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①2025年4月


 俺とお前は友達じゃいけなかった。友達でいていい筈がなかった。

 でもあの一夏が俺を苦しめた。言い訳の一つでもさせてくれ。全部、あの夏のせいなんだ。



「らっしゃいませー」

 底が厚く重量感のあるスニーカーを左手に持ちながら、右手のステインリムーバーを押し付ける。小指の第一関節、そのさらに半分ほどのクリームを出し、傍に置いていた専用のクロスで爪先部分から拭き広げていく。乱雑な模様を形づくっていた汚れがはじめは拡散されたように見え、徐々に薄まりその姿を無くしていく様は少しだけ気持ちが良い。その単純な作業をひたすらに繰り返していく。この日は客が少ない日だった。

 四月二十二日。新年度で忙しない世間に対し、変わらぬ寂れた誕生日を送っている現状がなんだかおかしかった。二十八を迎えた瀬尾朝文は己の人生の顧みることを恐れ、あまり過分に頭を働かせることは避けた。

 個人経営でやっている細々とした靴屋。(ひら)けたつくりの路面店は春の陽気を静かに店内へ侵入させる。今は一人で店番をしている最中だ。三月から四月の中旬にかけてはかなりの繁忙期だった。年末年始に行うセールでもそれなりの数を捌くものの、新生活の買い替えや買い揃えには敵わない。その代わり確実に客足がつくのでそれほど大きな安売りはしない。いずれにしろ売り上げは上々だと店主の機嫌は良くなるので瀬尾の気が楽な期間でもある。就職に失敗し、未だにフリーターを続けている瀬尾が心を無にして働けているのは現在の環境に甘えているからだった。

 一人の女性客が持ってきた靴を見て口を開く。

「試着しますか」

 首を振る客を見てすぐさま外箱のバーコードを読み取る。最初からその手間をかける気などなかったかのように。

 女性は先程まで物色していたが、思いの(ほか)早い決断をしたようだった。選んだデザインの下に積んである在庫の中から合うものを引っ張ってきたのだ。迷いのないその眼差しは自分の足の形やサイズを熟知している証拠なのだろう。「そのままで」と素手で抱えて帰る旨の発言を聞いた瀬尾は、左に構える画面の数字を確認した。

「五千二百八十円です」

 態度は特段悪くないものの、気怠げにレジを打ちレシートを渡す。

「りがとうございましたー」

 女性は顔色一つ変えることなく瀬尾と店に背を向けた。購入した白と青のスニーカーを履くのはいつになるだろうか。瀬尾は彼女のそのあまりにも風体に合致しているパンプスが規則的に遠のいていく光景を見てそんなことを考えた。


 草臥れた大人になっていた。

 毎日同じ繰り返しだなんて常套句を垂れるわけではなくとも、常に気が滅入って辟易としているのは事実であった。周囲は親切にしてくれるが適度に見下されている、そんな悲観がなんとはなしに性根に染み付いているかのよう。二十八年間を経た。実績も経験もなく、ここまでその場凌ぎでやってきた。せめてもの繋ぎとしてアルバイトを渡り歩いてきた。なあなあの人生。それもこれも瀬尾には瀬尾なりの理由があった。

 しこりがあった。本人の内奥からはもう色も形も朧げな蜃気楼になりつつある過去。それも質量だけが腹部や脚部に重く纏わりついているもの。

「朝文くん、戻ったよ」

 そう言って乾いたプラスチックの音を立てながら店に入ってきた長身の男性。薄い茶色のシャツを着た、柔和な表情にさらりとした黒髪が特徴の好漢。

「店長」

 瀬尾はその右手に提げられた袋を見た。ここ「若菜シューズ」の店主である若菜は一時間ほど前に保育園へ向かっていた。今はその帰りである。娘がぐずついて仕方がないと園から連絡があったのだ。父親に会いたいと泣き叫ぶので姿を見せにいかないといけない。それで店番を瀬尾に任せて飛び出したのだった。

「娘さん大丈夫でしたか」

「それがねえ、今日は体調も少し優れないのではって伝えられたものだから、家へそのまま連れて帰ったんだ」

 若菜の目には若干の疲労が見えた。

「え、家にいなくて大丈夫なんですか」

「ん? ああ心配ないよ、薫が見てくれてる」

 それとない相槌の瀬尾。若菜はシングルファザーとして靴屋と子育てを両立させており、中々に心労の伴う日々を送っていた。しかし最近は住まいであるアパートに転居してきた山部薫という女性と親しくなり、家族ぐるみで付き合う仲にまでなった。時々こうして娘の面倒を見てくれたりもしている。話こそ出はしないが、いずれ再婚もありえるのだろうと勝手に思っていた。しかし瀬尾は若菜の離婚の理由すら知らなかった。

「ああ、良かった。なら安心すね」

「店を空けるわけにはいかないからね」

「そんな。でも急だったのに凄いすね。言ってくれれば俺が手伝いましたよ」

 本心で言った。誰か他人の手を煩わせるより、自分が進んでそういう雑務をこなすことがベストに思えたからだ。卑下している自覚はなかったが、瀬尾は年々そんな選択をすることが多くなっていた。すると若菜がかぶりを振る。

「駄目だよ。朝文くんは五時上がりだろ?」

 シフトの話を持ち出したようだった。若菜はこういう話の流れになると親のような物言いになる。瀬尾は変わらず続けた。

「残業だと思えば。あ、延長分のお金は要らないすけど」

 しかし若菜は了承しない。

「駄目だ。八時から働いてくれてるんだ、それにプライベートの時間もしっかり取らないと」

 若菜の気遣いに瀬尾は目を細めた。労をねぎらう言葉に、私生活を案じる言葉。自らにその優しさを受けるだけの価値があるのかは甚だ疑問なのだ。

「別にやることもなんも無いすけどね」

 随分な発言だった。若菜は顎先に手を当て、無言で瀬尾を見つめる。物思いに耽る、には違いないのだが、それはまるで挙動がおかしく目的地を持たない小動物を観察するような瞳であった。

「なんですか」

 当然瀬尾は若菜の柔らかな棘に対して困惑を見せる。

「朝文くんって普段何してるんだっけ」

 若菜は丸い目のままそう訊ねてきた。ひどく答えづらい質問だった。瀬尾自身それをずっと探してきているようなものだったからだ。自分が何をしたいかが分からず、自分と他者に流れている時間というものが同じだと信じることが出来ない。何か作業に没頭したり、会話に集中したりすると幾分か気は紛れるのだが、それでも一人になると、一人を自覚すると、やはり体感時間の差異を感じずにはいられない。理解はしていても納得が出来ないという恐ろしさがそこにはあった。

「あー、そういう話の流れになってもおかしくないですね」

 瀬尾の翳った様子にすかさず言葉を重ねる若菜。平静に努めた。慌てようものなら余計に瀬尾を咎めてしまう危険性があったから。

「嫌なら答えなくていいんだけどね、今の反応ちょっと気になっちゃってさ」

 両者共に悪気がないことは重々承知している。

「別に……ホントにこれといったことは」

「趣味は?」

「いやあ」

 気の抜けるような声ではぐらかす。事実、趣味といえるようなものがあるわけではなかったが、仮にあったとして詳細を明朗に話し出したりはしない。それに瀬尾には心から楽しめるものに巡り合う期待自体がまるでなかった。

「じゃあ……っと……」

 若菜が聞きたそうにしていることはすぐに分かった。時代的な躊躇が顔に表れている。瀬尾は遠慮されているほんの少しの時間を悪く思い、口を開いた。

「彼女もいませんよ」

「あ」

 それを聞いて苦い表情を払拭した若菜は、またしても顎先に手を当てた。沈黙は刹那的だった。

「男前だと思うんだけど」

「そうすかね」

 過度に否定はしなかった。その気力がないのも理由で、学生時代によく言われたことがあったのも理由だった。瀬尾は傲慢とは縁遠く、その記憶に反射的な隷属をしたに過ぎない。そんな消極的に映る姿勢の瀬尾へ若菜は一つの提案を挙げる。お節介という他ないものだった。

「倉持さんとかどうなんだい」

 にこやかに訊ねる若菜。

「あいつはそんなんじゃありませんよ」

 この店は木曜を定休日としている。無論店主である若菜は毎日居るが、アルバイトである瀬尾は週五の勤務。そしてもう一人、瀬尾と近い年齢の女性がいた。週に三度の働き手である倉持という女性だ。彼女は週二で居酒屋のアルバイトを掛け持ちしている。

「可愛らしい良い子だし、何より同年代だ」

「はは」

 随分な愛想笑いだった。瀬尾もその歪さに自分で驚く。

「仲も悪くない」

「そう、ですね」

 それ以上の返答は望めなかった。瀬尾にする気はなく、若菜もそれを察した。しかし眼前の放って置けない若者への言葉はそう易々と尽きない。

「お友達と遊んだりは?」

「もう二十八ですし」

 胸の張れない年齢の重ね方をしている瀬尾にとって、自身の抱える数字の持つ意味は小さくなかった。呪縛のように年々その存在が己を圧迫しているのだ。

「君はいつも年齢を理由にしたりするけど、まだ二十代の遊び盛りだろう?」

 価値観の違いをあっけらかんと話されると、何と返すことが最適なのか難儀する。

 自分が、一般的な人生を送っている、または送ることへの努力を惜しまなかった人間と比べ劣っているのは当たり前のことなのだと言い聞かせた。四六時中そんなことを考えている。自分は幸せになる機を逃したのだと。全力を出すべき時に出せず、失敗し、今に至る。尚且つ三十が目前に迫っている。自立した大人像とは似ても似つかない。元々二十半ばまでが遊び呆ける年齢だと推定していたが、今の自分が遊び呆けることほど愚かでおかしなことはなかった。

 瀬尾の熟考と同じくして、またしても若菜は何か違和感のようなものを感じ、眉を顰めていた。

「ん?」

「はい?」

「あれ、もしかして今日朝文くんの誕生日じゃないかい」

 ぎくり。長くなりそうな予感に、思わず瀬尾は話題の転換を試みる。

「それ、なんです」

 瀬尾は若菜がずっと握っていたレジ袋を指差した。用事の名残を持たせ続けるのに気を遣ったことにもなる。若菜も誘導に素直に従った。

「そうだ、ついでに差し入れ買ったんだった」

 その中から二本のペットボトルが出てきた。

「誕生日プレゼントはまた別で用意するとして。コーヒーとカフェラテ、どっちがいい?」


 仕事を終え、帰路に就いていた。相も変わらず複数人で歩く人々が目についた。こんな僻みを助長するような悪癖は止めたいのだが、本能的にやってしまっているのか自制が効かないので仕方がない。どうしようもないのだ。家族や友人・恋人と談笑する通行人を無視できない。爪を噛むような思いで瞳が動く。

 特段意識を割かれるのはカップル達だった。恋愛感情を隠すことなく、日の下で身体接触が許される。第一に、互いに愛し合うことの羨望といったら比肩するものがなかった。経験のないことへの憧れが日毎に強くなるのを抑えられない。瀬尾は恋愛に億劫になるそれなりの理由を持っていた。

 ふと時間が気になった。午後五時を過ぎて、今日はなんだかまだ日が高い。こういう時は少し遠回りをして帰るのも気分転換になるような気がした。それで何かが得られるわけではなかったが、時間を無為に消費する場所が自宅から外に変わるだけでも有意義に思えたからだった。

 家から若菜シューズへは徒歩で二十分を要する。着替えのない職場だが、瀬尾のゆっくりとした性格上、店を出るまでにいつも五分が掛かる。時間を確認する為にポケットからスマートフォンを取り出す。表示された時刻は十七時十五分。あと十分で自宅へ着く。寄り道をして倍近くの時間を掛けて帰ろう、そう決めた。なんとなく手が勝手に動いて画面のロックを解除する。特に確認することもない筈なのに。しかしそこには新着のメッセージがあった。通知機能をオフにしている為、受信時に音や振動で伝わることはない。

「今日仕事終わったら飲み行こー」

 倉持という同僚からの誘いだった。


 成り行きで何か自分にプラスの変化が起こるなんて淡い期待を持つのは二十五で止めた。なんとなく、それ以上の理由はない。余程自分のやりたくないこと、無意味だと思うこと以外は波風を立てぬように首を縦に振る習慣をつけている。流されるがままに要求を呑む。倉持は決まった普段の職場との区別をより明確にする為、二度同じ場所で飲み食いすることを避けた。指定されるのはいつだって初めて訪れる店であった。

 音を立ててジョッキをおく豪快さは、彼女が心を許している証なのだとポジティブに捉えるようにしている。瀬尾は酒すらも真っ当な人間の嗜むものだという認識を持っているので烏龍茶を徐に減らしていた。

「生き返るね〜」

「疲れが取れるなら何よりだな」

 こうして誰かが自分の眼前で心を許した笑顔を晒してくれることは、瀬尾にとって数少ない良薬であった。

「瀬尾くんも飲みなよ。あたしだけだと悪いし」

 倉持は一人だけ愉悦に浸っているのをあまり好まなかった。飲みの度に瀬尾に勧めるが、瀬尾が乗り気で飲んだ試しはない。

「どうしても飲んでほしいなら」

 そう言って店員を呼ぼうと動く瀬尾の右手を上から覆って軽く叩きつける。

「いつになったら自発的に飲む姿が見れるんだか」

 倉持が力を抜いて手を離すと瀬尾も戻した。瀬尾は彼女に誕生日を教えたことはない。この日もなんてことはない、ただのストレス発散に付き合わされているだけの筈だった。

 ぶすっとした顔でため息を吐く倉持。

「友人でも彼女でもいいからさ、いい加減あたし以外の飲み友見つけなよ」

「別にいいって。疲れるし」

「ずっと今のままってわけにもいかないでしょ」

 彼女は世話焼きの眼を薄く開いて言った。こういうところは若菜に似ているとときどき思う。瀬尾は黙ってきびなごの唐揚げを口に放る。大抵何を言っても無駄だからだ。

「作らないの?」

 倉持がいんげんの胡麻和えを咀嚼しながら問う。

「作れないんだよ」

 遠慮がちに紡がれるその言葉は、どこか中身を伴っていないように聞こえる。倉持はそういう本人の意図していない隙のようなものに引っ掛かりを覚えていた。だからこそ詰めるのだった。

「そんなことないっしょ。作ろうと思ってる?」

「……思ってないかもな」

 沈黙を打ち消さんと瀬尾は続けざまに心配を掛けたくないという体裁をとった。構ってほしくはなかった。

「友達はいる。あんま遊んだりはしねえけど」

 思い描けるだけの友人の姿を頭に浮かべた。実際、すぐに誘えるだけでも数人の当てはあった。誘っているかは別として。最後に学生時代の知り合いと言葉を交わしたのはいつだったか、思い出せない。

「恋人は?」

 居酒屋の喧騒がやや静まったような気がした。

「いねえよ」

 瀬尾は乾いた笑いでそっぽを向いた。アルコールを入れていないとこういう時にボロを出さずに済む。そう安心した時だった。

「嘘」

 倉持は体を前のめりに、鋭い目つきを隠そうともしない。その気迫は酔いの恩恵に因るものではないことを瀬尾は知っている。

「は?」

「あたしね、前に見たことがあったの、瀬尾くんが女の人と歩いてるところ。見間違いだと思った。そういう話ちっとも聞いたことなかったから」

 勢いづいて話し始めた彼女を止めることは難しい。

「それは」

「でもこの間、また見たよ。二回目だから確信に変わった。付き合ってる子がいるんなら隠さないで教えてくれればいいのに」

 まるで難題に切り込む敏腕刑事、解決への説明を終える名探偵。そんな顔で音に区切りをつけた倉持に、瀬尾はより早くため息を被せた。

「はあ、友達だよ。女友達」

 (うだつ)の上がらない答えに倉持は分かりやすく拗ねて見せる。

「ふーん、そうなんだ」

 信じてもらえるわけもなかった。その彼女らが予てからの知り合いや大学で知り合った友人などであることは事実であったが、年齢が、瀬尾という男のそれなりの容姿が、異性に対するプラトニックに疑いを持たせていた。

 倉持は付き合いの二年にもなる瀬尾が未だ心の内を固く閉ざしたままでいることが不服だった。彼女なりに時間をかけて氷を溶かしてきたつもりだ。それでもまだ解凍には至らない様子に歯噛みしている。

「じゃあ男友達がいないってこと? そっちの方が大変じゃん」

 話に上がらない存在の言及。

「いないってわけじゃ」

 口ごもる瀬尾を見ると、倉持は目線を下にし、ほっけの開きに手をつけた。箸を器用に操りながら伏した目で訊ねる。

「頻繁に会ってる?」

「話したりはしてるよ」

「ケータイで?」

 そこでばつの悪い顔になる瀬尾を見逃さなかった。程よい塩味が舌に触れ咀嚼するごとに滲み出る素材の甘みに口元を綻ばせる。すかさずビールを流し込むと倉持は言った。

「なんか気軽に遊べる友達作った方がいいって。そしたら趣味とかも一緒に見つけられたりもするし」

 瀬尾にはその言葉がどうしても身近に感じられない。自分に必要なものだという認識が薄く、危機感のようなものもないが為にどこか他人事なのだ。現状に満足しているとは思わなくとも、これ以上どす黒い感傷に揉まれることを恐れていた。安全地帯で火の海を眺める。忌避するものを自分は熟知している、そう盲信しているとも言えた。しかし倉持が長きに渡って自分に干渉してくれている優しさも知っていた。彼女の前で心底笑顔でいたことはあったか。もし無いのなら彼女の飯を不味くさせてしまっていたかもしれない、何故だかそんなことを考えた。

「ネットで簡単に見つけられる時代だよ? マッチングアプリ入れろって言ってんじゃないんだから、探してみなよ。SNSとかでさ」

 いい年して男友達を探す。まるで笑い話だった。それでも倉持の真剣さは本物であり、それを茶化すほど腐ってもいない。この要求に対し、瀬尾は真摯に応じるべきと思われた。

「SNS、ねえ……」

 確かに、現代では足を一歩も動かすことなく他者と繋がることが出来る。毎日長時間働いてお金を稼ぐ中で、さらにその隙間を使ってまで出会いの場に足を向ける気力もない瀬尾にとって、唯一可能な試み。魅力的とはいかなくとも倉持の果敢な提案を無碍にするのも忍びないものがあった。


 音や匂いといった情報の密集した場所から抜け出すと、その視界の転換も相まって意識が冷やされる。体温の冷却よりも顕著なそれはかえって倉持の空元気を引き出す。

「じゃ、まあ頑張りたまえよ、瀬尾くん」

 瀬尾の右肩を強めに叩く。

「まあお試しに触るくらいならな」

 そういって瀬尾と倉持は別れた。瀬尾は一度背を向けたら振り返らない。手を振り続ける倉持を視認するのは初めの数秒程度である。

 夜闇(やあん)にぽつりと水滴が落ちる。

「なんか必死に弁明するでもなかったな」

 瀬尾の毅然とした受け答えにも慣れたつもりでいた。気に食わないあの我関せずといった態度も方便のようなもので、普段何事にも動じないように見えるのは彼の虚勢だと考えていた。しかし女の影を見て、僅かに揺らぎが生じた。問い詰めて行動を促すのは自分の強がりであるのかも、そんな気さえした始末だった。

「むかつく」

 倉持は瀬尾が学生のように苗字の呼び捨てでいることにすら不満を感じていた。


 仰向けでスマートフォンの画面と向き合う。帰宅してベッドへ倒れるように横になった瀬尾は、倉持の推奨した友人の作り方を頭に浮かべていた。関心のないことはすぐに忘れてしまいそうなものと自分でも思っている。けれども脳内が基本的には空っぽで、キャパシティを超えるような私生活の思案が無い為に新しい情報ならばつい考えてしまう。使うところのない、余っている部分が多すぎるが故に、考えざるを得ないのだ。

「実際に会わなくても、ネット上で作りさえすればあいつも納得してくれるかな」

 ほんの軽い気持ちだった。

 一番有名で長寿のSNSを検索し、インストールした。以前使っていたことがあったが、きらきら輝くような生活とは無縁の瀬尾は、現在SNSのアカウントを一つも持っていなかった。各項目に個人情報を入力していく。ここで架空の自分を作り上げる人間だっている。好きな名称で、好きな写真や画像を仮面にする。懐かしい感覚だった。

 今回は当然身分を偽る必要のない為、本名で登録する。瀬尾朝文。二十八歳。一九九七年生まれ。フリーター。プロフィール欄にはこうだ、“友達になれる人を探しています”。

「よし、っと。こんなもんだろ」

 アカウントの作成が完了すると、いよいよサービスを使用可能な状態になる。タイムライン上には夥しい数の言葉や写真・画像。上下どこまでスクロールをしても無限に情報が湧き出てくる。この、底の見えない人の群れに飛び込んだような感覚も久しい。

 不特定多数の老若男女が自身の生活を赤裸々に、或いは煌びやかな虚飾を纏って投稿している。忌憚なき意見、自虐、自慢。賛美の嵐、批判の罵詈雑言、終わることなき論争、集客やアンケートといった広告。真偽は分からなくとも皆が他者と関わる為にそのツールを最大限用いている。最新の投稿を読み込めば一秒単位で数十からそれ以上の数が瞬時に流れてくる。

「なんて調べりゃいいんだ」

 瀬尾はとにかく思いつく単語を検索してみた。友達。もちろん雑多な投稿が雨霰の如く表示された。これでは抽象的すぎる。次に友達募集。あまり変わらない。そして男友達。これもウケを狙ったような日常の投稿が乱立するだけ。投稿のみを見ていれば延々とそういった内容しか確認出来ないだろう。瀬尾はユーザー一覧を覗く。名前、もしくはアカウント名に関連するワードが入っていると検索に引っ掛かるのだ。しかし見たところ女性らしきものが大量で、怪しいアカウントが散見される。他にも非合法なアルバイト勧誘のようなものもあった。

「そりゃこんなんばっかだよな……ネットゲームとかで自然と仲良くならまだしも、今の時代、わざわざ顔の見えない場所で友達を作るのはリスキーだし」

 ネットリテラシーが求められる中で、能動的に同性の友人を探すことは困難を極める。簡単に想像出来たことだった。

「かといって出会い系ってわけにも……」

 瀬尾は無心でタイムラインを何度も読み込んだ。上下させ、真新しい投稿を眺め続けた。歓喜に震えたり、ショックで悲哀を滲ませるもの。情勢や政治、食品の価格高騰やゲームの攻略についてといった様々な注意喚起もあった。肉体はベッドに沈んでいるのに、大勢の生活や考えを言葉や文字として一度に摂取出来る。なんと素晴らしく、恐ろしいものだろう、そう思った。自分も使っていた時期がある為に、一歩離れた場所で見る別の姿にある種感心した。

 単語でなく連なり、言葉や文章として検索してはどうか。

「……」

 “男友達がほしい”。数十件の投稿がヒットした。女性や女性かどうか疑わしいものの二種類とは別に、人との繋がりに飢えているようなものがあった。“同性の友達”、“男同士スペース友達”、“男友達スペース好き”。

 少しだけ気分が悪くなった。横を向き、自身とスマートフォンを寝かせる。腕の分の設置面が増えたり、後頭部でなく顔に近い部分の触れる面積が変わると、より重力の影響を受けるように感じる。下へ下へ、地球の中心に向かってどこまでも沈み、文字通り堕落していくような気がした。

 時間が溶解する程の無数の投稿を見ていると何がなんだかよく分からなくなってきた。勝手に手先が動く。自意識とは乖離された行動だった。アール、アイ、エヌ。三つのアルファベットを並べた。ヒットしたユーザー名をひたすらに見ていく。百を超えるアカウントを下から上に無機質に確認していった。頭に特別な考えは無い筈だった。瀬尾の指が止まったのは、未来の男友達を探すという本来の目的を忘れたその予期せぬ検索ワードのせいだった。

 (うろこ)というアカウントが目に入った。その水色のプロフィール画像に吸い寄せられるように名前の部分をタップする。アカウントの詳細が表示される。大きな鼠色の背景。説明を加えることの出来るプロフィール欄には端的に“リン”、そしてスペースを空け“男”と書かれているだけだ。

(りん)……」

 アカウントの投稿を遡る。最新の日付は昨日のものだった。

《明日は知り合いの誕生日。何を渡そうかな》

 時が止まった。瀬尾の中の時間が凍結した。当該投稿の内容と自分の生まれた日が重なるなど珍しいの一言で済まされるべきことなのだろうか。男友達を探し、リンという名前を入力して辿り着いたもの。そこになんの因果も感じないという方がおかしい。鼓動が間隔を狭めていく。

 現時刻は二十三時前だ。残り一時間強。淡い期待のようなものを抱いて時間の経過を待った。何か連絡が来るかもしれない。スマートフォンのメッセージアプリは生きている。手段が無いわけではない。“彼の連絡先が変わった様子もないのは分かっていることだ”。

 それから待てど暮らせど、その日、四月二十二日に投稿は無かった。己の中で何かが想起される度に少しだけ頭が痛くなった。何年も前のことを思い出そうとすると気分が悪くなる。記憶に蓋をしていた。彼から連絡がないのは、彼と絶縁状態に陥ったのは、避けられなかったことなのか。必然を言い訳に目を背けていたのか。

 瀬尾朝文は、己の功罪と向き合う必要があるのやもしれなかった。






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