第26話 ルールと常識
食事をするために、おれらとフローは路地裏に再び駆り出す。
まだ日の高い時刻でも、路地裏は常に仄暗い。また視界が暗がりに包まれて少しだけ安心する。暗闇は本能による畏怖の対象だが、このくらいの仄暗い闇は心地よかった。どうしてかはわからない。別に後ろ暗いことはしてきていないはずだったけれど、陽の光はまぶしすぎるとよく感じていた。ただあのユートピアの白い壁が不快だっただけのかもしれない。
そうして歩いているうちに、風に乗って濃密な血の匂いが鼻に届く。
「うわ……」
鼻がへしゃげそうな腐った汚臭でも隠しきれない、重ったるい独特の匂い。豚の解体を思い出すが、果たして真相は。知りたくもなかったけれど、その血の匂いはだんだんと濃密になってきている。
ちらりとアベルに視線を向ける。片割れもそれに気が付いているようで、袖を鼻に押し付けている。
「おい、どこへ行くつもりだ」
耐えきれなくて前を歩くフローに問う。この男もまだ信じられたものじゃない。畢竟おれはアベル以外何も信じられないのだ。それは逆もまた然りだった。この街で、外から来た異物のおれは誰からも信用されない。受け入れられない。唯一受け入れられる道があるとすれば、この街の住人に擬態することだ。
有り体に言えば、それはとても寂しいことだった。
路上で転んだあの子供にさえ、母親がいて、家族がいて、帰る家があるのだろう。それがおれらにはない。自分から捨てておいて何と身勝手な、と思うが、この妙な寂寞感はユートピアにいた時から常に纏わりついていた。
それを言語化する術をおれは持ち合わせていなかったのだけれど。
フローがちらりとおれを一瞥する。やはりその煙水晶の瞳には警戒の色が滲んでいて。ガキとはいえ得体のしれない男二人に背中を見せているだけで恐ろしいのだろう。
「どこって、飯屋さ。さっき言っただろ」
「そうだけど、」
それにしては血の臭いが――
そう言おうとした時、十数歩先で血飛沫が舞った。暗がりでもわかる、水とはまた違うどす黒くて質量のある液体。びしゃりと音を立てて散る。ゆらりと人影が動く。その顔は見えない。ただ足音と衣擦れの音が最低限まで抑えられていることだけが事実だった。流れる血の音は鮮明なのに、人影に纏わりつくのは無音。まるでこの世非ざるものみたいに。
――違う。この世界でいちばん恐ろしいのは、人さ。
誰かの言葉が蘇る。マスター? アベル?
しかしここで重要なのはこの場を一刻も早く立ち去ること。アベル、と片割れに視線を向けようとした矢先、フローが振り返った。その顔は強ばっている。そうして囁くようにしておれらに告げた。
「見るな、目を合わせるな、決して悟られるな。何も知らないフリをしてまっすぐ前を見て元来た道を歩け。それがここのルールだ」
フローの声も顔もはいつになく緊張していて、それが冗談でないことがわかる。おれらは言う通りに気配を消して直進する。好奇心が抑えられなかったのだろう、ちらりとアベルが後ろを振り返った。すぐに顔を顰めて、また前を向く。片割れが何を見たかは臭いと音で明白だった。
真っ白な日の光に包まれた表通りに出たところで、フローはふうと息をついた。静かすぎる路地裏とは違い、人がわんさか往来し、喧騒がおれらを包み込む。少しうるさい。けれどやはり服も建物もなにもかもが新鮮で見入ってしまう。これはちょっと現実逃避かも。
そこでフローはくるりと振り返ったかと思うと、いいか、とおれらに鋭い視線を寄越した。
「アサにはかかわってはならない」
「あさ?」
「そう、アサ。さっき見た奴らが所属する組織の名さ。アサって言ってもアサの奴らの大半は夜に活動するんだけどな。さっきのはイレギュラーだ」
夜のみの活動には後ろ暗さがあると相場が決まっている。歩きながらおれはフローに続きを促す。
「ということは……そのアサってのは人殺しが仕事なのか?」
すれ違った男がちらりとおれらを振り返る。それに視線で返すと男はそそくさと去っていった。フローが呆れたように溜息と共に言葉を吐きだす。
「おま、ここは表通りなんだ。ちったあ言葉を選べよ……」
「それは街のルールか?」
アベルが興味津々に問う。ルールは文化。アベルは昔からそこに触れたがっていた。本で読んだだけではわからないから、と。
しかしおれらの予想に反してフローはまたもや呆れたように頭を振った。
「おいおい、これくらい常識だって。あんたらどんなところに住んでたんだ」
「金がないところだな。ま、俺らのことはいいからアサについて教えてくれ」
おれらに必要なのは情報を吐くことではなく、情報を得ることだった。信頼関係の欠片もない男に自分の身の上の話をするメリットはどこにもない。
「わかったわかった。店についたら話してやるから。まったく、あんたらは好奇心旺盛で困る」
ここでは話しづらいのだろう。たしかにそんな怪しげな組織の話は表通りではできないはずだ。ああ、これが常識ってやつか。
「はは、楽しみにしてるぜフロー。それじゃ、あそこに見える豪勢な建物が何かを教えてくれ。それなら常識とやらに反していないだろう?」
アベルが人懐っこい笑みを浮かべて指さした先にあったのは、大きな石造りの建物だった。門と柵に囲われており、建物の前には芝生に覆われた庭が広がっている。そこに生い茂っている桃や白の花々は手入れされているのか、美しく咲き乱れている。
しかしなんと言っても豪奢な石の建物がひときわ目を引く。建物のそこかしこに石のの装飾が散りばめられており、しかし華美すぎず、一定の上品さを保っている。
「あれはエリート学院の学舎だ」
「エリート学院?」
エリート。なんとも陳腐な名前だ。
「そう、名前の通りこの国トップの秀才天才どもが集まる場所さ。まあおいらやあんたらには無縁な場所だね」
「そうなのか」
アベルが問い返すと、フローは怪訝そうに眉を顰めた。
「当たり前だろ、路地裏にいる者に入れるわけがない。んなもん、路地裏暮らしの常識だっての。学があれば誰でも入れると謳っているが、なんたってその学がないんだから」
「へえ、学があれば入れるのか?」
「ああ、年に一度試験があってその試験に合格すりゃ晴れてエリート学院の生徒――と謳われているけれど、実際は金持ちしか入れねーよ」
「金を積まなければ入れないのか? なんだっけ、裏金だったか」
「いんや、その高度なお勉強をするために金がいるのさ。あんたらもお勉強なんてしたことねえだろ? それにちゃんとした市民券もいるしな」
「ちゃんとした?」
眉を顰めたフローが声を潜めて問い返す。
「あ? 偽造って言葉知らねーのか」
「知ってるけど知らない」
「どういうことだよ。ま、つまりおいらたちには無縁ってことだな。お勉強は金持ちの道楽だからねぇ。貧乏は貧乏のまま、金持ちは金持ちのまま。路地裏暮らしは一生路地裏暮らしさ」
ふうん、とどこか上の空で呟いたアベルが何を考えているのか、おれにはわからなかった。そういえばユートピアでは誰もが平等に教育を与えられていた。あそこに自由はなかったけれど、もしかしたら悪いことばかりではなかったのかもしれない。もう今更だけれど。
「さあて、着いたぞ。色々話してやるからさっさと入れ」
ちりん。
フローが扉を押すと、澄んだ鈴の音が鳴った。




