第29話
「はぁ~……いるとこにはいるものなのね、ここまで自分勝手な馬鹿って」
呪文の拘束から解放され、一目散にその場から逃げ去るコートの背を見送りながら、リュミスが心底呆れた様子で溜め息を吐く。
「解放してよかったの? さっき言ったみたいに憲兵に引き渡して奴隷に落としてやった方が後腐れなかったんじゃない?」
「面倒」
ノエルは心底どうでも良さそうに吐き捨てた。
「さっきは彼の手前脅すようなこと言ったけど、あれでホントに奴隷に落とせるかは微妙なとこだよ。特に証言者が僕しかいないこの状況じゃ、ただの子供の喧嘩として処理される可能性が高い。彼を処分するために労力割いても仕方ないしね。あれだけ脅しとけば二度と僕らに手を出そうなんて思わないでしょ」
「まぁねぇ……」
リュミスは『もし今度自分に歯向かえば全身蛆にたかられ腐り落ちる呪いをかけた』というノエルの言葉に半泣きになっていたコートの表情を思い返し納得する。
その上で、再び深々と溜め息を吐きかぶりを横に振った。
「それにしてもホント身勝手な話よねぇ。お世話になった人を自分が悪さするのに邪魔だから追い払おうだなんて。義理も人情もあったもんじゃないわ」
「まぁねぇ……」
憤慨して吐き捨てるリュミスに、ノエルは曖昧に言葉を濁した。
コートがエルザを追い払おうとしていた理由。
それは一言でまとめると“悪さをするのに邪魔”という身も蓋もないものだった。
エルザが直接コートの悪事を咎めたり邪魔しているという話ではない。なんとコートは、エルザたち教会の人間が接触してきたせいでロッソたちマフィアが自分を使ってくれなくなったと逆恨みしていたのだ。
元々コートはつい最近までエルザが行う炊き出しに通い、彼女に感謝していた。いや彼に感謝や恩といった概念があるかどうかは怪しいが、少なくともその時点ではコートにとってエルザは飯を食べさせてくれる便利な存在だった筈だ。
けれどその関係性は下らない理由でいとも容易く破綻した。
この街のストリートキッズは、ある程度の年齢になるとマフィアの手伝いをして日々の糧を得るようになる。それは善いとか悪いとかの話ではなく、彼らにとっては考える間でもない自然な進路だ。実際、彼より年上の子供たちの多くはマフィアから仕事を貰っていて、年齢的にコートもそろそろ、と思われていた。
だがある日、コートの先輩たちはマフィアから『教会から餌を恵んでもらってる犬に仕事は任せられない』と言われ、仕事を貰えなくなってしまう。
これはつまり、自分たち以外から施しを受け、いざという時に裏切るリスクの高まった駒など使いたくない、というマフィア側の脅しだ。
最初はコートやその先輩たちも、困りはしたが何もせず飯を食わせてくれるエルザを邪魔とは思わなかったし、変わらず炊き出しに通っていた。だがマフィアたちは彼らの欲を刺激すべく、炊き出しに参加していなかった連中に以前より少しだけ良い条件で仕事をやり、炊き出しより少しだけ良いものを食べさせてやるようにした。
それは自然とコートやその先輩たちの目に入り、彼らはこう理解する──自分たちはエルザのせいでアレを食べられなくなったんだ、と。
傍から見れば八つ当たり以外の何ものでもないが──そう思うようマフィアが誘導したこともあり──コートたちにとってはそれが真実だった。
マフィアから仕事を貰いたい者たちはエルザの施しを拒絶し、マフィアに忠誠を示そうとする。
だが一度教会の手垢がついてしまうと、マフィアからの信頼を回復することは難しい。
空腹の中差し伸べられた手を振り払えず、つい炊き出しを口にしてしまう者もいた。
そんなことが続く間に、いつしか彼らは理不尽にエルザを憎むようになる。
それでも周囲はエルザを慕う者たちの方が多く、ロッソがエルザに言い寄っていることも知っていたので、不満には思ってもエルザを直接害するようなことはしなかった。
だが今日、見るからにひ弱で恵まれた金持ち──勘違い──の子供がロッソの邪魔をしているのを見て、つい我慢できずに襲い掛かってしまったのだと、コートは自らの動機を告白した。
「ホント、徹頭徹尾自分勝手で馬鹿な話よね。ここまで全方向に迷惑だといっそ清々し──いや、ないか。普通にクソね」
リュミスはコートの言い分にあきれ果てて溜め息を吐く。
「まぁ、彼らを責めても仕方ないでしょ」
「……は?」
その淡白な反応にリュミスは驚きで目を丸くし、ノエルの顔をまじまじと見つめる。
「……何?」
「さっきから思ってたんだけど、ノエルさん熱でもあるんじゃない?」
「どういう意味だよ?」
しかしリュミスは真面目にノエルのことを心配しているようで、
「いやだって、人畜無害そうな顔して敵には容赦ない過剰防衛チキンのノエルさんが、いくら雑魚で脅威度が低いとはいえ、自分を狙った相手に情けをかけただけじゃなく、フォローめいた言葉を口にするなんて──」
「誰が過剰防衛チキンだ」
リュミスの言葉に半眼でツッコミ、ノエルは彼女の勘違いを訂正した。
「別にフォローしてるわけじゃないよ。単純に、責めても無駄だって言ってんの」
逃げ去ったコートの姿はとっくに視界から消えている。
「君にこういう言い方をするのはアレだけど、獣に人間の倫理や道徳を説いたって仕方ないだろ? 人間は最初から人間として生まれてくるわけじゃない。人間として育てられて初めて人間になるんだ」
「……だから人間としての教育を受けてこなかったアレに責任はないって?」
不満そうに眉を顰めるリュミスに、ノエルは肩を竦めた。
「まさか。責任なんてのは周りがどう言おうが最終的に本人がとるもんだよ。僕が言ってるのは、単にアレには責めるほどの価値はないって話さ」
その言い草に一先ず理解を示し、リュミスは矛を収める。どうやらいつも通り敵には容赦のない平常運転ノエルさんだったようだ。
リュミスはその上で今後の方針をノエルに確認する。
「ふ~ん。まあいいわ。それで、この後はどうする?」
「……どうする、とは?」
「この話をどこまで共有するのかってことよ。今回襲われたのはあんただったし、偶発的な動機だったからもう襲われることはないでしょうけど、エルザさんを疎ましく思ってる人間がいるってことは問題でしょう? あの坊やの様子じゃ貧民窟の連中にまともな判断力や常識が期待できるとは思えない。衝動的にエルザさんを襲う馬鹿がでてくる可能性は有り得るんじゃない?」
「まぁ……」
確かにそれは十分にあり得る。ああした連中に筋道の通った動機など期待できない。それこそその場の勢いで襲い掛かる人間が出たとしても、ノエルは全く驚かないだろう。
「本人──は、言っても止まらないかもしれないけど、せめてサリアさん辺りには警告しておいた方がよくない?」
「う~ん……」
煮え切らない態度のノエルにリュミスは不満げな視線を向ける。
「何かあるの?」
「いや……言っても無駄じゃないかな?」
消極的でやる気を削ぐような発言にリュミスがムッとするが、彼女が言い返すより先にノエルが言葉を補足し弁解した。
「その、意味がないって言うか、その辺りのことはサリアさんも──多分、エルザさんの教会の上役も織り込み済みなんじゃない?」
ノエルの言葉の意味を理解できなかった様で、リュミスは目を瞬かせる。
「織り込み済み?」
「う~ん……どう言ったらいいのかな。そもそも教会があの炊き出しを認めて支援してるのはマフィアの手駒を削る為だろうからね。流石に子供が逆恨みするとは思ってなかったかもしれないけど、例えばマフィアに唆されたチンピラにエルザさんが襲われるリスクなんかは当然想定してたはずだよ」
だから言っても無駄、と続けるノエル。
「は? ならなおのことマズいじゃない。それって囮や捨て駒みたいなことでしょ? 教会がダメならサリアさんに──」
「確認してもいいけど、さっきも言った通りサリアさんだってそんなことは承知の上だと思うよ? だから昼間も貧民窟での目立つ活動は避けるようにしつこく苦言を呈してたんだろうし。あの感じだとエルザさんも事情は理解してて、何度もサリアさんとやり合ってるんじゃないかなぁ……」
リュミスは昼間の二人のやり取りを思い返し、ノエルの推測が恐らく当たっているだろうことを理解する。
「なら──」
リュミスはどうすればいいのかと言いかけて、すぐに理解し閉口した。
──ひょっとして、どうしようもない感じ……?
これはある種の戦争だった。立場のある組織と大人たちが、それぞれの思惑と責任の上、全てを理解した上で行動している。偶々居合わせ事情を知ってしまっただけの第三者が軽々に介入できることではなかった。
教会とマフィアは対立する面子と実利に基づき行動しており簡単には引き下がれない。
エルザは自分の危険を覚悟の上で行動していて、サリアはそんなエルザを止められない。
貧民窟の住人たちは状況に応じて跳ねまわるボールのようなもので、何も期待できないし期待するだけ無駄だ。
もしこの状況を変えられるとすれば圧倒的な上位者の介入ぐらいしか思いつかないが、この自由都市でマフィアや教会勢力をものともしない権力者など存在しない。
存在するとすれば、そう──
「…………」
この時ようやくリュミスは、ノエルがけだるそうに、やる気のない素振りを見せている理由を理解した。




