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第9話 巡る季節

 あれから寒い冬が二度ほどやってきた頃。おれらの背丈がぐんと伸びた頃。おれらの声が大人のそれに変わり始めた頃。


 マスターが、死んだ。


 老衰ではない、ただの不治の病だった。そう伝えられている。死ぬ数日前に倒れたかと思うと、あれよあれよという間にその強靭な心臓は動かなくなった。


 おれはあの人が倒れてから死ぬまでに一度だけベッドに足を運んだ。それは興味本位だったかもしれないし、なにか別の深層心理が働いていたのかもしれない。理由は何でもいい。とにかくおれは信じられなかったのだ。昨日までおれを圧倒していた最強の男が、今日は病床で臥せっているなんて。

 そしていざベッドのそばへ行くと、おれはマスターの寝顔が存外弱弱しくて動揺した。あの力強い(まなこ)が隠れているというのもあるが、どこかしぼんで見えたのだ。あんなに逞しく見えたのに、実はこんなに痩せていたのか。あの怪力はどこから出ていたのだろうか。


 がらん。がらん。


 遠くで鐘が鳴った。訓練の時間。でも、マスターがいなければ成り立たない。

「……いつまで、寝ているんですか」

 もちろん返事はない。何だか調子が狂いそう。いつだって、返事がなくて怒られたのはおれらだというのに。マスターは返事をしなくても赦されるなんて、不公平じゃないか。

「ここは平等なんだろ」

 言葉を吐き捨てる。マスターの顔はぴくりとも動かなかった。彼が衰弱しているのが病気のせいにはとてもじゃないけれど見えない。おれに医学の知識なんて皆無だからただの直感だけれど。

「明日、ナイフの扱いを教えるって約束したのは誰だよ」

 まだマスターから知識を搾り取り切っていないのに。まだマスターに勝てていないのに。このユートピアで唯一勝てないのはマスターだけだった。もう数日後には勝てそうだったのに。


 次の朝、特に苦しんだ様子もなくマスターは息を引き取った。眠ったのかなと思ってしまうくらいの安らかさだった。


 ♢


 マスターの葬式は平等に定められた手順に則って行われた。

「あの人も死ぬんだな」

 葬式の最中、アベルがぽつんと言った。「殺しても死ななさそうだったのに」

 それはおれも同感だった。数日前までおれのことをこてんぱんにしていた人が呆気なく死んでしまって、とても不思議な気持ちだった。

 哀しいとか寂しいとか、死に対してイメージしていた感情はやってこなかった。彼はただの師で、ただの教官。死を悼むほど親しい間柄ではなかったからかもしれない。

 とかく、現実離れした死が先に歩いていってしまった。置いていかれて、追いつけない。マスターが死んでも世界は変わらず回り続けるのだ。もちろん、おれが死んでもそれは同じ。

 彼の遺体を入れた棺は平等に燃やされ、平等に埋められた。彼の逞しい筋肉も、皺の寄った顔も、白髪混じりの髪も、もう二度と見ることはない。


「でもよかったよな、大往生じゃないか」

 アベルがどこか朗らかに言う。周囲に人はいないとはいえ、そこかしこに漂う、葬式特有のどんよりとした空気からは逸脱していた。

「なぜ」

 おれは最近片割れのことがよくわからない。昔は彼の考えることなら何でもわかる気がしていた。今となっては、わかる気になっていただけのような気もする。

アベルはおれの質問にきょとんとした。

「なんでって……倒れてから一日だろ、そう苦しまずに死ねたのなら良かったじゃないか」

 淡々と言う片割れに少しだけぞっとした。何を言っているか理解できなかったのだ。

 そんなおれに気が付くことなくアベルは続ける。

「それにな、カイン。もうじき戦争が起こるんだ」

 その声は確信に満ちていた。アベルは以前に増して自信家になった。それはきっと、ずっと図書館に籠もって知識を吸収しているからだろう。過度な知識は人を傲慢にするのかもしれない。


 とはいえ片割れは誰よりも賢かった。講義で彼に解けない問題はなかった。少なくとも、狭い部屋に数人の子供が詰め込まれ、使いまわしのテキストを使って受ける貧相な講義には。教師役の大人から話される内容に、アベルの知らない知識はなかった。

 だから講義中も彼はいつも好きな本を読んでいた。講義中だけでなく、訓練の時間もサボって本を読み漁っていた。初めは大人たちに咎められ、同年代に虐められ、新しいマスターに折檻されていたけれど、そのうちそれらはなくなった。

 

 それは知識とアベルが認められていたという証左だった。今や誰もがアベルを頼りにする。聡い片割れは初めに生物を学び、次いで医療を学んだのだ。自分に必要な知識を持っている者を人は尊重し敬う。体調が悪くなればアベルを頼る。怪我をすればアベルを頼る。「アベル、助けて」、例えばこんなふうに。


 そうしてアベルはマスターとは違った独自の地位を、ごく自然に確立したのだった。

 初めからこれを見越していたアベルは、やはり『頭脳』の才能があったのかもしれない。


 とにかく確実に平等という均衡にひびが入りつつあった。しかしそれを咎めるものは誰もいない。だって絶対的な『平等』を前に、皆等しく思考を止めていたのだから。


「戦争でどうせみんな死ぬんだ、その惨劇を知らずに済んでよかったなって思うんだ。ほら、あの人は優しかったから」

 そう言いながら、にこにことアベルは幼き時と変わらぬ無邪気な笑みを浮かべていた。

 少しぞっとする。生憎とおれはその感情を表す言葉を知らなかった。知らなくてよかったと思う。

「カインは死んでもマスターになるなよ、ほぼ確実に殺されるだろうから。今回のマスターの死は計画されたものだったしな。大方ヒ素中毒だろうよ」

 おれが直感で思ったことをアベルが論理立てて説明する。直感と論理が絡み合ったときは、それが真実だ。

 少なくとも、この『カインとアベル』の間では真実だった。

「ああ。マスターになんてなるわけないだろ。……なるわけない」

「それがいいさ」


 この時点で、今のマスターはお飾りに成り下がった。完璧なユートピアに綻びが生じ始める。

 それを知っているのは『カインとアベル』のみだけれど。


 足元で小さな白い花が咲いていた。もうすぐ春が来る。世界も動き出す。

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