亡骸だけが知っている。
勇者はいつも棺桶を引きずっていた。
邪魔だろうに、と思ったが、置いて行けと言うと凄まじい顔で見てくるので、私は一、二度くらい声にしたところで言うのをやめた。
勇者は数週間に一度、棺桶を開ける。私は見せてはもらえない。
勇者は少しだけ開いた棺桶をしばらく眺めて、それからまた、血反吐を吐くまでモンスターと戦って、意識を失うまで回復薬を飲んで持たせて、気絶するように眠る。
前に尋ねたことがある。どうして棺桶なんぞ連れ回すのか。生きた仲間を連れた方が余程いいじゃないかと。
『目的を忘れないためだよ。人間は弱いから、すぐに忘れようとする。憎しみに耐えきれないから、すぐに死のうとする。僕は耐えなければならない。許されてはならない』
それに、と勇者は呟いた。
それに。
彼らはもう生き返らないんだ。生き返らせてはならないんだ。僕のせいなんだ。生き返らせてはならないんだ。
おかしなことを言うなあ、と思った。聖痕のある種族は、教会で祈りを捧げれば生き返ることができる。そんなことは子供どころか動物でも知っている。つまりは、はぐれの烏である私も知っていた。
勇者がいつから棺桶を引きずっているのかは知らない。私が彼と出会ったのは、彼が王都を遠く離れ、四天王を二人倒してからだ。彼はもうその時には棺桶を引きずっていたし、仲間らしい存在は一人も連れていなかった。
旅は順調とは言えなかったが、それでも彼は進み続けた。彼は人とは思えないほどに強かった。彼だけで旅を続けているのは、もしかすると他の存在は足手纏いになるからかもしれない。
だがそれでも、最後の四天王を倒した時、勇者は一度死んでしまった。
私は彼の首を持ち帰って、教会で蘇らせてもらった。復活には頭さえあれば良い。
無論、身体が全てきちんとした状態で整っていた方が痛みも不具合も少ないけれど、私には勇者を棺桶に詰めて引きずるだけの力はなかった。
蘇った勇者は私に礼を言って、それから棺桶の場所を聞いた。
私は迷うことなく答えた。彼が棺桶がなければ戦えないと知っていたからだ。彼が戦えないのなら魔王を倒すことはできない。私の素敵な狩場は、魔王が全て滅ぼしてしまうだろう。
私は彼の少し前を飛びながら棺桶の場所に案内した。できるだけ安全な場所を選んだから、棺桶には傷が増えている様子はなかった。
勇者は安心した様子で、再び棺桶を引きずって進んだ。私はもう、棺桶を置いて行けばいいのに、とは言わなかった。
見るつもりはなかった。蓋が開いてしまったのは事故だった。
だってそうだろう。たとえ頼まれたって、あんなもの見たくもない。
私は全てを見なかったことにした。
勇者は結局、魔王城まで棺桶を引きずっていった。最終決戦にも持ち込んだ。棺桶は何の役にも立たなかったけれど、棺桶がなければ彼は戦えなかった。棺桶を守るためなら、彼はなんでもできるのだ。そう。なんだって出来る。
勇者は魔王を倒した。それはもう、完膚なきまでに倒した。細切れにして燃やし尽くした。微塵も復活を許すことはなかった。
魔王が倒されると、空を覆っていた黒い雲は徐々に晴れていった。何十年と薄暗く世界を包み込んでいた影は晴れ、人々はすぐに勇者の偉業を悟った。恐らく全ての人類が勇者を讃えたことだろう。そして多分、全生物の中で勇者の死を悟ったのは私だけだっただろう。それはそうだ。此処にいるのは勇者と私だけだし、まさか聖剣が勇者の首を落とすために使われるだなんて、王都の誰も考えない。
勇者の遺言は一つだけだ。
僕を棺桶に詰めて欲しい。
それだけだ。
私にはちょっと荷が重かったが、勇者は事前に蓋を開けておいてくれたので、さほど面倒はなかった。あるのは恐怖と、嫌悪だけだ。
開かれた棺桶の中から、八つの目玉が私を見上げていた。これから目玉は十に増えるだろう。彼らは手足を失い、臓腑を失い、脳も心臓もダメになったのに、どう言うわけか目玉だけは綺麗に残っていたし、生きていた。
溶け合った肉塊の中で、八つの目玉が蠢いている。言葉を発することはない。恨み言を言うこともなければ、感謝を口にすることもない。彼らは棺桶の中で守られて、未来永劫、一つの生き物として生き続けるだろう。別個の存在として蘇るには、彼らはあまりにも溶け合いすぎていた。
私はいつぞやと同じように勇者の首を持ち上げて、ゆっくりと蠢く肉の中にそれを落とした。もたつきながら動く生温い肉の塊が、徐々に彼の首を飲み込んでいく。恐らく彼らが必死になって守り抜いたはずの勇者の首を飲み込み、溶かし、同化していく。
何故目玉だけが残るのだろうか。彼らは外界と関わることを望んでいるのだろうか。ならば何故口を生成しないのだろう。何故、一つの生き物としてでもいいから、人の形を取らないのだろう。
理由は分からなかった。彼らには口がない。誰に恨み言を吐くことも、慰めることもない。その目から何を読み取るのかは、見る側の想像でしかない。
勇者は彼らの目から何を読み取ったのだろう。目は口ほどに物を言う、だなんて、本当だろうか?
分からないけれど、これが勇者の望みであることは、聞かなくとも理解できた。彼はずっと、この結末だけを求めて歩んできたのだ。
だから、きっとこれで良いのだろう。彼らはずっと、この棺桶の中で幸せでいるのだろう。深い信頼で結ばれた仲間なのだから。
私は不器用なりに一生懸命やさしく、棺桶の蓋を閉じた。魔王が滅ぼされた城だ。死んだ魔王の匂いが染み付いた場所に、誰が来るとも思えない。
穏やかな日差しが、半壊した魔王城に降り注いでいる。私は大事な狩場を目指して、静かに飛び立った。
目玉と三人分の思い出と痛覚だけが残っている。