③2025年4月
あれから、眠りにつくまで鱗というアカウントの投稿を遡った。各年の四月二十二日に投稿があるかを確認した。結果として収穫は得られなかった。九年ほど遡ることが出来たが、その内一つもそれらしい投稿を見つけることは叶わなかったのだ。
「ベル、とかじゃあねえんだな……」
画面に映るアカウント名を人差し指でなぞる。唯一無二の友人だった晴間鈴という存在。高校時代を回顧する。倉持の言った通りだ、女友達としか外に出ていないなど不自然で不気味、もしくは軽い男に映るだろう。男友達と長らく遊んでいないなんてまともではない、そんな風に考える人だっている。それも、瀬尾にとってはなんてことないこと、“と割り切れるものではないから煩わしい”。
年齢という指標はいち早く心を許すことの出来る要素の一つだと思っている。その条件がある限り、零から友人をつくることの難度はさらに上がってしまう。
「大人になって同い年の友達が出来る確率なんて、殆ど無いよなあ」
だから同級生の名前を検索した。そんな動機を言い聞かせるように無人の空間で吐いた。瀬尾はそれを鬱陶しい虫の音のようにも思った。
過去の記憶が曖昧だ。もちろん当該の個人を忘却しているわけではない。確かに自分には晴間鈴という友人がいた。そのことははっきりと理解出来る。想像上の人物、架空の理想などではない実在の男性。顔立ち、匂い、髪の色。あの羽毛のような声や浮いた黒縁の眼鏡、彼の言葉と絵が、それに感嘆した自分が、ありありと思い出せる。
胸の奥が締め付けられるとはよく言ったもので、その友人のことを考えるといくつかの感情が混ざり合った焦燥で呼吸が浅くなった。一度は近い距離で対等に話していたという事実へ疑いを持つほどに以前の現実味が薄れている。そんな何気ない情景すら幻のように思えていたのだ。故に、考えないことが日常化していた。
瀬尾は久方ぶりに形を為した晴間と瞼の奥で相対し、翌日の自分へ全てを委ねるように思考を放棄した。意識が遠出するのも早いものだった。
四月二十三日は仕事が休みであったので、日がな例のSNSに張り付いていた。明確に情報収集という認識があったわけではなかったが、晴間の影を小さな機械の中に追いかけたからかもしれない。すぐに日は沈み、二十四日がやってきた。この日は若菜と瀬尾、そして倉持というフルメンバー。客の数は相変わらずで、倉持の無駄口はとどまることを知らなかった。
「だいたい日本人ってのは一度吐いたものを飲み込まなさすぎなんですよ。誠実は堅物で、真面目ってのは柔軟さが無いことの表れなんです」
話題は週休二日、八時間労働、低賃金の愚痴であった。こうして働き方改革の持論を宣うのは彼女の常だ。
「金欠だー、もっと飲みに行きたーい、てか仕事したくなーい」
同意を求めるのは彼女の最も女性らしい一面なのかもしれない。
「そう思いませんか、てんちょー」
「あはは」
若菜の反応を受けて瀬尾が言葉を挟む。
「ここまでの苦笑いそうそう見ないぞ普通」
その横槍は倉持を逆撫でしたようだった。その場限りの意見や記憶を保持する彼女が、ふと先日の瀬尾への課題を思い出すきっかけをつくってしまった。
「あ、そういえば瀬尾くんは友達づくりの件はどうなったのかな〜?」
「別に、目立った収穫は」
瀬尾は分かりやすく目を泳がせる。水を打ったような反応はいつものことでも、今日の倉持は逃してくれない。素っ気ない瀬尾の返答に遺憾と言わんばかりの態度を見せる倉持。
「やることやってるくせに」
「え?」
若菜が驚いていた。渋い顔の瀬尾。若菜が声を上げたのは自身の持つ瀬尾朝文像と異なっていたからか。違う。そういったことに縁があることは想像していた。しかしそれを彼が選び、自らの意思で手繰り寄せるというところには少しだけ意外性があった。
「女の子と遊んでるんですよ、彼女じゃないって言い張って」
倉持はいたずらな口ぶりで若菜へ告げた。瀬尾もばつの悪い表情をするばかりで煮え切らない様子を見せる。
「僕が朝文くんの心配をするまでもなかったのかな」
「そんな。俺はただ、知り合いに女の子が多いってだけで」
失言を重ねたようだった。そんな瀬尾を受けて倉持が述べる。
「その子達はあたしと違うんだろうなあ。瀬尾くんの彼女とかも知ってるだろうし」
「はあ? だからいねえって」
話が振り出しに戻った、そう錯覚するような彼女の言い草に瀬尾も若干の音量の増大を見せた。
「こっちには心開かないもんね」
「んなことねえよ」
「……」
言葉が返ってこない。瀬尾が確認するように横を見ると冷ややかに半開きの瞳を向ける倉持の姿があった。すかさず上塗りを試みる。
「他の女友達にもこんなもんだよ」
「なあにそれ」
瀬尾は臆さず倉持を見つめた。これ以上の押し問答は無意味だったから。その眼光は倉持を折るに至らせた。
「ホント女の子に興味ないんだね」
今度は瀬尾が口を噤んだ。それは倉持の意図的なものとは異なる、突然の動揺からくるものだった。そんな瀬尾に違和感を覚えた倉持が茶化すように半笑いで言う。何気ない無遠慮な言葉は立て続けだった。
「瀬尾くんてもしかして童貞?」
僅かに空気が濁り、澱んだ。重さを増して肌の表面に纏わりついた。不快な感触。その一瞬で妙な間が生まれることは予測出来た。だからこそ瀬尾は即座に言い放った。倉持とて軽い気持ちで発したものなのだということは分かっている。
「いや……」
「だよね。なわけないかっ」
「倉持さん」
若菜が叱るように言う。倉持に反省の色は見られない。瀬尾は吃る己に呆れて目を伏せた。
女性経験はあった。確かに性交渉の経験はあったのだ。しかしそれはただの一度きり。以降、異性の体に深く触れたことは無い。大学生時代、周囲に合わせ体裁を守るよう急いで事に及んだ。都合よく自分を好いてくれる相手もおり、交際も容易だったから。それだけのことだった。
性行為は瀬尾の心を動かすようなものではなかった。元々が好奇心旺盛というわけでもなく、興味本位で行ったものでもなかった為に執着というものが無かった。ただ曖昧なまま周りに迎合することを選んだ。それは彼の持つ恐れからくるものだった。ある種の強迫観念が女性との肉体関係を持とうと動いたのだ。
きまりの悪くなった瀬尾はスマートフォンを取り出した。時刻でも天気でもなんでもいい、何かを確認するような仕草に逃げた。表示された画面の仄かな明るさの中の、一つのアプリケーションが目を引いた。そのまま衝動的にタップし、たった一人フォローしているアカウントの動向を見た。今日の分の投稿がある。
《最近またブランド品が目につくようになったけど、安くても良いものはあるし思わぬところで好みの品と出会うことだってあるから今日も散策しようと思う》
やや抽象的な文章だったが、彼は何かを探しているようだった。
「なーんの連絡だっ」
倉持が画面を覗く。その素早い行動に瀬尾は一段遅れて手元を引いた。
「ってSNSかい」
彼女の反射神経の高さに唸りそうになりつつも瀬尾は不機嫌さを眉間に表す。
「関係ないだろ」
反発は倉持の声よりも先に若菜の注意を引き出した。
「朝文くん。仮にも仕事中だよ」
「あ、すいません」
そうして若菜の相手をした隙にまたしても瀬尾の背後を取り画面を凝視する倉持。瀬尾が気づいたのはスマートフォンに他者の指先の感触があったからだ。現代のくノ一に忍ばれたのは不覚だった。
「鱗? あ、いやリンくんか」
投稿画面から変わったプロフィールのページを見てユーザーネームを的確に発する。
「ちゃんと友達探してはいるのかな」
瀬尾を煽るようにわざとらしく言い放つ。スペースの後に続いた男という文字を見てのことだ。余計なお世話に辟易する。瀬尾から微かに漏れ出る険悪なムード。
「ほら、仕事に戻った戻った」
何かを察した若菜が催促すると、会話に夢中になっていた二人が互いの職務へと返る。不和が生じる前に別の道筋をつくったのだった。しかしそれは偶然というもので、丁度客が店に足を踏み入れるところだったのだ。若菜はそれが視界に映ったから割って入ったに過ぎない。
倉持が接客へ足を向けた。反対に瀬尾は在庫の確認に店の奥へ進んでいく。
「流石にSNS漁ってるのはキモいよな……それにばれたらマズい」
思わず独りごちた。一人暮らしの個室、個人で完結していたSNSの閲覧を、外の世界、言わば社会的な関係者に見られ共有されたことに一抹の恥ずかしさを覚えたからだ。客観的に分析する自分の行動は気味の悪さすら覚える人種だっているだろう。自省は必然である。
一人の男性客だった。倉持のヒアリングに応じる為に発された声は聞き流すにはあまりにも知ったものだった。耳馴染みがあった。時間遡行の可能性すら有した音色は瀬尾の鼓膜を通して肉体を静止させ、さらには頸椎を動かして視線を釘付けにさせた。
「晴、間……?」
店内に入ってきたのは、見覚えのある眼鏡に滑らかな茶髪の好青年だった。