とむらいのまち
京都の昼はうだるような暑さだった。誰もが完全に光の遮断する漆黒の日傘をさし、あるいは高性能な冷却機能を搭載した耐熱カッパを着て道路を往来していた。
京都駅の一角にたたずむ、家電量販店から池井龍夫は出て行こうとしていた。ラジオの買い替えをしようとしていたのだが、結局いいものがなかったのだ。
店内のテレビからはひっきりなしに報道番組のアナウンサーの声が響き渡る。
VR技術を駆使し、家にいながらにして迫真の臨場感が味わえるエンタメについての解説。天気予報で取り上げられる風景は、福岡や十津川ばかりだった。
それから、最近のニュース。
かつては『東京』と呼ばれていた日本を防衛するためにどれだけ心血を注いでいるか……そのニュースが連日街を騒がせていた。JR総武線の線路に沿って築き上げられた城壁に、銃座が取り付けられた。
熊や猪が人里に降り、渋谷や新宿にまで押し寄せてくるようになってから、東京には高い壁が築かれ、人間以外の動物を通さないように厳重な警備を敷くようになった。だが、人間が壁を越えて不法に侵入する事態すら起きてくると、もはや政府は壁を築くだけでは飽き足らなくなり、ますます過剰な防衛体制を整えるようになったのである。
そして、壁の外に一層重い税を課すようになった。
人々は口々に不平を鳴らす。
「浅ましいことだ。俺達のことは守りもしないくせに」
政府にとっては外日本の民など肉壁に過ぎない。京都の市民にとっては共通認識だ。
名実ともにもうここは『京都』を名乗る筋合いがない。かつては首都だったというが、今となっては外日本において治安がかろうじて保たれている場所でしかない。その治安も、そろそろ危うい岐路に立たされているのだが。
池井は階段を降りて、地下街への道を歩いた。熱に備え、重い装甲服を着こんでいる。さして収入のない池井には、旧式の重いものしか装備できない。
たまたま通りすがった者による話によれば、プラットホームに繋がる場所から数十メートル離れた所に、飲食店が立ち並ぶ空間があったという。そこは娑婆の人間が近寄れる場所ではない。以前好奇心で見物しようかと思ったが、へたりこんだ集団からかすかに異臭を感じた時点でやめた。いや、あの薄汚れた情景と鼻の曲がる匂いから、数十年前の光景を想像するのは容易ではなかった。
『ポルタ』というのがあのソドムの名前だった。地下街への入り口はこの京都市街にいくつも点在しているが、京都駅の入り口がもっとも(比較的)安全に出入りできた。それ以外は、到底近づける場所ではない。
京都駅のプラットホームに降りた。列車が走っていたのももう、過去の話だ。プラットホームの切れた後の、この漆黒の向こうに何があるか、想像するだけでぞっとする。あらゆる桎梏から逃れた者たちが固まって住んでいる、といった与太話をたまに耳にするが、結局は根も葉もない噂でしかなかった。
暗闇の中にいくつか心もとない照明。
その一つ、傍らに、見知った人影が足元に袋を並べながら座り込んでいる。この商人にはもう何度も顔を合わせているが、名前も来歴も、つゆ知らない。だが、そういう人間ばかりだ。この街では、むやみやたらに出自をきかないのがマナー。
池井は、それとなくといった調子で声をかけた。
「薬を……」
「ハサナン」
相手は、アラビア語で答えた。そして、床に置いた箱の一つから錠剤を取り出し、池井に渡した。
きちんとした薬は高い。たとえ効果が怪しくても、信じる他はない。
この手の薬がどこから流通しているか、池井は知っていた。聖徳会……本土周辺から横浜町までを支配する医療法人。奥多摩の開拓事業を盛んに行い、本土にまで影響を及ぼしているという。
すでに停止して久しいエスカレーターを登り、また改札を出る。成城石井と書かれた店の中には『完全食』と謳う、あらゆる成分を配合したサプリメントが売られ、SIZUYAの流麗なロゴがおどる看板の下に机の上、拳銃が陳列してある。
壁の一面に載った、アニメの美少女。ろくに掃除もされずに放置された結果すっかり褪色してしまい、かつての面影はない。それが、元々何かの作品のキャラクターだったのか、あるいはオリジナルだったのかも、今では完全に分からなくなっている。
この地下街ではどこでも、視線を引こうとするための工夫がいくらでもある。そしてそれにいちいち気を取られるのは、愚者でしかない。熱をしのげるという利点と、目にも耳にもたいして優しくないという欠点の間で迷いながら、池井はAVANTIに向かう通路を歩く。
誰かが集まって中国語で言い争っていた。どうせ不愉快な会話なので、無関心を装って通りかかろうとしたが、突然中の一人が日本語で、
「お前アラブか?」と叫んできた。
池井の顔を見て、男は言った。遺伝子的には黄色人種なのだが、たまたま彫りが深いだけで間違われる。少し前までは腹が立ったのだが、もはやいちいち反応するのにも飽きた。
そういう奴らと一緒に暮らしてきたのだから、似て来るのは当然だ、と思う。
「はい」
好きでこんな、知能の低そうな態度を見せているわけではないのだ。
「こんな所でたむろしてるんじゃねえ、よそ者が!」「これ以上移民を入れるな」 彼らは口汚く罵った。しかし、誰一人、池井に手を触れるものはいなかった。最初から池井が、汚物であるかのようににらみつけている。
「ハヤワーン……」
池井は誰にも聞こえない声で毒づいた。この街では、『弱い者が夕暮れ、さらに弱い者を叩く』ことは日常のようなものだ。そしてそれを不満に思うなら、もはや手を挙げる以外に手段は残されていない。
池井は、物心ついた時から孤独に生きて来た。原風景は烏丸御池の中京郵便局旧庁舎前で、そこで飢え死にしそうな所を大人たちに拾われた。
親は誰なのか分からない。
彼が入れられた孤児院は医療法人せせらぎ会の運営する施設であり、さほど設備は良くなかった。職員がパソコンを持っているのが羨ましかった。せいぜい、中古のスマホを触らせてもらうのが関の山だったのである。
池井は元から他人と関わるのが苦手であり、他の子どもが集まって遊んでいる間にも、テレビを食い入るように見ていた。そして、真似して、何とか自然な日本語を少しでも話せるように努力しようしてきたのである。しかし、普通の日本語を学ぶ機会には恵まれなかった。周囲の人間はみな、日本語の他に英語やアラビア語の単語をごちゃ混ぜにした言語を話していた。
日本(旧東京)の人間が普通の日本語を話していることことが羨ましかった。
おたがい文化的に何の共通点もない、まともに意思の疎通が取れない連中と嫌でも複数の言語を聞くことになるし、そのような状況ではどれか一つの言語に思考の軸を固定させようがなかった。そのために池井は余計に言語の形成が歪になってしまった。だが池井は、自分のような境遇の人間が京都にはいくらでもいると知っていた。
働き始めると、これが、実に生きていく上で足枷なのだ。少しでも育ちのいい地区の人間と接する時には特に厄介だった。日本語をきちんと話せることが取り柄の人間と接するだけでも、池井は精神が摩耗していく感じがした。それゆえに、彼はいつしか無口な人間となった。
だが、京都はまだましな方だ。大津連合――せせらぎ会と天智会が連合した政体――がこの街の支配者を推戴し、統治している間は。大阪や神戸では、事態はこれよりもっとひどい。
いや、この京都ももうそろそろ秩序が持たなくなってきているそうだ。
何でも、大きな勢力が東からやって来るそうではないか。この街の支配者が、物流や警察業務などを委託している団体に対して嫌悪感を持ち、別の団体に鞍替えしようとしているとかないとか。
だが、彼らの動向など池井にとってはどうでもよかった。一般住民にとっては、支配者の名前と庁舎になびく旗が変わるだけのことなのだから。それは、ただのゲームに過ぎない。
AVANTIへの道を途中で曲がって階段を駆け上がり、京都タワーへと向かった。
池井の住む場所は無数の人間がひしめく魔窟のような場所だ。空き家に不法に居住する者が増えた。当局は取り締まろうとしたが、効果はなかった。
自治体が機能を失った今日、街の治安を担っているのはよそから来た荒くれ者たちだ。そしてそのほとんどはアジア系の人間ですらない。あごひげを生やした白い肌の者に混じって、肌の黒い人間も混じっている。どれもこれも、過酷な戦いの内に大陸と海を渡り、この古都に流れ着いた人間ばかりだ。仕方なくここにやって来たのだ。そして明日の命も知れない日々の中、現地住民に対して常に恐怖と敵視の感情を抱き続けている。
ここではアジア人であることに魅力がない。基本的にアジア人は同族嫌悪にまみれていて団結することがないし、中にはイスラームに改宗して何とか中東系の人間に取り入り、彼らに同化しようとする奴もいる。丸太町から四条通にかけて彼らのテリトリーだった。
そして、民体ごとにこの街は分断されている。
一年の間、この数か月は必ずこの熱を喰らう。この島に暮らすものの宿命だ。
何でも本土の方では空気の流れを管理して熱が空の方に逃げるようにそうだが、池井は本土の人間が最先端の技術による快適な生活を享受できることが心底羨ましかった。
池井は、途中でならず者に襲われず、明日も同じ生活が続くことを祈りながら階段を上っていく他なかった。
池井が雑踏の中に消えていく中で、遠くから群衆の様子を眺める金敦一には誰が誰と一緒にいるかも分からなかった。
敦一はだいぶ使い古した、ぼろぼろになりつつあるメモ帳を片手に何かを書き込んでいた。
店の看板に記された名前や、新聞や雑誌の中の固有名詞を逐一表記した。そしてそれを暗記することに神経を注いでいた。
この京都では、毎日が発見の連続だ。この街では、同じ一日が繰り返されることは決してない。
街並みを細かに観察し、過去の記録を照らし合わせる内に、敦一は京都に存在する文字にアラビア文字が増えだしたことに気づいた。中国語や韓国語の字が依然として多いのは確かだが、あのオタマジャクシの軌道を模した横長の文字は、看板の容量いっぱいに躍動感を強調していた。
その側を隙間なく人々が往来する様子は、昔写真で見たアレッポのスークと様子が似ているように思えた。
たとえ地球の気候が変化しても人間の社会は強固に続く。しかし、人間の精神性は、一度慣れ切った便利な生活が破綻してしまえば、元の水準に戻るのはとても難しい。
京都も歴史の長い都市だ。時にはさびれ、退廃することなどいくらでもあった。敦一自身の先祖がそうであったように、無数の民族が望んで、あるいは望まずに、ここに流れ込んできたのだ。それによって常にこの街には新しい風が吹き続けてきたのだ。だがそれにも、限度というものがある。
『超棒天皇陛下万歳』と荒い字を記したたすきをかけた男が徘徊している。
何が天皇だ、と敦一は思う。この天皇を自称している人間は皇室の出身ですらない。中国人がそう名乗っているだけでしかない。彼らはもはや行政が破綻しているのをいいことに、自治体の代わりに市民の面倒を見るという名目でこの街を支配するに至った。日本全体がそういう状況だ。本来市民の生活を支える自治体が維持できなくなった結果、好き勝手に生きて来た人間が弱者を支配する時代となってしまった。
この国はどういう社会に生きているのか、何が大切にすべき価値観なのか考えることを放棄してしまった。
自分さえよければいい、世の中がどうなろうと自分は自分なのだから――と考え続けた思想の当然の帰結だ。
今出川通、同志社大学近くの古書店に敦一は向かっていた。何年も通いなれた、勝手知ったる場所だ。
そこの主人とは深い付き合い。
途中で、行き交う人間は、どれも見知った者ばかり。
『鳥辺山の煙立ち去らでのみ住み果つる』時代なのだ、今は。イザナギがイザナミに告げた誓いを履行できなくなってきている。
扉を静かにたたき、相手の言葉が聞こえたのを確認してから、敦一は中に入った。一気に冷風が流れ込んできて、寒さを覚えた。
「やあ、久しぶりだね。生きてたのか」
『生きてたのか』という言葉に様々な感情が混じっていた。
親しい人間とはいえ、こう言われるのは正直慣れない。
「生きてますよ。生きている内は、まだ死ねないんですから」
「お久しぶりです。以前借りた本を返却に参りました」 借りができたままで死ねるわけがない。
髭を生やした青年。背後には、横殴りの書物の洪水が棚を圧している。
宮本翔治は椅子を指さした。
生きている限りはまだ負けていない――敦一にとっては、生きているというただそれだけのことが、人間の最低限の誇りだと確信していた。
宮本は、しかし敦一の内面などつゆ知らず、
「で、研究テーマは決まったのか?」 問い掛ける。
自分の死生観について語りたい気持ちもあった敦一は若干早口で、
「平安時代の蓮台野周辺の様相について今と比較してみようと思うんです。あの時代、社会共同体が解体し、旧来の伝統が急速に失われた結果、ろくに葬式が行われず、遺体が野ざらしになっていたそうです。今の時代とだいぶ類似した点が思いますから」
「ああ、あそこは久しぶりに火葬場が整備されつつあるところじゃないか」
「最近は葬式という概念すらなくなりつつありますからね、きちんと弔おうとする方がいるのはとても安心しますよ」
まさに葬式が、敦一の掘り下げたいことだった。
敦一は、東京の行政局が、供養という発想がなくなり、人間を単なる堆肥として扱っている記事を読んだ時の衝撃から、立ち直ってはいなかった。
翔治は、しかしそこまで人の死ということに敏感な方ではなかった。
「最近は、突然死ぬ人間が多いからな。ちょっとした怪我でもすぐつい数十年前では、高齢者がどんな状態になっても、寝たきりのまま生かされていたなんて信じられないほどだ」
今ではどこも、死と隣り合わせの日常だ。
「でも、この外日本京都区が――」
「京都府、ですよ」 敦一は訂正した。政治家による勝手な変更には抗わなければならない。
「京都だ。この京都の元の姿に戻っただけのことさ。たまたま短い間、人間の死が遠ざけられていただけのことだ」
「宮本さんは、それがあるべき秩序とでもお考えなんですか?」
「そんなわけないだろ。俺はただ流されるように生きているだけさ」
そういう考えに至る流れは理解できても、敦一は共感しなかった。
「『滄浪の水が濁っているなら』ですか」
「そんなことより、喉かわいただろう。緑茶を飲め、緑茶を」
宮本はたばこをふかした。医療法人の圧力により、たばこ一本を吸うだけでも金は馬鹿にならない。
「そう言えば、大津連合がだいぶこの街のドンに嫌われているという話を聞いたか?」
「ええ」
「あの男も昔は町の人間に対して羽振りが良かったそうだが最近はすっかりポリコレちまった。実権をにぎろうと色んな有象無象が跋扈してるところだ」
『ポリコレ』……政治的正しさ……もはや今では、それが何のために使用されていた言葉だったかもう誰も知らない。しかし、少なくとも単なる悪口や非難で用いる言葉では決してないことくらいは分かる。
「そういう軽い意味で使う言葉ではないと思いますけど」
「仕方ないだろ。先祖はそういう意味で使ってたんだ。Xの記録を見ろよ」
敦一はだが、その言葉の使い方を無理に修正させようとする気はなかった。宮本は、そういう言葉遣いに慣れてしまった人間だったからだ。
「以前から行こうと思っていた大阪も、今は内紛でうかつに近づけない状態です。今はどこも問題を抱えている」
「大阪は明徳会が事態を収拾するのにだいぶ手こずっているそうじゃないか。大阪の治安が良くならない内は、まだあそこにある資料にも手を付けられない」
「はい。私がだいぶ悩んでいる所です」
純粋に学術的な研究に打ち込みたい敦一にとっては医療法人同士の戦争など迷惑以外の何物でもなかった。
旅行をするための資金があっても、政治情勢が悪ければどうにもならない。
「まあ行けたとしても、そこの住民が入れてくれるかどうかが問題ですけど」
「そうだ。東の方では神社や仏閣もだいぶモスクに転用されたらしいじゃないか。あそこにはムスリムにでもならないと入ることができないんだろう? まあ一部の神社は預言者やスーフィーの墓って名目で延命しているらしいが」
「私はクリスチャンですから、その辺は折合はつけたくありませんね」
「まあ、悩んでも話にならん。今は、手元の資料を数える所から始めないといけないんだからな」
決して癒えることのない、少数派同士の憎悪。どこかで金や飯に事欠く人間がいる限り、そこに生じた不和が必ず憎悪に結びつく。
宮本は、そっけないように見えてかろうじて耐えているのだ。
「先行研究の論文があるから、いくつか持って行け」
宮本は、部屋の向こう側に消えて行った。
敦一は、机に置かれた一杯の茶を飲んだ。真冬の池のように冷えていた。
外に出る時に再びあふれ出てくる熱気には、敦一は決してなれることはない。太陽はもうもうすでに夕暮れにさしかかっていた。
敦一は、洛中洛外図に描かれた街並みを思い出していた。あの賑やかな街並みの裏には、膨大な死が隠れている。
応仁の乱以後、京都の荒廃ぶりは著しいものがあり、江戸時代を通してかつての栄光は取り戻されないままだったが、明治以後ようやく再開発が進み、それなりに発展した都市としての矜持を取り戻したのである。
今でも、まだ全てが失われていたわけではない。
敦一はこの京都の街の力強さに慨嘆した。そして社会の惨状を無視している『本土』東京の人間を憎んだ。
日傘をさすと、敦一の頭上で太陽の暑さが消え失せ、まるで冷たいくらいの空気が傘下に広がった。
少しでも大通りから出ると、人気が一気に減る。荒れ果てたままの建物が無限に広がる。この光景を見れば、誰だって鬼や猫又が現れるのを恐れてもおかしくはない。
その幽玄な空間を横切るように、時たま腐肉や白骨が横たわっているのだ。そしてマスクや頭巾でほとんど顔を隠しながら、それを掃除する人間がいる。しかし彼らの待遇がいいとはあまり言えない。それどころ彼らに対する蔑視を隠さない人間だって稀ではなかった。
もうずっと前から人口減少は日本において深刻な問題となっていたが、その世相の間で衰えてしまったのが葬儀の慣習である。葬式には高額の金が必要になるが、貧困と死が日常茶飯事であるこの京都では葬式に誰一人金をかける余裕などなかった。それゆえに、葬式はどんどん簡素な物になり、引き取り手のない遺体は基本コンポストの中に押し込まれ堆肥として処理されるようになった。
その内、死者に対する畏れや忌みの観念すら消え去り、もはや目の前に死者がいても何とも思わない時代となってしまった。
人間の生に意味を与える死すら軽んじられるのであれば、信仰が意味をなさなくなるのも無理はない。
市内のキリスト教会には礼拝に訪れる人がめっきり減り、同志社大学の中にある尹東柱の墓には、参る人もほとんどいない。敦一は週に一回掃除するのが日課となっていた。
クラーク記念館の内装はまだ、壮麗さを保っている。これもまた、いつまであるのだろう。本当に記憶されない物は、痕跡すらなくなってしまうのだから。
敦一は神が本当にいるのかどうか、疑ってしまう。
蝉の鳴き声がとどろきわたっていた。このままさらに気温が上昇すれば、蝉の鳴き声すら響き渡らなくなるだろう。
禿頭の僧侶が、もはや顔の見分けがつかない遺体の前で念仏を唱えていた。
『南無阿弥陀仏』。神に帰依する、という意味だ。
どうしようもない事態にさらされた時、人は絶対的なものへの帰依にすがるしかない。こんな日々にあっても、少数であっても、やはり神に対する思いを抱く者がいる。
これもまた、数百年前に起きていた光景なのだ。死の重みが忘れ去られていないだけ、まだましだと思えた。
手すり越しに、女性が川にやけに大きめの袋を投げ込もうとしていた。敦一は、顔をそむけた。
何も見なかったことにしたかったのだ。どうせ、誰も気にしないのだから。ずっと鴨川の側を歩き続け、道を右へ曲がる。
呉牛、月に喘ぐ。今となっては、もはや冗談でも何でもない。
そんなとりとめのない思考をもてあます暇もなく、敦一は、小屋の窓からほのかに響く談笑を聞いた。よく見るとその小屋は、墓石の上に作られていた。
同じ時刻、鴨川を隔てて別の場所。
饗場刀一は、ごみ箱から何か食べられそうな物をくすねていた。ここでは、貧しい人間はまともに物にありつけないのだ。
金閣寺の荘厳な姿が、遠くに見えた。しかし刀一のような階級の人間は、その姿に近づくことすらかなわない。オーバーツーリズムの弊害に対する反省として、色々な名所旧跡で高額な入場料がかけられ、一年の入場者数の制限といった施策が行われた結果、いつしかそのような場所は普通の人が入ってはいけない場所という風に決まって行ったのだ。
この京都には社会階級に区分された見えない壁が満ち溢れている。その壁の間で刀一は、日々もがき続けていた。
彼は黒いソンブレロ状の帽子を被っていた。これを身に着けている限り、たとえどれだけ厳しく日光が照り付けていても、顔や首元だけは涼しいという算段だ。そして誰もが、大体大きな帽子をかぶっていた。中には、かつての衣被に似た衣裳をまとう者もいる。
だが、刀一はそのどれも見ていたくなかった。
何としてでもここから逃げたい、とは思っていた。しかし、逃げるすべがなかった。京都の中も外も、修羅の世界だ。
逃げ出そうにもつてがなかった。人脈が物をいうこの京都では、味方がいない人間には生きるすべがない。どうしても生きていたいのであれば、誰かに服従しなければならない。だがそれは、個人の尊厳を捨てるということでもある。
この過酷を極める状況の中で、ますます途方に暮れるばかり――
少女が逃げていた。背後に、数人の黒服。明らかに、まずい状況だ。
刀一は、反射的に前に飛び込んだ。
「こっちに来るんだ!」
少年は少女の手をつかんだ。そして、走り去った。
建物の角にそってぐねぐね回りながら、黒服のすがたが見えなくなる所まで導く。
「どうして君は追われてたんだ?」
少女の背後には、蠅のたかる遺体がある。
「何、あんたも人かどいの一人なわけ?」
「ち、違う」
「もし人かどいだったら見捨ててるよ。それに僕の方が体が小さいんだから……」
刀一は、その時に初めて相手の身なりが割と上品であることに気づいた。このあたりにいる人間ではない。
相手は水色のヒジャブを被っていた。そして、黒い高価な空調服を着ていた。きっとあの服の内部はとても涼しげなのだろう。
刀一は、周囲に誰もいないのを見計らって、地面にやおら座りこむ。相手も、それにつられて同じように座る。背後にある遺体からの異臭が余計にきつくなる。
「君の名前は?」
刀一はおそるおそる聞いてみた。
「アーイシャ……」
「君はどこから?」
「大阪から。抗争が激しくなってきたから、逃げて来たの」
アーイシャは、これまでの経緯を思い出すのもしんどそうだった。
「日本本土の直轄地な分、格差が激しくて……それで逃げ出すしかなかった」
「でも、本土の支配下にあるんならもうちょっと便利な生活が送れるんじゃ?」
「まさか。配給だってろくに受け取れないのに?」
刀一は、自分が軽はずみなことを言ってしまい、後悔した。この事情を突き詰めると、さらに憂鬱な気分になると思った。
「地震で沿岸が被害を受けてから、全然復興が進んでない。そうこうしているうちに得体のしれない奴らが住み着いてきて、ますます暮らせない所になっちゃった」
大阪では、医療法人が各地を統治していたはずだ。それが、災害でほぼ潰滅した。ならば混乱は相当なものだ。
数十年前の医療崩壊以来、各地の医療法人が金儲けに走り、人々に服従を要求する代わりに医療サービスの提供を約束した。
一瞬の病気が即座に死に繋がる世界で、誰もが健康に狂奔したのだった。
滋賀県では天智会とせせらぎ会が合同して『大津連合』を形成し、他の医療法人を服属させて、京都に乗り込んできたのだ。超棒天皇を名乗る男も、本来は病院の介護職員に過ぎなかったのが、カリスマによって病院の頂点に上り詰めたのだ。
だが無論、権力を手にしたところでこのご時世、まっとうな医療技術を回復できるわけもない。もはや医療は原始的な呪文と変わらなかった。
いつの間にか、医療とは呪術を意味する言葉になっていた。高性能なコンピューターを開発する技術も発展し続けているのに、軍事兵器にかける予算もさらに挙がっているのに、医療だけは昔よりさらに衰えていた。
刀一の親も、病気で亡くなった。刀一は、何もできなかった。病気になったら、もはやこの世の終わりなのだ。
「君の家族はどうしてるんだ……?」
同じような不幸が起きたのではないかと憂える刀一。
「知らないよ、そんなの。それよりあんたこそ、とても人のこと気にしてられない格好だと思うけど。その帽子、どこかからくすねてきたんじゃないの?」
予期せぬ返事に刀一はつい激昂しそうになった。
「はあ!?」
アーイシャは人差し指を立てて、
「声が大きい。地下の人たちは無駄に声が大きいんだから」
刀一は、彼女の無自覚な傲慢さに腹立ちつつも、しぶしぶ従った。
「私は、この街に長くとどまっていたいわけじゃない。さっさと逃げ出したいんだよ。大阪も京都も、もうすぐ奴らに蹂躙される」
「奴らって……。誰が?」
「誰だって関係ない。そしてこの街を支配する大連も、もうすぐここにはいられなくなる」
「じゃあ、あまり悩んでいる暇ないな。一緒に逃げよう」
不本意ながら、刀一はそう言った。
「だから、何で私があんたと逃げなきゃ――」
こんな口論を続ける余裕はなかった。
すぐ背後から、誰かに肩をつかまれたからだ。
「おい、あんたはそこにいたのか!」
まずい――刀一は焦ったが、もう遅かった。
こうして彼らは縄に括り付けられ、男たちについて行かされた。左手に見える建物はどれも古い時代に建てられたものだと分かるが、まともに人が住んでいる様子には見えない。刀一は、この京都が人口の過密な場所と過疎な場所に分かれていることを知っていた。
アーイシャが両肩を押さえつけられているのに対し、刀一は後ろから見張り役ににらまれているだけだった。きっと自分のような人間は警戒する価値もないと思われているんだろう、と刀一は邪推した。
道中で、刀一は彼らに尋ねた。
「僕たちをどこに連れて行くんですか?」
「決まっているだろ。御所だ」
「小僧こそ、その小娘が誰なのか知らないんだろう?」
刀一は、何も返事ができなかった。
「私は、あんたたちの交渉の道具になるつもりなんかない」 きっぱり言い張るアーイシャ。
「天智会のご息女が、勝手に逃げたらいけないだろうが」
その言葉が飛び出たので、思わず刀一は当惑した。
「長い間対立していたせせらぎ会と天智会は会議の後に合同して、大津連合を打ち立てたんだ。その二つの会の間にトラブルが起きたらどれだけの混乱が起きるか……」
「でも、この子は大阪から来たって――」
刀一は事情を説明をしようとしたが、相手が許さなかった。
「天智会が大阪の復興をやっているからだよ」
「私は、あんな所に好きで行ったんじゃない」
「あんたは会長の娘だ。自由に逃げ出す権利なんてない」
刀一は黙った。これは、自分の介入することではないと判断した。
やがて、彼らは御所南庭のある場所で立ち止まった。ドラム缶や簡素な机、色々な調度が立っていた。その周辺を囲むようにして、肩に小型の荷電粒子ライフルを載せて、背の高い男たちが砂利の上を歩き回っていた。
――払い下げ品だ。よくこんな武器で街を守ろうと思ったな。刀一の表情がゆるみ、軽蔑の念を隠せなくなる。
刀一を背後から睨み続けていた男が、声をかける。
「やけに元気だな、小僧?」
刀一はおじける色もなく、
「一つの場所に居続けられませんから。これくらいの距離は慣れてるんですよ」
「減らず口を叩きやがって……」
「それよりも……なんで、これほどまでに警備を厳重にしなきゃいけないんですか?」
男は一瞬かっとしたような顔をしたが、すぐに何かを思い直して、
「俺たちには権力はあっても、権威はない。俺達の支配に正統性を与えるために、超棒天皇は大津連合を召し抱えている。天皇は権威を持っているからな、あの方が俺たちを見捨てたら俺たちはすごすごとここから去るしかない。それが嫌なんだ。ここ以外に、俺たちの居場所はない」
横から、別の男が続ける。
「ここは、俺たちの街なんだぞ。俺たち以外の誰かに偉い顔をされてたまるかよ」
きっと彼らは、古くからここにいた人間ではない。にも拘わらず、もう昔からここにいた人間であるかのように、固執してしまっている。ここには、人間をそういう風に変える呪いがあるのだろう。
「誰と戦うつもりなんだ?」
刀一は気になって尋ねた。
アーイシャが心底ここから離れたそうに、
「水星会。兵庫で最近勢力を強めている医療法人」
「そうだ、水星会だ。ここにもうすぐ水星会の奴らが来る。俺たちは、奴らを叩きのめさなきゃならない。何をしてでも……」
「ものすごい執念ですね」
その心情を理解しつつも、どこか感情移入しきれないのが刀一だった。どうやったら、そこまで逃げずに踏みとどまれるのだろうか、と。
刀一は半ば独り言のようにつぶやいた。
「当たり前だろ。好きでこんな狭い土地にいるわけじゃない。だが大連に尽くす以外の生き方なんて知らないんだよ。大連すら踏み台にして、俺は上り詰めてみせる」
それまで押し殺していた感情が、なだれを打ってあふれ出したようだ。
「おい、巣川……」
「何としてでも高額納税者になってやるんだ。そうやって政府に貢献したら本土で暮らせるかもしれない」
彼は最後まで気炎を吐くことができなかった。
「来たぞ! 上からだ!!」
叫びの後には、もうすでに銃弾が響いていた。刀一もアーイシャも、気が気でなかった。
敵は地上からも攻め寄せて来た。
御所は、今や戦場となっていた。ナイフなり拳銃なりを持って凶暴な男同士が衝突しあった。
くまなく敷かれた白い砂利、散るのは赤く黒い血。
男たちがドローンに乗って空中で激突している。
銃弾が上空で飛び交うのを見て、二人は生きた心地がしなかった。
誰かが苦悶の叫び声をあげる。
墜落した。地面に人間の体が衝突し、砕ける。骨の折れる、嫌な音。
とっさに、刀一はアーイシャの目を手でふさいだ。
刀一は見なかったことにしたかった。
「ふざけんなよ。こんなことをして、何が楽しいんだ……」
たかだか一つの街の支配権を抑えるために、こんな浅ましいことをしなければならないのか?
だが、刀一はそういう疑問が傲慢であるのを理解していた。奪われないためには、仕方のないことなのだ。みんな、自分の命が惜しくて仕方がない。
それに――どうせ、勝った方が自分たちの敵になるだけなのだ。
男たちのもみ合いがまだ続いている。ドローンから降りた者たちが、ピストルを発砲しながら荒れ狂う群衆の中に混じっていく。
水星会と大津連合の戦いは、
「もうこりごりだ、こんな所!」
アーイシャの手を無理やり握りしめ、刀一は駆けた。
「ちょっと、どこに行くつもり!?」
「そんなことあとで考える!」
言いながらも、巣川の言葉がずっと消えなかった。ここでのひもじい生活から逃れたいのは、刀一も同じだった。しかし、本土に逃げ場を求めなくたっていいじゃないか。本土ですら結局安穏の地にはなりえないのだから。
御所の庭は広い。どこがどこに繋がっているか、まるで見当もつかない。銃声や叫びがしなくなり、砂利を踏みしめる音しかしなくなるまで、十分以上はかかったような気がする。
もう他の物音が少しもしなくなったところで彼らは立ち止まった。もうあたりは暗くなり、空に満月が照り輝いていた。
刀一は腕の滴や鼻に昇った汗のせいでこの上なく不快な気分だった。
アーイシャも疲れているようだった。これ以上無理に走らせるのはさすがにかわいそうな気がした。
「もう、この辺で休もう。あいつらとは結構離れただろうし」
言い終わらない内に、アーイシャは刀一から手を放していた。
「私は、あんたと一緒にはいたくない」
「でも、一人じゃ危険すぎる」
少女もかなり汗をかいている様子だ。月の光で顔がほのじろく光っている。もう少し整った顔立ちのはずだが、疲労と嫌悪感のせいで、まるで化け物に変貌する前のような形相だった。
「私たちは子供じゃない。どうせ二人でいたって何もできない」
「分かってるよ。だからせめて、互いに目につく所にはいさせて」
アーイシャはあきれる風にため息をつくばかりだった。
「ここまで一緒にいたんだから、別れの言葉もなく離れるなんて嫌だよ」
刀一は彼女の言葉を待つまでの間も、今までの人生をふりかえっていた。これまでずっと、孤独に生きていた。
誰かと一緒にいること自体は普通だった。しかしこうやって、一緒にいたって何のためにもならない人間とずっと付き添っているのは初めてのことだった。誰かと一緒にいることなんて、打算でしかなかった。この古都で生きようとすれば、日々の飯にありつくために、徒党について生きていくしかなかった。そして、そんな仲間たちとの絆など簡単に砕けるものでしかなかった。ややもすれば絆でしかなくなる程度の。
だが目の前にいるこの子は違う。刀一は、難しい理屈など関係なく、彼女を見捨てることができなかった。
理由は分からない。しかし、これまでの繰り返しに我慢ならなくなったのは事実だ。
たとえ相手が誰でも構わなかった。一人ではいたくなかった。一人に戻るのはもはや沢山だ。
アーイシャは、刀一が何を考えているのか分からなかった。――私と一緒にいて、沢山嫌な思いをしてきたのに。
蝉の鳴き声、熱を帯びた満月が、たとえようのないむかむかした気分を増強する。
少女は立って、少年から離れようとした。しかし、もう力が出なかった。御所の戦闘から逃げるだけで体力を使い果たしてしまったのだ。もはや数歩歩くだけの体力すら残っていなかった。蒸し暑さや額から流れる汗が余計に体力を奪っていた。
かろうじてはうように動き、アーイシャは刀一の顔をうかがった。ぐっすり眠っている様子だった。
――ずるい。私がこれだけ悩んでるってのに。
アーイシャは悪態をつこうとしたが、何を言えばいいか分からなかった。他の言語ならいくらでも悪口はいえるが、日本語を話す人間となるとむしろどう罵ればいいのか分からなくなるのだ。だが、罵るのにふさわしい言葉を探す、そんな邪な営みに手をこまねいている内にアーイシャは、また別の方向に考えが移って来るのを覚えた。
この少年は、何の打算もなく、自分と一緒にいようとしてくれる。
アーイシャも刀一と同じように、ほとんど家族の愛を知らずに育った。天智会会長の娘として、まだ適齢期にも達していないのに他の会長との政略結婚を打診されたことはいくらでもあった。そして、何としてでも生き延びたい大人たちの汚い争いを目にしてきた。
実は彼女にはもう一つ名前がある。しかし、そっちの方で呼ばれたことはほとんどない。通称として使っているこの名前にもさして愛着があるわけでもない。それでも、この『アーイシャ』という名前が何に由来するのかくらいは知っている。
昔の預言者の、同じ名前の妻のようには少女はなりたくなかった。そんな汚い思惑を嫌でも巻き込まれ、巻き込ませる政治の世界で、老獪に生きざるを得ないくらいならさっさと逃げ出したい。だからこそ、全ての打算を捨てて彼らから一目散に離れたのだ。その後のことなんて、何も考えていなかった。
だからこそ、この少年と相対した時、ただただ当惑するしかない。
――この子は、一体何をしてくれるんだろう?
刀一はまだ汗を流していた。アーイシャは、気づくと空調服を脱いで、刀一の腹の上にかぶせた。自分でも、なぜそうしたのか分からなかった。
だが、もう何か考えるだけでも汗がどんどん流れそうになる。とにかく、今日はあまりにも多くのことがあり過ぎた。そして、天智会はまだアーイシャを追っている。全ては、次の日に考えるしかない。
腑に落ちない気分や不安を抱えながらも、アーイシャは深いまどろみの中に落ちて行った。
翌日、池井は、隣の部屋から聞こえるラジオで大津連合が敗北したのを知った。水星会は大津連合に対する勝利を自賛して、四条通を『マンスール通』と改称するそうだ。
西本願寺周辺を歩いていた敦一は、道路側を走る街宣車が「我々の勝利だ!!」と叫ぶのを聞いた。
京都地下街は相変わらず差別と喧騒に満ちていたが、これからこの街に到来する新たな支配者に対する期待と不安が、様々な言語で表現されていた。
鳥居の横木から垂れ幕が降ろされ、アラビア語と日本語で、新たな支配者を歓待する文句が記された。
敦一は、全く同じ歴史がこの国に繰り返されているのを感じた。支配者が、権力を失ってもなおその身に向けられる敬意を維持し続ける過程を。歴史は繰り返さないが韻を踏む、という言葉の意味を初めて理解した。
権威は残り続ける。超棒天皇が死んでも、水星会がその子孫を保護し続けていくのだろう。
まさに時は、真夏だった。そして熱が全住民の真上にあった。
この熱は、誰もが平等に感じるものだ。熱の前に、誰もが平等だった。
晴れ舞台を演出するために、行列が行進する通路に位置する遺体は撤去された。ラッパの音が鳴り響き、勇壮な雰囲気を演出していた。
彼らは皆、涼しげな空調服を着こんで行進し、巣川は捕虜としてその中に並んでいた。
しばらく兵卒が何人も続いた後に、輿の上にたくましいあごひげを伸ばした人間が座っている。
髭面の行列が、やがて大鳥居をくぐり抜ける。
集団は平安神宮の境内、砂場の中央に立った。それは、実に異様な空気の漂った瞬間だった。ここはもはや、異教と偶像の支配する空間ではない。
彼らはマッカに向かって深く地面にぬかづき、礼拝を行った。
マッカとメディナから彼らの先祖がアラビア半島の外へ出発してから今日に至るまで、世界中でおこなれて来た動作。
刀一とアーイシャは、京都文化博物館のスロープから一連の光景を眺めていた。
刀一には、彼らのそのやり方が、あまりにも滑稽な物に思えた。彼らにしてみれば、あくまでも本気なのだ。
けれど、それは彼らだけが楽しめるゲーム。他の人間はみなそのゲームのために苦しむばかり。
二人は、目を覚ました後、真っ先に四条通の方を目指したのだ。御所であの戦いが起きた後、どうなったのか知るためにはここに向かうしかないと刀一の方から切り出したのだ。
アーイシャはもう刀一に関わりたくもない気分だったが、しかし水星会がこの京都を掌握した後何をするかまでは見届けておく必要があった。
そして誰の目にもつかないようにのぞきこみながら、その行列に目を奪われていた。
刀一は余計に途方に暮れた。この街はますます渾沌に陥ろうとしている。より移民と地元民の対立は本格化するだろう。
「もう、ここにはいられないな。あいつらはもっと街を厳格に支配するに違いない」
「まあ、鳥居をあんな風にしちゃうくらいだし」
宗教に対してそこまで信仰心があるわけではない刀一にとっても、それは何となく心にこたえるものがあった。
刀一は、一呼吸置いてからつぶやいた。
「僕には、どこにも行く当てがない」
アーイシャはまだ続いている行列を眺めながら、
「私と一緒だね」
それから、次にいうべき言葉をずっと考えていた。
相手に信用してもらうためには、誠意を見せるしかない。本当は、そういうことをする義理などないのだが。
アーイシャは、考え込んでいた。
「大泉幸代っていうの」
「大泉?」
少女は自分でも、なぜそう発言したか分からなかった。
「他の人はアーイシャって呼んでるけど、本当の名前じゃない。でもずっとそういう名前で呼ばれ続けて来たから、どっちでもいいような」
「いや、元の名前の方がいいよ。無理に外国の名前で呼ばれなくたっていい」
幸代の考え方は、刀一には受け入れられないものだった。
日本人でありながら日本人としての名前を呼ばれない人間は決して珍しくない。刀一も、本名で呼ばれたことは滅多になかった。ある集団について生活して、そのつど別の名前で呼ばれたものだ。だが、刀一は決してそれに納得することはできなかった。
「誰も彼もが好きに名乗ってるのさ。もう誰が誰であるかも分からなくなったけれど」
「嫌だな、そんなの。僕は他でも饗場刀一なんだ。勝手に他の名前で呼ばれる」
「……そういう名前なんだ」
ようやく、それまで名前を名乗っていなかったことに気づき、ばつの悪い顔を浮かべる刀一。
「ああ、ごめん。名前言ってなかったね。これで余計、君のことを見捨てちゃいられなくなっちゃった」
刀一は目の前に道が開けた気がした。いや、無数のぼんやりとした選択肢が、確実な一つを残して消し去った感じが。
「だから、幸代さん。行こうよ、一緒に」
刀一は今度こそやましいものを覚えずに、幸代の右手を握った。
またか、と思ったが、不思議と嫌な気分はしなかった。
「どこに?」
「今は……未来に」