第16話
「……そっか。テレーゼとのことは上手くいきそうなんだ」
「ああ。ただそうは言っても、平民育ちの息子がいきなり女連れでやってきたら伯爵様──いや、父上の印象も悪いだろうからな。領地に呼ぶのは少し先のことになりそうだ」
人気のない村の外れで、獣除けの柵に背を預けながら話をする。二人にとっては幼い頃から村人たちの目を避けてくだらない雑談を交わしてきた馴染みの場所だ。
テオの態度は以前話をした時と何ら変わらないように見える。貴族になるからと偉ぶることもないし、ノエルを見下したり優越感に浸っている風でもない。
それでも彼に違和感を感じてしまうのは、以前と違ってテオの身なりが整えられていているからか──あるいは自分の無意識の嫉妬がそう思わせているのかもしれないな、とノエルは薄く苦笑した。
「ん? どうした?」
「──いや、何でもないよ。それより折角の猶予期間だってのに、早速覚えなきゃいけないことがたくさんあって大変そうだね」
ノエルが話題を変えると、テオは弱った風に、しかしカラッと明るく笑う。
「そ~なんだよ~。朝から晩まで礼法やら言葉遣いやら叩きこまれて、もう頭パンクしそうだっての。まあ、読み書きやら一般教養やらの座学は向こうに行ってからってことだからまだマシなんだろうけど──いや、とにかく大変だ」
「そう」
ノエルはテオが呑み込んだ言葉に気づかないふりをして尋ねる。
「おばちゃんたちの話じゃないけど、どうせ向こうにいったら嫌ってほど貴族の教養やら作法やらを叩きこまれるんだし、こっちにいる間くらいのんびりしたら? 付け焼刃の礼法なんてどうせ伯爵様にはすぐ見破られちゃうだろうしさ」
「そういうわけにはいかないさ」
ノエルの提案をテオはキッパリと否定した。
「ここには伯爵様はいないけど、将来部下になるかもしれない人たちが俺を見てる。ただでさえあの人たちは平民育ちの俺に仕えなきゃいけないってことを不満に思ってるだろうからな。立場を弁えずにダラダラ時間を無駄にしてたら、直ぐに見放されちまうよ」
「……そう忠告されたんだ?」
「よく分かったな」
弟分に見抜かれたことに驚くでもなく、ニカッと笑うテオ。
「実際俺はあの騎士様たちから見れば、何の取り柄もない馬の骨だからな。せめて努力する姿勢だけでも見せないと。俺もノエルみたいに頭の出来が良けりゃなぁ~」
「そんなこと……取り柄がないなんて言わないでよ。テオ兄のおかげで今まで僕や村の皆がどれだけ助かってたか……実際、今もテオ兄の後釜が見つからなくて、僕まで駆り出されてるんだよ?」
ノエルのフォローにテオは何の感銘を受けた様子もなく、ゆるゆるとかぶりを横に振る。
「いや、実際そうなんだよ。だってそうだろ? 俺なんて所詮ガタイがいいだけの木偶の坊だ。学はないし、何か特別な技を持ってるわけでもない。そりゃ体力は人よりあるつもりだけど、腕っぷしはガキの頃から訓練を積んできた騎士様たちの足元にも及ばない。ボロっちい斧を傷めないように木を切るやり方とか、臼で楽に粉を引く方法とか、肥を汲む時に服に臭いがつかないようにするにはとか、そんなのが貴族の跡取りとして何の役に立つ?」
そう言いながらも、テオは決して自分を卑下してはない。彼の表情はどこまでも明るく前を向いていた。
「今までのことは忘れて、生まれ変わったつもりで一からやってくよ。折角ここから這い上がるチャンスなんだ。これぐらい何てことないさ」
──生まれ変わったつもりで──
平民として育ったテオは貴族となり、これまでとは全く違う人生を歩み始める。その変化は正しく生まれ変わりというほかないものだろう。
その当たり前の事実が妙に胸に刺さって、ノエルは再び話題を変えた。
「……張り切るのはいいけど、そっちにばかり夢中になって、肝心のテレーゼに愛想つかされないようにね」
テオは痛いところを突かれたといった表情で苦笑する。
「気を付けるよ。そんで、できるだけ早く向こうに呼べるよう頑張るさ」
「頑張るだけじゃなくて、ちゃんと手紙も書きな」
「お、おう……手紙、手紙か……うん」
文字を読むのはまだしも書くのが不得手なテオは顔を引きつらせる。しかしノエルとその師との関係性を思い出し、直ぐに表情を改めて頷いた。
「テレーゼならちゃんと待っててくれるとは思うけど、それと不安にさせるさせないは別問題だからね」
むしろ心配すべきはテオがテレーゼを忘れてしまうことなのだろうが、それについては兄貴分自身の問題だ。
「分かってる──と、そうだそうだ。そのことでノエルに頼みたいことがあったんだ」
「? 頼みたいこと?」
テオはノエルに向き直り真剣な表情で続ける。
「ああ。テレーゼは待っててくれるって言ったけどやっぱり不安は不安なんだ。ほら、あいつ本人のことじゃなくて、周りの連中がさ」
「ああ~……まぁねぇ」
元々テレーゼは村の男どもに人気で、特に村長の息子のアーフェンはどれだけ拒否されてもしつこく言い寄っていた。
「それでさ。ノエルには余計な虫がつかないように、見張っててほしいっていうか──」
「えぇ……?」
「い、いや、テレーゼ本人の気持ちが俺から離れたら無理に引き留めることはできないんだけど、今までみたいに俺が壁になるのも難しいだろ? そこをノエルにフォローして欲しいんだよ!」
テオは焦った様子で付け加えるが、ノエルが嫌そうな顔をした理由はそこではなかった。
「いや、そうじゃなくてさ。そりゃ勿論、僕ができる範囲ではフォローするつもりだよ? でもアーフェンとかが出てきたら、正直僕じゃ手に負えないっていうか……」
ノエルは村で重宝されているが、所詮は孤児で村における立場は低い。つい先日、テオ自身がそう判断したように、下手にアーフェンの邪魔をすれば却ってテレーゼに迷惑をかける可能性だってあるのだ。
「任せておいて」と胸を叩いて請け負うのは容易いが、あまり無責任なことは言いたくない。
「大丈夫だ」
だがそうした事情をよく理解している筈のテオは、あっさりとノエルの懸念を否定した。
「アーフェンの奴にはきっちり釘を刺しといたから」
「?」
「テレーゼにちょっかい出したら伯爵家の総力を使ってでもお前を叩き潰してやるぞ、ってな。あいつ相当ビビってたから、そこは心配しなくていい。もし忘れて何かするようなら俺の名前を出せば大人しくなるだろ」
「…………」
目を丸くするノエルに、テオは少し慌てた様子で付け加えた。
「いや、勿論俺が伯爵家の力を自由に使うなんてできっこないけど、そんなのアーフェンには分かりゃしないだろ? 村長の息子なんて馬鹿みたいな肩書に縋ってる奴なんだからさ」
「……だろうね」
「あんまりこういう“権力を嵩にきたもの言い”ってのが良くないのは分かってるけど、別に誰に迷惑かけてるわけでもないし、テレーゼを守る為なら手段なんて選んでられないからさ」
「……うん。分かるよ」
嘘ではない。ただテオはそういうことができる立場になったんだな、と驚いただけだ。
ノエルの戸惑いに気づくことなくテオは話を続ける。
「ただ村の男ども全員に釘を刺すのは難しいだろ。テレーゼが変な男に言い寄られて困ってやしないか、ノエルに目を光らせておいて欲しいんだよ。こんなこと頼める奴なんてお前しかいなくてさ。な、頼むよ?」
ちゃんと礼はするからさ、と身体の前で手を合わせて頼み込むテオに、ノエルは苦笑して曖昧に頷いてみせた。
テオとの話を終え、残りの仕事を片付けたノエルは村はずれの自分の小屋への帰路を一人トボトボと歩く。
時刻はもう夕方で、ちょうど西の山に太陽が沈み茜色の空がゆっくりと温かみを失っていくところだった。
胸にぽっかり穴が開いたような寂しさに驚きながらテオとの会話を思い出す。
多分、自分はショックを受けているのだと思う。
だが一体何にショックを受けているのかが分からない。
テオは貴族になるからといって自分を見下したり横暴な態度をとったりはしなかった。むしろ貴族になるにもかかわらず、驚くほど前と変わらない態度で自分に接してくれた。
新しい環境に馴染もうと努力し、正しく貴族としての権力を振るおうと考えているようにも見えた。
彼が貴族社会で成功するかどうかはノエルには分からないが、そうしたリスクを認識した上で、テオは生まれ変わったつもりで一から頑張ろうとしている。
喜ぶべきことだ。賞賛すべきことの筈だ。なのに──
「──いや、きっと寂しいだけだな」
ノエルは自分の胸にあるしこりをテオと離れ離れになることへの寂しさだと解釈し、それ以上の思考を放棄した。
「それより早く帰って飯の準備しないと。リュミスが騒ぎ出すと面倒だ」
いつの間にか増えていた同居人の存在に気を紛らわせる。
そして早歩きになり、自分の小屋が見えてきたところで──
「お! 坊主、また会ったな!」
「────」
昼間出会った二人組の行商人と出くわす。
ひょっとしてまだ宿が見つかっていないのだろうか。だとしたら小屋に押しかけられても面倒だな、とノエルは近づいてくる彼らにできるだけ素っ気なく応じた。
「……どうも。噂の幸運な坊ちゃんには会えました?」
「いや、入れ違いだったみてぇだ」
さして残念でもなさそうな表情で、年かさのローハンが答えた。
「そうですか。それは残念でしたね。この村は娯楽もないし夕食は家で取るはずですから、今なら会えると思いますよ?」
彼らの横を通り過ぎながら告げたノエルに、ローハンはかぶりを横に振る。
「いや、元々そっちは予定になかったし、わざわざ何度も足を運ぶほどでもねぇさ」
「そうですか。すいませんが僕は急ぐので──」
「本題はむしろこっちでな」
その言葉の意味をノエルが疑問に思うのとほぼ同時。
──ゴスッ!
突然頭を襲った衝撃に、ノエルの視界に火花が散る。
「儂らが用事があったのはお前さんの方なんだよ。盗っ人魔術師のお弟子さん」
倒れ込み、意識が闇に落ちる寸前、剣を片手に自分を見下ろすグライフの姿が見えた。




