プロローグ
「晴間……晴間!」
瀬尾朝文は投げ掛ける。体育の授業中に倒れた文化部の同級生を案じてのことだった。日差しを隠すようにして顔を覗き込む。暑さに当てられた本人からすれば、逆光で黒く影になっている瀬尾の姿は意識の朦朧さと相まってやけに実体の薄いものとして映った。朧げで、夢と現実の狭間で声を荒げる誰か。その光景を最後に、水分や塩分の不足していた肉体は視界を遮断した。
瞼が開いていく。全身の気怠さが強く、横たわっている体が重力方向に沈んでいく感覚が絶え間なく続いている。意識ははっきりしているにも拘らずその目に映る映像が不鮮明なのは、常に身に着けている筈のものがないからだ。晴間鈴は自身の眼鏡を探した。近くにいた人影に気づいたのはそれからだ。
「え……っと」
晴間が蚊のような声を漏らすと人影はこちらへ注意を向け声を掛けた。
「お、起きたか。大丈夫かよ、熱中症でぶっ倒れてさあ」
この春、二年次から転校してきた帰宅部のクラスメイトが自分への心配を口にしてこの場にいることが驚きだった。晴間のその様子に瀬尾は即座に説明を付け加える。言葉を失っている彼に、それだけの甲斐性は見せた。
「ほら、俺保健委員だからさ」
そういって瀬尾は頬を掻いた。目が微かに泳いでいる。大方、仕事を任されたついでに保健室で涼んでいるのだろうことは明白だった。立場という、授業が終わるまでこうしていられる理由を持てているからだ。つまり晴間が倒れてからそれほど時間が経ってはいないことを暗に示していた。
「それで、サボり?」
晴間が体を起こす。軽い素材の掛け布団が上体から滑り落ちた。視界不良の中、辺りを見回し手探りで眼鏡を探す。
「げ、お前第一声がそれかよ。もっとこう、感謝の言葉が先に来るもんじゃねえの」
そう言いながらベッド脇の机へ手を伸ばし、晴間があと数秒もすれば掴んでいたであろう眼鏡を手に取り渡す瀬尾。やや沈黙を生み出してから晴間はそれを受け取る。
「確かにそうだね。ここまで一人で運んでくれたのかい」
「まあな」
瀬尾の膝の上には一冊の漫画本があった。二人の通う高等学校でこういったものは持ち込み禁止である。彼が校則をさほど遵守しない性分であることは普段の言動からして推測が出来た。転校生でありながらすぐに多くの友人を作り、帰宅部でありながら運動神経は良くスポーツの大半をそつなくこなした。少しやんちゃで、人当たりの良い人物。それが瀬尾朝文という新顔だった。
「ありがとう。今度何か礼でもする」
瀬尾は口元を緩ませて晴間を見た。
「ジュース一本でいいぜ」
保健室の窓側から校庭の音が聞こえる。直に終わる授業を最後まで楽しんでいる男子高校生たちの無垢な喧騒。六月の下旬。今の体育の授業は持久走だ。グラウンドのトラックを十周、約四キロメートルを走る。そして終わった者から自由時間に入ることが出来、学校の備品を好きに使って球技なりを楽しむことが許されていた。その時間を休息に使っても、談笑に費やしても何も教師から咎められることはない。
窓の向こうの景色に気を取られている晴間を見て、瀬尾が口を開いた。
「今日は具合悪かったのか? それとも運動苦手?」
膝上の漫画を開くことなく会話を始めた瀬尾に晴間は刹那驚いたがすぐに回答を返した。
「俺は美術部だから」
それ以上の言葉を付け足しはしない。瀬尾はそんな晴間にさらに訊ねる。
「髪、茶色だし外に強いんだと思ってたよ」
いつも学生服は冬服もシャツも上までボタンを留め、シンプルな銀縁の眼鏡に、艶のあるシルエットの丸い直毛が真面目な装いの生徒。しかし一点だけ派手な部分が存在していた。それは明るい茶髪だった。
晴間にとって瀬尾の発言は慣れたものだった。恐らくそれが日差しによる褪色のことを言っているのだということは瞬時に分かったのだ。
「え? ああ、これは生まれつき。ユーメラニンが少なくてフェオメラニンが多いんだ」
瀬尾は首を傾げる。
「何それ」
「色素だよ。俺の髪は黒が少なくて赤茶系が多めってこと」
明かりを点けていない保健室でさえ晴間の髪は黒にはならない。日中の空の下では染髪していると疑われても仕方のないほどだ。
「へえ。でも肌は色白なんだな。いや、だからって言うべきか?」
浅黒い肌を同時に想像した。けれども晴間の肌は白い。
「一概には言えないってことさ」
晴間は笑った。それはとても控えめな微笑みだった。
それから瀬尾は、昔から、主に中学から校則違反と教師に難癖をつけられてきた人生の面倒さを晴間から聞かされた。生来その髪の色に悩まされてきたのだと。証明書やらが煩わしいなどといって愚痴に舌が回る様は、なんだか抱いていたイメージと乖離していておかしかった。ほんの五分ほどで終業のチャイムが流れたが、その次の授業の開始には二人して遅れて教室へ入ってしまった。