第11話
テオ兄のことを尊敬していた。
誰一人頼れる者のいない世界で、理不尽に屈することなくその身一つで戦い続けてきた彼の姿を知っている。
僕が先生に拾われて彼より恵まれた環境にいた時も、そのことでくだらない優越感を抱いていた時でさえ、テオ兄は僕への態度を変えることがなかった。
彼より強い者や優れた者は勿論、心優しい者も、世界にはきっとたくさんいるのだろう。
けれど──どん底から一つずつ積み上げてきた彼の人生を、僕は何より尊敬していたのだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「んあ゛…………?」
調合作業の途中で寝落ちして、不自然な体勢で寝た身体の痛みで目を覚ます。
ノエルは凝り固まった身体を大きく伸びをしてほぐし、よろよろとした足取りで作業場を出た。そして土間の片隅にある水を溜めた壺に両手を突っ込み、バシャっと水を顔にかけて眠気を覚ます。顔を拭く布を準備するのを忘れていたことに気づいて、仕方なく袖で雑に水気を吸い取り、はぁ、と大きく息を吐いた。
ボーッとしながら頭の中で今日の予定を確認し、脳をアイドリングさせる。
村の人間に頼まれていた薬の調合は昨日無理をした甲斐あって既に終わっていた。修理の依頼も急ぎのものは片づけたし、今日は薬を届けた後は特に用事はない。
偶にはノンビリ魔導書を読み込んだり修行に精を出してもいいし、溜まっている家の掃除や道具の手入れをするのも悪くない。また仕事に目を向けるなら、そろそろ村の獣除けの柵が補修の時期を迎える。どうせ自分が──無料で──修理を押し付けられるのであれば、破損個所が小さいだろう今のうちに修理しておくというのも、時間の有効活用という観点からは悪くなかった。
どうしたものか決めかねるまま惰性でノソノソ駆動開始。竈に火を入れて今日で三日目になる薄いスープに熱を通し、横でフライパンを温め卵を落とす。その間に皿を二つ並べ、その一つに硬い黒パンを置く。先に温まったスープをよそい、次いで目玉焼きを黒パンの上に載せて朝食の準備完了。
ノエルは食事は基本一日二食で、夜は仕事で食べそこねることも珍しくないため、朝だけはしっかり食べるようにしていた。
スープを一口すすって喉を潤し、続いて硬いパンを卵の白身ごと噛みちぎる。硬くて口の中に残るパンに再びスープをすすって汁気を与え、噛みほぐして喉の奥に強引に押し込んだ。
──ガタッ
「うん?」
寝室の方から物音がした。
このボロ小屋に泥棒も強盗もないだろうから、ネズミでも入り込んだか?
ノエルは口の中にものを入れたまま立ち上がり、寝室の戸を開けてその中を観察した。
パッと見て動くものは見当たらないし、部屋が荒らされた様子もな──いや。
──手紙の封が開いてる。
昨日、机の上に置いてそのままにしていた師からの手紙と小箱の位置が、記憶にあったそれとは違っていて、手紙は封蝋が崩れて開いた形跡があった。
慎重に部屋の中を見回すが、寝室には人間が隠れられそうなスペースはベッドの下ぐらいしかない。部屋の中に自分以外いないことを確認し、ノエルは机に近づき改めて手紙と小箱を観察した。
小箱はしっかり封印されていて、中が開かれた形跡はない。
一方、封筒は指で封の部分を触るとペラッと浮いて、完全に一度開かれている。だが手紙そのものは封筒に入ったままで、中身が抜き取られたということもなさそうだ。
──わざわざ手紙だけを盗み見た?
ノエルは侵入者の意味不明な行動に顔を顰める。そして状況を把握しようと、侵入者が読んだであろう師からの手紙に手を伸ばした。
──カタン
今度は食事をしていた土間の方から音がした。先ほどより音は小さく、ボーッとしていたら聞き逃していたかもしれない。
「…………」
ノエルは手紙と小箱をポケットに押し込むと、忍び足で戸の方へ移動。そしてその場で大きく息を吐き、勢いよく戸を開けて土間の中に踏み込む。
──ドンッ!
「はぐはぐ……はぐ……ミャ?」
「…………」
そこで彼が目にしたのは、ノエルの朝食の皿に頭を突っ込み、一心不乱にそれを食い荒らしている一匹の猫。
小さな泥棒はノエルと目が合い、互いにその場で硬直する。先に我に返ったのはノエルだった。
「『起動 接続──【魔法の手】』」
超短文の呪文詠唱でノエルの指先に浮遊する不可視の“手”が生み出され、猫を拘束すべく飛翔する。しかし──
「フニャ?」
「────!?」
不可視の手は猫に触れた瞬間霧散してしまう。しかも猫自身は何が起こったか分かっていない様子だ。驚愕と警戒に再びノエルの身体が固まった。
それに遅れてようやく猫も我に返り、慌ててその場から逃げ出そうとする──が。
「フミャ……ッ!?」
余程お腹が空いていたのか、あるいは単に食い意地が張っていたのか。猫は逃げる際に黒パンを咥えていこうとし、その重さでバランスを崩しテーブルからの着地に失敗。
「フニュゥ~……」
「…………」
頭から土床に衝突し、その場で目を回してしまった。
数分後。
「…………」
「……ミャ~?」
部屋の中には手足を細い紐で縛られ土床に転がされた猫と、足組みして椅子に座り不機嫌そうにそれを見下ろすノエルの姿があった。
黒白ハチワレの毛並みをしたその猫は慈悲を請うようにあざとい上目遣いでノエルを見上げるが、貴重な食料を奪われたノエルの怒りは収まる気配がない。
「…………」
「……ミャ、ミャ~?」
「…………」
「…………」
無言のプレッシャーに、猫は冷や汗を流して押し黙る。
その沈黙はたっぷり一分ほども続いただろうか? ノエルが深々と溜め息を吐いて口を開く。
「…………はぁ。猫のフリはもういいよ。君、喋れるんでしょ?」
「────!?」
ノエルの指摘に猫の目が大きく見開かれる。
「最初は同業者が呪文で猫に化けてるのかとも思ったけど、だとしたら捕まってまで変身を解かない理由がない。使い魔の類なら観察すればすぐに分かる。多分幻獣──ケット・シーとかかな」
ノエルの推理に彼女はしばし窺うように彼の視線を見つめ返し、やがて観念したように口を開く。
「……よく気づいたわね」
「僕はさっき君を拘束しようとして【魔法の手】って呪文を使ったけど効かなかった。この呪文にはマジックアイテムとか幻獣・魔獣とか一定以上の魔力を持った対象には弾かれるって性質があってね。見た目通りの猫じゃないことはすぐに分かった。後はさっき言った通り可能性を潰していった結果だよ」
猫はやけに人間臭い仕草で溜め息を吐き、白状する。
「……はぁ。貴方の推測通り、私は猫の貴種ケット・シー。でも猫とかケット・シーって呼ばれるのもいやだし、リュミスって呼んでちょうだいな」
名前まであるのか、未知の文化にノエルは片眉を上げて意外そうな顔をした。
ケット・シー──猫の貴族とも王族とも称される妖精の一種。
高い知性を持って人語を操り、過去には魔法を使える個体も確認されている。性格は猫らしく気まぐれで、決して人類に対して敵対的ではないが必要以上に関わろうともしない。ケット・シーと接触した学者によれば、独自の文化と王国を形成しているとのことだがその生態は未だ謎に包まれている。童話などにもたびたび登場し、二足歩行で歩く怪盗「バンバリン」の話が有名だが、実際にケット・シーが二足歩行をした事例は確認されておらず、創作だろうという説が有力だ。
「…………」
「…………」
「…………」
「……え~っと……この縄、解いてくれない?」
「なんで?」
「…………」
気品あふれる仕草で言葉が通じる相手であることをアピールしたリュミスだったが、残念ながらノエルの琴線には何ら響くものがなかったらしい。
ノエルは彼女を見下ろしながら足を組みなおし、冷めた目つきで告げた。
「猫だろうとケット・シーだろうと、人の家に潜り込んで家を荒らした害獣には違いないし」
「害獣!?」
「ああ。人間の住む領域に入り込んで食い物を荒らす獣のことを、僕ら人間は害獣と呼んでるんだ。一つ賢くなったね」
「いや言葉の意味は分かるしご飯を食べたのは悪かったけどちょっと待って待ちましょう話を聞いて」
焦った様子でまくしたてるリュミスの言葉を、ノエルは屠畜場に運ばれる豚を見るような目つきで鷹揚に頷き、聞いてやることにした。
「貴方も私みたいな高貴な幻獣が人里に現れた理由が気になってるんでしょうそうに違いないわ」
「いや、まったく」
「気になってるのよ! 照れないで素直になってさあリピートアフターミー“リュミスさまのことが知りたいで──」
「さて、と──」
「──ああ嘘冗談です! だから話を聞いてお願いします〆て毛皮にしてやろうかみたいな目つきで私を見ないで!」
このままでは命が危ないと焦りまくるリュミスに、ノエルは安心させるように優しい笑みを浮かべる。
「安心しなよ。仮にも君は幻獣だ。そんな雑で酷いことはしないよ」
「“仮にも”ってのが気になるけどホントね!? 嘘だったら恨むわよ!?」
「ああ。生きた幻獣の検体なんて学院に持ち込めば高く売れるだろうからね」
「実験はいやぁぁぁぁぁっ!!?」
手足を縛られたままジッタンバッタンと土床の上を跳ね転げるリュミスの様子に、ノエルは食事を奪われた留飲を下げ、少し揶揄い過ぎたかと反省する。
ノエルとしてもご飯を取られたぐらいで言葉が通じる相手を殺したり売ったりしようなどとは思っていなかった。そもそも学院に持ち込もうにも学院がある最寄りの町までは距離があるし、売り払う伝手もない。流石に儲かりもしない嫌がらせのためだけに、そこまで手間をかけてはいられなかった。
ノエルがそろそろネタバラシをしていいかなと考えていると、焦ったリュミスは命乞いのつもりか奇妙なことを言いだす。
「そ、そうよ! 私を殺したり売ったりすると大変なことになるわよ!?」
「へ~、猫の呪いとか?」
「そんな非科学的なことじゃなくて、このままじゃあんたは学院の刺客に殺されることになるわ!」
「────は?」
どんな命乞いが聞けるかとニマニマしていたノエルだが、学院の刺客という突拍子もない発言に目を丸くする。
「信じてないでしょ!? でも本当なの! 今はまだ学院の連中も気づいてないでしょうけど、いずれここを突き止めるわ! あんたの師匠が送り付けた“指輪”を狙って──」
「いや、ちょっと待って。一体何の話──」
「だから──」
困惑するノエルになおもリュミスが言い募り──その言葉を遮るように、小屋の外から村人の叫び声が聞こえてきた。
『お~い!! 大変だっ! テオの野郎が──!!』
「────!」
その兄貴分の名を聞いた瞬間、ノエルは取るものも取り敢えず弾かれたように外へと駆けだしていた。
「──って、ちょっと待ちなさいよ!? せめてこの縄を解いていけぇぇっ!!」
手足を縛ったリュミスをその場に転がしたまま。




