第46話
──さて、どうしたものかしら……
アーデルハイトは表向き余裕の表情を維持したまま複雑化した状況を分析した。
──敵が直接乗り込んでくること自体は、可能性は低いとはいえ想定していた。問題は敵が神器保有者──最悪とされる指輪の持ち主であることと、アンデッド化しているという事実。彼はその優位性をどこまで理解しているのかしら?
ノエルと名乗った小柄な少年を改めて観察する。
一目見て分かるほどに未熟で脆弱。アンデッド化を抜きにしても生命として不完全な存在。ヒューマンの子供などこんなものかもしれないが、魔族である自分と相対するにはあまりに足りないものが多すぎた。
本人もそのことは理解しているのだろう。余裕ぶった態度を取り繕ってはいるが、全身が強張り、震えを堪えるので精一杯のように見えた。
──理解している、と考えるべきでしょうね。未熟ではあっても、神器一つで勝てると考えるほど愚かではない。この状況で安易に指輪を使って私を支配しようとしないのがその証拠だわ。
神器保有者同士の戦いは基本的に神器同士のぶつかり合いでは決着がつかない。それは互いが担う権能が権能を打ち消し合う為だ。
例えば指輪が持つ“支配”の権能は万象を問答無用で支配するものである。そこには理屈も理由もない。
対して書が持つ“全知”の権能はこの世の万象を知り、理解するものだ。
一見、互いに矛盾しないように思える二つの権能だが、“支配”の権能はその力に理由も理屈もないからこその“絶対”だ。それを”理解”されてしまえば、その力は魔法ではなく凡庸な魔術のそれに堕ちてしまう。逆に“全知”であっても“この世の万象”に収まらない神器の全てを知ることは出来ない。その為この二つの神器──いや、七つの神器の権能は全て互いに何らか矛盾を孕み、打ち消し合う構図となっている。
故に神器保有者同士の戦いは神器同士のぶつかり合いではなく、それ以外の部分で決まるとされていた。
──私は魔族である以上、人類のために生み出された神器の性能を完全に引き出すことはできない。試したことはないけれど、仮に神器の出力勝負となれば、押し切られる可能性が高いわ。
アーデルハイトにとって“指輪”の保有者がこの場にいることは予想外ではあったが、最悪の可能性として“剣”や“杖”といった他の神器保有者が介入してくることも想定はしていた。
事前に行った試算では、仮に神器の出力勝負となったとしても、多少無理をすれば一時的に敵の神器の力を中和することは十分に可能。そして例え一瞬でも対抗できれば、アーデルハイトは魔術を用いて一瞬で敵を処理することができる。
流石に神器と並行してとなれば大規模な魔術行使は難しいが、魔族の干渉力があればか弱い人間の身体など破壊するのも支配するのも容易い。総合的に視てアーデルハイトが後れを取る道理はなかった、が──
──最大の問題はこの少年がアンデッド化しているという事実。包囲網を抜けるためだけじゃない。まさかこんな方法で私に対して優位を取ろうとするなんて……
この状況をゲームのように単純化して説明すれば、現在アーデルハイトは呪文でも何でも一度だけ自由に行動し、ノエルを攻撃することができた。一度だけだ。それ以上は神器の出力勝負に持ち込まれ、敗北する可能性が出てくる。
彼我の戦力差を考えれば本来なら一度の攻撃でお釣りがくる──が、ここでノエルがアンデッド化しているという事実が問題となった。
まずアンデッドには精神系統の呪文が効果を及ぼさない。これは精神系統の呪文が“生物”に干渉することを前提としているためで、精神構造が変質しているアンデッドには、僧侶系統呪文など別角度からのアプローチが必要となってくる。
【金縛り】など肉体を拘束する呪文は神器の使用を中断させることができない以上、意味がない。
ではいっそ攻撃呪文で殺してしまうか?──否。一見、一番単純で簡単な結論に思えるが、実はこれにも穴がある。
今のノエルは仮とは言えアンデッドだ。殺しても仮死状態の肉体が本当に死ぬだけ。簡単には止まらないし、一撃で脳を破壊できたとしても、怨霊となって神器を暴走させてしまう可能性があった。それを回避するには、不意を突くなりして指輪を確実に奪った上で殺害する他ない。
呪文を使わず物理で殺すのも毒を使うのも同じこと。
支配はできない。拘束は意味がない。殺すことも難しい。ならばアンデッドならではの弱点を突いたらどうか?
──多分、意味はないでしょうね。本物のアンデッドならともかく、この少年は呪文で一時的にアンデッド化しているだけ。【祓霊】にしろ、【解呪】で仮死化を解除するにせよ、彼はその全てを自分にかけた呪文を解除するだけで対処できる。私が一手損をするだけだわ。
魔術師同士の戦いなら【闇】などで射線を消すというのが常套手段の一つだが、間接的な呪文行使は“指輪”の力を振り向けられれば一瞬で潰されるだろうから意味がない。いやそもそも“書”は直接攻撃可能な神器ではないから更にもう一手が必要となる。
──面倒……いえ、厄介ね。たった一手でこちらの手を封殺するなんて……一旦逃げて仕切りなおす? ううん、これだけ大事になって、二度目のチャンスがあるかどうか──……? ここまで優位を確保できているなら、どうして彼は私に神器を使ってこないのかしら? てっきり決定打にならないからだと思っていたけど、出力勝負なら彼が優位であることは間違いない。先手を打つというのは決しておかしな選択ではないわよね。リスクは精々私を取り逃がすことぐらい。それをしない理由はつまり──
「──もう一度言います。僕の友人を返してください」
アーデルハイトの思考を遮ってノエルが要求を告げる。要求が通ると考えているわけではなく、会話の主導権を握るためのジャブだ。
だがアーデルハイトはそれに一瞬だけ考えるそぶりを見せると、腕を一振りしてリュミスを閉じ込めた籠を呼び出し、籠ごと念力でノエルの腕の中に移動させた。
「これでいい?」
「…………ええ」
あっさりと要求が通ってしまい、少年の表情が戸惑いに歪む。
アーデルハイトがリュミスを返した理由はすぐに分かった。籠の中のリュミスは魅了状態で意識がない。しかもこの場はアーデルハイトの領域で、彼女が取り返そうと思えばいつでもできる状態だ。
逆にノエルは不完全とは言え要求が通ってしまったことで、今度は相手の要求を聞かざるを得ない空気が出来上がってしまった。
「今度は私の番ね。私の望みは神器の提供。それさえ呑んでもらえるなら、この都市の住民は見逃してあげ──」
「信用できません」
「──でしょうね」
キッパリと拒否したノエルに、アーデルハイトは怒るでもなく肩を竦めた。アーデルハイトが優位を確保できているならともかく、この状況でそんな言葉を信じて指輪を渡してきたら、むしろ罠を疑わざるを得ない。
「指輪を渡せない。ルベリアから手を引く。この二つは最低条件です」
「あらあら。それでは交渉になってないと思うのだけれど?」
「都市を人質にとって脅迫してきた側が何言ってるんですか。別にこちらは相討ち覚悟で神器の出力勝負に持ち込んでもいいんですよ?」
「でも貴方はそれを選ばなかった。私がこの場を離れて仕切りなおすことを警戒したんでしょう? 貴方自身や人類全体のことを優先するなら、包囲を突破してそのまま逃げれば良かったのにね」
その言葉にノエルは籠の中のリュミスに一瞬視線を落とし、フンと鼻を鳴らして反論する。
「逃げても無駄だと脅してきたのはそっちでしょう。ビクビク怯えながら逃げ回るぐらいなら、計算の出来る状況でケリをつけようと思っただけです」
「あらそう。なら私は一旦退いて、腹いせに街に星でも降らせようかしら?」
「……どうぞ勝手──」
「──冗談よ」
アーデルハイトはノエルの一瞬の反応の遅れを見逃さなかった。
「でも、この場でどんな約束をしても、私はいつでもそれを反故にして街を滅ぼすことができる。強引に交渉をまとめたところで意味はないと思わない?」
「……つまらないハッタリはよしてください。そちらだって無駄に人類の恨みを買うことは避けたいはずだ」
「否定はしないわ。でも勘違いしないで。私たちが警戒してるのは人類ではなく神器よ。それを手に入れるためなら、多少の恨みは問題ではないでしょう?」
「…………」
分が悪いな、とノエルは素直に認めた。これでは妥協案までは遠い。相手からそれを切り出させるために、カードを一枚切る。
「……僕が包囲網を突破した方法。これは魔術師であれば僕でなくとも実行可能です」
「──なるほど。【長距離転移】が使える魔術師であれば、他の神器保有者に救援を要請することも可能と言いたいのね?」
アーデルハイトはノエルの言わんとすることを正確に理解していた。
「ええ。魔族が神器を狙って襲撃してきたとなれば、皇帝陛下にしろ教皇猊下にしろ重い腰を上げる理由としては十分でしょう」
「それはそうかもしれないけど──私がそれに対して、何も対策をとっていないと思う?」
ハッタリではない──とノエルは感じた。今回の行動は魔族であるアーデルハイトにとっても相当のリスクを伴う行動のはず。神器保有者の足元で騒動を起こし、動きづらい状況を作るぐらいのことは当然にしているだろう。
アーデルハイトは余裕たっぷりに続けた。
「少し、現実的な話をしましょうか」
「現実的?」
「ええ。貴方にとってその指輪はこちらの行動を制約する保険でもある。まして私は魔族。貴方たち人類にとって不倶戴天の敵。指輪を渡せと言われて頷けるはずがないことは理解できるわ」
「…………」
歩み寄るかのような発言に、ノエルは警戒しながらも耳を傾ける。
「実のところ私は神器その物を必要としているわけじゃないの。そもそも魔族である私にとって神器はそれほど価値のあるものじゃない。不完全にしか力を引き出せないし、使う度に生命力をガリガリ削られてしまうんだもの」
「……なら、何でこんな真似を?」
「自衛の為よ。私たち魔族にとって神器は恐怖の象徴。その力が再び結集し、こちらに向けられるようなことがあれば、今度こそ私たちは滅びるかもしれない。私がこうして“書”を肌身離さず持ち歩いているのも、他の神器に対抗する為。だからね、私はその“指輪”に関しては、その力が私たち魔族に向けられないという確証が得られれば、それでいいと思ってるの」
アーデルハイトのこの発言に、嘘はなかった。
「……つまり、魔術契約でも結ぼうと?」
「ええ。“指輪”の権能でも無効化できないように、“指輪”そのものを契約の当事者に含めた上で、ね。契約の対価は、私がこの都市から完全に手を引くこと」
そんな複雑な契約が可能なのか、とは思ったが魔族であるアーデルハイトの技量を人間の常識で計っても意味がない。
ノエルは技術的な部分に関しては何も言わず、条件について疑義を呈す。
「“指輪”を魔族相手に使えないとなれば、結局、指輪を奪われて終わりじゃありませんか?」
「なら魔族の側から仕掛けてきた場合は条件から除外しましょう。それと、私が今後貴方に危害を加えないことも条件に付け加えるわ」
「…………」
ノエルはその話を聞いて、落としどころとしてはおかしくない、と感じた。これであれば話に乗っても──
「──契約の手順は?」
その言葉にアーデルハイトは表情を綻ばせ、ノエルに近づいてきた。彼は怯えた風に少しだけ後ずさる──が、交渉がまとまりかけたタイミングで、それ以上明確な拒絶は示さない。
スルリと、アーデルハイトがノエルに手が届く距離まで近づく。
「指輪はそのままでいいわ。手順はね──」
──シュパッ!
笑顔のまま振り下ろされたアーデルハイトの手刀が“指輪”の嵌まった右手を手首のあたりで切断する。
「────!?」
常人には反応すら出来ない一瞬の出来事。そして切り落とされた腕から血が噴き出すより速く──
「駄目よ、死んでるからって油断しちゃ」
──ボッ!!
アーデルハイトの手から放たれた火閃が彼の肉体を一瞬で灰に変える。
「この距離なら、どんな小細工をしていようと確実に肉体を滅することができる。アンデッドのしぶとさを過信しすぎたわね」
交渉により着地点を見つけたという相手の隙をついた一瞬の早業。
「……貴方が最初からなりふり構わず私を倒そうとしていれば、私は何もできずに逃げるしか出来なかった。貴方の一番の失敗は、私に人質が有効だと気づかせてしまったこと」
灰になった肉体がハラハラと宙を舞う。
「人間にしては、頑張った方だと思うわよ」
一瞬とは言え自分を脅かした相手に敬意を払い、舞い散る灰を見送った。
──だから気づくのが遅れた。
残された彼の右手首──そこに嵌まった指輪が、仄かな輝きを帯びていることに。




