第21話
どうやって拘束を解いたのかは分からない。だがそこには確かに自分たちが捕らえていた見習い魔術師の姿があった。
暗がり、遠目でハッキリとは見えないが、服を着る余裕まではなかったのだろう。素っ裸のまま暴行を受けたボロボロの身体で逃げようとしている。
「何ぼうっとしてやがる! 追え!!」
『────っ!』
最初に我に返ったのはドルトンだった。
その指示にローハンとグライフの二人が反射的に駆け出し、ドルトン自身も罠を警戒するように少し後から彼らを追う。
「ああ、もう! どうやったらあの状況で逃げられるんすか!?」
「うるせぇ! 儂が聞きてぇよ!!」
走りながらグライフが捕虜を取り逃がしたローハンに文句を言い、ローハンは自分のせいじゃないと弁解する。
──さっき見た指輪は結局何だったんだ?
逃走する見習い魔術師の動きはよろよろしていておぼつかない。あちこち骨にヒビくらいは入ってるだろうボロボロの身体の割によく走ってはいるが、このペースならほどなく追いつけるだろう。
だからローハンには走りながら思考を巡らせ罠を警戒する余裕があった。
──あれは本物の指輪だったか? もし本物だったならどうして坊主は逃げる必要がある?
ローハンが見たあれが本物の“支配の指輪”なのだとしたら、彼はどうしてその力を自分たちに使おうとしないのか? 何か使用に条件や代償がある? 使えないならどうして指輪を嵌めた? 使えないものを嵌めても敵の目を引くだけで何の意味もない。つまり──
──あの指輪は十中八九偽物! 指輪を嵌めた小僧を囮に何か仕掛けてくると考えるべきだ……!
ローハンは胸中でそう結論付け、ほんの一、二歩グライフを先行させ、自分は足元に何か仕掛けられていないか目を光らせた。本当なら奇襲を警戒してもっと安全マージンを取りたいが、既に彼は失態を犯している。後方で目を光らせているドルトンの手前、あまりあからさまなことはできなかった。
「クソッ、意外に速ぇ……!」
グライフが毒づく。前を行く見習い魔術師との距離は詰まっては来ているが、彼の移動速度は見た目より速く、中々距離を詰め切れないでいた。
既に彼らは集落を離れ、森の中に足を踏み入れている。まだ木々の密集度は浅く姿を見失うようなことはないが、走りにくい上に罠や奇襲のリスクも高まる。
「何チンタラしてんだ! 急げ!!」
ローハンの足が鈍ったのを見て取ったドルトンの怒声が飛ぶ。その声に込められた苛立ちを感じとりローハンは加速するが、足元の茂みが邪魔して中々速度が上がらない。
──どういうことだ? 条件は同じはずなのに、どうして小僧との距離が詰まらねぇ!?
いや、身体はボロボロ、裸で靴も履いていない彼の方が明らかに条件は悪い。にも拘わらず、森に入ってから彼我の距離はほとんど縮まっていなかった。
そのことを疑問に思い始めた頃──彼らは突然森を抜けて拓けた場所に出る。
「しめた!」
グライフが喝采を上げる。森を抜けた先にあったのは切り立った崖と川──行き止まりだ。川は轟々と音をたてて激しく流れていて、暗闇の中落ちれば泳ぎに自信のある者でも命はないだろう。
崖の端で立ちすくむ少年に、ローハンたちは逃げ道を塞ぎ囲むようにしてゆっくりと距離を詰めていった。
「へへっ……随分手間をかけさせてくれたじゃねぇか。色々隠し事があったみてぇだな? どうやってあそこから逃げ出したのかも含めて全部吐いてもらうぜ」
ローハンは横にいるドルトンに聞かせるように、これは自分の失態ではなく目の前の小僧が何か仕掛けたのだとアピールしながら少年を追い詰める。
そして恐怖と絶望に歪んだガキの面を見てやろうと、あと五メートルほどの距離に近づく──
『────っ!?』
──グリン、と少年が勢いよく振り返った。
それ以上、特段彼は何をしたわけでもない。ただ振り返っただけ。だが、そこに浮かんでいた狂気的な笑みに、場慣れしたローハンたちでさえ一瞬絶句し、たじろいでしまった。
「ケケ……ケケケッ」
崖を背に、彼は大きく両手を広げ笑みをこぼす。
「ケケケ、ケヒャ、ケヒャヒャヒャ、ケヒャァァァァッ!!!」
その笑い声は徐々に大きくなり、やがて狂ったかのような絶叫が辺りに響き渡った。
ローハンたちがその狂気に気圧されて動けずにいると、彼は唐突に哄笑を収め、満面の笑みを浮かべその場で深々と一礼。
「バーイ」
そして軽々と一歩後ろに跳躍し──深く激しい川の流れに身を投げた。
『…………』
突然の投身自殺に呆気にとられ、ローハンたちが我に返るまでたっぷり三〇秒ほどの時間を必要とした。
のろのろとした足取りで崖の端へと向かい彼が身を投げた川を見下ろすが、そこに足場のようなものは見当たらず、ここから飛び降りたら助からないと一目見て分かる。
あの見習いは間違いなくここから飛び降りて死んだ──筈だ。
空でも飛べれば話は別だが、そんなことが出来るのなら最初から飛んで逃げればいいのだからその可能性は考えにくい。
「……追い詰められて、気が狂ったってことっすかね?」
毒気を抜かれた様子で自分に言い聞かせるようにグライフが呟く。
確かにそうとしか思えない。思えないのだが──
「……いや。狂ってたにしちゃ、少し不自然だ」
ドルトンが周囲を警戒しながらそれを否定した。ローハンが相槌を打ち、先を促す。
「って、言いますと?」
「狂ってたにしちゃあ、逃げ方にハッキリ目的意識があった。それにあのガキなんでわざわざこっちに逃げてきたんだ?」
「……確かに」
ドルトンの言葉にローハンは同意して頷く。しかしグライフは意味が分からず首を傾げた。
「どういう意味っすか?」
「……助かりたいなら、わざわざ人気のない方に行かず大声出して他の村人に助けを呼べばいいだろ。ただでさえ今この村は騎士が滞在してるんだ。騒ぎを起こせば俺たちが警戒して逃げ出すと考えるのが普通だ」
なるほど、とグライフも理解して頷く。単純に自分たちと逆方向に逃げたのだと思っていたが、本気で助かりたいなら村から離れるのはおかしい。単純に逃げ出した時点で錯乱していて正気でなかったとも考えられるが、それならあれほど素早く動けたことに違和感が出る。
何かおかしい。
「……ローハン。そういやお前、さっきおかしなこと言ってたな? グライフがお前を呼びに来たとかなんとか。話せ」
「へい」
頷いて、ローハンはドルトンを呼びに行ったはずのグライフが、何故か一人で戻ってきて『ドルトンが急ぎの用事で自分を呼んでいる』と逆に呼び出されたことを説明した。無論、その直前に見たノエルの指に嵌まっていた指輪については──自分の立場が──ややこしくなるから省いている。
説明を聞いたドルトンが顎に手をやり考え込んでいるのを見ながら、ローハンもそう言えば、と首を傾げた。
──そういや、あの坊主が飛び降りた時、右手に指輪は嵌ってたか……?
暗かったし、少し距離があったのでハッキリとは見えなかった。だが記憶の中の映像を思い返す限り、指輪はなかったような気がする。無論、見落としていた可能性も多分にあるわけだが──
「ローハン」
「へ、へい?」
考え事に耽っていたところ、再びドルトンに呼びかけられ我に返る。
「確認するが、お前が見たのは確かにグライフだったんだな?」
問われて、改めてその時のことを思い返す。
「──へぇ。今思い返せば、何か違和感みたいなものがなかったわけじゃありやせんが、具体的にどこがおかしかったかと言われれば答えられません。儂にはあれがグライフに見えました」
「なるほどな」
ドルトンはその言葉に頷き、さらに十数秒ほど考えて口を開いた。
「──撤収だ。すぐにこの村を離れるぞ」
『────』
その言葉に二人は顔を見合わせ、代表してローハンが口を確認する。
「旦那の判断に否はありやせんが、判断の理由を伺っても?」
「不確定要素が大きすぎる」
ドルトンは一言、そう告げた上で判断の根拠を補足した。
「まずローハン。お前が見たって言うグライフだが、恐らくは幻術だろう。お前が見抜けなかったってことは、恐らく中級以上の魔術師がこの件に関わってる可能性が高い」
「……確かに」
ローハンも同じことを考えていたので、それに関しては直ぐに同意する。
あれは姿だけでなく声や体臭までグライフそのものだった。マジックアイテムの可能性もあるが、相応の実力者が関与していると考えて行動すべきだろう。
「じゃあ、ひょっとしてさっきの坊主も幻術だったりしますか?」
「……いや。その可能性は低いだろう」
グライフの意見をドルトンは一瞬考えた後、かぶりを横に振って否定した。
「幻術はよほど高位の物でない限り術者から離れると霧散してしまうからな。近くにそんな気配はなかったし、仮に術者があの坊主に化けていたんだとして、俺たちの目を騙して逃げる隙があったか?」
「う~ん……飛び降りた時に幻術を解いて飛行魔法か何かで──は、流石に無理がありますね」
「そうだな。不可能とは言わんが、それができるのはよほど高位の術者だけだろう。飛び降りた時、俺たちが奴から目を離すという保証もなかったわけだしな」
つまり、あの飛び降りた少年は本物だったと結論付けて、ドルトンたちは話を続ける。
「問題は、これだけの呪文が使える者が関わっていながら、対応が後手後手で俺たちに直接攻撃してくる様子が無いことだ」
「あ~、確かに。いくらでも先手をとれそうなのに仕掛けてこないっすね」
戦いは多少の戦力差があろうと先手を取った方が圧倒的に有利だ。暗に敵がその気だったら危うかったということを認めつつ、グライフは頷いた。
「それに元々この一件は支配の指輪の行方を追うって話だったはずだ。もしそいつが指輪を持ってるんだとしたら、ここまで俺たちを振り回しておいて指輪を使わんというのもおかしな話だと思わないか?」
「つまり……敵に厄介な魔術師がいる可能性が高い上に、目当ての指輪がここにないんで引くってことですかい?」
「いや、そうじゃない」
ローハンの確認を、しかしドルトンはキッパリ否定した。
「敵が厄介だから引くというのはその通りだが、指輪がここにないと断じるのは少し早計だ」
『…………?』
意味が分からずローハンとグライフは訝し気に顔を歪める。
「どうして仕掛けてこないのか──例えば、敵が俺たちを殺したり操ったりしたらどうなると思う?」
「へ? それは──」
グライフはドルトンに問われ、すぐにその意味を理解した。
「……なるほど。もし俺らが死んだら、依頼主はこっちに本命の指輪があるってことに気づくかもしれないっすね……あれ? でも操って、依頼主に何事も無かったって報告させたら?」
「同じことだ。いくら強力なマジックアイテムだろうと、操られた痕跡を完全に消せるわけじゃあないだろう。少なくとも、使った人間も学院の化け物相手に痕跡を誤魔化せるかどうかまでは判断がつかないはずだ」
「……つまり旦那は敵が指輪を持っていて、儂らの依頼主にそのことを悟らせないよう、わざと儂らを見逃してる可能性を疑ってるんで?」
ローハンの確認にドルトンは無言で頷きを返す。
ドルトンの判断根拠に二人は納得し、その上でローハンはもう一つ確認した。
「じゃあ、このまま撤収して、状況を依頼主に報告するってことでいいですかい?」
「……いや」
ドルトンは少し悩む素振りをして、首を横に振る。
「今の話は全部俺の推測だ。このまま報告しても依頼主は相手にしちゃくれんだろう。無駄なリスクを負うつもりはないが、それは面白くない」
「じゃあ、一旦村から離れて、改めて様子を窺うってことですかい? 向こうにこっちの正体が知られてて、しかもこっちは敵の正体について手がかり一つないとあっちゃあ、少し難しい気がしやすがねぇ」
タダ働きはごめんだというドルトンの考えには同意するが、しかし現実問題難しいだろうと疑問を呈するローハン。その言葉にドルトンはニヤリと笑って見せた。
「なに、手がかりならあるさ。この村じゃ今まさにおかしなことが起きてるわけだろう? これを偶然と片付けるのは少し出来過ぎってもんさ」
ドルトンたちがそんなやり取りをしている頃、ノエルの小屋では──
「うぉぉぉぉっ!! 起きろぉっ! 起きなきゃ死ぬわよぉっ!!?」
縛られたまま気絶したノエルの上で、リュミスが彼を起こそうと激しくスタンピングしていた。




