⑨2025年5月
それは淡雪のような不確かさで二人を取り巻いていた。
取捨選択が必要なのだ。あるいは捨てるわけでなくともそんな覚悟を持ち、何もかもかなぐり捨ててでも優先すべきものを決める。瀬尾は晴間を求めた。他の誰よりも、他の全てよりも。
電話には出なかった。もう東京へ戻ったのかもしれない。しかしここで行き詰まるわけにはいかない。瀬尾は調べた。あのSNSのハルマというアカウントだけでなく、あらゆるネットワークを駆使して晴間鈴という個人を探した。舞台美術に携わりイラストの仕事もしている人間だ、昔と違いすぐに情報は見つかる。簡単だった。
現在そこそこ名の知れ、最低限食べていけるだけの収入もある晴間は小さなアトリエを所有していた。場所は都下、西東京市の外れにあった。
電車を何本も乗り継ぐ。いつぶりかも思い出せないくらいの遠出。空いた車両に乗ろうとも座席に腰を下ろすことはしなかった。乗降口の脇に立ち、背を預けて外の変わりゆく景色を見た。車内の揺れに従いながら、街並みや青空を無気力に眺めていた。道中それなりに栄えていた場所も見受けられたが、それも次第に落ち着きを見せていった。やはり建物の低い、晴間の好きそうな土地だと思った。
スマートフォンの地図を片手に田無の駅を降りた。時折画面を確認しながら中心街を離れていく。大きな看板の群れや人の喧騒、扉の開閉音、それに伴い漏れる冷房、音楽。そのどれもが小さく、薄れていった。やがて歩いていると現れたのはトタン屋根が特徴的な掘っ立て小屋。都会の中に安心を提供するような木製の建造物に目を引かれた。目的地はここだ。
店、ではない。突然の来客を受け入れるだろうか。ましてや相手は自分だ。今考えても仕方のないことだというのは分かっているが、他人が連絡も無しに踏み入っていい場所とも思っていなかった。だから決意してこの場に立っている状況で尚、尻込みした。中から全く物音がしないことも瀬尾を躊躇わせた。
このまま何もせず立っていれば時間だけが過ぎるだろう。今現在、仲を取り持ってくれる人は現れないし背中を押してくれる人だって現れない。当然、中の晴間が出てきてこちらに声を掛けることもない。再三理解した筈だ、誰も助けてはくれないし、待っているだけで好転するものなんてないと。決めたのなら、自分でどうにかするしかない。運命を切り開くのに必要なのは己の二本足だ。
二回、ノックをした。
「はいはいっ」
中から声がした。足音が近づいてくる。刹那、下を向く瀬尾。しかし扉が開く直前に瞳を前へ向けた。そうして晴間と目が合った。晴間は目を丸くしてから少し狭めると、無機質に言った。
「瀬尾」
アトリエの中は外より少しだけ涼しかった。きっとこの温暖化の波による来月以降の夏本番にも避暑地として機能する。扇風機一つの設備すらない空間で、瀬尾はそう感じた。
「お前の話は的中してたよ」
向かい合って座る晴間へ告白する。周りには先日見た様々なイラストに加え、あの頃のように夥しい数の素描があった。
「俺が昔、晴間が転校してから衝動的に作ったアカウントだった。お前を真似て、お前になりきって、膨大な量の投稿を予約した。あんな一件があっておかしくなってたとはいえ、ホント気持ち悪ィ話だよな」
仮初めの友人。それを創造することが唯一の方法だった。それはそれは荒唐無稽な顛末だろう。
「うん、そうだね」
晴間の眼鏡の奥が上手く見えない。
「でもよ、それくらいお前への気持ちは本物だったってことだ。それだけは信じてほしい。で、だからこそ改めてきちんと言っておかなくちゃならねえことを言わせてくれ」
舌を噛みそうになる。下り坂を全力で走り、足がもつれそうになる感覚に似ていた。晴間は何も言わない。
「ごめん。あの時の俺はどうかしてた。お前に対して失礼なこと、ひどいことをしたと思ってる。それを心から謝りたい」
長らく胸に溜めていた思いを伝える。突如姿を眩ませ拒絶を暗に示した友人の正常な行動に、自身の犯した大罪を認識した。それからずっと、物事を楽しむことなく悔恨に包まれて生きてきた。精神に異常をきたした自分を正当化はしない、それはどんなことよりも醜い擁護だ。
「俺の“好き”が暴走した結果だった。お前からいっぱい貰ったのに、何一つ返せなかった。知ったような口を聞いたり、お前の沈みにつけ込んだり。自分の欲に抗えなくて最低なことをした。本当に、ごめん」
瀬尾は頭を下げた。挨拶の会釈でも、仕事の軽い失敗でも、クレームへの平謝りでもない。こうして人に向かって体を倒して謝るのは初めてのことだった。しかしそこに苦しみは無い。自分の抱えていた罪悪感を根こそぎ浄化するような清々しささえあった。ずっと願っていた行為。やっと、晴間鈴に謝ることが出来た。
数秒間瀬尾はその姿勢で目を閉じ続けた。自然とそうしていた。するとある呟きが聞こえた。
「……そこまでするんだ。ここまで来るんだ」
一体何を言ったのか瀬尾には聞き取れなかった。目を開け体を起こし訊ねる。
「晴間?」
周囲の木材と調和している茶色い髪が綺麗だった。隙間から差す陽の光が空気中の埃に乱反射していた。
「ずるいよ」
晴間は言った。瀬尾は事態を飲み込めずに唖然とする。何か、考えの及ばなかった反応が起こっている。それは瀬尾の範疇を優に超えていた。晴間はそんな瀬尾を他所にしんしんと言葉を繋げていく。
「俺だって苦労したんだよ。瀬尾のせいで俺は……俺は、人を愛せなくなった」
まるで言ってる意味が分からない。言葉の中身が浮遊していた。
「やっぱり、そこまでショックを与えちまって」
「“君以上が見つかってないんだ”」
瀬尾を遮った晴間の発言。
「は?」
当惑する瀬尾。晴間はささやかに笑っている。
「おかしいと思わなかったの? 若菜シューズの二度目の来店を」
それは思考を誘導した。確かにそうだ。瀬尾は昔のことを後ろめたく思い、拒絶されていると思っていた。にも拘らず、あの再会から後日晴間は再び店を訪れた。気味の悪い推測をしていようとも、電話にだって出た。約束を承諾しカフェで会った。瀬尾が思い描いていた通りの晴間ならば、再会後、もう二度と店には来ず、すぐさま家へ帰る筈だ。その後の激しい問答は流石に言い訳が効かないが、今振り返ると瀬尾の中の消えた晴間像とは若干の乖離があった。
「瀬尾は俺にとっての劇薬だったんだ、たぶんね。だから、引き返せなくなる前に君から遠ざかる必要があった」
晴間も瀬尾と再会したことで嘗ての稀有な感情を思い出した。この約十年間、他では味わうことのなかったもの。もちろん同性とそういった接近の機会に恵まれなかったということもそうだが、それを抜きにしてもあの時の無二の体験は忘れ難いものだった。まさしく特別な一瞬だった。しかし一度でもこの男に依存してしまえば引き返せなくなると思った。目の前の友人をそれ以上の存在にしてしまうことはそれほどに危険なことのように思えたのだ。
拒絶は潜在的な晴間の保険かもしれなかった。今になってだからこそ言える後付けだとしても、その予防線は当時の彼に必要なものだった。純然たる選択だった。
「そんな」
「今思うとさ、やっぱり俺は明日香さんが好きだったのかもしれない。それであの日、瀬尾のことを好きになった。いや、好きに気づいた。俺は尊敬する人に惹かれるんだと思う。昔も似たようなこと言った気がするけど」
瀬尾は強く唇を噛んでいた。思うように言葉が出てこない。晴間の告白を処理しきれない。
「倉持さんとの話で男友達が少ないなんてのも聞いた。君はそういう奴だよ。むしろ別の男にそういう本気の感情を向けてしまいそうと恐れたから男友達ってのを作らなかったんだよね? 俺でなければいけなかったわけじゃないんだ。そこに今は……嫉妬すら覚えるかもしれない」
晴間がそこまで言って、瀬尾の塞がれていた口は自由を取り戻した。繋がれた鎖は解錠された。
「違えよっ。俺はお前じゃなきゃ駄目なんだ、駄目だったんだ! だから誰に対しても無感情で、靡くことすら出来なかったんだよ!」
彼以上は見つからないと理解していた瀬尾に対し、彼以上を見つけようとしていた晴間。両名、自らの理解度が高いわけではなくとも、目の前の相手に向けて投げかけるべき言葉は強い力を持っていた。
「あーあ」
感情の昂りを見せた瀬尾は図らずも晴間の肩を掴んでいた。それは片足で跨いで超えることの出来る川のように簡単に、瞬間的に明暗を分けた。
「触っちゃった」
こんなに近い距離にいる。そんな幻影の実体を視界に収めている。瀬尾の中で、晴間があの頃のように微笑んだ。
「もう会うことなんてない、そう思ってた。けどそれなら死ぬまで二度と帰郷なんてしないと決めればいい。でも蓋を開ければこうしてまた会ってしまった。そうなれば“こうなる”ことだって予測出来た筈なのに」
前髪が瞳に掛かっている。瀬尾の感じる熱りの正体はきっとこの草いきれだった。
「あの日、あの時の口づけで瀬尾の苦しみは分かってた。伝わってた。それと碌に向き合おうともせずに……だから俺も、同罪だよ」
晴間は瀬尾の唇に自らのものを押し付けた。過去に何人もの女性と関係を持ってきた晴間でさえ、想像だにしない感情だった。二律背反は人間の常。そして己を殺してその抑圧に苦悩するのも人間の性であり業である。
「ん……へへ、血の味」
黒縁の眼鏡を取り、舌舐めずりをする晴間。口の中で瀬尾の鉄分が滲んでいた。
「晴間っ」
泥のように二人で溶け合っていく。
「朝、文……っ」
名前。それは個に与えられた尊厳・価値・理由・意味。肯定は心理に直結する。
応じる必要があった。嘗て、自らの名を卑下し、持論を述べていた。そしてその後、鱗という隠れ蓑をこちらが使ったりもした。そんな晴間の初めての呼びかけ。罪悪感に支配されていた今日までに別れを告げる。
「鈴」
舌を絡め合わせた。変わっていない。この婀娜婀娜しい香りや感触や味は、晴間鈴そのものだった。細胞は数年で全てが入れ替わり新しくなるというが、“人”は変わらない。
火の燻りは、やがて炎の激しい燃焼へと轟々と変わっていく。晴間の両頬を掴み、持ち上げ引き寄せるようにして唇を重ねる。互いの唾液がまるで元から一つとして構成されていたかのように混じっていく。もう誰にも何にも邪魔されない、二人だけのアトリエだった。
「枠からさ、はみ出そうとしなかったんだ。それだけ」
晴間は嘗ての自分の半生を省みた。主張が少なく、ぶつかることを好まず、同調して凪のように過ごす。それで好きなことだけをやってそれとなく生きていく。その模範解答を正解だと信じて何年をドブに捨ててきたのか。
鱗というSNSのアカウント。そのある意味で特殊な欺罔行為を気味悪がったのは本心だった。それでも尚、互いに肉欲を擦り合わせ社会の形に合うよう己の輪郭を作り直した。粘土を捏ねるように、刀を打つように。
二人は独自の解、固有の答えを導き出した。たった一度しかない人生、それも長くもないもの。やり直しが利かず、この先もそれは同じ。再び出会ってしまったならそれを受け入れるしかない。行き摺りでもなんでもいい、それを運命と言い換えればいいだけの話だ。
今はまだ目先のことだけを考えればいい。後のことは、お前とならそれで充分だから。