容することなくただの形としてそこに留まり続けている。
もう終わったものと手を引くことも出来た。しかし心の底ではずっと引きずるかもしれない。完全に断ち切ることが難しいかもしれない。今日までの自分を見れば痛いほど分かる。そこでの僥倖。こればかりは倉持へ深謝しなければならないだろう。
何年も無気力に時間だけを経過させ、不釣り合いに年齢を重ねてきた。覚悟を決める時なのだ。瀬尾はスマートフォンを取り出し電話のキーパッドを淡々と叩いた。
晴間と共にカフェへやってきた。時間は午後二時。なんとか約束を取り付けることに成功した。一先ずの第一歩といったところだった。
空気が質量を持ち、思うように言葉が出てこない。しかし晴間から声が掛かることはなかった。あちらから喋り出すことはないらしい。誘った手前、こちらは会話を切り出す義務がある。そうしなければ平行線を辿り、またあの悔恨を繰り返す日々がやってくるだけだ。新鮮な酸素を目一杯取り込み、付随して吸引されるカプチーノの香りを巡らせてから言った。
「転校はあれが原因だったのか」
せいぜいがこれくらいのものだった。あの日の理不尽な雲隠れをまずは訊ねたかった。“あれ”という抽象的な表現でも伝わることは明白だ。罪の影形は色濃い。
「違う」
瀬尾から顔を背けずに言う晴間。さらに続ける。
「普通に理由があっただけだよ。母さんの親が要介護になったんだ。けど施設反対派の両親は一緒に住むことにした。だから母方の地元へ引っ越した。ただ、それだけ。別にあの日の瀬尾が原因じゃあない」
予想外の内容だった。あの情動と関わりのない合理的な理由なんて信じられない。
「……それで東京に?」
「いや、引っ越したのは富山さ。でもそれも高校卒業までのほんの一年ちょっとのことだよ。卒業してからすぐに上京したってわけ」
早とちりかもしれない。今の言葉さえも晴間の優しさであるのかも。だからこそ余計に逃れられないのだ、お前に対する感情から。
嫌いと、はっきり明言してくれれば良かった。それなら諦めがつく。尤も、それはこの世界からの逃亡というものと同義かもしれないが。
晴間のいない人生を生きていく、その力を養うことが世間的には大事なのだろう。褒められるものなのだろう。そして事実としてこの年まで曲がりなりにもやっていけている、やっていけてしまっている。しかしそれは米粒や小針ほどの可能性や期待というものを持っていたから。それが無いと確定すれば今の生に意味を見出せなくなるのも道理だ。
瀬尾は情けない結論に至りそうになる自分を恥じた。もう底や淵まで落ち切っていたものと思っていたが、まだ下がる余地があったらしい。
「そこまでは分からなかったな」
その呟きに晴間が問う。
「どういう意味?」
「お前が上京しても、美術を捨てずにいたのは嬉しいよ。大学でも楽しくやっているようだったし」
「ち、ちょっと待って」
「女の子が放っておかないのも無理はねえ。でも遊びと両立させて絵を描き続けたのは尊敬する」
「瀬尾」
「俺の職場、あんな場所にやってくるのだって懐かしかったからだろ。何回か帰り道に通ったことのある路だ」
そこまで言ったところで、晴間は口を挟んだ。瀬尾の情報の多さは様子見を中断させた。
「なんかさ、怖いよ」
「え?」
「なんでそんなこと知ってんの。なんで分かるんだよ」
迂闊に言葉を重ねすぎた。ふと晴間の顔を見て、周囲との同化が解けた。開閉の度に鳴る鈴の音が目を覚まさせる。冷や水に硬直する。
「……ストーカーかよ」
その反応を受けて瀬尾は自らのブレーキを踏んだ。
「か、監視してるみたいな言い方になったのは悪かった。けど」
瀬尾の言い訳を晴間は制する。
「そうじゃない。瀬尾がここにずっと居たのは事実の筈だ。倉持さんからも聞いてる。なのになんでそんな事細かな内容を知ってるみたいなんだって言ってるんだ。東京の俺のことをっ」
「それは……」
「俺がいつ溢した? どこでそんな情報仕入れてんだ? ははっ」
何か嫌な気配がした。つい感情的になった。
「お、お前がSNSで教えてくれるからだろっ」
焦りから反射的にまとまりのない返答を良しとしてしまった。コンマ数秒の冷静な判断力が必要だった。濁流はもう簡単には堰き止められない。
「鱗ってアカウントで、いや、鱗って名前のアカウントでっ」
しかし晴間にとってそれは目的を持って引き出した言葉だった。
「それ……聞いたよ」
「えっ」
晴間は告げる。
「そんなアカウント知らないんだ。他人だよ」
わけがわからなかった。瀬尾にはこの場面で偽りの言葉を発する必要性が皆目見当つかなかった。
「そんなわけ……分かった、隠しておきたいものだったのか」
「だから裏アカでもなんでもない」
「すまねえ、もう見ない。ただ俺は懐かしくて」
「違うんだ。俺じゃないんだ」
「んな筈あるかよ。あれは間違いなくおま」
「鱗って誰だよ……なんなんだよ!」
晴間の初めて聴く声だった。単なる苛立ちなのか解明出来ない恐れなのか判別がつかない。
「それどういう」
「こっちの台詞だよ、そんなの知らないって言ってるんだ」
「知らないって……一日一回、欠かさず投稿してるじゃねえか」
「今の俺に、いや、藝大に通ってた時の俺にもそんな暇はないよ。SNSを合間にやる時間なんて。スマートフォンを触らずに禁じてた時期だってあった」
晴間の頑なな主張にまごつく瀬尾。
「だってこれは俺が偶然見つけた……」
「貸せっ」
縋るように“鱗”を表示させる瀬尾からスマートフォンを取り上げる晴間。そして二つの画面を前方に向ける。片方には鱗、もう片方には晴間のアカウントである“ハルマ”が映っていた。
「これが俺のアカウント。これ以外には作ってない、作ったことない」
言い切ってから自らのスマートフォンを収め、鱗をスクロールする。そして微笑んで端末を返した。九年分の投稿。その全てを見ることは出来なくとも、大きくスクロールをして画面からその短い文章が尽きない様は異様だった。
「開設してから確かに休みなく投稿してる。短い文章だろうと絶えず継続してるのはすごい。けど、内容は瀬尾の言った通り俺みたいだ」
中でも一際目に入った投稿について。
「でもこの、《阿修羅像とかニケとか懐かしいなあ。あの頃の美術室はいい風が吹いてた》なんて具体的だよね。他にもピンポイントで俺に通ずる部分がいくつかある」
晴間は自分で言ってから少し考えた。自動的に頭の中でありとあらゆる可能性を鑑みて推察していく。するとぽろりと、笑ってしまうような言葉が飛び出た。
「これ、瀬尾が書いてるんじゃないのか?」
信じられない言葉だった。否定する以上に愕然とした。開いた口が塞がらなかった。過ちは認め謝るべきことでも、そんな暴論を出すほどに自分は憎悪されているのだという事実を突きつけられた気がした。
「色々聞いたよ、倉持さんや店長さんに。二人にも深くは話していないようだからそこまでのことは知りえてないようだったけど、口を揃えて言っていたのは、“瀬尾が心に深い傷を負ってる”ってことだ」
頭が割れそうになる。
「すぐに分かったよ。この間の様子を見たって明らかだ。あの夏休みのことを引きずってる。それでおかしくなっちゃったんだ」
晴間は到底信憑性の伴わない話を続けた。そして一つの答えを導き出した。それは精神科医ならヤブに違いない台詞だった。
「年を重ねてからのイマジナリーフレンドなんてありえるのか?」
反論をすべきだった。しかし瀬尾から出るのはか細く弱々しい声のみ。
「そんなわけない。今そんな異常な状態だったら普通に生活出来るかよ」
「じゃあ夢遊病ってやつ? それの激しいタイプ。寝てる間にスマートフォンを触って投稿だけする、みたいな」
「んなわけあるかっ」
何か証拠を提示しなければならない。瀬尾は自身のスマートフォンを手に取り、鱗の投稿のいくつかを例に挙げた。
「だってこの時間は仕事してる。この時間もだ。俺は仕事中、ケータイはリュックに入れてあるっ」
「口ではなんとでも言えるよ。それは証明にはならない」
晴間自身、倉持と若菜を証人に立てれば信用は得られるものだと理解していた。それでも、この場ではきつい言い回しをする。言葉に詰まった瀬尾がテーブルを叩いて立ち上がる。
「それに自分がおかしいかどうかくらい分かる」
晴間の指摘は瀬尾の致命傷になり得た。自分があの日を境に人生を投げ捨てた自覚はあった。それを“おかしい”と捉えることだって。故に、晴間との対話で強い訂正が出来なかった。自分の中の“ずれ”を改めて直視し、その異変に気づいてしまったからだ。帰宅してしばらくしても、狂った気は治ることがなかった。
シャワーの温水を浴びながら、タイルの一点をただ見つめた。水色にある縦横の格子を湯の光沢が揺らしている。
外的な要因で記憶喪失になる。よくある設定だ。しかしそんな偶然を待ってはいられない。奇跡を信じるには遅すぎる。つまり“起こす必要がある”。故意に頭をぶつけるなどして却ってまともになる。逆に記憶を再生させる。そういったことも望めるのではないのか。
瀬尾は力の限り頭を壁へ打ちつけた。一度目は恐怖心と肉体や脳の制御のせいで失神には至らなかった。額から流れる鮮血。紅い模様が渦を巻いて排水溝へ吸い込まれていく。二度、三度。より強く、より躊躇なく浴室に鈍い音を響かせた。やがて四度目の衝撃にて意識は断絶され、一糸纏わぬ姿で床に倒れ込んだ。
夢。あるいはそれに近い形で、覚醒までの空白を使い自らの記憶の蓋は抉じ開けられた。
鱗は紛れもなく自分だった。弱冠十七歳の瀬尾朝文が正体に相違なかった。それはあの頃の自分を守る為の防衛手段だった。
瀬尾や晴間が利用しているSNS。世界でも有数の大企業、その代表的なサービスだ。それは学生の間から大いに広まり、彼らの生活の中心にあったといっても過言ではない。そこで、瀬尾は目をつけた。夏休みが明け、晴間という意中の相手であり無二の親友を失った。砕かれた精神は日を重ねても一向に戻らず、それどころか日毎に悲しみや後悔が増すばかりであった。それを癒やす、もしくは忘れることで生命体として立ち直ろうとした。代替として何らかの器を用意し、そこで安寧に浸ろうと謀った。手段は仮想未来の構築だった。
理想の晴間を作った。作りあげた。作成時期は二〇一四年の九月末。瀬尾は尋常ではない量の予約投稿機能で何年も継続的に“鱗=晴間鈴”を息づかせることを目論んだ。心理学といった厳かなものでない、ただ一人、愛した個人のプロファイリング。それによって将来を的中させ、近しい予想図を書き出した。それを頼りに自らが近づく、そんな人生を歩めばいい。この時の瀬尾は三十をタイムリミットとして考えていた。故に予約投稿は再来年、二○二七年までの分が全てだ。
思い出した。全て、あの頃の心情と共に回帰されてしまった。
浴室で目が覚めた。まだ水は出ている。少しだけぬるくなって。
起きあがろうとすると体が重く感じた。血が乾いて凝固した部分と未だぬめりを残した部分とが別々にあった。死んでいたかもしれない、そう思いながら然程痛みの感じない頭部を洗い流した。お湯では血は止まらないだろうと冷水で締めるように洗った。意識が朦朧としたが思ったより早く赤色は静かになった。
タオルで全身を拭き、乾いたもう一枚のフェイスタオルを頭に乗せる。縛ったり結ぶような手間を掛けるのも面倒で、特に考えが及ばなかったのも理由にあたる。部屋の時計を見ると時刻は午前三時を過ぎていた。シャワーを浴びる前、最後に確認したのは午後十時を回った頃だったと記憶している。しかし最早自分の記憶の確かさというものには疑問が残る。
スマートフォンが震えた。倉持だった。彼女は晴間との約束を気にしていた。
「瀬尾くん、晴間さんと話した……?」
「……ああ」
「あたし、鱗ってアカウントのこと聞いちゃったんだ。ごめんね、勝手に。でさ、知らないって。だから……その……変な結論を出しちゃってたみたいで」
倉持は控えめに言葉を紡いだ。晴間が自作自演だのイマジナリーフレンドだの夢遊病だのを宣っていたのを知っているのだ。
「ははっ。言ってたよ、そんなこと」
「本当に違うなら否定しないと」
瀬尾は沈黙を選んだ。電話越し、機械が作り出す電子音声に温もりを感じたからだ。こんな救いようのない自分を案じている。若菜の言った通りだ、自分には勿体無いくらい、周りには善良な人間が溢れているのだ。
「ほら、たぶんあたしと飲んでる日の時間帯とかだってある筈だしっ。アリバイみたいに聞こえちゃうけど、大事なことだよっ」
自死。もしくはそれに属する辛さの果てにあるものを危惧したような。重大な責任感を伴った声だった。彼女ほど自分を想ってくれている人には正直になるべきなのだろう。瀬尾は異常性の説明を厭わなかった。
「晴間の予想は遠からず、って感じでよ。あのアカウントは俺なんだわ。俺だったんだわ」
「……え?」
きっと絶句する。そんな予兆を感じても瀬尾はすらすらと喉を通る言葉で平気そうに続けた。
「忘れてた。あいつ、晴間を好きすぎてさ、自分で作ったんだよ。予約投稿機能ってあるだろ? あれで一日一投稿、三百六十五日、三十の俺の誕生日までだから二○二七年の四月二十二、大体トータルで十二年くらい? 全部俺が想像で書いたやつだったんだよな。はははっ」
向こうの声は聞こえない。
「あいつと昔絶交しちゃってさ、そんな現実を受け入れられなかったんだなあ。だからあのアカウントを作って自分を誤魔化して、喜んで……」
溌剌とした自分の声に自信がなくなった。すると倉持の声が聞こえた。絞り出されたそれはどうしても絶え難い、本人としても辛そうな言葉だった。
「気持ち悪い……自分で、なんてそんな……」
瀬尾はそれを聴くと安心して微笑んだ。
「だから、それじゃ」
自分でもよく分からない、奇妙な言葉で締め括って終話した。
毀誉褒貶知ったことか。独り善がりの異常行動。あの八月十二日への後悔はあっても、今更その鱗というものに対しての後悔は無かった。