⑤2014年7・8月
連日続く茹だるような暑さ。校舎の中に居ようとも、背中に張り付く衣服の感覚を誰もが嫌悪している。壊れかけの扇風機の微風が定期的に、しかしゆっくりとノートと髪を揺らす。
夏休みが目前に迫っていた。
「鈴」
女の声だった。自然と、聞こえた先へ目を向ける瀬尾。廊下で話している二人に掛かったもの。その声に応じて晴間が言った。
「明日香さん」
瀬尾は首を傾げる。二人の会話に後方から差し込まれた艶やかな声。その主の名を友人が呼んだようだったから。
「アスカ? お前、下の名前で呼ぶ女子とかいんだ」
晴間は同じ美術部員にもそんなことはしていない。そもそもが同じ男子に対しても苗字で呼ぶという始末だ。しかしそれは瀬尾も同じこと。すると晴間の否定があった。
「ち、違うよっ。明日香ってのは苗字」
それを聞くと、近寄ってくる他クラスであるその女子生徒が同調するように瀬尾へ向けて口を開いた。
「そ。明日香美優。瀬尾くん、だよね。よろしく」
「……しく」
随分と万人受けしそうな彼女の外見や明るさは眩しささえ覚える程だった。平時なら気前の良い態度を取る。しかし瀬尾は愛想良くする素振りを見せることなく、渋々の返事をした。彼女は事務的に生徒会の勧誘の資料だけを渡して去っていった。夏休み明けには運動会にその後の生徒会選挙と、行事が立て続けにあるからだった。
予鈴が鳴り、昼休憩が終わりを告げる。
「彼女かと思ったぜ」
「あはは、違う違う。俺、高校では彼女出来たことないし」
瀬尾にはその言葉が謙遜にしか聞こえなかった。軽口で自分すらも和ませ、先程の二人の応酬をいなしてしまおうと考えていた。しかし口にしてしまったことでより一層の違和感や猜疑心の定着があった。
「ほんとかよ」
晴間がどう言おうと、鈴という下の名前で彼を呼ぶ女子を他には見たことがなかったのも事実だった。思わずつっけんどんな言い方になる。その時だ。
「うん、ホント。そういうんじゃないんだ」
晴間は見たことのない表情をした。
嘘や虚勢を張っている様子ではなかった。しかし確かにその眼や声には特別な思慕が感じられた。恋や愛といった雑味を取り除いた個に向けられしもの。例え類するものだとしても、それを自分自身ですら気がついていない可能性すらある。晴間鈴という男にとって明日香美優は他とは一線を画す存在だった。瀬尾は思う。自分が居ない時、晴間は自分のことをどう人に話すのか、どんな人間だと紹介するのか。そしてその際どんな表情を浮かべるのか。いずれにしろ預かり知れぬことではあるが、彼女を想うに似た感情を抱かれている自信があるかと問われればそれは分からない。
「にしては仲良さげだったけどな」
普段、憎まれ口に取られるような物言いはしない瀬尾にとって今の発言はやや不本意だ。
「小学校から一緒でさ。それでたまたま同じ学び舎である期間が長いってだけ。それ以上のことはないよ」
幼馴染み、なんて括りの具体的な定義は分からなかったが、彼女がそれに該当するならば幾分か納得がいく。
「そういう瀬尾はどうなの。モテるだろうけど」
吐いた唾が顔にかかった。瀬尾は予想に反したその詰問にたじろぐ。
「俺は別に」
「あ、もしかして明日香さんが気になっちゃった? どうだろね、瀬尾なら」
そう捲し立てる晴間に対し即座に声を上げた。何か込み上げるものに抗えなかった結果だった。
「違えって」
少しだけ強まった語気。それは幼稚で、あまり綺麗とはいえない感情を孕んでいた。自覚出来る程の悋気。晴間の顔を見ることが出来ない。
「じ、授業始まるぜ」
乾いた笑い顔を貼り付けて着席を促した。なんだか周囲を知覚する五感が鈍り、薄い膜を張ったような奇妙さが伴っていた。居心地の悪さがある。それは到底無視出来るものではない。
彼女の存在は瀬尾にとっての誘い水になり得た。
授業中、晴間のことを考えた。いつもよりも深く。
自分は晴間のことをどれだけ知っているのか。もちろん明日香と比べ、急激に距離を埋め時間で勝ることは現実的ではない。知り合ってまだ三ヶ月程度の人間が先んじることは不可能だ。それでも深度という点で、より強く関わることは出来る。理解することは出来る。
晴間は人が多い場所より少ないところの方が好きだろうし、賑やかなところよりも少し閑静な街並みを好む筈。美術が好きなのだって集中や没入のし易さ、それを手助けするかのような情報量の少なさが多少なりとも勘定に入っているのだと思う。普通、喧騒の中でキャンバスに向かう機会は少ない。風景画を描くのだって素描にしろ油彩水彩にしろ、晴れた穏やかな空の下、河川敷などで取り組む姿を誰もが想像する。静かに、けれども確かに練度高く作品を完成へ近づけていく作業が好きなのだ。その条件として環境は一つの要因に充分である。
以前こんなことを言っていた。
「ここが好きなんだよね。だから俺が仮に就職とかで上京したとしても、最後には戻ってくる確率が高いんじゃないかなあ。余生はここで過ごす、骨はここに埋める、みたいな」
「そんな先のことまで考えてんのか、すげえな。気が早すぎてすぐにホームシックになりそうな可能性すらあるぜ」
「まさか」
名残惜しそうな晴間の顔。そんな未来の肖像は随分と具体的だ。彼の感性を知れば、理解していれば。その物持ちの良さなどはあまりにも当然であった。
休み時間になった。あと一コマで学校も終わる。瀬尾は難しいことに頭を働かせるのを中断し、晴間の元へ行く。すると瞬間、晴間がノートを閉じた。不審に思った瀬尾は反射的に興味を引かれたそれに手を伸ばす。
「ん? 何隠したんだよ」
シャーペンが挟まれたノートは潔く開かれた。そこには授業を受けている瀬尾の斜め後ろからの姿があった。
「あ!?」
きまりの悪い様子の晴間。その繊細な線の集合体である立派な似顔絵は喜びよりも先に戸惑いを誘発した。
「まじかよっ、もっとちゃんとキメてるところ描いてくれよ」
責め立てる瀬尾に、晴間は開き直った旨の発言をする。
「長時間動かずにいるのは無理だろ? 無理強いは酷だし」
以前交わした約束について。美術室の真ん中に鎮座し、微動だにせぬ姿を描き写してもらうつもりだった瀬尾。むしろその長時間の沈黙を楽しみにしていた節すらあった。しかしこんな無意識な、ふとした日常の一頁を切り取られるとは想定していなかったのだ。かといって何十分も岩のように固まることへの自信があったわけでもないのだが。
「だからって」
「自然なとこを描いちゃいけなかった?」
そう言って晴間が落とした視線につられる。長い睫毛に気を取られて少し遅れてそれを辿る。すると白黒で表現された二次元の自分に吸い込まれた。寝癖気味な後頭部付近の跳ねた髪や頸の汗、顎からエラにかけての輪郭や上背部の服の皺など、自分では目の届かない場所や気づかない点への書き込みに言葉を呑んだ。
「……そういうわけじゃ」
複雑だった。まるで何事もなかったかのように振る舞う晴間に引け目を感じた。険悪になったわけでも問題があったわけでもない。自分が一方的に明日香という女子との間に劣等感を見出してしまっているだけだ。瀬尾はそんな対照的な現実を突きつけられているようで恐れを為した。眼下の似顔絵の出来がその影を大きく黒ずんだものにしていた。
やがて夏休みに入った。この夏休み、二人は接近した。してしまった。
晴間の家に通うようになって数日が過ぎた。今や瀬尾のリラックススペースへと化している。段々と互いに心を開いていっている実感があった。学業がない分、休暇で精を出す。この日瀬尾は晴間を迎えに赴いていた。
「よう、行こうぜ」
玄関先の瀬尾を見ると、晴間は目を細めてよく微笑んだ。
二人で街を歩く。ショッピングセンターで時間を潰してもよし、飲食店でただ空腹を満たしながら話すだけでもよかった。一応は晴間の用事に付き合うという名目があった。そしてその用事はすぐに済んだ。
「お前、買い物ってスケッチブックの買い足しかよ」
「いいだろ、別に」
平気そうに笑う晴間。
「せめてなんか美術関係の参考書とかさあ」
そんな会話の最中、ふと通行人へ目を向けた晴間が言った。
「あ、あれ最新のやつだ」
「ん?」
視線は下へ向いている。瀬尾が分からない顔をしていると補足が入った。
「よく言うよね、足元に気をつけた方がいいってさ。だから靴に興味があるのかも」
「へえ」
そもそもファッションにも詳しくない瀬尾はそれとなく返事をする。色の違いや大まかな種類の違いがせいぜいのもので、細やかなモデルの差などは見分けがつかない。
「実際スニーカーとか集めるのが趣味な人ってかっこよくない?」
年相応の無邪気な考えは珍しく、しかしその端々まで行き届いた目利きは彼由来の感性に他ならないので飲み込めた。
「へえ、そういうところに気を配るようになるなんて、お前も色気づき始めたか?」
「だからそんなんじゃ」
晴間はまたさりげなく否定する。瀬尾はそっぽを向いて譫言のように吐いた。
「お前は否定するけどさ、自分じゃ分かんないもんだぜ、そういうの」
根差したものを掘り返すような野暮を働いたと自分でも分かっていた。足場の心許ない平均台の上を歩いているような不安定が続いていたからかもしれない。物事をさらりと受け止め、受け流すのが長所であった自分が、最近では押し並べて粘着性を帯びている。
表向きだけでもポーカーフェイスを演じれる技能があればどれだけ良かったか。瀬尾朝文は俳優ではなかった。
八月十一日月曜日。この日は学校の登校日だった。僅かな時間、教師らへ息災を知らせたり近況を報告する為に存在するのだという。瀬尾は面倒でしかない厄日だと文句を垂れていた。晴間と話していると近くの女子グループの声が耳に入ってきた。それなりの音量で嬉々として騒いでいる。
「明日香さん、児玉くんに告られたって」「マジ?」「美男美女じゃん」「高スペック後輩男子、良いかも〜」
紛れもなく件の彼女のことだった。
「晴間」
瀬尾の投げかけに晴間は反応を示さない。
「それで美優ちゃんOKしたの?」「もちろんっ。お似合いよね」
渦巻くものを察して言葉を掛けようにも見つからない。きっとあまりいい報せではない筈だからだ。すると晴間は控えめに囁いた。
「憧れてたんだ、きっと」
晴間は確かな足取りで一音一音を形にし始めた。瀬尾はそれを甘んじて聞き入れる。
「物怖じしない強いところに。俺はたぶん自分を持ってる人が好きでさ、俺だってその自負はある。けど、それを外にも出せているかは分からない。だから臆さずに自分の意見を主張出来たり、相手の顔色を窺うことなく芯のある行動を取れる人を尊敬するんだ」
明日香へ向かう矢印、その評価の名前、在り方。恐らくそれは瀬尾にも見出していたもの。その感情の付与には先駆者が居たのだ。
「瀬尾も似たとこあるよね」
そう言って目配せをした。瀬尾は自らの鼓動が速まるのを感じながらもその動悸に無抵抗に、勘づかれぬよう振る舞う。
「ずるいぜ、それ」
一緒くたにされた不満から来たのか、晴間へ鋭い刃で切り込む。
「そうかな。好きとかを軽いっていうわけじゃないけど、でも一般的な感覚とは別のところにあるっていうか」
晴間自身、言い訳がましいと分かっていた。しかし理解されずとも明日香に抱いている気持ちの正体は概ねこれが事実だった。その上でそれを見透かしたように続いた瀬尾の言葉は、予期せぬ切れ味で心臓を抉った。
「そういう言葉、“好き”から逃げてるだけだって思うぜ。お前は今辛い筈だ。なら明日香に抱いてる思いってのは恋愛感情に違いはないんじゃねえのか」
正解を言っているのかは瀬尾にも分からない。遅効性の毒が晴間の体を蝕む。無視出来ぬ痛みがそこにはあった。
「はは……。俺も、経験豊富なわけじゃないからさ、その境い目が分かんないってのは説得力あるかも」
悲壮感の漂う浅瀬。叩かれた薄い膜のような水面。渇き切った微笑が痛々しかった。
それから下校まで晴間に話しかけることが出来なかった。会話の終わりや節目のようなものを探して、知らぬ間に時間が落ちていったのだ。行方の分からなくなると出所や出自すらも不明になるのだなということだけが理解出来た。そして初めて、放課後に美術室へ寄ることなく下駄箱を目指す晴間の背を見た。生徒が疎らになるまで、教室の席を動こうとはしなかった。その矮小化された後ろ姿はやけに寂しげだった。
「しとしと」
「え?」
靴を片手に立ち止まる晴間。辺りには誰も居ない。遠くで微かに物音が聞こえる程度だ。瀬尾は履き替えながらその様子を見守る。外を見ると柔らかな雨が音も無く降り始めていた。
「雨だよ。しとしと、しとしと」
喪失に因る悲哀、その激情に従事していた。静かな同期。失ってから初めて気がつくという愚行を人類は何度繰り返せば学ぶのだろうか、瀬尾はそう思った。正面から晴間を確認は出来なかった、しかし自責が瞋恚へと歪みを生じさせているのは明白だった。視界に映る泪雨が雄弁だった。
別れてから就寝まで、絶えず晴間を想った。どうしているか、どんな心でいるのか。そもそも心とはなんだ。それはどれほど確かで、どれほど自明で、どれほど優先され、捨て置かれるべきものなのか。
翌日、居ても立っても居られずに家を飛び出した。目指すは当然晴間の元だ。夏は息を吹き返し、再び強い日差しを地上へ届けていた。乾燥はしていない。熱波の中を掻い潜るようにして絶えず疾走すれば、ものの十数分で目的地へ辿り着いた。実際走ればそこそこの気持ちの良い風に当てられてもいた筈だが瀬尾にそんなものを感じ取る余裕など無かった。
晴間は平然としていた。そういう衣を纏っていた。彼の茶髪はこんな暑さでもさらりと一本一本が独立していた。
深入りする様子もなかった瀬尾は当たり障りのない会話を心掛けた。晴間の部屋に上がり、何気ない時間を過ごすことに努める。演じることに徹する。棚から取り出した漫画本を仰向けになりながら読んだ。
「いやあコレ面白えよ。てか晴間も漫画読むんだなあ」
「俺だって普通の男子高校生だよ?」
晴間は笑っていた。探るような往来が奇妙で自身に虫唾が走るようだった。
室内の冷房の設定温度は二十九度。この日、外の気温は三十一度だった。いつか、点けている意味があるのかと聞いたことがあった。晴間は瀬尾に比べ代謝が低いようで汗をあまりかかなかった。
そんな晴間も、湿度が高いこの日に限っては肌の表面に光沢を纏わせていた。白く透き通った女性のような肉は視界に映るだけでその感触を想像させる。反発の控えめな、けれども確かな弾力。その視線に気づいた晴間。
「気、遣ってくれてるんだよね。優しいな」
「は? 俺はただ」
慌てて目を逸らす。落ちこんでるお前にちょっかいをかけようとしただけ、なんて言おうとしてやめた。少しでも攻撃性を感じる言葉はこの場で使うべきではないと再考した。
「お前の絵が見たかっただけだよ」
ほんの僅かに反対を見た。その一瞬だけだった。
音もない接近を許し、肉薄する晴間に漫画を取り上げられる。晴間は瀬尾の頭上で気怠げに微笑む。そして上から覆い被さった。外を埋め尽くす蝉の音が壁を貫通していた。
「ちょ」
晴間は瀬尾をくすぐるようにした。初めてこんなに触れた。瀬尾は戸惑う。俺の体温で溶けて無くなってしまいそうだ、そんなことを思った。それでも拒まなければならない。
「おい、やめろって」
「いいじゃん瀬尾だって嫌いじゃないだろっ」
互いに多感な時期だった。過度な身体接触は判断力を容易に低下させる。晴間の本能は、空いてしまった大きな穴を埋めるように肉体の触れ合いを欲したのかもしれない。
「晴間、お前おかしいぜっ。第一、告白もしないで振られたみたいなもんだろ、今からでも気持ち伝えてみろよ」
晴間の動きが止まった。失言は取り返しがつかないと分かっていた。瀬尾は晴間の悪手によって引き出されたそれに顔色を悪くする。謝意を示そうとすると、晴間の声に遮られた。
「中学の時、したよ」
彼は止めどなく溢れ出るものを抑えられなくなっていた。瞳から光が消失していた。
「“そういう対象には見れない、私には鈴が男の子には見えない”、そう言われた。それまでもそれからも、明日香さんは誰とも付き合わなかったんだ。その事実だけが何だかふわふわと、俺を繋ぎ止めていたような気がする」
呼吸を忘れる。その独白から逃れることが出来ない。
「俺だけが気にしてさ、彼女はずっと変わらずに接してくれてた。それがずっと辛かった。俺は俺でテキトーに好きでもない子と付き合ってみたりしてさ。馬鹿みたいだった。だから初めて明日香さんに相手が見つかったのは、それだけの人が現れたって喜ばしいことだし、自分だって踏ん切りがつくと思ってた。けど……想像してたよりきつかった。意外な程、ショックが大きかったんだ。やっぱり“好き”は燻ってて、当時の結果を認められずに引きずっていたからなんだろうね。ほんと、女々しいよ」
故に、罅割れはどんな小さなものでも大きな裂け目になり得る。それは両者とも同じ条件で同じだけ可能性があったから。
正反対に見えて似通っていた。そつなく、上辺だけでこなしてきたというのが同じだった。クラスの端に居たわけではなくとも、周囲と深く交流しようとはしていなかった晴間。己の世界に没頭し、完結していればそれでいいと。そしてそれは同性愛という翳りを持つ瀬尾と近しい短所だった。どこかで深め切れない、必ず埋めないままの溝を意図的に残す。そんな瀬尾と類似していたのだ。
瀬尾朝文は後悔した。自分の善性という偽りの仮面を付けたままここへやってきたことに。結果として、このタイミングを見計らうように、晴間へ付け入るようになってしまったことに。
惹かれた。好きと胸を張って言うには未熟で、無知すぎた。だから知ろうとした。知っていることが魅力的だったから、知る努力に踏み切ろうとした。それが諸刃の剣だと分かっていても。
瀬尾は晴間を押し倒した。二人の体が反転する。
「うわっ」
「……知らねえ」
喫驚。晴間の開いた瞳孔が網膜に焼きつく。
「え、大丈夫? ちょっと」
「お前が悪いんだからな」
首筋に唇を当てた。あまりの恐怖に気がおかしくなりそうだった。それでも体が動いたのだから仕方がない。この際、いくらでも言い訳は出来た。
「瀬尾っ、瀬尾!」
困惑する晴間のささやかな抵抗を物ともせず口づける。体を密着させる。
「俺だって苦しい、苦しかったんだよ」
一心不乱に弄る手を止めた。
「最初で最後、それで構わない。……人を好きになったの、初めてなんだ」
明言した。焦がれたのだ、人が愛し愛される姿に。長年の抑圧に堪え兼ねた。晴間は信じられない顔をしていた。驚きは一目で分かっても、軽蔑の色は判別出来ない。晴間の両腕からは観念したように力が抜けていく。瀬尾の力が増したからそう感じたのかもしれない。
「ちょ、瀬尾っ」
「柔らか……」
きめ細かな顎先。少しざらついた瀬尾のとは違う美術品のような柔肌。女性的だと形容するのは間違いかもしれない。女とも、他の男とも違う、晴間鈴の体。脂肪と筋肉の両方を有し、それでいて角張った骨格。表面のしおらしさと物体的な逞しさを一度に感じる。
「悪い」
断りを入れてから、唇を重ねた。今まで意思伝達と生命維持の為だけに使われていたものを、初めて性的に行使した。口の接触もそれに伴う顔の近さも、想像よりずっと生々しかった。数秒の静止の後、やがて口を開閉する。味なんて自分の唾液とさしたる違いは分からない。しかし滑る舌と舌は途方もない高揚と充足を齎す。
「ぷはあっ!」
酸素を取り入れるべく晴間は瀬尾を押し退けた。微かに曇っている眼鏡のレンズ。二人の息は荒く、呼吸も乱れている。
「ありえない。こんなのひどいよ」
「……ごめん」
真下の晴間に向けて謝った。こんなつもりで仲良くしたわけでも、家に上げたわけでもないだろう。そんなことは分かっている。瀬尾だってそうだったから。ただ、もう引けなかった。後一度の拒否をされれば、それが終わりの合図だ。
「……女の子みたいだから……?」
晴間が訊ねた。
「違うっ」
否定した。瀬尾が好いた理由はもっと複雑で、その考えこそが安直と言われようとも譲れない、晴間鈴というクラスメイトの内外の魅力に当てられたからだった。
「俺も男だよ」
「知ってる」
「そうじゃなくて」
瀬尾の両手首を掴んで起き上がる晴間。それは存外にも男性的な膂力。対等な性別である証明に他ならない。肩が上下している。
「暑さでもう訳が分からない」
晴間は目を細めていた。目線が同じ位置へ来た。熱った体と脳は、ただ互いの唇を求める。
「同感」
それからの時間は永遠で瞬息だった。しかしその濃度は褪せることのない、細胞に届きうる傷痕のように残った。ひたすらに口づけ、抱き締め、汗やその匂いまでもを混合させる。愛撫は思考を溶かしていく。
二〇一四年八月十二日。この日が瀬尾と晴間の分水嶺だった。