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②2014年7月


 甲高い金属音が情緒的に流れている。それは電子音である。その演奏を指先一つで終わらせるのは覚醒の為に必要なことだ。敢えて遠くの勉強机の上に置かれているスマートフォンへ到着しなければ、それは成されない。

「ん……いでっ」

 体がベッドからずり落ちる。頭は逆さに、床へ頭頂部を打ちつけた衝撃で目を覚ます瀬尾。尚も緩やかに滑っていき、両足の脛から下、下腿のみがベッド上に生き残った。金属音は絶え間なく奏でられ続けていた。

「止める前に、起きちまったな……」


 シャツの袖を通し、ボタンを留めずに捲り上げる。ズボンを履き、ベルトを締めてから少しシャツを(たゆ)ませる。鼻歌交じりの身支度は毎日に彩りを与えた。姿見の前に立ち、少量のワックスを手に取り髪へ馴染ませると、薄い鞄を片手に階段を降りていく。

「おはよう」

 この声が一日最初の調べだ。リビングでは料理を済ませた母親がコーヒーを片手に朝のニュース番組を見ている。ニュースとは名ばかりのエンターテインメントが七割のものを好み、今も梅雨から真夏にかけてのコーデ特集というものがやっていた。

「はよ」

 食卓には馥郁とした香りと共に暖色系の食べ物が置かれている。瀬尾の好物の一つだ。朝からほんの少しだけ気分を上げる甘い洋風の一品。

「今日はフレンチトーストか」

 椅子の笠木を左手で引き、視線をテレビに向けたまま着席をする。母親が釘付けになっている画面の左上に繰り返し表示されている小さな天気予報。今日は久々の青々とした晴れ模様だ。昨日は恐らく最後の大雨だった。定まらないあやふやな天気も終わり、完全な梅雨明けが近づいている実感があった。

「今日も念の為折り畳みは忍ばせておきなさいね」

 心配性の母親が言う。

「もう大丈夫っしょ」

「分からないわよ。天気予報を信じてないわけじゃないけど、異常気象を甘くも見れないからね」

 そういう親の意向のせいで薄い鞄の底にはいつも折り畳み傘が入れてある。なるだけ教材は学校に置いておくようにしている瀬尾にとって鞄が重さを増すのには若干の不満があったが、玄関に持っていき忘れた傘を見ると小言が止まない母親のことを知っているので大人しく従うのみだった。

「ういーす」

 トーストを少ない力で噛みちぎる。じゅわりと口に広がるのは朝でも諄くない控えめな甘みと旨み。咀嚼の中、頭には一人の友人の姿があった。


 百七十八センチの体の背をやや丸め、しかしながら暗さなどは微塵も感じさせない表情で登校する。校門を抜けるころには生徒の数も多くなり見知った顔も増えるので、声を出す頻度が上がっていく。挨拶の度、気分は高揚した。

「瀬尾、おはよー」

「はよー」

「瀬尾くんおはよう」

「はよー」

「おはよー!」

「はよー」

「おお、瀬尾。おはよう、今日は遅刻してないな、うん」

「大丈夫ですって、先生」

 転校生にも拘らず顔の広い瀬尾は朝から口周りの筋肉の運動に事欠かない。

 瀬尾の教室への足取りは軽い。下駄箱を越え、廊下を歩き、目当ての二年一組へ迷いなく向かっていく。扉を引くと自分の席よりも先に別の席を目指す。そこに至るまでの友人には片手間の挨拶だ。

「おはよーさん、晴間っ」

 快活な瀬尾の声は俯いている相手の首を動かす。

「おはよう。瀬尾くん」

 晴間がそう言って返事をすると瀬尾は眉をハの字にして笑った。よそよそしいクラスメイトをおかしく思ったからだ。距離のある言葉遣いを容認はしない。

「くんは付けなくていいって」

「そうだった」

 自覚している言い方を指摘され、呼ぶ気などさらさらなかったくせに(にこ)やかな表情を返す晴間。

 あれから一週間が経った。軽度の熱中症に倒れた晴間を保健委員の瀬尾が運び、ほんの三十分弱、晴間の気がついてからなら十五分程度、同じ時間を共にした。あの日以来、瀬尾は晴間に興味を持った。面白い奴だと。何気ない会話に、その中に、他の友人らにはない奥行きを感じた。それが癖になったのか、その時の感情を求めて話しかけるようになっていた。

 瀬尾が何かと優先して晴間の元へ向かう為、言葉を交わす回数は格段に増えた。それは授業で教師に指名された瀬尾が問題を解いた後の休みのことだった。晴間の前の席が空き、そこへ瀬尾がやってくる。椅子に反対向きに座り、向き合う形で話しかけようとした時だ。

「あのさ」

「瀬尾はホントなんでも出来るね」

 先に晴間の方が口を開いた。

「え?」

 目を丸くした瀬尾に、晴間は次の授業の準備をしながら言った。引き出しから教材を取り出し並べている。

「運動神経に優れている奴って、大概勉強の方はからっきしだろ? でもそうじゃなくて頭、わりと良いみたいだからさ」

 馬鹿にするような他意はなく、瀬尾にもそれは伝わっていた。勉学に勤しんでいるわけではなかったが、瀬尾は比較的万能な男だった。

「いやいや、前も言ったろ? どれも中途半端の器用貧乏だって」

「それでもすごいよ」

 瀬尾は中学からずっと帰宅部だった。それでいて、持ち前の運動神経の良さからどんなスポーツでも一定以上の結果が出る水準の実力を発揮した。それは勉学でもそうだった。しかし決して一番や二番にはなれない器用貧乏。それを包み隠さず、誇張だってせずに伝えた。

「そう……かあ……?」

 準備を終え、定位置に置かれた教科書を開き、筆箱を漁ってシャープペンシルを取り出す。ノックし芯を出すと以前やっていたところまでページを捲る。瀬尾は話題を戻すべく声色を変えた。

「それでさっ。ここんとこは高田に部活が止まるギリギリまで練習に付き合ってくれって頼まれててさ、放課後グラウンドに直行してたんだけど、今日からテスト期間だろ? 一緒に帰んね?」

 瀬尾は声を跳ねさせて晴間を下校へ誘った。しかし返事は予想外のものだった。

「ああ、ごめん。俺は学校残るから」

「へ?」

 視界に映るのは予習復習に余念のない優等生の姿。それから導き出される答え。

「教室残んの? あ、違うか。図書室でおベンキョー?」

 吐息を漏らすように微笑む晴間。それは柔らかな否定だった。

「違うよ」

 この休み時間、初めて目が合った。まるで室内に風が吹き込んだような。無風の世界で、明るい茶髪が靡いたように見える錯覚があった。眼鏡越しの瞳は、瀬尾に一枚の絵画を思わせた。

「部室に行くんだ」

 虚脱にある瀬尾は反応に遅れてしまった。

「瀬尾?」

 その呼びかけに我を取り戻し、やっとの思いでしかし咄嗟に問うた。

「え? ああ。えと、部活……はやってない筈だよな」

「そうだね」

 晴間と以前話した内容を思い出す。

「そういや美術部って言ってたっけ」

「うん。だから、ごめん」

 勉強熱心だと言わんばかりの現在の光景とは裏腹な宣言に思えた。そして美術部というものがそこまでして注力するものであるのかという疑問。大会などがあるかも分からず、活動というもの自体に不透明さを感じているのが実際の認識だった。

 

 美術室へ足を向けた。放課後、終礼と殆ど同時に声を掛けたが「じゃあ、また」とだけ言われ、微笑みの残像だけを残して晴間はそそくさと教室を出てしまった。ぽつりと佇んだ瀬尾は周りの友人の誘いを一通り断ってから、ゆっくりと一階を目指すことにした。

「前んとこじゃ美術室って無かったな。テキトーに空き教室で机動かしてたっけなあ」

 転校前の学校を回想しているとすぐに目的地に着いた。廊下の窓から中の様子がちらりと見える。扉の上部に付いている表札を確認すると、取っ手へ指をかけた。瀬尾が力を入れ開ける直前に仄かな躊躇が生まれた。その視線の先にある集中を肌で感じたからだった。ごく僅かな躊躇いだったが、意を決して教室への侵入を試みた。その音に晴間が驚いたように振り向く。

「よう」

「驚いた。来たんだ、君も物好きだね」

「はっ」

 赦しを得たかのような。その聖域に足を踏み入れると自ずと背筋に力が入るようだった。瀬尾は美術室内を見回す。卒業生や在学生の歴史を一望出来る空間。様々な画用紙やキャンバスを見た。転校生であり、美術の授業もまだだった瀬尾にとってはまさしく未知の世界だった。そもそもが選択科目ではあるのだが。

「テスト期間中なのに、いいのか」

 晴間に訊ねる。期末考査に差し掛かる為、本来全校で部活動は停止となっている。しかし顧問の意向や匙加減でどうとでもなるらしく、禁止はされていないのでこうして自主的に練習へ軽く使う程度なら認可されていた。

「俺は一日に少しは描く時間を設けないと落ち着かないんだ。ルーティンみたいなやつだよ」

 悪びれずに晴間は言い放った。その間、ずっとその手は動いたままだった。

「へえ」

 瀬尾も浅い返事で応えた。一通り美術室内の景色に目を奪われた後、晴間の絵がその関心を引きつけていたのだ。正面に置いた大きなスケッチブックに、鉛筆一本で精密に写生している。描き出されているのは五十センチほど先に置かれた厳かな仏像。さほど大きさは無かったが、六本の腕が独立した阿修羅像には特有の静謐さを兼ね備えた威圧感があり、そしてそれを晴間は忠実に平面上へ再現していた。

 それに気づいた晴間が言う。

「デッサンになんか興味ないでしょ。写実的な絵を見る機会も少なそうだし」

 少し棘のある言い方も、瀬尾には通用しない。そういうものを察知する能力が欠如していて、そもそもの受容体が少なかった。

「前は、かも……しんねえけど、今はちょっぴし気になってるつうか」

 正直な気持ちだった。

「今の今で?」

「時間は関係ねえよ。一目惚れみたいなもんだ、たぶん」

 瀬尾は近くの椅子に腰を下ろす。やはり逆向きに座り、木製の椅子の笠木に交差した両腕を乗せ体重を預けた。

「へえ、そう」

 気怠く返した晴間の声を最後に、室内に沈黙の(とばり)が下りた。黙々と作業する晴間の黒鉛が紙に擦れる音が不規則的に、しかし絶え間なく耳に触れる。環境音といった雑音が無いわけではなかったが、その無機質な音色は他の音の存在感を薄れさせ、曖昧にした。世界には二人と鉛筆の走行音だけが存在していた。

「何してんの」

 思わず手を止める晴間。見入っていた瀬尾は刹那、中断されたそれを残念がるような表情を見せた。そして少し笑って安い懇願をした。

「ちょっと見学するだけ、いいだろ?」

 仏像の前で軽々しく両手を合わせる瀬尾に、晴間は溜め息で了承する。

「好きにすれば」

 それから瀬尾は単色で素描に集中する晴間を無言で見続けた。観念したからなのか、晴間の没頭には目を見張るものがあった。全体の輪郭線はすでに完成形だ。あとはただひたすらにハッチングをしていく。情報量を増やし、次元の壁を越えさせる。立体的な装いを塗り潰しで損なわぬように加減を調整する。銅や(すず)の素材感を表す。滑らか過ぎない、やや取っ掛かりのある表面。手に持った時や床に落としてしまった時の重さを想像させる。三つの顔、六本の腕、三十本の指から伝わる複雑な動きのある見てくれ。鉛筆のみでその仏像を生み出すのだ。

 やがて音の間隔が開いていく。微調整の段階に入ったらしかった。晴間の瞳と手元に距離が出来る。眼精疲労を訴えるように目を擦る。それを見てようやく、瀬尾は一声かけた。

「完成?」

「あとちょっとでね」

 それを聞くと、瀬尾は立ち上がり美術室後方の棚に近づいた。棚上には木製のしきりがあり、そこにはしきりごとに美術部員の名前が表記されている。一人一人の作品がまとめて立てかけてあるのだ。幅にして一区切り二十センチから三十センチ、現在の部員のものが置いてある。しかし晴間のところは他と比べ圧倒的に作品数が少なく、薄くこぢんまりとしていた。横から確認出来るのはスケッチブックがたったの二冊。

「これで全部?」

 まるで拍子抜けしたように言った。

「ああ」

「ほんとに?」

 どうして、そう言わんばかりの顔を向ける晴間。

「その、鉛筆のやつだけなのか」

 中にはぎっしりと描いている自負のあった晴間だったが瀬尾は眼前のスケッチブックを眺めるだけ。両脇のキャンバスの存在感が大きく、一目で美術部らしさの伝わるものだというのも大きかった。

「油絵や水彩も描くよ。けど、デッサンが好きなんだ。指示されない限り、ここでは基本鉛筆しか使わない」

 晴間の手が完全に止まる。伸びをして緊張を解く。物珍しそうな瀬尾を観察する余裕が生まれた。

「へえー」

 瀬尾はやはり周囲を見渡す。たくさんの先達の絵があり、これだけ色彩に溢れている空間で、自分の好みを軸に迷いなく言う晴間の様はどこか頼もしさすらあった。ここにあるものはどれも凡人の理解を超えた、有名画家の絵と遜色ないものに思える。単色の阿修羅像はすでに瀬尾の記憶の奥に色濃く刻んである。ならば友人の作品に好奇心を駆り立てられるのは自明の理であった。

「残りは家に置いてるんだ」

「シンプルだな」

「俺は画材とか細かく揃えるタイプじゃないんだ。それもある」

 やっと、瀬尾は二冊のうちの片割れを手に取った。無造作に紙を捲っていく、つもりだった。しかし一ページ目からその勢いは失われた。蜜柑。橙色は用いられていない、そう分かってはいてもその瑞々しさや甘さが想像に難くない。表面の凹凸、やや歪さを残した楕円。転がってはいかないだろう、それでも平面に向かって手を伸ばしたくなる、そんなような。

 次を捲ると林檎や檸檬、甘蕉や柘榴といった果物が続いた。夏季、思わず生唾を飲み込む清涼感。お次は扇形に切られた西瓜。先端の鋭角が美しい、果肉の水分による光沢が美しい。続いては花瓶だ。一輪挿しから数種類の花を生けたものまで。花というだけで、瀬尾にはそれとない情緒や風情が感じられた。少し安直すぎる思いかもしれない。それから日常の何気ない筆記用具がいくつか。消しゴムや定規。そして学校の風景が並んだ。様々な時間帯の校舎、色んな角度の教室、遠近の異なる花壇や水道の蛇口、躍動感溢れる部活動生。完成度はどれも一様に高いものの、倍以上の時間が掛かっているであろう人物や景色の切り取りには息を呑んだ。

「すげ」

 雑感が湧き出た。堰き止められない言葉のようだった。

 あの日、保健室で晴間鈴という同級生の知に触れた。そして今、ここで彼の美に触れた。聴覚的・視覚的に感銘を受け、紡がれる感性を羨ましく思った。晴間は少しだけ気恥ずかしそうな顔でいた。少なくとも瀬尾にはそう見えた。

「素人意見だけどさ、すげえ良いと思うぜ、お前の絵。こういうのって普通のやつには描けねえよ。生まれ持ったモンがねえと」

 出来る限りの賞賛をした。手放しで褒めるに値した。

「ありがとう。素直に喜んでおくよ」

 鉛筆を置く晴間。傍の眼鏡ケースから付属の不織布を取り出し、一息ついて眼鏡を拭く。

「そういや名前も(りん)だっけか。綺麗だよな。親譲りなのかもなあ、そういうセンスって」

 瀬尾としてはさしたる意図もなく言ったつもりだった。すると晴間がらしくない反応を見せた。

「俺は漢字に少しだけ不満があるけどね」

「漢字ィ?」

 怒っているわけではない。しかし何か好ましくない話題に踏み入ってしまったようだ。それを本能的に感じた。瀬尾は自分のことよりも他人のことによく気がついた。

「普通は凛とするとかの凛だろ、倫理の倫でもいい。(すず)っていうのは、なんか女の子っぽくてあんまり好きじゃないんだ」

 端麗な晴間の考えは目から鱗だった。名前についての由来、そんなものを幼稚園だか小学校低学年だかに保護者へ聞けといったような記憶は微かに存在したが、名に対し自分の思いを馳せたことはなかった。当たり前のものだと頭を働かせずに享受していた。不満を持ち、持論を介入させる発想がなかった。せいぜいが耳へ届く音の具合程度のもの。独自の感性を挟みこむ強さに驚いた。

「今日はこのくらいにしておこうかな」

 時間にして三十分から一時間。途中から描いていた様子だったので晴間があの絵にどのくらいの時間を掛けていたかは分からない。それでも今日、あの阿修羅像が殆ど完成したということだけは分かった。

「じゃ、帰れるな」

 瀬尾は忍耐強い人間の台詞を吐いた。


 歩道を歩く。横に並んでも邪魔になる程の交通量はない。時折走る車の音が晴間の声を覆う。負けじと声を張るのは車が過ぎ去った後だ。その当然の帰結を瀬尾は何も言わずに、会話をただの会話として続けていた。

「いやー、晴間と仲良くなって良かった。マジ倒れてくれて感謝。太陽に感謝」

「何それひど。ブラックジョークも程々にね」

 夕焼け越しの晴間の横顔を見て、瀬尾は自らの口が(ほど)けていくのを感じた。

「俺、頭良いやつの話聞くの好きなんだなーって思ったよ」

 保健室の話と美術室の絵。どちらも共通したのは普段嗅ぐことのない場所の匂いが印象的で、それが記憶に強く紐づいているということ。

「俺成績トップテンにも入んないけど」

「マジ? 意外だな。じゃあ、あれだ。地頭が良いってやつ」

「それ褒めるとこがない人に対するやつじゃない? 人によっては嫌味に聞こえるかも」

「え、悪ィ」

「全然っ。はは、俺は大丈夫だけどさ」

 晴間にはギザギザしたものが無い。見当たらない。瀬尾はそんな風に思っていた。日常的に何か攻撃的なものに触れるわけではない。しかし関わる男の友人や気の強い女子、周りの大人達が持つ(かど)のようなものを晴間からは微塵も感じないのだ。柔らかで衛生的、安全性の高い円みがある。それでいて、か弱さとは異なる強い己を持っている。

「お前の絵、もっと見せてくれよ」

「え?」

 あのスケッチブックだけでは物足りなくなってしまった。晴間の口から言ったのだ、油絵や水彩だって描くと。ならその嗜んでいる作品を目にしたい。

「いいじゃん減るもんかよ」

「家にあるのをわざわざ持ってこいって?」

 晴間が笑う。

「例えばさ」

 そして瀬尾にはもう一つ、考えがあった。むしろそちらの方が主題だった。

「俺、描いたりも出来んの」

 瀬尾の何気ない言葉、晴間はそれを彼自身が可能かどうかの質問だと誤解した。

「出来るんじゃない。やってみれば」

 だが瀬尾はその誤りをすぐに訂正する。

「じゃなくて。俺を、ってこと」

 前を向いたままに言った。少しだけ歩幅が広がり、晴間より先んじる瀬尾。晴間はその向けられた後頭部を直視した。そして言葉の意を咀嚼する。彼にとっても目新しさを孕む要望で、少しだけその想像の翼を羽ばたかせる。

「肖像画かあ。似顔絵はあんまり経験ないかもしれない。意図的に顔を避けて、体とかポーズとしてを描いたりは多いんだけどね」

 瀬尾はまだそのまま歩いていた。晴間が続ける。

「いいよ。描こうか。今描いてる途中のやつをいくつか完成させてからにはなるけどっ」

 目を見開いた。数歩、駆ける晴間が追いついて瀬尾の肩に触れる。手が当たり、僅かに体を揺らした瀬尾だったが晴間には気づかれていない。追い越し、振り返る晴間はまたしても笑っていた。

「こんなにいっぱい、素直に褒められることってないからさ。嬉しくて」

「マジっ? じ、じゃあ……頼むわ」

 二人は帰路を共にした。頭上に広がるのは、夏らしい、けれど少しだけ藍色の空だった。





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