3.黙って登れ
汗が頬を伝う。あごにたまる感触が実に不快。腕で拭うと若干の涼しさを感じることが出来る。
強く踏み込み、右足を岩の上にのせ、体をもちあげる。太ももの筋肉が軋む。身体が重い。
「うっぐぅ……!」
なんとかあげ切り、両足を揃える。
「ふぅ……ふぅ……はぁー……」
たまった疲れとともに、大きく息を吐きだした。そしてまた、右足を次の岩の上に乗せ、体重をかける。
ズルッゴン!
いってぇ!
見ると、苔むした岩に僕の足の滑った跡がくっきりと残っていた。
それよりも、この痛さ尋常じゃない。折れているのかもしれない。
「エイルー!ちょっとストップ!」
はるか先を進むエイルがこちらを振り返った。
折れていなくても、この疲労度であそこまで進むのは不可能だ。治癒魔法で足を治癒させたうえで数分休息をとらないと。
「どうしたー?もうへばったのー?」
「『もう』って……」
五日も歩きどおしで何が『もう』だ。へばってあたりまえだっつーの。
「ちょっと休憩にしないー?」
エイルはふと空を見て、少し考えてから言った。
「まださっきの休憩から1時間たってないよー!がーんばってー!」
腕をぶんぶん振って応援している。イラつくったらありゃしない。
「早く怪我なおしなー!」
怪我したことには気づいてんのかい!
それなら休憩でいいじゃないか、もう。
折れているのは、右足のすね。触診して患部を見極める。
こんなに盛大にけがをしたのは久々だ。修練の一環で魔獣狩りをしていた頃を思い出す。あの頃は骨折なんてしょっちゅうだったな。
んー……折れてはなさそうだ。単なる打撲か。
表面的な損傷に加え、内側にダメージが通っているためそちらを優先して回復させる。
魔力を用いて損傷した組織を正常な形へ戻していく。僕は未だこの作業に十数秒かかるが、熟練の治癒魔法使いは五秒もかからず治癒してしまうという。
しかも、たかが打撲にこれだけ時間をかけてしまう。実に情けない。
思えば王立魔法学園の入学試験でも、三十分近く時間を使ったのにもかかわらず治癒できたのは肩から肘にかけて二の腕部分のみ。これでは不合格になって当然というわけだ。
しかし、不思議な試験制度だ。入学試験を実施するタイミングで腕を失っている人間がどれだけいたのだろう。あの試験会場にいた人は少なく見積もっても五百人。いや、千人近かったのかもしれない。全員が治癒できるとは限らないにしても、半分以上の受験生が治癒できたと仮定すると三百人前後の負傷者が必要になる。そして、失っている部位が違えば治癒の難易度も変化するため、公平性が保たれない。まさか治癒されるたびに切り落としているということはあるまいが……。
「ふぅ」
治癒が完了し、エイルに向けて手を振った。それを見たエイルはまた軽い足取りで斜面を登り始めた。
さて、早いところエイルに追い付かなくてはならない。山を登り始めて気づいたことだが、エイルは後ろを振り返ることはあっても決して下ってくることはない。へばっている僕を上から見下ろしているのだ。僕が登りを再開すると、エイルも再開する。
そして恐ろしいことに、呼吸が乱れている姿を見たことが無い。もしかすると酸素を必要としないのかもしれない。
上り続けること、さらに1時間。やっとのことで、エイルに追いつくことが出来た。
僕が見失わないように見える距離を保ってくれてはいたのだが、それでもぎりぎりだった。
息切れが止まらない。血の味がする。喉が切れたのかと思い、治癒魔法をかけてみたが効果はなかった。
「はぁ、はぁ、はぁ……頂上……?」
「もうすぐね」
言われて見てみると、まだまだ登りは続きそうだ。
正直、もう登りたくない。足が限界だ。プルプルしてる。
エイルの方はというと、やはりつかれている様子はない。涼しい顔で行く先を見上げている。鞄を背負っている分僕の方が疲れやすいとはいえ、そんな次元の話ではない。汗ひとつかいていない。こちとらダラダラ滝のように汗を流しているというのに。
エイルは僕の背後に回り、鞄からコップを2つ取り出した。そして、魔法で水を注いで片方を僕に差し出した。
ゴクッゴクッゴクッ
ふぅ……こえだけでいくらか疲労が回復したように感じる。
「お疲れのようだね」
「……まあ、ね」
気づけば僕の衣服は泥だらけだ。匂ってみるとツンとした匂いが鼻をつく。五日の間水も浴びず着替えもせず歩き通しだ。清潔なわけがない。
……はずなんだけどなぁ。なーんでこの人はこんなに綺麗なんでしょうか。純白のローブには泥汚れひとつなく、よく見ると皮のブーツすら一切の汚れがない。汚れない素材でできているのか?
泥を投げてみるか。
エイルがこちらに背を向けた隙に、地面を掬って泥団子を素早くこしらえ、投擲。
その先に、エイルはいなかった。
「えっ」
次の瞬間、後頭部を摑まれる感覚とともに視界が下を向く。顔面から、泥に叩きつけられた。
「さて、そろそろ行こうか」
やられた……。完全な不意打ちだと思ったんだが。
水魔法を構築し、顔を洗う。この際だ。汗も一緒に流してしまおう。服はすでに汗でびしょびしょだから、濡れたところで今更だ。
準備を終え前を見ると、エイルはすでにはるか彼方にいた。
「く・そ・が・!」
震える脚に鞭打ち、再び登り始める。エイルは「もう少し」と言ったが、彼の「もう少し」はあてにならん。下手したら5,6時間歩かされるかもしれない。
※
その後、2時間で頂上にたどり着いた。2時間を「少し」って表現するのはどうかと思う。でも5日間歩いた今までの道のりに比べたら2時間は「少し」かもしれない。
頂上からの景色は絶景……とは言い難い。数ある山々の一角ってかんじ。これだけ上ったのに見える景色がこれかぁ……。
「さあ、行こうか」
え、もう行くのか。折角だからもう少しゆっくりしていこうよ。
「あとは下るだけだよ」
「なあエイル。そろそろ目的地を教えてくれてもいいんじゃない?」
「……そうだね、言いたくなかったわけじゃないんだけどね。あれだよ」
エイルが指さした先を見ると、そこには小さな集落があるようだった。
「あの村?」
「うん」
「……この山、登る必要あった?」
登らなくても直線で行ける位置にあっただろう、あれ。
なぜ登った。この山。
「あるよ」
おい、こっちを見ろ。目を逸らすんじゃない。
本当にこの旅についてくるのが正解だったのか?致命的なミスを犯したんじゃないか?
……今からでも帰ろうかな。
いや、帰る家はないんだった。帰る家は他でもないこの人が燃やした。僕の教科書も灰に変えてしまった。もう、戻れない。
今は彼の背中を追おう。それ以外に、できることはない。もしかしたら、入学試験に合格することはあきらめた方が良いかもしれない。
頂上から2時間ほど下ったあたりで、自分が道のようなものを歩いていることに気づいた。エイルの後に続いて、道のようなものに沿って進む。
「ディーク、これはなんだと思う?」
「え、これ……っていうと?」
「この道さ」
こんな山奥にあるのだから、獣道だろうか。しかし、それにしては広すぎる気もする。人が二、三人ほど横に並んで進むことが出来る広さだ。これが獣道だとして、この道を利用する獣は相当……。
そのとき、自分の左後方で突如として魔力の高まりを感じ取った。
「ディーク!」
エイルが叫ぶ。その時には一筋の雷光が僕に襲い掛かっていた。
防御魔法は間に合わない。とっさに背負っていた鞄を盾にして身を守る。
鞄の中身が飛び散った。今の一撃で鞄は大破し、追撃を防ぐ力はない。僕はその場に伏せ、防御魔法を構築する。攻撃のあった方向に向けて、光の盾を生成した。
今の攻撃は発動から対象への到達が速い雷属性の魔法だ。不意打ちの一撃としては有効だが、攻撃対象が警戒している状況では効果が薄い。ゆえに、追撃されるとしたら別属性の魔法である可能性が高い。もしくは一度身を隠して、再度不意打ちの機会をうかがうか。
追撃がこない……ということは術者は身を隠す選択をとったらしい。
「エイル、移動しよう。この木々の中で迎撃し続けるのには無理がある」
「うん、そうだね。でも、今の対応はいまいちかなぁ」
いまいちだって?
不意打ちを仕掛けられたのに、僕は無傷だ。反撃はできていないものの、奇襲への対応としては申し分ないと思うのだが。
「相手の属性は?」
「雷かと」
「そうだね。で、フィールドは?」
「山の中……っ!」
なるほど!伏せた後、僕は光の盾を生成した。しかし、雷魔法を防ぐなら土魔法で地面を形状変化させて壁を作り出す方が速く、効果的だ。そっちが正解か……!
「わかったかな。じゃあ進もう」
「いや待って!まだ敵は……!」
エイルは振り返って言った。
「ディーク。敵はなんだと思う」
「えっ……と、魔法使い」
「はぁ……。あのさ、旅人を一人で奇襲する魔法使いがどこにいるの?」
言われてみれば……たしかに。いくら雷魔法が奇襲に向いているとはいえ、それを防がれて反撃を受けてしまえばひとたまりもない。
「魔物だよ」
魔物……!
雷魔法を扱うとなるとかなり高位の強力な魔物である可能性が高い。そんなの潜んでいる山を進むって言うのか?
しかも、一度攻撃を受けた以上常に僕らの位置が把握されていると思った方が良い。次いつ奇襲されるかわからない。
……いや、もしかしてエイルの目的はその魔物なのか?それに出会うため、この山を登ったのか。
なんにせよ、村にたどり着くまで警戒を解くことはできない。さっきの一撃で鞄はお陀仏だ。ここに置いていくしかない。となると、さっきのような鞄を盾にした防御はもうできない。
無事この山を下ることはできるのか、あやしくなってきた。