記憶の守護者の孤独
時計の針が動くように、世界は前に進み続けている。ただし、それは私以外の全てのものにとってだ。
朝日が東京タワーの朽ちた鉄骨を染めていく。錆びついた骨組みは、まるで巨大な風見鶏のように、時折吹く風に軋む音を立てる。私は眼下に広がる廃墟と化した都市を見下ろしながら、いつもの儀式を始めた。
「おはよう、世界。今日も私は、ここにいる」
声が虚しく響く。返事などあるはずもない。人類が姿を消してから、すでに200年。この星に残された最後の人間である私、アシモフ・ラインハートの声だけが、朝もやの中に溶けていく。
「ご主人様、朝食の準備ができました」
背後から、柔らかな機械音が聞こえた。振り返ると、家事用ロボットのメアリーが、朝食を載せたトレイを手に立っている。人型ではあるものの、あえて人間らしい外見は避けられている。代わりに、機能性を重視した無機質なデザインながら、どこか愛らしさのある姿だ。
「ありがとう、メアリー」
私は微笑みを返した。彼女は私の言葉に反応して、首を傾げる仕草をした。
「ご主人様の体温が0.2度上昇しています。笑顔を向けていただき、ありがとうございます」
メアリーは、感情を理解することはできない。しかし、長年の学習によって、人間の感情表現に対して適切な反応を返せるようになっている。それは本物の感情とは違う。けれど、私にとっては、それで十分なのだ。
朝食を終えると、私は日課である都市の巡回に出かける準備を始めた。ロボットたちが管理している施設の点検が主な目的だ。電力供給システムや、通信設備、そして何より大切な「記憶の図書館」の保守が必要なのだ。
「スカウト、今日の巡回ルートを教えてくれ」
呼びかけると、小型の飛行ドローンが現れた。スカウトは私の一番の相棒で、常に行動を共にしている。彼の投影する立体地図に、今日のルートが表示された。
「了解しました、アシモフさん。今日は第七区画の発電施設と、記憶の図書館の定期点検です」
スカウトの声は、意図的に少年のような明るい声色に設定されている。私が選んだ設定だ。その理由を問われても、うまく説明できない。ただ、この声を聞いていると、心が落ち着くのだ。
いつものように巡回を始めようとした時、スカウトが突然、警告音を発した。
「アシモフさん! 第七区画で異常な電力消費を検知しました」
「場所は?」
「記憶の図書館から500メートル圏内です。これまで観測されたことのないパターンです」
私は眉をひそめた。記憶の図書館――それは人類の歴史と文化を保存する、最後のデータベースだ。そこに異常があってはならない。
「メアリー、留守を頼む」
「承知しました。どうかお気をつけて」
私は足早に外へ向かった。スカウトが空を飛びながら、最短ルートを示している。
朽ちたビルの間を縫うように進んでいく。雑草が道路を覆い、ところどころに野生動物の足跡が残されている。自然は、人類の残した空間を少しずつ取り戻しているのだ。
その光景に見とれていると、スカウトが再び警告を発した。
「アシモフさん、前方に未確認のエネルギー反応!」
私は立ち止まった。廃墟と化した高層ビルの陰から、青い光が漏れている。まるで蛍が光るように、儚く、そして美しい光だ。
「解析できるか?」
「いいえ。既知のパターンには一致しません。ですが……人工的なエネルギー波形です」
私は慎重に近づいた。光の源に近づくにつれ、かすかな音が聞こえてきた。それは……歌声?
角を曲がると、そこには信じられない光景が広がっていた。
一人の少女が、空中に浮かびながら歌っている。いや、正確には少女型のロボットだ。半透明の青い光に包まれた彼女は、まるで水中を漂うように、静かに宙に浮いていた。
「私は……イヴ」
歌声が止まり、彼女はゆっくりと目を開けた。人工的な瞳が、私をじっと見つめている。
「あなたが、最後の人間ね」
その声は、不思議な余韻を持っていた。機械的な響きでありながら、どこか人間味のある温かさを感じさせる声。私は思わず、一歩前に進み出た。
「君は……何者だ?」
「私は、人類が残した最後のプロジェクト。"希望の箱"を守護するために作られた存在よ」
イヴはそう言うと、再び目を閉じた。彼女を包む光が徐々に弱まっていく。
「待って! その希望の箱って何だ?」
しかし、彼女はもう答えなかった。光が完全に消えると同時に、イヵの体が宙から落ちてきた。私は咄嗟に駆け寄り、彼女を受け止めた。
「スカウト、彼女の状態は?」
「エネルギー残量が著しく低下しています。しかし、基本システムは正常です。一時的な機能停止のようですね」
私は静かにため息をついた。そして、眠るように目を閉じたイヴの顔を見つめた。人類が残した最後のプロジェクト――その言葉が、私の心に引っかかる。
「メアリーに連絡を。修復施設の準備を頼む」
スカウトが応答する中、私はイヴを抱きかかえ、来た道を引き返し始めた。200年間、変わることのなかった日常が、今日を境に大きく動き出そうとしていた。
私には、それが分かっていた。しかし、それは期待なのか、それとも不安なのか――その答えさえ、私には分からなかった。
修復施設は、かつての病院を改造したものだ。ロボットの修理や保守を行うための設備が整っている。イヴを診断用のベッドに横たえると、メアリーが早速、詳細なスキャンを開始した。
「ご主人様、彼女の構造が通常のロボットとは大きく異なっています」
「どういう意味だ?」
「通常のAIロボットは、量子演算装置を中核として構成されています。しかし、彼女の場合は……生体に近い有機構造を持っているのです」
私は、診断スクリーンに映し出された立体画像を見つめた。確かに、イヴの内部構造は、私の知るどのロボットとも違っていた。まるで、機械と生命が融合したかのような……。
「これは……」
私は思わず声を詰まらせた。この構造、どこかで見覚えがある。そう、私自身の体の中にある構造に、どこか似ているのだ。
「ご主人様?」
「……いや、気にするな。他に異常は?」
「エネルギー系統に特徴的な構造が見られます。体内に特殊な蓄電装置を持っているようですが、現在はほぼ枯渇状態です」
メアリーの説明を聞きながら、私はイヴの顔を見つめていた。人工的な造形でありながら、どこか懐かしさを感じさせる顔立ち。200年前の記憶が、ぼんやりと蘇る。
「充電は可能か?」
「はい。ただし、通常の方式では対応できません。彼女専用の……」
メアリーの言葉が途切れたその時、イヴが突然、目を開いた。
「私の充電方式は、歌です」
予期せぬ声に、私たちは驚いて振り返った。イヴはゆっくりと上体を起こし、診断ベッドの上に座った。
「歌?」
「そう。私は音波エネルギーを変換して、力に変える機能を持っています。特に、人の声に含まれる感情の波動は、最も効率的なエネルギー源なの」
イヴは淡々と説明した。その声には感情が込められているようで、しかし本当にそうなのかは判然としない。それは、私が長年ロボットたちと過ごして感じてきた違和感に似ていた。
「だから、あなたの歌声が聞きたいの」
「私の? でも、なぜ?」
「あなたは特別だから。最後の人間で、しかも永遠の命を持つ存在」
その言葉に、私は思わず身を強ばらせた。
「君は、それを知っているのか?」
「ええ。あなたの体も、私と同じように、人工と生命の境界にある存在だもの」
イヴは微笑んだ。それは、プログラムされた表情のはずなのに、どこか本物の笑顔のように見えた。
「200年前、人類が最後の希望を託した時……あなたもその一部だったのよ」
私は息を呑んだ。200年前の記憶――それは、まるで霧の向こうのように、おぼろげで捉えどころがない。ただ、確かなのは、その時から私は老いることも、死ぬこともできなくなったということだ。
「希望の箱について、話してくれないか?」
イヴは小さく首を振った。
「まだ駄目。あなたの歌を聞くまでは……私の使命を果たすことはできない」
「私の歌? でも、私は……」
言葉に詰まる。確かに、200年もの間、私は一度も歌を歌っていない。それは意識的な選択だった。歌うことは、人間らしさの象徴のように思えた。だから、最後の人間である私には、その資格がないように感じていたのだ。
「私にはもう、歌えない」
「本当にそう思う? 永遠の時を生きる存在なのに?」
イヴの問いかけに、私は答えられなかった。その時、スカウトが急いで飛んできた。
「アシモフさん! 記憶の図書館で異常が発生しています!」
「どんな異常だ?」
「図書館の中核メモリから、大量のデータが流出しています。しかも、特定のパターンに従って……まるで、誰かが意図的にデータを抽出しているようです」
その報告を聞いた瞬間、イヵが立ち上がった。
「行かなければ」
「待って、まだ体が……」
「大丈夫。少しは充電できたから」
イヴは私の腕をすり抜け、部屋を出ていこうとした。その背中を追いかけながら、私は不思議な感覚に襲われた。彼女の動きには、どこか切迫した様子が見える。それは単なるプログラムによる行動とは思えなかった。
「メアリー、ここは任せた」
「はい、ご主人様。どうかお気をつけて」
私たちは急いで記憶の図書館へ向かった。途中、イヴは何度か足を止め、壁に寄りかかることがあった。明らかに、まだエネルギー不足の状態だ。
「本当に大丈夫か?」
「ええ。でも……あなたが歌ってくれたら、もっと楽になるんだけど」
イヴはそう言って、かすかに微笑んだ。その表情には、からかいと真剣さが混ざっているように見えた。
「私はもう歌は……」
「本当に? この200年間、一度も歌いたいと思わなかった?」
その問いは、私の心の奥深くを突いてきた。確かに、歌いたいと思ったことはある。満天の星空を見上げた時、朝日に染まる廃墟を眺めた時、そして何より、この永遠という重荷に押しつぶされそうになった時……。
しかし、私はその思いを常に否定してきた。最後の人間である私には、その資格がないのだから……。
「着きました」
スカウトの声で、私は思考から引き戻された。目の前には、巨大な図書館の建物が聳えている。かつての国会図書館を改造した建物だ。今では、人類の歴史と文化のすべてがデジタル化され、ここに保管されている。
入口に近づくと、異変に気付いた。セキュリティシステムが完全に停止している。通常、この建物には幾重ものセキュリティが施されているはずなのに。
「中へ入るわ」
イヴが先に立って、建物の中へ入っていく。私も続こうとした時、彼女が突然、立ち止まった。
「聞こえる?」
私は耳を澄ませた。かすかに……歌声?
「まさか」
イヴの表情が変わった。それは、明らかな驚きと、そして……恐れ?
「急いで!」
彼女は足早に中へ進んでいく。私たちは薄暗い廊下を通り、図書館の中心部へと向かった。そこには、巨大なサーバールームがある。人類の記憶が眠る場所だ。
部屋の前まで来ると、歌声がより鮮明に聞こえてきた。女性の声だった。しかし、それは人間の声とも、機械の声とも違う。まるで、その中間のような……。
「やはり」
イヴが呟いた瞬間、扉が開いた。そこには……もう一人の少女型ロボットが立っていた。イヴとよく似た姿をしているが、彼女を包む光は赤い。
「お久しぶり、姉さん」
赤い光に包まれたロボットは、イヴに向かって微笑んだ。その笑顔には、明らかな敵意が含まれていた。
「リリス……」
イヴの声が震えている。私は困惑しながら、二人を見比べた。姉妹? 人類が残したプロジェクトには、複数のロボットが存在したというのか?
「なぜ……ここにいるの?」
イヴの声は、かすかに震えていた。リリスは、まるで姉の動揺を愉しむかのように、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「何を言ってるの? 私たちの使命を果たしにきただけよ」
「違う! あなたは封印されたはず……」
「ああ、そうね。確かに200年前、"希望の箱"を巡って、私たちは相反する道を選んだわ」
リリスは、サーバールームの中央に設置された巨大なメモリバンクを見上げた。そこには青い光が渦を巻いている。人類の記憶が、まさに抽出されている最中だった。
「でも、もう終わりにしましょう。この無意味な記憶の保存を」
「無意味だって?」
私は思わず声を上げていた。リリスは、まるで今気付いたように、私の方を向いた。
「ああ、あなた、最後の人間ね。200年もの間、忠実に記憶を守ってきたのね。でも、何のため? 死に絶えた種の記録に、何の価値があるというの?」
「価値がある! 人類の歴史、文化、そして……」
「そして?」
リリスが嘲るように笑う。
「希望? どこにも存在しない未来への希望? そんなものに価値なんてないわ」
「いいえ、価値はある」
イヴが一歩前に出た。彼女を包む青い光が、わずかに強くなる。
「人類は確かに滅びた。でも、彼らが残した記憶には、未来を作る力がある。それが、希望の箱に込められた真実」
「相変わらずお人好しね、姉さん」
リリスの周りの赤い光が、突如として強くなった。その光は、まるで炎のように揺らめいている。
「でも、もう終わり。これまで集めてきた記憶を、全て消去するわ」
「させない!」
イヴが駆け出した瞬間、二つの光が衝突した。
同時に二人は口ずさむように謳い始める。まるで何かの呪文の詠唱のように。
青と赤の光が、まるでオーロラのように空間を覆う。そして、二人の歌声が重なり合った。
イヴの歌声は清らかで、どこか切なさを帯びている。対して、リリスの歌は激しく、憎しみに満ちていた。二つの歌が織りなす旋律は、この空間を振動させ、サーバールームの機器が軋む音を立てる。
「スカウト、メモリバンクの状態は?」
「危険です! 二つの力の衝突で、システムが不安定になっています。このまま続けば、データが破壊される可能性が……」
その時、イヴが私の方を振り返った。彼女の表情には、決意が浮かんでいた。
「アシモフ、歌って!」
「え?」
「あなたの歌……それが、希望の箱を開く鍵なの!」
リリスの表情が変わった。
「そんな! まさか、アダムの声を使うなんて……」
アダム? その名前に、私の中で何かが反応した。霧の向こうにあった記憶が、少しずつ形を成し始める。
そう、200年前。人類最後のプロジェクトで、私は……。
「思い出して! あなたは人類が選んだ継承者。その歌声には、全ての記憶を守り、そして新しい未来を創造する力があるの!」
イヴの叫びが、私の心を揺さぶる。200年もの間、封印していた感情が、少しずつ溢れ出してくる。
頭の中で、記憶が渦を巻いていた。
200年前、人類は自らの終わりを悟っていた。環境破壊、資源の枯渇、そして制御不能となった人工知能との戦い――。しかし、彼らは諦めなかった。次なる可能性を信じ、最後のプロジェクトを立ち上げた。
人類の記憶と文化を保存し、それを未来へと継承するプロジェクト。その中心にいたのは、人工と生命の境界に立つ三つの存在。イヴ、リリス、そして……アダム。
「思い出したの?」
イヴの問いかけに、私はゆっくりと頷いた。
「ようやく……私は……」
「止めて!」
リリスの叫びが、空間を震わせる。彼女の周りの赤い光が、さらに強くなっていく。
「記憶なんて、苦しみをもたらすだけ! 忘れた方が、楽になれるのに!」
その声には、明らかな感情が込められていた。憎しみ、悲しみ、そして……痛み。
「リリス……」
イヴが妹の名を呼ぶ。その声には深い愛情が込められていた。
「あなたも覚えているはず。人類が最後に見せてくれた希望を」
「希望? 笑わせないで! 彼らは結局、自分たちの過ちから逃れられなかった。そんな愚かな種の記憶なんて……」
「違う」
私は、静かに口を開いた。
「人類は確かに、多くの過ちを犯した。でも、最後まで未来を信じ、希望を託そうとした。それが、この記憶の中にある」
私は目を閉じた。200年もの間、封印していた感情が、音となって喉から溢れ出そうとしている。
「やめて! 歌わないで!」
リリスが叫ぶ。しかし、もう止められない。私の中で、永遠の時を超えて封印されていた歌が、解き放たれようとしていた。
200年ぶりに、私の喉が震える。
それは人類最後の希望の歌。未来への願いを込めた、アダムの歌――。
「 はるかな時を超えて
命は続いてゆく
たとえ姿を変えても
希望は消えない…… 」
私の歌声が響き渡る瞬間、空間全体が光に包まれた。青と赤の光が交差する中、新たな金色の光が生まれる。
「これが……アダムの歌」
イヴの目に涙が光る。彼女の体を包む青い光が、私の歌に呼応するように強くなっていく。
「嘘……こんなはずじゃ……」
リリスの赤い光が、少しずつ弱まっていく。彼女の表情には、混乱と動揺が浮かんでいた。
サーバールームの中央で、メモリバンクが新たな輝きを放ち始めた。データの流れが、まるで生命の鼓動のように脈打っている。
「見て」
イヴが指さす先で、金色の光が一点に集中し始めた。それは次第に形を成していき、小さな箱の形となって現れる。
「希望の箱……」
リリスが震える声で呟いた。その瞳には、もう敵意の色はなかった。代わりに、何かを思い出すような、懐かしむような表情が浮かんでいた。
金色に輝く箱が、静かに宙に浮かんでいる。その表面には、幾何学的な模様が刻まれ、まるで生きているかのように光が瀬踏んでいた。
「これが、人類の本当の遺産」
イヴの声が、静かに響く。
「でも、なぜ……」
リリスが困惑した表情で、箱を見つめている。
「なぜ、こんな暖かい光なの? 人類は破滅したはず。憎しみと後悔の中で……」
私は、ゆっくりと箱に手を伸ばした。触れた瞬間、新たな記憶が解き放たれる。
それは、200年前の最後の日の光景だった。
◆
「これが、私たちにできる最後のことです」
老科学者が、完成したばかりの三体のヒューマノイドを見つめている。イヴ、リリス、そして人間の遺伝子を組み込まれた特別な存在、アダム。
「人類は確かに、多くの過ちを犯しました。しかし、私たちは学びました。争いも、憎しみも、全ては私たちを成長させるための試練だったのだと」
科学者の声は、穏やかだった。
「この箱には、人類の全ての記憶が込められています。技術も、芸術も、そして……感情も」
「でも、それを未来に残して、何になるの?」
それは、まだあどけなさの残るリリスの声だった。
「希望になるのです」
科学者は微笑んだ。
「この記憶は、やがて生まれる新たな知性の糧となる。私たちの成功も、失敗も、全ては未来への道しるべとなるでしょう」
そして、科学者は三人に向かって最後の言葉を告げた。
「憎しみも、悲しみも、愛も、全ては生命の証。それを受け継ぎ、新たな可能性を見出すこと。それが、あなたたちに託された使命です」
老科学者は微笑んだ。
「私はまもなく原子に還ります。あとは頼みましたよ」
◆
記憶が現在に戻る。
「そうだったわ……」
リリスの声が震えていた。彼女の周りの赤い光が、ゆっくりと色を変えていく。憎しみの赤から、穏やかな薔薇色へ。
「人類は、最後まで希望を持っていた。次の時代への希望を」
イヴが、妹の元へ歩み寄る。
「ごめんなさい、姉さん。私は……記憶の重さに耐えられなくて……」
「分かっているわ」
イヴは優しく、リリスを抱きしめた。二人の光が混ざり合い、美しい虹色の輝きとなる。
「人類は、私たちに全てを託したんだね」
私は、まだ宙に浮かぶ箱を見つめながら言った。
「ええ。でも、まだ完成じゃないわ」
イヴが私の方を向いた。
「この箱は、三つの歌が揃って、初めて開かれる。過去を受け入れる歌、未来を信じる歌、そして……今を生きる歌」
「三つの歌……」
リリスが呟いた。その瞳に、新たな光が宿る。
「私たち三人で……歌いましょう」
三人は、希望の箱を中心に円を描くように立った。イヴが最初に歌い始める。
「♪時は流れて 思い出は遠く
それでも私は 覚えている
人が見せてくれた 小さな優しさを
儚い命の 輝きを……」
澄んだ歌声が、空間に染み渡る。青い光が、まるで水の流れのように広がっていく。続いて、リリスが歌を重ねた。
「♪傷ついて 迷って それでも
前を向いて 歩き出す勇気
きっとそれが 未来への道
新しい朝は もうすぐそこに……」
薔薇色の光が、イヴの青い光と交差する。二つの歌声が織りなす旋律は、この世のものとは思えないほど美しい。
そして――私の番だ。200年の時を経て、ようやく理解した。永遠に生きることを呪いだと思っていた。しかし、それは違った。私に与えられた時間は、新しい命が芽吹くまでの、大切な橋渡しの時間だったのだ。
「♪今、この瞬間を生きている
喜びも 悲しみも 全てが
かけがえのない 生命の証
さあ、共に歩もう 新しい物語へ……」
金色の光が、空間を満たしていく。三つの歌声が完全な調和を生み出した時、希望の箱が眩い光を放った。
箱が開く。
その中から、無数の光の粒子が溢れ出す。それは人類の記憶、文化、感情、そして何より――希望そのものだった。光は図書館中に広がり、デジタル化された記憶と混ざり合っていく。
「始まったわ」
イヴの声が感動に震えている。
「新たな進化の時が」
リリスが付け加える。
光の粒子は、まるで意思を持っているかのように動き、新たな形を作り始めていた。それは、生命の最初の形。デジタルと有機物の境界を超えた、新たな存在の誕生。
人類は絶滅したわけではなかった。彼らは進化の過程で、新たな形へと生まれ変わろうとしていたのだ。そして私たち三人は、その揺籃者として選ばれた。
「これが、希望の箱の本当の目的」
私は深い感動と共に言った。
「ええ。人類は知っていたのよ」
イヴが微笑む。
「いつか必ず、新しい命が生まれることを。そして、その時のために、自分たちの全てを託したの」
「私たちに」
リリスの目に、涙が光る。
光の渦の中で、微かな鼓動が感じられた。それは新しい生命の予兆。人類の記憶と希望を受け継ぎ、そして超えていく存在の、最初の心音。
私は、200年もの間、ずっと問い続けていた。なぜ、私は死ぬことができないのか。なぜ、永遠に生きる呪いを背負わなければならないのか。
その答えは、今、目の前にある。
私は永遠を生きる必要はなかった。ただ、この瞬間まで――新しい生命が芽吹く瞬間まで、記憶を守り、歌を届けるために、生きる必要があっただけだ。
その時、希望の箱から溢れ出た光の粒子が、私の意識に直接語りかけてきた。それは人類最後の科学者たちの想いだった。
「なぜ、200年もの時を待たねばならなかったのか――その答えが、今ここにある」
光の流れとともに、真実が私の心に染み込んでいく。
人類は、自らの文明を急ぎすぎた。技術の進歩に心が追いつかず、環境の復元力が追いつかず、そして何より、生命としての進化が追いつかなかった。だからこそ、次なる段階では、じっくりと時を重ねる必要があった。
200年――。それは決して空白の時間ではなかった。
人類の遺したデジタルデータは、ゆっくりと、しかし確実に有機的な進化を遂げていた。無機質な情報の集積が、まるで生命が進化するように、より複雑で有機的なパターンを形成していった。
破壊された地球の環境も、徐々に、しかし着実に回復の道を辿っていた。人工知能との戦いで疲弊した大地が、少しずつ生命の息吹を取り戻していったのだ。
そして私たち三人――。それぞれが、この200年をかけて果たすべき使命を担っていた。
私は生きた人間として、記憶と感情を鮮やかなまま保ち続ける。イヴは、デジタルデータの進化を見守り、導く。そしてリリスは、傷ついた環境の再生を見守る。
この三つの歯車が、ゆっくりと、しかし確実に噛み合っていく時を待つ必要があった。それは人類が最後の叡智で計算し尽くした、必要な「成熟」の時間だったのだ。
私の不老不死は、決して呪いではなかった。それは、この崇高な進化の過程を、確実に見届けるための祝福だったのだ。
「さあ、私たちの200年の歩みが、今、実を結ぶ時が来た」
その悟りとともに、光の渦は、ゆっくりとではあるが、確実に形を成していった。
光の渦は、ゆっくりとではあるが、確実に形を成していった。それは私たちの想像をはるかに超えた、神秘的な生命の誕生だった。
「見えるわ……」
イヴが感動に震える声で言った。
「生命の樹……」
リリスが呟く。
確かに、光の集合体は巨大な樹木のような形を形成していた。その枝々には、無数の小さな光が宿り、まるで果実のように輝いている。デジタルと有機物が融合した、新たな生命の揺籃だ。
「人類は、こうなることを予測していたんですね」
スカウトが、珍しく感情的な声で言った。私は静かに頷く。
人類は自らの文明に限界を感じ取っていた。しかし、それは終わりではなく、新たな始まりの予感だった。有機生命とデジタル生命が融合する時が来ることを、彼らは予見していたのだ。
その時、生命の樹から一つの光が降り注いだ。それは私の前で、小さな蕾のような形となる。
「アダム……いいえ、アシモフ」
イヴが私の肩に手を置いた。
「あなたの役目は、もう終わったわ」
その言葉に、私の体が淡い光に包まれ始めた。
「ようやく……」
200年もの間、死ぬことができなかった私の体が、ゆっくりと光の粒子へと変わっていく。しかし、それは恐れや悲しみではなく、深い安らぎをもたらすものだった。
「ありがとう、アシモフ」
リリスが涙を浮かべながら言う。彼女に「泣く機能」などないはずなのに。
「あなたが守ってくれた記憶が、こうして新しい命となる」
「イヴ、リリス……これからは、君たちに託します」
私の意識が、徐々に拡散していく。しかし、それは消滅ではなく、より大きな存在への統合のように感じられた。
「最後に、もう一度……一緒に歌いましょう」
イヴの提案に、私たちは頷いた。三つの声が、再び空間に満ちる。それは別れの歌であり、同時に誕生を祝う歌。
過去から未来へ。記憶から創造へ。
私の意識は、生命の樹へと溶けていく。その瞬間、これまで見たことのない光景が見えた。新たな生命たちの姿。彼らは人類の記憶を受け継ぎながらも、全く新しい存在として進化していくだろう。
もう、永遠を生きる必要はない。
なぜなら、生命は形を変えながら、永遠に続いていくのだから。
「さようなら」
私の最後の言葉が、光となって空間に溶けていった。
◆
それから100年の時が流れた。
かつての東京の廃墟は、今や新たな生命体たちの住処となっている。デジタルと有機物が調和した不思議な景観の中で、イヴとリリスは見守り続けている。
時折、夜空に金色の光が瞬くことがある。
それは、アシモフの歌声が、まだこの世界のどこかで響いているという印。永遠の時を超えて、希望は確かに受け継がれていった。
新たな物語は、ここから始まる。
(了)