第76話 記憶
『……どこへ行く?』
深夜のヒースコート邸。
ロドリゲスの声を受け、女が背を向けたまま立ち止まった。
女は振り向かず、声だけをロドリゲスに投げかける。
『お散歩に、少し』
『こんな時間にか? それも、出来損ないの娘を連れて』
『いけませんか?』
『ただの散歩なら何も言わん。 だが、持ち出したものは返してもらうぞ』
『何も持っておりませんよ?』
ここでようやく女が振り向いた。
窓から差し込む月光を受け、女──ロドリゲスの妾であるフィルリアの顔が照らされている。 彼女の腕の中には、すぅすぅと寝息を立てて眠る6歳のエマの姿があった。
『その頭の中身のことを言っている。 バレないとでも思ったのか、馬鹿が。 せっかく我がお前をヒースコート家へ招いてやったというのに、恩を仇で返してくるとはな。 救いようの無い愚か者だ』
『招いてやった? 私の魔法技能が欲しかっただけでしょう? 私はもう務めを果たしましたので、報酬を得て帰らせていただきますね』
フィルリアはロドリゲスの視線を背中にひしひしと感じながら大扉を押した。
『……』
だが、扉はピクリともしない。 物理的に扉が重いのではなく、何らかの魔法的な制約が掛けられている。 フィルリアはそう確信した。
『出られる訳がない。 その情報を一部でも脳内に秘めた人間は、屋敷から出ることは叶わん。 物理的にも魔法的にも、あらゆる脱出手段は意味を成さない。 そういう仕組み──契約だ』
『……いつその魔法を仕込んだのですか?』
『お前の中に我が精を注いだ時にな。 お前は気丈な女で苦労はしたが、心がどうであれ、肉体的に我を受け入れる行為は屈服したと同義。 お前が何を考えていたか今になるまで理解できなかったが、我から逃げられない縛りを課せば問題は無い』
ロドリゲスはそう言ってゆっくりとフィルリアに向けて歩き出した。
『それ以上こちらに来れば容赦はいたしません』
『荷物を抱えたお前など大した脅威にはならん。 それを放棄してでもやるというのであれば、こちらも覚悟せねばならんがな』
ロドリゲスは止まることなく黒い魔導書を具現化させ、
『《捧贄》』
三つの魔石をフィルリアに投げて寄越した。
魔石同士が共鳴し、圧縮され、消える。
『……魔眼』
攻撃性の魔法を想定していたフィルリアが眉を顰めた。 直後、空間が歪んで現れた漆黒のゲートから、灰色の球体が姿を現した。
闇属性の四番目の性質である“代償”は、何かしらの代替物であったり、リスクを予め背負い込む必要がある。 それによって魔法発動条件を緩和したり、魔法の可能性を増幅させることができる。 ロドリゲスは《捧贄》で魔石を代償とし、魔石本来の性質と数の組み合わせであらゆる魔法を行使する。 代償の恩恵として呪文詠唱も不要となるため、相手としてはとても読みづらい特性を備えている。
『お前のそれを──未来視の力を欲しても、出来上がるのはこのような悍ましい魔法ばかりだった。 その力を十全に扱える子供をお前が産めば問題はなかったが、無理なものは仕方がない。 すでに魔眼の雛形は完成させている。 我に反逆するのであれば、あとは魔眼を完成に近づけるべくお前たちを実験動物に堕とすしかあるまい』
浮遊する人間頭大の魔眼に赤い光が灯り、ギョロリとした目が出来上がった。
召喚された魔眼が、内蔵する魔法を解き放ち始めた。
『物理的作用を持たないのですね』
魔眼の放つ魔法を紙一重で回避し続けるフィルリア。
『触れた生物を腐敗させる。 それだけの魔法だ』
『私たちに逃げられては困りますから、そうせざるを得ないのは明白です。 あなたの使用する魔法も──』
追撃とばかりにロドリゲスも魔石を投擲し続ける。 しかし攻撃性の高い魔法を使用すれば密室の縛りが解けてしまうため、代償を行使しても大した魔法は扱えない。
『鬱陶しいほどの未来視の精度だ。 だが、お前はまともな魔法を使えん』
『それはどうでしょうね』
魔眼をミラーボールに見立て、ロドリゲスとフィルリアのダンスが展開される。 魔眼からは照明代わりに腐敗の魔光が降り注ぎ、フィルリアのステップ難易度を上げる。 更にロドリゲスの魔法によって彼女のダンスは荒々しいものへ。
『ぐ、ぅ……』
フィルリアはロドリゲスへの接近さえ叶えば攻撃手段を備えていた。 しかしエマを抱えて動き回ることには限界があり、一つのミスから計画は瓦解した。 終止符を打ったのは若きユハン。 彼の魔法を知らなかったフィルリアは、彼の出現を想定できない時点で負けていた。
『期待していたのだがな。 所詮、見えるだけでは未来は変えられないということか。 これでは魔眼研究も大した成果は上げられそうにない』
ロドリゲスはフィルリアの首を締め付けながら残念そうにそう吐いた。
ユハンの腕にはエマが人質として抱かれていて、抵抗する力もまた彼によって封じられていた。
『エマを……放し、なさい……』
『娘を助けたくば目的を話せ。 雇い主もな』
『……目的は、悪行を白日の元に……晒すため……。 全て私の、独断です……』
『なるほど。 ではこれよりお前の記憶を探る。 発言に嘘偽りがあった場合、死よりも残酷な結末が降りかかると思え……《記憶遡行》!』
『ゔ……や、め……ェ』
直接脳内に手を突っ込まれたかのような不快感がフィルリアを襲った。
『痛ッ……! おい、暴れるんじゃあ──』
『やめてええええ! お母さんに酷いことしないで……!』
『集中できんだろうが! ユハン、そいつを黙らせろ!』
フィルリアの苦痛を感じ取ったのか、エマがユハンの腕の中で暴れ出した。 ここまでは口を押さえつけられてただただ涙を流すことしかできなかったエマだが、母を助けたい一心か叫びが大きい。
『エ、マ……』
『静かにしろ』
『あ゛ッ…………お母、さん……』
しかしユハンがすぐにエマの腹部を強打したことで、彼女は昏倒することとなった。
『《犠牲化》』
それはロドリゲスとユハンがフィルリアから一瞬目を離したタイミング。 ロドリゲスの手が強打され、取りこぼしたフィルリアの手には魔導書が握られていた。
『……何をしている? 何を始めようとしている!?』
ロドリゲスがフィルリアに向き直った。 疑問を呈するロドリゲスを無視してフィルリアは続ける。
『げほッ……《強制契約》。 今後エマを害する行為を、直接的間接的を問わず、一切……禁じます。 対象はロドリゲス、ユハン、正妻ルッカ──』
『フィルリアお前ッ!?』
ロドリゲスは慌ててフィルリアの首を締め付けた。これ以上危険な魔法を続けさせないように。
何とか阻止できただろうか。 不安になるロドリゲスを見下ろすフィルリアの表情は、呼吸困難で苦しげにも関わらず勝ち誇ったものだった。
フィルリアの足元で魔法陣が光っている。 魔法完成を示す現象だ。
『やってくれたな……!』
『ゔ……ッ……』
ギリギリと締め付けるロドリゲスの力が強くなる。
闇属性魔法の中でも禁忌に属する《犠牲化》。 これがそのような扱いを受けているのはひとえに、代償の大きさ故だ。 代償魔法とは異なり、これが求める代償は使用者の命であることが多い。 尚且つ魔法の可能性が爆発的に増大するとあっっては、使用する側も使用される側も被害が凄まじいことになる。 そういう背景があって、魔法出現の黎明期から早々のうちに禁忌として秘されることとなった。
フィルリアの命を飲み込んだ《強制契約》はあらゆる条件や縛りを無視して即座に完全起動した。 力を持った彼女の言霊は音速を超えて解き放たれ、死後さえも魂を縛る鎖となって三名に突き刺さった。
ロドリゲスとユハンがよろめく。 ここに居さえしないルッカもこの時激しい胸痛で覚醒させられており、彼らは等しく契約を強制されてしまった。
『エマ、あなたは大丈夫……。 お母さんが守っているんだから。 だからこのことを──』
フィルリアの声は絞り出すような微かなものだったが、朧げな意識で項垂れていたエマには届いた。
(巻き込んでごめんね、エマ……)
エマは霞んだ目でフィルリアを見た。
『お母、さん……』
ミシリ。 骨のへし折れる鈍い音が響いた。
『馬鹿が』
忌々しげにロドリゲスが怨嗟を吐いた。
フィルリアはびくりと震え、四肢をだらんと投げ出した。 この時、彼女の脳内では走馬灯が駆け巡り、同時に見たことのないイメージさえも流れ込んでいた。
(……! そう。 そうなのね……。 エマにはそんな素敵な未来が待ってるんだ……。 それなら、安心して逝ける。 ……生まれてきてくれてありがとう、私の愛しいエマ。 また楽しい話を聞かせ、て……ね……──)
急速に薄れる意識の中で、フィルリアは最後までエマの姿を視界に収め続けた。 別れを惜しむように、幸せを願うように。
▽
「ぅ……痛っ!」
エマの脳裏に過去の記憶が思い出されたが、痛みがその確認作業を妨げた。 痛みが強くなるにつれて思考がクリアになり、状況理解が追いついてくる。
「そう、だ……! あたしは光線を回避して、それで──」
執拗に追い回してくる化け物から逃げながら、新たに現れた首の無い化け物をそこにぶつける。 意図せず擬似的な化け物対峙を敢行していたエマだったが、倒壊した家屋の破片で頭部を傷つけた。 その結果、しばらくの間気を失っていた。
「あれ? 居ない……?」
どれくらいの間気絶していたか分からないが、それなりの時間が経過していると思われる。 だというのに無事なのは何故か。
「リセス、さっさと抗体を作りなさい!」
「時間が掛かります。 無理を言わないでください」
「妹に頼らず、ドミナが倒しちゃいなよ」
「それが難しいから言ってるんでしょ!? あんたは黙ってなさい! 一番のお荷物はゼラ、あなたなのよ!?」
「制限解除の反動と負力の不足があるから仕方ないよ」
「どの口がそんなこと言ってるの!? 逃げ回ってないでちょっとくらい手伝いなさい!」
遠くにエマの見知った人物の騒ぐ声が聞こえている。 エマはそれをまるで他人事のように聞いていた。
「えっと……、どうするんだっけ」
ロドリゲスの《人魔混成》が完成し、平民区画内は人外が犇く地獄に様変わりしていた。 騒動の段階では、第三波と言ったところか。
現在平民区画を闊歩する邪悪な存在は三つ。 首の無い化け物、首のある化け物、そして一際強力な魔法を備えた異形性の高い化け物。 エマが遭遇したのはこのうち一つ目と三つ目。 ロドリゲスは魔法完成を待って身を隠し、これら化け物に対して戦闘可能な生存者が対応するという状況が出来上がっている。
「魔法使いが戦ってる、んだよね……? じゃあ、あたしは──」
(──本当に、逃げられる……?)
今やエマの見ている世界は様変わりしてしまっている。 それは町が見るも無惨な状態なことを言っているのではなく、それ以外の部分というか。
「安全な場所、って……」
どこもかしこも、謎の黒いモヤのようなものが立ち込めている。 それは絶えず流動的に変動しており、上空の黒雲とも何か違う。
(あれは何か、多分、駄目な感じがする……。 それとさっきから何かを忘れてる気がするけど、それが何か分からない……)
その何かを思い出そうとするたび、ズキリとした痛みがエマを苛む。
(何の痛み? 分からない。 分からない。 分からない)
「……あ。 そう言えば」
エマは徐に上着の首元を引っ張り、自分の胸を見た。 そこは奴隷区画で化け物が出現する前に傷んでいた場所であり、ちょうど左右の脂肪の間あたり。
「やっぱり、そうなんだ……。 そうだよね、だってあたしはお母さんの──……ん? あれ、何だっけ? えっと、あたしは、あたしがずっと嫌っていた魔法使い、だった。 で、いいんだよね?」
エマは自分でもよく分からなくなってきてしまったため、面倒な思考を放棄してしまった。
(あれは確か、リヒトってお爺さん。 町で一番強いって噂の)
ぼんやりとしたまま、ただ見える光景を脳内で言葉にする。 化け物が去った今、エマはそうやって無為に時間を浪費した。 何かを考えようとすれば何らかの妨害が入るのと、ここまでかなり疲れ果ててしまったからだ。
逃げ回る過程で全身に生傷が多く、衣服はボロボロ。 そして心が生存を渇望する危機的状態でないということもあって、エマは草臥れている。
ぞわり。
そんなエマを無理矢理に現実へ引き戻す感覚があった。
「……!?」
突然、瓦礫を挟んだエマの向こう側にモヤが立ち込めた。 これは流動してきたわけではなく、突然現れたという具合だ。
直後、モヤに向かって何かが飛来。 石畳を破壊しながら強大な着地音を響かせた。
「ひ、ぇ……っ……んっ……」
エマは両手で口元を押さえ、必死で音を殺す。
何かの這って動く嫌な感覚が、エマのすぐ背後を通り過ぎてゆく。
ガサッ──。
背後の何者かが少し大きな動きを見せた。
バレたかもしれないという恐怖にエマは震えた。 しかし、走り出したような音を残して何者かは遠ざかってゆく。
「ッ……ハァ、ハァ、ハァ……!」
エマの肺が酸素を求めて激しくうねる。
「ハァ……ハァッ……行って、くれた……?」
そこにモヤはなく、危険を感じるような存在も確認できない。
エマが玉のような汗を流しながらホッとするのも束の間、先ほどの何者かが向かった先から戦闘と思しき破壊音が響いてきた。
「こんなんじゃ、いくら心臓があっても保たない……」
見上げた空は相変わらず陰鬱とした暗闇を落としてきており、未だモルテヴァを襲う騒動は解決していないことを教えてくる。
「ひゃァ!?」
何度驚いても新鮮な驚きをしてしまう。 エマは自身のそんな部分を不快に思いつつ、たった今浴びせられたマナの波動に思わず立ち上がる。
「あっ……! ……っ……」
モヤは見えない。 しかし、エマはすかさず視線を足下に落とした。 それでもチラチラと接近する二人組を見てしまう。
「エマ……!」
ひしゃげた兜の下からでもモノの鋭い視線が突き刺さっているのがエマには分かる。
「愚物が」
ユハンはいつも通りの暴言を吐きかけた。
「ユハン様の魔法に掛かった割に動きませんが?」
「……こいつへの指示は取り消した。 無視していろ」
「確かに、この女を魔法で動かしても益はありません。 失礼しました」
エマは震えながら彼らが通り過ぎるのを待つ。 が、ユハンがエマの前で足を止めた。
「ユハン様……?」
「ちょうどいい。 モノ、こいつにその荷物を預けておけ。 ここからの作業に支障を来たすからな」
「畏まりました。 エマ、こちらを向きなさい!」
「ひぅっ……──え?」
「聞こえなかったのですか? 光栄に思いなさい、仕事です」
モノは軽々と担いでいたそれ──気絶したハジメを、半ば投げるにしてエマに押し付けた。
「あ、わッ……ぐェ!?」
「それを持ってどこかに隠れていなさい!」
「え……? え?」
「ユハン様が重要視している人物なので、死なせたら許されません!」
すでにユハンは歩き出していた。 モノも告げるべきことだけ告げると、やや小走りで彼の後を追って行った。
「あ、あたし、急にそんな……って、ハジメさんッ!?」
ようやく思考が追いついたエマは、自身の上で項垂れている存在がハジメということに気がついた。
「わ、ちょ……ハジメさん、いきなり胸なんて──じゃなくて、ど、どうしたらぁ!?」
思わず舞い込んだ仕事に、エマはテンパるしかなかった。
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