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⑥2025年4月


 偶然と必然の天秤はいつも釣り合っているのだろうか。そんな、考えても仕方のないことだけが頭に去来した。


「久しぶり……だな」

 聴覚に異常が生じたように自分の声が曇って聞こえた。鬱蒼とした茂みの中に隠れてしまいたい、後ろ向きな思惑を瞬時によぎらせるのは今の自分らしいとも言える。しかし泡を食ってはならない、そう考えた。強がりは大人の慣習だ。大丈夫、こういう場は幾度か潜り抜けてきた筈。相手が悪いが、職場の二人の前でそれが露見することは避けたい。

 沈黙していると先に晴間の方から声が掛かった。

「瀬尾っ。嘘だろなんでこんなところに? 奇遇だなっ」

 あまりにも普通の声色。毅然とした振る舞いは嫌味のようにも感じられたがそんなのは些細なことだった。その平気そうな口ぶりは恐ろしくもある。

「お友達かい?」

「いた、男友達!」

 返す言葉を精査していると、瀬尾を追い越すように若菜と倉持が隙間を埋めた。

「晴間です」

 そこで言葉を止めたことに瀬尾は肝を冷やした。その先を口にすれば倉持に勘付かれる。晴間は柔らかな印象で二人に挨拶をした。友人が世話になってます、とでも言うように。

「店長、早めに休憩いただきますっ」

 瀬尾はそう言って迷わず晴間の手を引いた。熟考していても埒が明かない。逡巡を傍に置いて取り敢えずこの場を離れる。店を飛び出して事を整理する必要があった。

「ちょっと」

 倉持は突飛な行動を引き止めるようとしたが若菜が制した。瀬尾に引きずられるように晴間が遠のく。

「けど」

 若菜は首を横に振った。それから、従業員の背中を穏やかに見つめる。あんな姿は見たことがなかった。あんな形相も空気感もただ事ではなく、水を差すのは無粋である。

「幸い、他にはお客さんもいないしね」

「それ店長が言うことですか」

 呆れたように倉持が店内に溜め息を溢した。


 瀬尾は晴間と近くの自動販売機の前へ来た。店の横を真っ直ぐ進み、初めの曲がり角にある。やや小さめのオフィスビルの裏だ。

 息が切れる。ほんの数十メートルだが、全く運動をしていない大人の実感があった。手を離して息を整えるまで後ろの晴間が見れなかった。少し躊躇いを感じたからだ。連れ出した矢先、二人きりの状況を作り出して表面的な会話をする必要のなくなった今、あの頃のあの日、八月の十三日が再来していた。瀬尾にとってそれは残酷すぎた。互いに様子を伺っているような気がするのも無理はなかった。

「あそこで働いてるの」

 背後の問いに目を見開いた。口の中が苦くなる。胸を張れる回答が出来る立場にはいない。もういい歳だ、正社員でもない身でこんなところにいるのを見られるなんて考えうる最悪だった。誰と相対しても落胆の色を見つけてしまうだろう、そういう固定観念が自分の中でネガティブに働いているのは変えようがなかった。そうしてまた言葉に詰まっていると、晴間からの助け舟があった。

「落ち着いてて好きだな、あのお店。まさかこの辺にあういう店が出来てるなんて、こうして戻ってこないと分からなかったことだ」

 再び作り出された軽快な空間に冷静を取り戻し、振り返って面と向かう。

「その言い方、やっぱり上京してたんだな。最近帰ってきたのか」

 晴間は瀬尾に少しだけ驚きを見せて続けた。

「つい昨日の夜だよ。九年ぶり。瀬尾はずっとここに?」

「……ああ」

「そっか」

 また言葉に棘を見出した。悪気はないのも分かっている。晴間はそういう人間ではない。自分が、地元からさして離れずに同級生や知り合いと遭わないことを祈りながら堕落した生活を送っているのはあまりにも笑い草だ。自分でも自覚しているからタチが悪い。世界の方が遠慮してくれるなんて淡い期待でも持って生きていたのか。

「自社製品ていうか自作の靴ってわけでもなくて、普通に一般のチェーンで扱うようなブランドを仕入れて販売してるように見えたけど、かなり安かったよね。下代(げだい)ギリギリでしょ。ネームバリューのない小さな個人店、しかも人通りも少ないとなるとあれだけ安くしてやっと売れるって感じなのかな。でも利益は出てる?」

「それは」

 その羅列に言葉を挟む余地がなかった。尻窄みな相槌。

「まあでも好きなものを個人経営で売るなんて、メインがあったうえでの副業としてかそこそこ資産がある人しかやらないよね」

 晴間は世間話をしていた。攻撃するでも重たい雰囲気を放出するでもなく、学生時代と何一つ変わらず接してその寛容さを示している。瀬尾は己の狭量が浮き彫りになる気配すら感じていた。

「好き勝手自由に出来る、そういう意味じゃ確かにここの通りは穴場だよ。良いスポットだ」

 自動販売機に並ぶ冷えた炭酸を眺める晴間を見て、僅かな余裕の生まれた瀬尾は機を逃すまいと訊ねる。

「お、お前は今何してるんだ」

 晴間は瞳をエナジー飲料に向けたまま言った。

「藝大を出て色々描いたりしてるんだ。舞台美術とかの依頼がメインで、あとはイラストレーター紛いのことをやって幅広い案件を受注してる」

 知ってるよ、そう喉元まで押し寄せて口を閉ざした。浅はかな舌の可動を許さなかった。

「やっぱそうなんだな、すげえよ」

 美大を出て美術関係の仕事をやってるのはSNSにも書いてあった。画像こそ載っていなかったが、《今日は〇〇枚の絵を描いた》とか《絵コンテやコンセプトアートを描き耽ってた》とか《やっぱり人や物を描き写すのは楽しい。それを生業に出来ている幸せ》など色んな投稿を目にした。やはり晴間は“描く”という行為と切っても切れない関係性にあるのだ。それはずっと不変のもので、美術の虜になった彼の虜になった自分だからこそ揺るがない信念に納得がいっていた。

「あ、そうだ」

 ポケットからスマートフォンを取り出す晴間。数秒操作したかと思えば画面をこちらに向けてきた。瀬尾は大人しくそれを見る。

「こういう感じ。俺の仕事」

 いくつかの写真を見せられた。言葉通り、舞台や劇の美術部として、担当している小物や舞台上のデザインに風景や衣装などの案。あの頃の記憶が甦る。当時は全体の二割程度しか描いていなかったようなものがそこには広がっていた。(いろ)がふんだんに使用されていた。創作の気配があった。

 眼前の作品群は美しかった。素晴らしい出来だった。けれども素描は見当たらなかった。あれほど拘っていた人間が単色の模写を見限っていた。もしくは隠匿していた。

「いろいろ描いてんだ」

 釘付けになっている瀬尾から画面を離し、晴間は笑った。

「帰省はいいもんだね。こうやって思わぬ出会いがある」

 それは意図の読めない狡い発言に思えた。絶縁にあった自分との関係を指しているのか、若菜の店のことなのかあやふやな表現だったから。

 上辺の会話が続くと思っていた。避けるものの多い時間になる筈だった。しかしその晴間の歯に衣着せぬ物言いで瀬尾の揺れは止まった。決心というほど大層なものであるかは分からない、この恐る恐る手を伸ばすような感覚は瀬尾にとっての勇気だった。

「探したんだぞ」

 ついぞ言った。晴間の顔をちらと見た。当時波及したSNS。断片でもいい、必死になって情報を探した。忽然と姿を消した友人、晴間鈴の情報の欠片を。

 しかし晴間はそれを許さなかったようだった。

「靴、買いに来たんだ。テキトーなの見繕ってくれよ」


 晴間の頼みに従い、二人は店へ戻った。若菜はそれを察したように奥での作業に移動している。朝からの勤務であった倉持は時間が来て少し経つと帰宅した。まずはいくつか目ぼしいものを探すということで、晴間には陳列棚を見てもらっている。その後ろ姿を虚ろに眺めては勝手に閉塞を感じて外を見る。瀬尾はこの時間何をしていいか分からなかった。そもそも自分は今“嬉しい”という感情なのか。晴間と会うことは宿願だった筈。SNSのアカウントだって自然と指が動いた結果だ。しかし実際は恐怖心や引け目が内在しそれどころではない。同居する思いが綯い交ぜになり己の呼吸を圧迫している。

「瀬尾ー。決めた、これの二十六ある?」

 晴間が指差したのは白を基調としたローカットのランニングシューズ。控えめな黒の差し色が普段使いの良さを一目で分からせる。晴間を射止めたのも不思議はない優れた逸品。要望のサイズを探し出すと瀬尾は念の為の提案をした。業務上必要なものだったから。

「試着するか」

「お願い」

 予想外の二つ返事に微かに狼狽する。気取られないよう澄まし顔で腰掛けに目を向け、商品を差し出す。

「じゃ、そこ座っていいから」

「履かせてよ」

 少しだけ黙った。また思いもよらない答え。

「いいけど」

 片膝を突き、箱から靴を取り出す。下を向いていると余計に晴間の表情が窺い知れない。何を考えているのか。紙の梱包材を剥きながら頭頂部を凝視されている気がして慄いた。なんてことはない筈だ、いつも仕事でやっていることだ。靴紐を緩め、履き口を大きくすると晴間の左足を手に取った。

「ガラスの靴かよ」

 冗談で場を和ませる、そういう手段を取る人間だと認識されている、そう思っていた。甘えていたのかもしれない。瀬尾は晴間から返ってきた言葉の鋭い脅威に目を丸くした。

「まだそんなこと言ってんの」

 それは明確だった。晴間はしっかりとあの時のことを覚えているし、些細なことだとも思っていない。あれが二人を分かつ行為だったと強く認識している。動揺する瀬尾。

「まだ、って」

 すると晴間は気が変わったように足を引いた。

「いや、いい。それよりやっぱり黒の方がいいかも」

 瀬尾の手から靴を奪うと自分で履いてみせる。そして間髪入れず「うん。黒持ってきてよ」と瀬尾を促した。あの部屋の蒸し暑さを鮮明に思い出す。目の前の友人は幻ではない。十年程前に身を焦がした同性。歯止めを効かせていた想いが決壊し、幸福だった夏は夢の如く瞬き一つで終わりを告げた。あの後は随分苦しんだものだった。

「た、誕生日。一応待ってたんだぜ」

 吃りながらも瀬尾は口にした。ここで全て有耶無してしまうのも手ではあった。しかしそれで心は晴れるのか。長い間抱えている問題と決別出来るチャンスはもう二度と来ないだろう。何より、あの時間を取り返したい。

 鱗というアカウント。瀬尾が相手を知り合いだと決定づけた、自分の誕生日に関する記述のあった投稿。その子供じみた言葉を晴間は切り捨てた。

「は? なんのこと」

 次の言葉を発音するのに苦労した。ガムを飲み込んだような不快感があった。

「だってお前が言ってたからだろ」

 むきになって情けない言い方になってしまう。

「何を」

「それはっ」

 徐々に声量が増していく。

「ちょっとさ、虫が良すぎるんじゃない」

 それは冷血な言い回しだった。晴間の視界に黒い縁取りが出来る。酸素吸入量が低下する。

 こちらからコンタクトを取っていない時点で、今日の来訪はまぐれであった。晴間の意思が介在しない偶発的な奇跡だった。

「第一俺は瀬尾の誕生日なんて知らないだろ」

「なっ」

 あんな投稿をしておいて何を言っているのか。出鱈目で煙に巻かれてはいけない。突拍子もないことが続いたせいで脳内が乱れているのだ。

「俺がどれだけっ」

 柄にもなく声を荒げた。大人気ない反応だっただろう。周りに他の客がいたらどうなっていたことか。私情に囚われ我を忘れたなんて瀬尾には久しぶりのことだった。すると横槍が入った。相対した晴間以外の声は瞬間的な冷却を齎す。

「朝文くん。友達だろうとお客さんだからね」

 店長である若菜からの一喝だった。大きくはない店だ、多少なりとも瀬尾の声は奥にも届いた。


 例のアカウントにはその日のことは書かれなかった。お互いが踏み込んだ話を避けた結果だったのかもしれなかった。その手前までいっていたとしても、直接的な単語や話題は無かったのだ。真剣に後ろめたさと向き合っていたのならまず謝罪を何よりも優先すべきではなかったのか。あの崩落を、その原因を作り出した偽善じみた軽はずみな行動を謝る。しかし濃密なあの絡み合いが晴間の心的外傷になっていれば危険だ。そんなことを言い訳として担保していた。だから一言目に出る言葉が心許なかったのだ。やはり自分は赦されるべきではない。人様と同じ幸せは享受出来ない。きっと。



 後日、口数の少なくなった瀬尾に若菜が声を掛けた。

「朝文くん。この間のお友達のことだけど」

 瀬尾は少しやつれた顔で悲観的な視線を向ける。そこに言葉の挟み込まれる様子はない。

「済まない。話したくなければいいんだ、無理に聞くつもりはない」

「……すみません」

「様子がおかしかったからね。らしくないじゃないか」

 若菜とて強要はしない。しかしただ静観に努めるというのも薄情なようで気持ちが悪かったのだ。元気のなくなった従業員に対して彼なりに取った手は、共感性を生み出し負担を和らげる為の自己開示だった。

「昔話を聞いてくれるかい」

 不可解な発言に疑問を浮かべる瀬尾だったが、無言で承諾した。

「僕がバツイチなのは知ってると思うけど、別になった理由までは話したことなかったよね。もちろん人に言うようなことではないんだけれど、おじさんの息抜きだと思って」

 若菜は徐に話し始めた。

「実は僕には上にもう一人、子供がいてね。今年で十八歳になる」

 それから数分、瀬尾は一人の成人男性の贖罪を耳にした。償い終えるということはないものなのかもしれない。その声には虚しさが含まれていたから。

「当時は僕も若くてね、奥さんの産後うつに上手く寄り添ってやれなかったのが原因なんだ。だから子供を置いて出て行ってしまった」

 若菜もそうだった。瀬尾と近しい正体の感情を負債として抱えていた。類似性があると踏み、だからその直感に従った。前妻とは二十歳での結婚後すぐに大きな諍いを経験し、長きに渡っての別居を経験していた。籍を入れてから翌年のことだった。六年間。どこの家庭でもあるような小さな積み重ねかもしれないし、何度も続いたすれ違いが原因かもしれない。関係の冷え切った時期、それを何とか乗り越えて七年後、二人目の子を作ったのだと。本人曰く別居中のその日々は辛く、明日さえ見えないような状況に常に怯えていたという。

「まあ結局その後も長続きはしなかったけど」

 格好の悪い言葉だ。だらしがないと叱咤しても正当性はある。しかし瀬尾はそれをしない。

「息子は中学を卒業してすぐに一人暮らしを始めてね。仕送りや何かあったときの面倒は見ているけど、朝文くんは会ったことなかったと思うから。そういうことを深々と聞いてくる君でもないし」

 瀬尾と晴間の間に、易々と公には出来ない確執があったのは明らかだった。本来、若菜は自らの失敗談で距離を詰めるような愚策を取る人間ではなかったが、結果としてそのように思われてしまっても仕方のない話でもあった。飾らない彼の取った手段。

「運命の相手を見定めるのは何よりも難しいことだって思ったりもするよ」

 重みのある言葉だった。それは予ねてより瀬尾がずっと追い求めてきた題目だ。

「まあ目利きがどうなんて偉そうな話じゃなくて、全て僕の至らなさが悪いんだけどね。あの頃は自分のことでいっぱいいっぱいだった。今でもそれ自体は変わらないけど、余裕のなさを外部のせいにしてたのは何より良くなかった」

 目を泳がせる瀬尾。

「倉持さんは君を慕ってる。君が旧い友人と何が会ったのかは僕らの知るところではないけど、悩み苦しんでいるのを見るのは居た堪れない。朝文くんには笑っていてほしいんだよ。倉持さんは僕よりずっと強い気持ちでそう思ってる」

 雨の匂いがした。雷の轟きが聞こえた。分厚い雲の奥で唸っているのが分かった。

 冷ややかな風が肌に触れていた。若菜から向けられる慈愛に上手く応える方法が分からなかった。瀬尾自身、ぎくしゃくしたままの雰囲気を職場に持ち込み二人に余計な心配を掛けているのが嫌だった。晴間との仲違いの行方に加え、憂慮する点が増えることでその心労は静かに膨張していたのだ。

 やがて雨粒が大きくなって地面へ打ちつけ始める。突発的な夕立が鼓膜を囲うようだった。

「ひー、雨雨」

 急な外の雨模様の中を掻い潜ってきた濃紺の傘があった。

「お、噂をすればだ」

 遅番である倉持が出勤してきたのだ。傘を閉じながら若菜へ早々の軽口を入れる。

「え、なになに私の話ですかあ」

「うん。倉持さんみたいに明るくてキュートな友達は大切にしなさいってね」

 軽口は伝染していた。それは気紛れの魔法だった。

「流石てんちょー」

 口ではそう言いながら、倉持は瀬尾を見ていたずらに笑った。


「友達いて安心した」

 瀬尾と倉持の二人は新しく入荷したスニーカーに別で付属している靴紐を通していた。ひたすら交互に重なるよう穴へ通していくだけの作業。倉持は若菜と同じく先日の話題を持ち出した。

「あのなあ」

「良かったじゃん、これで真人間になれるよ。ご飯とかたくさん行けるだろうし」

 無垢な眼で言うものだから瀬尾の高く聳えた塀も低くなるというもの。期待にそぐえぬ言葉で教えるのは気が引けた。

「帰省だからな、一時的なもんだ」

 彼女は顔色を変えない。

「スマホポチポチして時間無駄にせずに済んだね。(うろこ)くんともうどれだけ仲良くなってるのか知らないけど」

「リン、な」

「そうだったそうだった」

 少しだけ迷った。倉持にはある程度の事柄を話すのが義理なのかもしれない。若菜の話を受けて感化された。このアカウントと出会ったのは倉持に友達づくりを催促されてからだ。晴間との再会との因果関係だってあった可能性を考えると、その恩恵を受けている以上果たすべき礼節というものもあるだろう。

「一言も話してねえよ。俺が一方的に見てるだけ」

「あらそなの。……って、え? マジ?」

「ああ」

 瀬尾の発言に立ち止まる。著名人でもない赤の他人のアカウントをただ見ているというのは些か奇妙だ。

「それ、だいじょぶ? てかなんで」

 口から上手く滑らせるのが難しかった。一大の決心をする。ここでの躓きは明日以降の晴間へ繋がる気がした。願掛けに似た思いでも、まだ僅かに話し合うチャンスが残っているならそこに縋るしかないのだ。自らの人生において最も大きく心を揺るがされ、最も重い鎖となった彼との因縁についてを。

「あのアカウント、あいつなんだ」

 吐き出した。心拍が加速する。しかしそれは血栓が取れ、寛解に向かうような感覚に似ていた。

「へ?」

「この間の眼鏡かけた友達。晴間(りん)てーの」

 倉持が探偵風に顎を摩る。

「なるほど……だから。でも、よく見つけたね」

「だって名前がリンで男だろ」

 憑き物が落ちたように瀬尾は惜しげもなく言った。

「え。待ってそれだけの理由? 知り合いなわけなくない?」

 倉持は率直な感想を述べた。名前の読みが同じで性別が同じ。それだけの理由が判断基準になるだろうかと。

「まあ待て、こいつには俺と同じ誕生日の友人がいるんだよ」

 確信的な表情の瀬尾。

「なら……でもちょっと確実じゃあなくない?」

 やはり倉持は納得がいかない様子で言葉を重ねる。

「他にもいろいろ合致してる部分が多いんだよ。ほら、靴が好きとかさ。絵を描くのが日課とかさ」

 瀬尾はスマートフォンで検索をかけ、符合している点を指し示した。いくつもの投稿。それは鱗という個人の内面を推測するのには充分な資料になり得る。何が好きで何をしているのか。その大まかな内容が知り合いと同じだというならば信じて疑わないのも無理はない。一日一つ投稿をしており、それを遡って見ていけば膨大な量がある。データがある。

「なんか……キモくね?」

 倉持は半笑いで言った。どういう反応を見せればよいか分からず愛想笑いが不具合を起こした故の作用のようなものだった。その瞬間、瀬尾から表情は失われた。きっと俯瞰という最たる癖を失念していた。まともな状態ならこんな告白はしていない。

「どういうことだよ」

 まともな状態なら。

「いやさ、普通じゃないっていうか、監視してるみたいだよ。なんならストーカー?」

 倉持は鈍感ではなかったが瀬尾の不自然な物言いを思って敢えて火に油を注いだ。本人にとって冗談にすぎないそれは英断とは言い難いものだった。

「……お前に何が分かるんだよ」

 血相を変えた瀬尾が言った。外の雨はまだ降り止まない。

「え?」

「これは逃しちゃいけない最後のチャンスなんだ。俺が人生を取り戻す為の」

 倉持には分からない。不可解に大仰なことを言うことも、珍しく興奮し一つの事象に執着していることも。


 好きな人と一緒にいて楽しく心地良い人。それが同じ人もいれば別の人もいる。相手にとって自分が“別”だと分かれば、離れないといけない場合がある。双方の気持ちが同じでない時だ。片方の認識が違うとどんなに親しい間柄でも辛くなるだけである。一緒にはいられない。そしてそれが、どう足掻いても恋愛対象に入らない性別なら尚更。気丈に振る舞うことを選択する稀な人間もいるが、その先は地獄だ。

 晴間に見初めて、自分の同性愛を諦めた。認めざるを得なかった。加えて初めて恋愛感情を抱いた相手であり、以降出会うことのないであろう希少な相手。事実、彼の後に心を動かされる人間は現れなかった。高校二年の夏から現在まで、あのほんの五ヶ月程度を超えられたことがない。どんな成功を収めようとどんな失態を犯そうと、瀬尾にとっては全てが些事にすぎなかった。浅はかに付き合い、世俗に塗れても充実感や満足は得られなかった。阿弥陀如来像やミロのヴィーナスや泣く女や敬虔な幼子や昼顔に視線を奪われるような影響は受けなかった。後悔、閉塞、孤独、厭世に付き纏われ続けて日々を過ごした。晴間鈴を忘れるには人生は短く、また、忘れずに生きるしかない人生は長すぎた。



 四月末日。

「ありがとうございましたー。またお願いしまーす」

 若菜シューズに二度目の来店の影があった。瀬尾の友人である茶髪に眼鏡の若い男。倉持と目を合わせるや否や会釈をする。

「あ、瀬尾くんの友達の」

 倉持にとって焼きついていた顔だ、それなりに素早く思い起こされ挨拶をした。

「晴間です。瀬尾は?」

 晴間は店内を見渡してから訊ねる。この日、瀬尾朝文は出勤していなかった。

「今日はシフト入ってないんですよ。基本は水金が休みで」

「そうなんだ……すみません、お邪魔しました」

 それを聞くと晴間は一言告げてから踵を返す。倉持はその背中をぼんやりと眺めた。

 駅からそれなりに距離のあるここへわざわざ来た。帰省という情報を差し引いても自宅がここから一体どれだけ近いというのか。もし数少ない友人の一人でそれが親友と呼べる存在で、尚且つ絶交と呼べる程の仲違いをしていたなら。久方の再会にお互い思うところがありつつも、二十代後半の男性としてのちゃちな見栄が邪魔をして虚勢を張り合う。しかし行動としては二人とも少なからず腹を割って話す気はあるようだ。ならばこの背中を黙って送り返すわけにもいかない。

「待って」

 疑問符を浮かべた顔で振り返る晴間。数日前の問答を経ている以上、倉持に見て見ぬふりは出来なかった。看過出来ないから呼び止めた。

「少し、いいですか」

 晴間は断る理由もなかった為に肯った。


「わー、すごいっ。藝大卒ってやっぱ只者じゃないんですね」

 倉持は持ち前の明るさで晴間の懐に入った。晴間としても絵を褒められることは嫌いではなかったので仕事内容を話して作品フォルダを見せた。描いている時と同じくらい、目を輝かせてくれる第三者は好きだった。

「まあ、昔から好きなことをずっと辞められなかっただけの人間だよ」

「へえ〜」

「好きでもないこと、嫌いなことや大変なことを仕事にしてる人こそすごいって尊敬するなあ」

「あたしは早いとこ結婚出来れば定職とかそんなんは深く考えてないからなあ。あ、あんまり貧乏なのも勘弁ですけど」

 にこやかに言いながらも倉持は晴間の手元のスマートフォンを食い入るように見ている。一つ、気になるところがあった。スクロールしていると白黒の作品群が現れたのだ。その画像枚数は多く、各仕事の作品の合間に加え、恐らくその仕事が終わると生まれる空いた期間でもひたすら描き続けているジャンル。中でも多かったのは美しい裸婦の素描だった。

「デッサンってやつですか。女性を描くことが多いんですね」

 倉持の言葉で我に返る晴間。軽い気持ちで画面を見せて動かしていた指先を止める。

「え? ああごめん、ちょっと人様に見せるのは選んだ方が良かったかもね。初見の女性へ軽率に見せる内容じゃなかった」

「別に、それはいいんですけど」

 話題を変えるように晴間が言う。

「それで、こんな簡単な素性が知りたくて引き留めたの?」

 成り行きで身の上の話になり画像を見せていたが、実際倉持が引き止めた理由が別にあることは分かっていた。

「あ、ああ。えっと、晴間さんってこのSNSやってます?」

 倉持が自身のスマートフォンを取り出してホーム画面に並ぶアイコンを見せる。

「うん? ああ、それならやってるよ。人並みに」

 そうして晴間は当該のアプリを起動して倉持へ向けた。ハルマ。ユーザーネームは苗字でカタカナ、雄大な海の景色がプロフィール画像に設定されている。

「ありがとうございます。じゃあ、ちょっと失礼になっちゃいますけど、裏アカとかは」

「え?」

 その奇妙な質問を晴間は訝しんだ。初対面ではなくとも、二度目で会う人間に聞くことではない。関係性の深浅が第一に問われるものの筈だからだ。倉持はさらなる言葉を重ねた。

「SNSの鱗ってアカウント、見つけちゃったみたいで」

 はっきりと口にした。

「何ですかそれ」

 当然、白を切られることは想定していた倉持。

「ごめんなさい、非常識だとは思うんですけど確かめたいことがあって。ていうかちゃんと止めた方がいいって言える理由が欲しくて」

 あまりに容量を得ない言葉の連なり。晴間には目の前の女性の言っていることの見当がつかなかった。まるきり空想のような会話をしているようにさえ思われた。

「え、ちょっと意味が分からないっていうか……あの、詳しく教えてもらっていいですか」

 連綿と続くものには理由(わけ)と需要があり、始まりと終わりだっていずれ等しくやってくる。始まりが白日の下に晒される瞬間、それが後ろ倒しになることだってある。そこに立ち会った時が、運命の歯車、あるいはぜんまいを巻くべき頃合いなのかもしれない。





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