第33話
「今日は実は皆さんにご相談と、お願いしたいことがあってやってまいりました」
『…………』
ノエルは応接のソファーに座ってロッソと向かい合い、にこやかに語りかける。
しかし残念ながらロッソも、その背後に立つ彼の部下たちも、意識がパンイチで床に這いつくばる“犬”に向けられていて、ノエルの言葉はその半分ほども意識に届いていなかった。
「そう言えば昨日はきちんとご挨拶が出来ていませんでしたね。私、オスカ導師の研究室で助手を務めているノエルと申します。お見知りおきを」
「いや……それはいいんだが──」
ロッソはノエルと“犬”の間で交互に視線をさまよわせ、何からツッコんだものか迷うように言った。
「それは何だ?」
それとは言うまでもなく首輪をつけられ犬の真似をさせられている孤児の少年コートのことだ。
コート自身も何故自分がこんな場所でこんな真似をしているのか理解できておらず、オドオドしながら涙目であたりを見回していた。
途中、何度かコートは何度か人間の言葉を発する素振りを見せるが──
「あ、おれ──」
「ミャ」
「──ひぃ!? ワ、ワゥ~ン!」
その度にノエルが連れてきた猫──リュミス──がコートをつつき、彼は“犬”へと逆戻りする。
──いったい何がなんだか……
意味不明な光景に呆気にとられるマフィア。
これがもし場の主導権を握ろうというノエルの策略だったなら、その狙いは見事的中したと言えるだろう──その後の交渉が上手くいくかは別の話として。
「あぁ~……悪いんだが坊主──いや、ノエルか。その、俺は別にそういう趣味を否定するつもりはねぇんだ。変わった“犬”やら”猫”やらを飼うのが好きな奴もいれば、男同士じゃねぇと興奮しねぇとか、ガキの鳴き声がたまらねぇとか、俺も商売柄色んな奴を見てきた。だがその手の性癖全部乗せで、しかもまだ若ぇあんたが飼い主ってのはこう……分かるだろう? 自分の家でやってくれねぇか?」
皮肉ではなく本心だ。
ロッソの後ろで部下たちもうんうんと頷いている。
「ハハッ、すいません。ただ誤解のないように言っておくと、別にこれは自慢のペットを見せびらかしてるわけじゃありませんよ? 私は犬派ですけど、こういう忠誠心のない犬は嫌いなんです」
「ぐ──キャン!」
ノエルが縄を軽く引っ張ると、首が締まったコートが犬の鳴き真似で抗議する。何をどう言われようと、ロッソたちはそういうプレイを見せつけられているようにしか見えなかった。
「まぁ、犬の真似については少し友人が悪ノリしましてね。あまり気にしないでください」
「気にするなと言われてもな……」
ノエルは何とも言えない表情のマフィアに肩を竦め、一瞬リュミスに視線を向けてから本題を切り出した。
「実は相談というのがこの犬──もとい、彼についてのことでしてね。あ~……彼のことはご存じですか?」
そう言われて、ロッソは犬の真似をさせられているストリートキッズの少年の顔を覗き込む──見覚えは、あった。
「……ああ。昨日あんたと会った辺りに棲みついてるゴートとかいうガキだろ?」
「ちが──げふっ!?」
「はい。あの地区に棲みついてる孤児のゴートくんです」
名前が違うと人の言葉で抗議しかけたコートをノエルは縄を引っ張って制止し、話を続けた。
「実は私、昨日ナイフを持った彼に襲われましてね」
「ほう?」
ロッソはその言葉にようやく興味を引かれた様子でノエルとコートに交互に視線をやる。
「そりゃあ災難だったな。見たとこ元気そうだが、ケガはなかったのかい?」
「見ての通りです。ま、素人のお粗末な襲撃でしたよ」
「──クハッ」
マフィアたちが馬鹿にしたようにコートを見下し、コートは恥ずかしそうに顔を赤らめて俯いた。
「だが襲撃とは穏やかじゃねぇな。何かそいつと揉めるようなことでもあったのかい? いや──」
そこでロッソは何か気づいた風に顔を顰め、続けた。
「──まさかとは思うが、あんた俺がそいつをけしかけたと疑ってんのか?」
「それこそまさか、です」
気色ばむロッソに、ノエルは間髪入れず肩を竦めて否定した。
「──いえ、襲われた直後はそういう可能性が頭をよぎらなかったと言えば嘘になりますが、皆さんはわざわざこちらとことを構えようするほど愚かでもないでしょう? 昨日私たちの間に何かトラブルでも起きていたというならまだしも、そんなことはなかったんですから」
「……ま、そうだな」
ロッソは昨日のノエルとのやり取りを思い出し、苦笑する。昨日ロッソはノエルのせいで引き下がる羽目になったが、それは視方を変えれば彼のおかげで不要な衝突を避けることが出来たとも言えた。
言動に視て少なくとも積極的にマフィアと敵対する意思はなさそうだ、とノエルに対する警戒度を一段下げる。
「だが、それならどうしてそのガキはあんたを襲ったんだい?」
「そう。問題はそこなんです」
一同の視線がコートに集まり、彼は四つん這いのまま身を固くした。
「話を聞いたところによると、どうも彼、昨日の皆さんのやり取りを見て私がエルザさんの味方だと思ったそうなんです。いや、それ自体は決して間違いではないんですが、私が皆さんの邪魔をしていて、何というか皆さんへの忠誠心を示すために私を追い払おうとしたのだとか……」
「はぁん……?」
コートに向けられたロッソとその部下たちの視線が、嘲りまじりの苦笑めいたものへと変わる。
「そいつは何とも馬鹿な話だ。言っておくが、俺らは一度だってそんなことを指示した覚えはないし、してくれと匂わせたこともねぇぜ」
「ええ、ええ。分かっていますとも。そんなことを皆さんが指示するはずがないし、誰がどう考えても彼の暴走です」
ノエルはコートが馬鹿過ぎたことが原因なのだと、彼をこき下ろすことでロッソたちに他意がないことを示す。
「ただ、問題は彼個人の愚かさだけでなく、彼にそう思わせてしまう土壌にもあるのではないかと」
「……ふむ?」
「つまり、ロッソさん。彼のように貴方に忠誠心を持つ人間からすると、貴方の好意を受け入れないエルザさんは悪である、とそのように見えてしまうのではないか、と申し上げています。実際に彼はエルザさんに敵意を抱きながら、しかし貴方が好意を示すエルザさんには直接手を出せないからと、偶々目についた私を攻撃した」
「それは何とも……」
ロッソは失笑を漏らした。ノエルを嗤ったわけではなく、確かに馬鹿な連中にはそんな風に見えて、馬鹿な行動を起こしてしまうのかもしれないなと、あまりの馬鹿さ加減に嗤ってしまったのだ。
「笑い事ではありませんよ」
それをノエルが静かな声音で制す。
「いや、すまねぇ。馬鹿馬鹿しい理由だが襲われたあんたにとっちゃ笑い事じゃねぇわな。しかし、それを俺に文句言われてもなぁ……ククッ」
「いえ。勿論私にとっても笑い事ではありませんが、今言ったのはそういう意味ではありません」
「……ほう?」
「私が言っているのは、貴方とエルザさんの間にある種の対立構造が出来上がっていて、彼の愚行がまるで貴方が自分の好意を受け入れないエルザさんに圧力をかけるために指示したようにも見えてしまう、ということです」
『────』
ノエルの指摘にロッソとその部下は意表を突かれ目を丸くした。
そして一瞬遅れてノエルが言わんとすることを理解し、硬い声音で反論する。
「……歯に物が挟まったような言い方だが、俺は別にエルザを無理やり手に入れようなんて考えちゃいねぇし、そんな真似をしたことは一度もねぇぞ?」
「でしょうね。ですが世の中には悪意をもって穿った見方をする方々がたくさんいます。そう例えば──エルザさんの上役とか」
ロッソは痛いところを突かれたとばかり顔を顰めた。
確かにノエルの指摘通り、教会はマフィアの手駒を削るためにエルザを危険に晒し、囮めいた動きをさせている連中だ。確かに馬鹿な連中の暴走の責任をロッソたちに押し付けるぐらいのことはしかねない。
──いや、教会がどんな言いがかりをつけてこようが知ったこっちゃねぇが、連中がそう騒ぎ立てた時、傍から見てその状況はどう見える? 実際に馬鹿どもが俺の為になると勘違いしたぐらいだ。事実がどうであれ、裏で俺が糸を引いてるように見えちまう……のか?
ヒヤリとしたものがロッソの背筋をはしった。
大前提としてロッソの目的は貧民窟の人間を自分たちの手駒として確保することである。その為に、貧民窟の人間から人気の高いエルザを傷つけることなく、取り込むか排除しようとしてきた、が──
「今回は偶々私が襲われたものの大事には至っていません。ですがもし次何かあった時もそうであるとは限りません」
「……こんな馬鹿がまだ出てくる、と?」
「人の賢さが予想を超えることは滅多にありませんが、愚かさは往々にして容易く我々の常識を超えてきます。硬直した状況が続けば続くほど、同様の行動に出る者が現れる可能性は高くなると思いませんか?」
「…………」
ロッソは否定できずに黙り込んだ。実際、彼はそうした人の馬鹿さ加減を思い知っていた。
そこに追い打ちをかけるようにノエルは続ける。
「更に言えば全く無関係の理由でエルザさんやその周囲の人間に何か不幸な事故が起こった場合でも、まるで貴方方が裏で糸を引いていたかのように見えてしまう──なんてこともあるかもしれませんね」
「むぅ……」
ロッソの喉から呻き声が漏れる。
彼らにとっては難癖をつけられることなんて日常茶飯事で、むしろ根も葉もある事実を難癖と言って誤魔化してきた側だったため、ノエルの指摘は盲点だった。
もちろん教会辺りから何か言われても何の根拠も証拠もないと突っぱねれば良い話だが、周囲の疑いが自分たちに向き、悪評が流れることは避けられない。いや、本来なら悪評など気にはしないのだが、貧民窟の住民の指示を得たいこの状況でそれはうまくなかった。
──この小僧の言った通り、エルザの周辺で何か事故があっただけでも、俺らにその疑いの目が向くことは有り得る。というか、教会の連中がそう情報を操作するかもしれねぇな。さらに言うなら、教会が事件を自作自演することだって……いや、流石にそこまですることはねぇと思いたいが、可能性はゼロじゃねぇ。そしてその場合、証拠があろうがなかろうが印象って意味じゃ不利なのは俺たちマフィアの方だ。人気集めなんて慣れねぇことやってて気づかなかったが、状況は思ったよりずっと俺たちにとって良くねぇんじゃねぇか?
仮にノエルの指摘通りの展開となっても致命的ではない。が、決して面白い展開でもない。
だからこそロッソはノエルの指摘をどう解釈すべきか判断に迷い──
「私としてもそんな理由でまた襲われるかもしれないと気を張って過ごすのは面白くない。そこで相談というかお願いなんですが──私がこれから彼らを使って立ち上げようと考えている事業の後ろ盾になっていただけませんか?」




