第77話 戦禍に降り立つ
「えッ!? ナ、ナール様!」
ハジメは自身を覗き込む者の顔を見て、一瞬で目が覚めた。 寝坊して起きたら会社の上司が居た時のような驚きだ。
「いつまで待たせるつもりだ、馬鹿者が」
「すすすいません! ……って、あれ? お会いする約束とかありましたっけ? そもそもここってどこですか……?」
現在ハジメが居るのは、漆黒の空間。 そこにはハジメとツォヴィナールだけがポツリと浮かんでいる。
「一気に質問を投げかけるな」
「ご、ごめんなさい……」
「許す。 今の妾は機嫌が良いしの」
「それは何よりで、す……?」
「そもそも、そなたとの約束など最初から無い。 妾が勝手に待っていただけだ。 そしてここは、そなたの世界」
「世界……?」
「心の中とでも思っておれ。 とにかく、そなたと妾の接続形成が完了したぞ」
「あの、えっと、すいません、よく分からなくて……」
「それも含めてここからは長い話になる。 だが、これだけは先に伝えておいてやろう」
「は、はい。 何でしょう……?」
ハジメは気分良さげに饒舌に話すツォヴィナールに疑問を持ちつつ、あくまでそれを顔には出さずに続きを促す。
「喜べ。 今この瞬間より、そなたは妾の眷属となったぞ」
「……はぇ?」
ハジメの失礼極まりない反応を、ツォヴィナールはニヤリと笑うだけで済ませた。
「──さん……。 ……メさん……! ねぇ、ハジメさんっ!」
「うわあああデッ!?」
「ふぎゃッ!?」
恐ろしい夢から覚めたような慌てぶりで起き上がったハジメ。 その際、ハジメとエマの顔面がガッツリと衝突した。 エマがハジメを膝枕するような体勢でいたので、そうなるのも無理はなかった。
「クッソ、痛ッで、ぇ……!」
「うぐぅぅぅ……」
二人して悶絶し、痛みから解放されるまでにそれなりの時間を要した。
「ハ、ハジメざん゛……!」
「お、おおぉぉ……って、エマか! お、おい、鼻血出てんぞ! 大丈夫か!?」
エマがハジメの名前を呼ぶと、さらに鼻血が舞っている。
ハジメは慌てて服の袖を使って拭いてやった。
「む゛、ゔぅぅ……。 だ、大丈夫っすから、そんなに顔をゴシゴシしないでぇ……っ!」
「す、すまん!」
心配がハジメの擦る力を増加させ、エマの顔面を派手にこねくり回すこととなった。
ハジメがエマの顔面から手を退けると、鼻血の跡が口唇の周囲から頬までベッタリと広がっていた。 これではむしろ被害が拡大したと言って良い。
「ひ、ひどいっすぅうう……」
「ご、ごめんって! 悪気はなかったんだ!」
泣いてぐずるエマをハジメはひたすら宥め続けた。
「おいー、機嫌直せっての……。 怒ってるならちゃんと謝るからさぁ。 顔見せてくれよー」
エマがずっと両手で顔面を覆っていて、ハジメは自身の言葉がしっかり届いているかが分からない。
「べ、別に怒ってないっす……」
「じゃあなんで?」
「だって、その……さっきの弾みで、ハジメさんの唇があたしのに触れちゃったから……」
「え゛ッ? えっと、今なんて……?」
「……二回も言わせるなんて、さらに酷いっす」
「あー……えっとー……そう、だな。 うん、酷いのは酷いんだけど……その、なんて言うかー……事故じゃん?」
「ゲロ吐いて死ねっすぅううう……!」
「ひっどい表現だこと!」
「できないならせめて責任くらい取れっす!」
「責任って言われてもな……。 あー……じゃあ、結婚するしかないか」
「……えぇ!?」
ハジメは特に何も考えずにそう答えた。 女性から責任を取れと言われれば、それはもう結婚という単語しか思い浮かばなかったからだ。
「まぁそれも、この状況を乗り切ってからだけどな」
「ちょっとぉ! あたしを揶揄ったっすか!?」
エマが顔を真っ赤にして吠える。
「いや、揶揄ってねーよ」
「ちょ、どういうことっすか!? 情緒がバグりそうなんすけど……! ほんとは揶揄ってますよねえ!?」
「なんつーか、エマはレスカに似てるんだよな……」
「な、なんすか!?」
「……いや、何でもない」
「ちょっと、レスカって誰!?」
「とにかく今は時間を無駄にしてる時間はない。 その話は後にしようぜ」
「あとで……って、ハジメさん!? 左目から血、血が!」
「……ん? ああ、これは良いんだ。 大した問題じゃ、ない……ッ」
「結構な量出てるっすけど!?」
号泣した際の涙以上に左目からダラダラと血を流すハジメの姿は恐怖でしかない。
騒ぐエマの声を右から左に流しながら、ハジメは左目に意識を集中させる。 そうすることでツォヴィナールの声がはっきりと脳内に響き始める。
『ご苦労。 そのまま意識を妾に向けろ』
『ちょ、頭が割れそうなんですけどォ……!』
『言ったであろう。 初回の接続で上手くいく方が奇跡だ、と。 これは謂わば慣らしの作業だからの。 少々我慢しておれ。 すぐに済ませる』
ハジメは奥歯を噛み締めながらツォヴィナールの指示に従って耐え続ける。
「ハジメさん聞こえてるっすか!? なんか気でも狂いそうな顔になってるっすよ!?」
「少し……静かにしてくれ……」
「なんか魔法でも使ってるっすか!? なんか目の奥でギュルギュル回ってるっすよ!」
「すぐに終わる、から……」
「なんか怖いんすけど!」
ツォヴィナールによってハジメの左目が操作され、これによってハジメの左目が取得できる視覚情報の感度が上昇している。 裸眼で十分見えている人間が度の強い眼鏡を掛けた時のような酩酊感に、ハジメの頭痛は時間を追うごとに強くなってゆく。
『……見えるか? あれがそうだ』
歪んだ視界の中で一際色濃く存在感を発揮している存在がいた。 そいつは数km離れた位置に居るにも関わらず、複数の障害物を挟んでいても何故かくっきりと見えている。
『あれが……』
『その目が機能していることを確認できたのは僥倖だが、この場であれを見つけてしまったのは不幸でしかないのう』
『まじか……。 どれだけ俺ってツイてないんですか?』
『妾が憑いておろう』
『そういうことを言ってるわけじゃないんですけどねぇ……』
『妾の眷属である以上、こればかりは避けられん。 早速だが、そなたには働いてもらうぞ?』
『……承知しました』
ハジメの耳に喧騒が戻ってくる。
エマの声が強まり、反対にツォヴィナールの声が聞こえづらくなった。
「ふぅ……」
ハジメが深く息を吐くと、多すぎる情報が薄れて頭痛が治りを見せ始めた。 もう一度ギュッと目を瞑ると、正常時の視界が戻ってきている。
「ハ、ハジメさん……?」
「すまん、怖がらせたな」
「それはいいんすけど……ほんとに大丈夫?」
「まぁ、これはいずれ慣れるだろうし……大丈夫だ」
「あたしは慣れないんすけどぉ……」
ハジメは視線を上下左右に動かして見せた。 ツォヴィナールの計らいなのか、視界には着色されたマナを纏う存在がポツリと浮かび上がっている。
(少し準備が必要だな……。 まずはあれと邪魔が入らず戦える環境整備が必要だし、できれば手伝ってくれる仲間が必要だよな。 エマは基本的に一般人だから無理として……って、なんで俺こんなとこにいるんだ?)
「エマ、ちょっと教えてくれ」
「は、はいっす」
「随分様変わりしてるけど、ここはモルテヴァで合ってるよな?」
今更になってハジメは自身が現在置かれている状況に思考が追いついた。 なにせ、目覚める前からツォヴィナールに世界の根幹とも呼べるような重要な話を聞かされていた。 そして目覚めてもすぐにツォヴィナールが現実にまで介入してきたので、こうなるのは仕方のないことだった。
「えっと、ここはモルテヴァの平民区画っす……。 めっちゃ壊れてますけども」
「俺は確か北部未開域に向かったはずだ。 どうしてここにいるんだ?」
「それは──」
エマによる情報提供が行われた。
(ドミナさんはハジメさんと協力関係的なことを言ってたから、何をしたかは言わない方が良いよね……? エスナさんのことも、居たってことだけ伝えて様子を見よう……)
ハジメはエマが見聞きした情報からパズルのピースを繋ぎ合わせ、ここに至った状況を推測する。
「……なるほど、ユハンさんが運んでくれたのか。 ってことは、あいつらも無事だろうな。 これはあとで礼を言わないと」
「それは、はい……」
「ひとまずそれは置いておくとして……。 エマ、まじでエスナに会ったの?」
「はいっす。 あ、あとそう言えば、フエンって小っちゃい子供にもさっき」
「えぇー……。 あいつらこの町に居たのかよ。 居るなら言えよな……」
エスナとフエンの名前を聞いてからハジメがあれやこれや唸っている。 エマはそれを見てフエンの言葉を不意に思い出していた。
(レスカって名前どこかで聞いたと思ったら、フエンちゃんが言ってたんだった。 それって多分、ハジメさんにはとっても大切な人で、あたしの知らないハジメさんをいっぱい知っている人。 そういうの、いいな……。 エスナさんだってフエンちゃんだって、今までハジメさんと一緒に暮らしてきて、離れていたのに繋がっていられる人たち。 あたしにそんな人……そういえば居ないな。 あたしも頑張ったら、ハジメさんとエスナさんたちみたいに仲良くなれるのかな……?)
「お、おい……? 泣いてるのか?」
エマはハジメに声をかけられ、そこでようやく頬を伝う水滴に気が付いた。
「え、あ、ううん、えっと……何でもないって言うか、何でもないっすよ……っ!」
「無理するなよ? 怖いなら隠れてていいからな」
「怖くはなく、て……ちょっと寂しい、みたいな……?」
「あぁ……。 そりゃ、こんな場所に一人でいたら不安だよな……。 でもここにエマがいなきゃ、俺もこうして安心できなかったわけだしな。 それに関して俺は大いに助かってる、ありがとな」
「えっ、いや、そんな……あたしは、何も……」
エマは恥ずかしさで顔が真っ赤になり、思わず下を向く。
今のエマには、ハジメが輝いて見えていた。 特段ハジメが何かをした訳ではない。 しかし、こうやってそばに居てくれる人間がこれほどまでに心地良いものだとは、エマは今まで知らなかった。
「まぁ、なんだ。 一人が心細いなら俺が一緒にいてやるっつうか、俺のできる範囲で守ってやる。 と言っても、俺は信頼できるほど強い魔法使いじゃねぇけどな」
「そんなことない、かと……」
「そ、そうか……。 というか、俺が一人じゃ不安なんだよな。 こんな危なっかしい場所にエマを置いていくわけにはいかねぇし、まだちょっと助けてもらわないといけないこともある。 だから安全と言える状況の間は俺についてきてくれるか?」
「それはも、もちろん」
「おお、助かる! 危なくなったら、すぐ逃げられるようにするから」
「そこは信頼してるので、その……大丈夫っす」
「じゃあまずは状況確認からだ。 その化け物っていうのも見ておかないといけないからな……」
ハジメは半ば諦め気味にそう呟いた。
「怖くないんすか……?」
「そりゃ怖えぇよ。 だけど、仕事だからな」
「……?」
魔導書を具現化しながら静かに歩き出したハジメ。
(ハジメさんにも色々あるんだろうけど、やっぱりあたしはまだ信頼されてないよね……)
エマはハジメの背後で寂しげな表情を浮かべていた。
▽
「あーあ、これはやってるなぁ」
次々と起き上がる人外生物に、ゼラは深い溜息をついた。
「負力の集まりが悪いのは、人死にが出過ぎたか、そもそも感情を持った生物が居ないか。 今回は恐らく後者だろうね。 ……メイ、どうだった?」
ゼラの視界には、魔物の背の上で天を仰ぎながら運ばれてくるメイの姿があった。
メイはだらんとした体勢のまま顔だけをゼラに向け、話す。
「エスナの勝ち」
「君は負けたのか」
「負けてない!」
「それにしてはボロボロだけど」
「ちゃんと仕事してきたの! エクセスは死んで、デミタスは逃亡。 ロドリゲスの位置も捕捉済みなの」
「それは大義だね。 じゃあ、あとはこの状況をどうにかしないといけないんだけど、君は対応可能かい?」
「無理」
「だよね。 ちょっと考えなしに動きすぎたかな」
動き出した人外たちはもれなく、禍々しい魔石を備えている。 体表に形を成した魔石はズブズブと体内に潜り込み、これによって人外たちの目が赤い光を獲得した。 それらの姿は魔人によく似て黒く、異形の外見からは低俗に位置した存在だということが窺える。
「それなら大丈夫なの。 途中で何人か声かけしてるから、もうすぐ来るの」
「後輩が優秀すぎて困るね。 これもロウリエッタ様の教育の賜物だから、文句を言えないのが歯がゆいけども」
「ロドリゲスが探知範囲から離れそうだから、こっちは任せるの」
「メイもバレずに頼むよ。 この魔法がロドリゲスの最後の切り札ではないだろうからね。 あの男から全部引き出して、その後に殺さないと」
「じゃあ行くの」
メイは魔物を見事に操りながら人外たちの間を抜けてゆく。
「はてさて、この人外たちの強度はどれ程のものかな。 魔法の規模はかなりのものだったから、その分強度は高くないと思うんだけどなぁ。 僕としては、これすら次の布石だと考えちゃうけどね」
人外たちが震えを増し、同時に停止した。 接続が成立し、準備完了した合図だ。
「あー、軍団ってそういう感じか。 まずいね」
ロドリゲスが生み出したそれらは、そばに魔導書を具現化し始めている。
「……ん?」
多勢に無勢のため、ゼラはどう動こうか決めあぐねていた。 そんなところに、人外たちを気を惹く騒音が響いてきた。
「リセス、あなたの魔法が上書きされてるじゃない! 何とか支配権を奪い返しなさい!」
「そんなことを言われても困ります。 無理なものは無理なので」
人外たちは動きを見せないゼラよりも、彼女らの方に意識を向けた。
「知らない連中よりはマシか。 リセスは微妙だけど、ドミナの攻撃力は役に立つしね」
「ちょっとゼラ! 雑な仕事を投げてきてんじゃないわよ!」
「うるさ」
「姉さんが静かにしないから敵の注目を浴びていますよ?」
「あーもう! リセスは黙って抗体を作りなさい! ゼラもこいつらの精神操作くらいできるでしょ!?」
第二波を生き残った面々は等しく、人外への対処という仕事を割り振られた。 ここにいるゼラたちだけでなく、ユハン一行や個人行動中のリヒト、その他奴隷区画の人間まであらゆる生存者は、ロドリゲスの生み出した兵隊を敵として認識した。
「ドミナはああ言ってるけど、しばらくはこの魔法の解析作業が必要だね。 ちょうどいいし、彼女らには僕のために──帝国のために働いてもらおう」
ゼラは視線を一瞬だけ東の地に向けた。
その頃、帝国内のライトロード教会──。
「ほう、トンプソンは順調に破壊の種を蒔いているようだね。 君はどうなのかな、ロウリエッタ?」
教皇オリビア=ライトロードは書簡に目を通した後、隣の女性へ煽るように尋ねた。
女性の名はロウリエッタ=ローライト。 彼女は帝国四公爵の一人で、帝国の北部領域を治める大貴族。 加えて帝国第四軍の指揮を取る司令官でもある。
ロウリエッタは左右半々で白と黒の長髪を靡かせながら肩を竦めた。
「……義姉上、そう意地悪を言わんでくれ。 此方もしっかりやっておるからな。 連邦だけでなく王国へ人員を回せる程度には」
「具体的には?」
「王国に数名潜入させ、破壊活動を扇動させておる」
「そんなことしてたんだ? それってトンプソンには伝えてあるのかな?」
「伝えては……おらんな。 競合したとて、奴なら適切に対応するはずだろうしな」
「それなら王国の方はしばらく気にしなくてもいいか。 ちなみにそれって、いつ頃からの計画?」
「十年以上になる。 英才教育を施した子供を送り込む形でな。 死んだという報告は聞かぬし、追加の人員も送っている。 計画通り上手くやっているはずじゃ」
「じゃあ王国は心配ないとして、連邦の方は引き続きオルエと足並みを揃えて頑張ってね」
「姉御は気分屋だから共闘は難しいと思うが……」
「全人類を信徒で染める──それがあの方々の願いだからね。 それさえ叶うなら手段は問わない。 結果だけを持ち帰っておくれ」
「……御意に」
ロウリエッタはオリビアの執務室を後にした。
「トンプソンにばかり功績を立てられるのも癪だからな。 良い具合に王国を掻き回してくれよ、ゼラ?」
ロウリエッタのささやかな遊び心は、王国の狭くない範囲を侵し始めている。
不敵な笑みを浮かべながら軽快に歩くロウリエッタの左目奥には、複雑な魔法陣が刻み込まれていた。
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作者の執筆力に繋がりますので、ギモン・シツモン・イチャモンなど、良いものも悪いものもどうかご意見よろしくお願いします。