⑦2014年8・9月
翌日。家に向かった際には母親が出た。しかし、お目通りは叶わなかった。
「あの子、具合悪いって体調崩しちゃって、ごめんねえ」
昨日の熱りはまだ残っており、絶えずそれを反芻していた。晴間だって同じだろう。瀬尾はその確信を持っている。あの時、今まで感じたことのない昂揚を体験した。それはお互いを結びつける最後のピースとして機能した筈だ。汗ばんだ状態で体を撚り合わせて風邪でも引いたのかもしれない。瀬尾は晴間の快復を願った。
帰りは雨が降り始めてしまい、濡れて帰ることとなった。
夏休みの間、晴間の容体が戻ることはなかった。向こうから連絡が来るだろうと携帯電話を片時も離さずにいた。しかし望んだ振動は得られなかった。両親からの連絡も想定し固定電話にも張り付いた。それも同様に音沙汰がなかった。喪失感に押し潰されるかにも思えたが、晴間との一時により満たされた部分の方が上回っていた為に平気であった。こんな中でも、瀬尾は事態を重く捉えてはいなかったのだ。
九月一日月曜日。休みが明け、始業式を迎えた。学校に晴間の姿はなかった。
「急なことでな。晴間の転校は」
上の空でホームルームを過ごした。理解が追いつかなかった。担任の声が脳裏にこべりついている。くだらない噂紛いの言葉が呪文のように脳髄を駆け回っている。朝から不可思議な感情に揉まれ、式を迎える前の合間の時間で晴間の所在を聞き漁った。その中で一人の男子生徒が聞き捨てならない発言をした。
「引っ越したの一昨日だってよ」
「一昨日?」
胸がざわついた。最後に晴間の家へ足を運んだのは二十九日の金曜。この土日を挟んだ今日で居なくなっているなんて誰が考えようか。
「ああ。らしいぜ」
急いで走った。式が始まる直前で校舎を出て、一目散に町を駆けた。肺が破裂しかけたが気にならなかった。覚えている景色を後方に吹き飛ばしてあの家を目指した。汗かきの自分には少し辛い、あの冷房の弱い四畳ほどの一室を。
「はあっ、はあっ」
足を止めた。見慣れてきていた筈の一軒家が見知らぬ何かの装いを纏っていた。眼前の、空き家を示す看板と張り紙が心臓に刃物を突きつけた。人の気配がない。インターホンを押す。やはり人の動きは見られない。隣人に問い質してもよかったが、そこまで自己中心的な傲慢に陥るよりはただ自分の目で何か手掛かりを見つけたかった。
晴間鈴の痕跡を探した。半径数メートルから数キロに至るまで、血眼になって確かめようとした。日がな当てもなく棒になるまで足を動かした。成果を得られない闇雲でもじっとしていられなかったのだ。動員出来る正常な思考を欠如していた。
しかしやはり何一つとして友人の影を踏むことは出来なかった。それは不意に突きつけられた、強く静かな拒絶だった。
翌火曜。放心状態で抜け殻と化していた瀬尾へ掛かる心配の声は少なくなかったが、晴間以外の客は必要なかった。無意味だった。
そんな中で異彩を放っていた一人がいた。以前ならば一対一で関わることなどないと高を括っていた人物。明日香美優という晴間鈴の幼馴染の女子生徒だった。
「ちょっといい?」
晴間に関連する何かを持っている可能性のある人物、それだけが瀬尾の首を縦に振らせた。
体育館横の水飲み場付近にやってきた瀬尾と明日香。第一声で晴間のことを切り出した瀬尾に対し、明日香はすぐに本題へ入るように要望の話をし始めた。
「家がわりと近くてさ、たまに時間が重なったりすると一緒に帰ったりもしてたの。最近は瀬尾くんとばかり帰ったりしてたみたいだけど」
申し訳程度に自分を絡めて話す彼女が気に障った。しかし単なる自慢、そう唾棄するのは早計だった。どれだけ癪でも我慢する他ない。当然、呼び出したからにはそれなりの理由があったのだ。
「それでね、いつも通る公園があるんだけどそこで先月の半ばくらいの雨が降ってた日に鈴を見たの。ちょうど登校日の二日後かな。濡れたベンチに座って、傘を小脇と首で挟んで、そして顔を下に向けて猫背になってノートに何か書いてた」
思いを伝えた日、その翌日の体調の優れなかったあの日のことだった。明日香は瞳を下の縁の弧に沿わせて左右へゆるりと動かす。
「ちょっと不気味で。私、気になって近寄ったの。そしたら鈴はすっごい驚いて傘を落として立ち上がった。あんまり勢いよくノートを閉じるもんだから『何してたの?』って。そしたら鈴は何も言わずにノートを水溜りの上に叩きつけて走ってっちゃった。こっちがびっくりした。私はすぐにそれを拾い上げてね、中には人が描かれてた。数学のノートだったけど数字とかを書いてたんじゃなくて誰かを描いてた。顔の途中、髪と鼻辺りまでしか描かれてなくて、それにそれが最後のページだったから素早く取ったにも拘らず少し濡れてふやけちゃってて分かんなかったの。鈴とも連絡つかなくてメッセージは既読無視。なんとなく家に持ち帰って中見るとさ、真ん中らへんのそんなに影響を受けなかったページにもう一枚描かれてた。それはたぶん以前に描かれてて完成してたもの。上手いから、横顔だけでも誰だか分かる。見たことあるなって思ってた。昨日の朝、本人見かけて思い出したの、瀬尾くんだって」
明日香がノートを差し出す。先程から視界には映っていたもの。意図が読めずにいた、彼女の所持品は晴間のものだった。気の動転を悟られないようにそれを受け取る。
「でも昨日は瀬尾くん、始業式出ずにすぐ帰っちゃったでしょ。だから」
そう言って差し出されたノートの最後には、正面から描かれた未完成の瀬尾朝文がいた。髪の毛と目、それと鼻と耳がほんの少し。それでも自分と分かる。しかし全体の線は揺れているように見えた。水を多分に含んだからそうなったのではない。恐らくは、“描いているときに握り手が震えていた”。
それが何を意味するのか、瀬尾には分からなかった。ただ一つ、晴間の寝込みは真実ではなく、体に触れた自分を忌避する為の嘘であったのだ。そして逃げるようにこの地を去っていった。原因は間違いなく自分で、気持ちの悪い愛情を友人から向けられたことに対する拒否反応として住まいを変えた。
晴間鈴は、瀬尾朝文を拒んだ。
「あ……ああ……」
上体を折って地面に顔を近づける。胃の中の内容物が全て逆流するかに思われた。視界が歪み、頭の中で鐘が鳴る。
「だ、大丈夫!?」
案じて背を摩る明日香。だがその手の感触に呼応するように滑り、向けられる眼光があった。瀬尾の炯眼は明日香を畏怖させた。
「瀬尾、くん……?」
鼓膜さえもが自分の支配を逃れていた。すでに五体は我が物ではなかった。感覚という感覚が何者かの手に渡り、決定権を失っていた。
瀬尾は明日香を残し、覚束ない足取りでその場を去った。
学校の敷地を出て、目的地を持たない獣はただ彷徨った。少ししてから手元に件のノートがないことに気づいた。あれが唯一の晴間の跡だったのではないのか。残り香を確かめることの出来る代物ではなかったのか。
しかし今となってはもうどうでもよかった。どこにあってもどうなっても知ったことか。晴間に辿り着けるわけでもなければ仲を修復するわけでもなし。棚の奥底でも建物の裏でも隠れて仕舞えばいい。雨天だろうとそのまま雨曝しになって仕舞えばいい。浸透していく水が全てを滲ませ曖昧にして仕舞えばいいのだ。
煩悶とした。汚濁していく頭の中。“自分は間違いを犯した”。己を責めた。何故自制が効かなかったのだろうか。親密になっていく中で、自分だけが持つ感情を、まさか共有しているとでも錯覚していたのか。共に育んでいるとでも妄執していたのか。
吐き気。猛烈に胸がきつく締め付けられ、鉛のように重く、強い粘性を持って纏わりついた。なのに、自らの口は何も出そうとはしなかった。してくれはしなかった。
壊れていく。人生から意味が剥がれ落ちていく。それはやっとの思いで光明を見つけた瀬尾にとって筆舌に尽くし難い暗黒だった。
足元への恐怖を増す、あまりに絶望的な、停電。