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④2014年7月


 水泳の授業が始まっていた。プールに備え付けの更衣室で着替える為に移動自体は制服のままなのだが、そのプールというのが校舎からグラウンドを挟んでL字型に位置している。二年生の教室は三階。窓際の瀬尾からは高さの低いプールが一望出来た。遠いその何気ない光景に、時折視線を誘導されるようなことがあった。そしてそれは、女子生徒の授業の時は起こり得ないことだった。

「まただ……ちっ」

 瀬尾にはある悩みがあった。はじめは中学に上がってからのことだった。小学校に通っていた頃は自覚なんてしていなかったが、自然と同性に意識を割かれることが多い自分に気がついたのだ。信じられなかった。考えたことすらないマイノリティ的嗜好に自分が当て嵌まりうる可能性など。それが(よぎ)った瞬間に、何故だか焦りのようなものを覚えた。寛容になってきている現代でさえその特異性は無視できず、いざ自分がそうであった場合に向けられる視線というものを想像した。己に差別意識はなくとも、世間に対する信用はまた別の話だった。

 そんな中で、何かと目で追うことが多くなった晴間のことに気がついていた。それはとても恐ろしいことだった。

「まさか、な」

 自らのことすら碌に把握出来ない現状に呆れる。希望的な考えは現実とは異なる場合が殆どだ。瀬尾朝文という自己が思い通りでいてくれるかは神のみぞ知る、そんな淡く不確かなものは大抵思い通りにいかないと割り切るべきと諦めていた部分さえあった。


「はーるまっ」

 例に漏れず瀬尾は友人の名を呼んだ。

「瀬尾」

 土日を挟んだ月曜日、瀬尾にとっては長く感じた二日間だっただけにこの日は一段と気分が高揚していた。毎度のことながら休み時間に欠かさず晴間の席へ遠征するのは今やこの教室でも見慣れた風景になっている。

「また晴間? 瀬尾も飽きないね」

 クラスメイトの声。それは嘲笑ではあるが悪意を含まないもの。

 あれから瀬尾は晴間の家に行き、作品の数々を見せてもらった。金曜の帰りのことだったが、寂しさを感じさせない大量の力を概念的に吸収した。一枚一枚、凄まじい気迫すら感じる出来栄えだった。和な雰囲気の薫る邸宅は晴間の絵を最大限空間に調和させていた。先日の発言通り、美術室とは違い素描だけでない様々な種類の作品を目にすることが出来た。

「それなんだ?」

 何気なく彷徨わせた視線が見つけたのは変わった猫のキーホルダー。

「可愛い〜っ」

 すぐ側の女子生徒が瀬尾の背中越しに唸る。

「しっしっ。今俺が見てたんだっ」

「何よ、瀬尾のくせに」

「うるせーうるせー」

 晴間の隣の席の女子生徒と小さな言い合いをしているとやはりその猫の外見が気になった。耳が短く平たい、顔が横長にさえ見えるほどの変わった形をした、全体的に少し丸いフォルムの猫。ややデフォルメされたキーホルダーは丁度大きな胡麻団子かのような印象を与える。

「でもなんか独特だな」

 瀬尾がそう言うと晴間は気持ち誇らしげな声色で商品を手に取り紹介した。

「マヌルネコっていうんだ」

 可愛い。確かに可愛い。けれども瀬尾にとって猫や動物全般は大概どれも可愛いと思っているので特定の種に対して個別の感情を持ったことはなかった。しかし他でもない晴間のお気に入りだということは興味を引かれる一因になり得る。

「確か法律で飼育は禁止されてるんだ。だから動物園でしか見られない」

 うんちくを披露する晴間。感心する女子らを横目に瀬尾は押し黙る。意図的に無口な姿勢を示したのではなかった。

「可愛い顔して獰猛なんだって」

 いたずらにはにかむ晴間のその姿を見て、四方から音が消えた。


 入部こそせずとも、瀬尾は美術室に入り浸った。やはり部顧問は寛容なようで、それをとやかくは言わなかった。そもそも基本的に姿を現さない。放課後は大抵晴間の後をついていく瀬尾。いつしか部員とも仲を深め、未加入ながら半ば幽霊部員に等しい扱いを受けていた。時々にしか姿を見せないのではなく、そこに居ても実体は無いかのような。

 この日晴間がデッサンしていたのはサモトラケのニケ。頭部と両腕のない、翼を後方に広げた女神の像。晴間が鉛筆を一心不乱に走らせるのと同じく、各々が談笑に耽りながらも様々な物や風景を描いている。

「なんか見たことあるようなないような」

 瀬尾がそう言うと晴間がスケッチブックから目を離すことなく説明した。

「有名な映画のポーズやスポーツブランドのロゴのモチーフになったりしてるし、影響力はかなりある有名な作品だよ」

 室内には鉛筆と紙の擦れる音、筆と絵の具と水の音などが乱雑に、それでいて不快でないよう重なり合っている。

「へえ。よく分かんねえけど壊れたままって感じだな。未完成ってことなのか? それとも初めからこういうもんとして作られた?」

 像に対して率直な思いを述べる瀬尾。すると晴間が手を止めて向こうのニケだけを見た。

「欠損してるわけじゃなくて発見されてないだけなんだけど、それも含めて好きなんだ。ちょっと不謹慎かな」

 それは慎重に吐かれた言葉だった。

 晴間の家で教わったエドワード・ゴーリーという絵本を専門とする作家を思い出した。友人は少し影のある、もしくは感じる作品が好きなのかもしれない。恐らくは厭世的なものに惹かれる素質が備わっている。一見残酷に見える審美眼は彼の静謐な魅力の根源になっていた。瀬尾が晴間の声を拾い上げやすいのはそういう点にあったのだ。より多く、より深く話を聞いていたくなるような。

 もう一つ、棚に見つけたアンダルシアの犬という映画のVHS。直感的に手にしたそれを眺めていると晴間が言った。「すごく短い作品だけど、観る?」パッケージを見て芳しくない表情をしていた瀬尾は、裏面を見てさらに険しい顔をすると遠慮がちに元の位置へ戻した。映像を流したとして、その印刷されたシーンの後に続くものの目を覆うような想像が容易だったからだ。しかし人間的な怖いもの見たさというのは残り火の如く燻っていて、今もニケの首や肩口の断面を見て胸に感じるところがある。それを描く晴間を見て思うところがある。

 瀬尾は再び活動を始めていた周りの集中を乱さぬよう控えめに呟いた。

「めちゃくちゃ高級だろうにすげえな」

 発言は空間に伝播する。微かに緩んでいく空気。

「これは本物じゃないよ?」と右から部員の声。

「え」

「こんなとこにあるわけないじゃない」とまたまた左から別の部員の声。

「悪い、全体的に疎くて」

 申し訳なさそうに瀬尾が言った。作りの良いレプリカには違いない。瀬尾のような素人の発言も、全くその分野に関わりのない人生を送ってきたならば許容だって出来るだろう。まるきりあり得ない話ではないのだ、それは冗談とは対極の素朴なもの。瀬尾の少し世間知らずな幼さは恣意的に生きてきた結果だ。

「本物はもっと大きいよ」

 晴間が付け加える。これだけ熱量のある作品を生み出す場所だ、当然のように瀬尾は咄嗟に浮かんだ疑問をぶつけた。

「晴間はいつか本物見たいとか思うわけ。てか美術館とか行くのか?」

 厳かな場所に足を向け、距離を取って大きな絵画を眺める姿が想像出来る。さぞ似合うことだろう。しかし返ってきた答えは予想に反したものだった。

「俺は……あんまり本物がどうとかには興味ないかな」

 これだけ芸術に触れ、日常の数多の風景などを切り取っているのに絵画は見るものではないのか。目の前の彫刻に強い思い入れでもあるのかと踏んでいた瀬尾にとってその考えはまたしても新しい域の生まれだった。描くこと、もしくは自分の生み出した作品にこそ価値があるとしているのだろうか。真贋は芸術の最たる重要な要素と考えていたが、晴間の回答はまるで想像の外を歩んだ。

「ふーん、そういうもんなのか」

「少数派だろうけどね」

 一拍を置いて、部員達は口々に瀬尾と晴間の会話へ参加する。

「私は本物見たいなあ」「僕も。やっぱルーブルは行きたいよね」「大迫力の絵画とか彫刻って背筋が伸ばされるようで、その感覚が好きな人は多いと思う」

 多様な意見に翻弄される瀬尾。この部に在籍するからにはこういった感性が通常の反応である筈。それでも晴間の答えは瀬尾に独特の個性を感じさせた。

「それにしても瀬尾くんが美術部の作品に目を輝かせるなんてね」

 一人の美術部員が言った。

「俺だって意外だった」

 晴間の所感も尤もなもので、瀬尾朝文という運動が好きであろう社交的な転校生が興味を引かれる嗜みだとは誰も思わなかったからである。

「だって前までは意識して見ることなかったからよ」

 瀬尾の純粋で正直な物言いは却って部員達の心に火をつけた。

「そういう人でもある時突然心を奪われるのが芸術なのよね」「そうそう。『なんか好き』とか『なんか気になる』とかでいいんだよ。それが入り口になる。もちろん底なし沼の、だけども」「絵を違う媒体で目にしたりキーホルダーみたいな雑貨として選んだり、きっかけは色んなところにあるからね」

 それを聞き背中を押されたように瀬尾も語り出す。この空間に足を踏み入れたのはある一人の友人のせいだとしても、“絵を描く”という物事に対して今まで抱いていた感覚は随分と表層的だった。

「きっと、美術とか芸術とか言われると堅苦しい感じがして視界に入れようとしてなかったんだ。そういうガキみてえな理由」

 続けて瀬尾は友人の対応を交えて視点が変わった事実を告白した。

「でも晴間はそんな俺に丁寧に説明してくれるだろ。教え方が優しいっていうか」

「へえ〜」「褒めるねえ」女子部員達からの冷やかし声。

「茶化すなよ」

 瀬尾が部員達へ言ってすぐ、晴間が口を開けた。それは独り言のような浮遊感を持ち合わせた言葉だった。

「小説やオペラ、オーケストラとかと一緒だよ」

「え?」

 そのまま晴間は独自の見解を述べた。その持論は瀬尾や美術部員に達観した大人のような印象を与える。まるで同じ年齢の未成年ではなく、講義でも開いているOBのような。知性的で、父性すら感じさせる広大さをまざまざと表してみせた。

「絵画もそう。芸術は高尚なものかもしれないけど、高尚でなくてはならないものではない。それが俺の持論」

 髪の色。そんな些細な会話から瀬尾に消えぬ爪痕を残した。彼、晴間鈴と向き合い始めてから今に至るまで、退屈というものを感じた記憶がない。この若者を構成するもの全て、この若者が発する言葉や考える物事の全てが興味深いものとして映った。それは多少なりとも周りの人間も感じたことのあるものであり、同じ部に属する部員は順当に彼を評価していた。

「デッサンおばけだもんね、晴間くんは」

 晴間の素描好きは有名なようだった。

「描ければいいんだ。だからあんまりそういう本物だったりに固執してないのも納得」「変にこだわりを押し付けるタイプじゃないから瀬尾くんにも合ったんじゃないかな」「僕もそう思う」

 デッサンおばけ。その、晴間にとっては名誉であろう言葉を瀬尾は反芻した。鉛筆一本に夢中になる様は確かにそう表せる。一つのやり方・ジャンルに傾倒する、それはとても素晴らしいことのように思えてならなかった。

「忠実に目の前のものを再現する、ってのが好きなのか?」

 瀬尾が訊ねる。

「そう。自分の手で正確に模写することが、癖になるような快感を伴ってるんだ。キュビスムみたいなのも好きっちゃあ好きなんだけどね」

「また知らん単語出てきた」

「物体や景色とかを輪郭だけの形として捉えたり、それをコラージュみたいに掛け合わせたりした平面的な描き方のことだよ。絵画以外にも様々な分野でも使う、その総称みたいなものさ」

 理解した風な相槌だけ打った瀬尾は、晴間の考えや脳の機構を模倣することを当面の目標に決めた。


 帰り道が最たる楽しみだった。後の授業を気にせず、時間にもある程度の余裕があり、何より余計な邪魔の入らない二人きり。その特別な条件下で生み出される空間が無二の心地良さを齎していたから。

「ラムネでも飲もうぜ」

 道中にある駄菓子屋を指した瀬尾が言った。

「なんかアオハルだろ」

 言っていることの意味が全く理解出来ない晴間ではない。一面の水色の中、距離のある積乱雲を背に暑さを従えて冷たい炭酸水を飲むのは確かに少年時代の思い出としては定番だろう。むしろありきたりすぎるくらいだ。

 けれども今は夕焼けがやや優勢で、あとほんの少し無駄話に時間を費やせば橙色のキャンバスに早変わりするのは目に見えていた。触れるそよ風が自分達を静かに急かしているようにさえ思える。間隙にしか出没しない夕景は決断を待ってはくれない。

「普通さ、青空の下とかの方が青春ぽくていいんじゃない」

「そこは一味違うのが俺ら流ってことで」

 その後の夕陽に浸って口にする無数の気泡は、弾ける度に己が記憶に深く刻まれるようだった。内気というわけではなかったが、毎日誰かに絶えず話しかけられるという経験もまた、晴間鈴には未だ嘗てないことだったのだ。知らない世界を教えてくれるという点では、晴間鈴にとっての瀬尾朝文も同じだったのかもしれなかった。





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