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オミナス・ワールド  作者: ひとやま あてる
第2章 第3幕 Foreigners in New Life
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第44話 終わりと別離

第2章 完


1章から連綿と続けられた内容でしたが、44話目にしてようやく終えることができました。

一つの話を纏めるのに約40万文字って……。

「えっ!? ふ、フエンちゃん……!」


 風が吹いたかと思いきや、ハジメの前にフエンが立っていた。 久方ぶりの邂逅だが彼女に以前と変わったところはない。


(なんでこのタイミング……いや、そんなことはどうでもいい。 とにかく無事で良かった……! ──ってことはリバーとかエスナも無事なのか?)


「エスナの言ったとおり、死に損なっているのです」


 フエンがエスナの名を口にする。 ハジメの予想通りエスナも無事なようだ。


(今まで何をやって──って、今はそんなことはどうでもいい)


 ここでテンションが上がっているのはハジメだけだ。 対してフエンは少し雰囲気が暗い。 その理由を、ハジメはすぐに知ることになる。


「そ、そうだ! た……た、助けて欲しい! 俺たち修道院に行くんだ!」

「当然です。 お前を助けろとのお達しです。 でもその様子なら……助けるまでもないのです」

「……?」


 ハジメはフエンがなにを言いたいのか分からなかった。 それこそ最近では会話もスムーズになってきたところだが、未だ言葉に含まれる深い意図までは汲み取れない。


「レスカ。 もう息してないのです」

「……え?」


 ハジメの心臓が嫌な感じで揺れた。


「え、っと……それってどういう……」


 ハジメは最初それが信じられなくて、ゆっくりと顔を後ろに向けた。 そこにはハジメに背負われてもたれかかったままのレスカの顔がある。 彼女の表情もなにやら安心した様子だが……。


「え……息、して……」


 ゾッと背筋が凍る気がした。


 町から離れる当初は、ハジメの耳にレスカの浅い吐息が当たっていたはずだ。 そこから長期の移動でハジメの身体が熱を帯び、疲れも相まって体勢を上下させていたことで、レスカの変化には気づけなかった。


「え、う、うそ……だろ……」


 呼吸をしていない。


 心臓が拍動をしていない。


 ハジメの頬に触れるレスカの顔が熱を持っていない。


 そして当然、みじろぎひとつしない。


「レス、カ……?」


 ハジメが背負っていたのはレスカ──その亡骸。


「ひっ……!」


 背後にいる存在がすでに生者ではないことに、ハジメは本能的に忌避感を覚えてしまった。 それがレスカであっても、内から溢れる気持ち悪さを拭いきれなかった。


「おい、ちょっと待てって……。 なんで、え、さっきま、で……うそ、え……」


 ハジメはレスカを地面に横たわらせる。


 不慣れな手つきで彼女の首元に手を当てる。


 胸に耳を当てる。


 返ってくる反応は、何も無い。


 無。


「は? は? は? え……?」


 ハジメはアルス世界の言葉など忘れて日本語で喚き立て、フエンは何も言わずにその様子を眺めているだけ。 手出しすることなどない──それはつまり、手出しする必要がないということ。


「ま、待て……。 待て待て待て……待ってくれよ! なぁ、レスカ! さっきまで生きて……あれ、そんな……だってダスクさんがポーション、くれて……だから……」


 ハジメは半狂乱になりながらレスカを揺さぶる。 しかし彼女の安定しない首が力なく曲がるだけ。


 そこからハジメは思い出したかのように心臓マッサージを開始した。


「何してるです」

「ハッ、ハッ……だ、黙っててくれ! ……フッ、フッ……!」


 現代ではもはや意味がないとされている口からの息の送り込みによって、レスカの胸部が少し持ち上がる。 が、正しい方法ではないため、寧ろ心臓マッサージの時間を削るだけの無駄な時間に成り果てている。


 日本にいる時、教習所で習った要救助者への応急処置。 あの時は早く終われと念じながら流していた内容だったが、ハジメは今更ながら後悔する。 なんであの時ちゃんと聞いてなかったのだ、と。 聞いていればレスカが助かったということでもないが、聞いていなかったことがここにきて意味を持ち始めている。


(あれは──あの心臓マッサージ訓練は、身内の誰かが倒れたって想定で聞いてなきゃダメだったんだ……! なのに俺は……!)


 ハジメの後悔が正しいものかどうか不明だが、少なくとも手段を一つ失っているということは事実。 焦る気持ちは、今できることよりもできないことにばかり思考リソースを回す。


「フエンちゃん、頼む、誰かを呼んでくれ……! た、たしか、近くに神父……が……」


 考えが纏まらず、ハジメはしどろもどろになりながら訴える。


「死した人間を戻す術などないのです」

「そんなの分かんねーだろッ!!!」


 ハジメは叫んでからハッとする。


 普段無表情のフエンのそれは、少し歪んでいた。 痛みを隠すような、言いたくないことを隠しているような。


「……なんで、そんな顔すんだよ……」


 お前のやっていることは無駄だ。 暗にそう言われているようで、ハジメは力なく項垂れる。 そうやっている間にも、レスカの心臓が無理矢理に吐き出していた血液は動きを止め、再び末端から彼女の身体を冷やす。 それが分からないハジメは、やはり何も持ち合わせていない類の人間だ。 そんな人間が何かを成そうなど──レスカを助けようなど、もとより無理な話だったのだ。


「まだ、分からないって……そう言ってくれよ……」

「死人を戻せるなら、リバーさんも──」


 ハジメにはフエンの言葉は聞き取れなかった。 それでも、彼女の寂しげな意図は伝わってくる。


 ハジメは諦めきれず、一心不乱に心臓マッサージを続けた。 これを止めれば、レスカの死を受け入れたことになるから。 フエンは何も言わずにそれを見守り続ける。


(フリックだって、レスカだって、ついさっきまで一緒に過ごしてたのに……! なんで俺だけが生きて……ッ)


 ハジメが乱暴な蘇生措置を続けるたびにレスカの胸骨が軋み、ひび割れ、そして徐々にへし折れ始める。 そうなっては蘇生措置も十全には機能しない。


(なんで俺はいつも何もできないんだよ……! このままレスカが死ぬのを指咥えて見てろってのか……。俺がレスカとフリックを呼ばなければ、俺が外で特訓なんてしなければ、俺が──……)


「……それ以上はレスカが可哀想なのです」

「そ、そんなこと言うならッ! 魔法でも何でも──ッ!」

「そんな都合の良い魔法があると思ってるですか? これはどこまで行っても他者を傷つける道具でしかないのです」

「……畜生……ッ」


 ハジメが少しレスカから気を逸らせば、すぐに彼女は冷えていく。 まるで世界がレスカを殺したがっているかのような状況に、ハジメは不条理を嘆くしかない。


(せめて俺がもっと強ければ……俺が魔法を使いこなしていれば……何か一つでも突出するものがあれば未来は変わっていたかもしれないのに、なんで俺はダラダラと日常を謳歌してなんていたんだ……ッ!)


「もうやめてあげるです。 お前はここまでよくやった方です」

「よくやった、じゃなくて、よくやった方……かよ、クソ!」


(せっかくエスナに会えるかもしれないってのに、なんで俺は最後まで守ってやれない……!? せめて俺に敵を殺す力があれば。 せめて俺に誰かを守る力があれば。 せめて俺に──いや、そんなことならいっそのこと……!)


「何してるです」

「分かってるだろ! 俺はレスカを!」

「そうじゃないです。 何の魔法を使おうとしてるか聞いてるです」

「……は?」


 言われて気づく。 ハジメの周囲を覆うマナが、急速に失われていることに。


「え、なん……?」


 ガクリとハジメの身体が傾いた。 そしてそのまま地面に倒れ込む。


(何、が……起こってる?)


 そんな思考など無視するように、凄まじい勢いで枯渇していくマナ。 それはハジメの中身を無理矢理に吸い出さんばかりの調子で彼から全てを奪い去っていく。


「や、め……」


 次第に視界が歪み、思考すら手放さなければならないほどの疲労感、そして気持ち悪さがハジメの中に生まれてくる。


「レス、カ……俺、ま……だ……」


 頭が割れそうな痛みも生じ、それ以上ハジメは抗うことができなかった。


 ハジメはレスカのいるであろう方向へ力無く手を伸ばしながら、失意のままに意識を手放した。



          ▽



「──」

「────、──」

「──、──」


 ハジメの耳に何者かの話し声が届く。 それは扉の向こう側からで、ここがどこかの室内ということが分かる。 室内は暗く、調度品の類は少ない質素な佇まいだ。


(ここ、は……?)


 ハジメは簡素なベッドに寝かされている。 掛けられているシーツも、決して質の良いものではない。


「……ぐッ……ぃ!?」


 寝返りを打とうとしたハジメの全身に激痛が走る。 そして思い出したかのように生じる全身倦怠感。 痛みがハジメの思考を強制的に呼び覚まし、即座にレスカのことを思い出させる。


「レ、レスカ……! レスカ、レスカ……う、うぅ……」


 涙が溢れる。


 ハジメはレスカを救うことができず、その半ばで力尽きたのだ。 ハジメが今ここに生かされていることから、幾許かの時間が過ぎていることは確実だろう。 であれば、もう──。


「なに泣いてるです」


 扉が開かれた。 ハジメの呻き声を聞かれたからだろう。


「う……」

「こっちに来るです」


 現れたフエンによってハジメはベッドから引き摺り下ろされ、そのまま広い空間へ運ばれる。 そこは打ち捨てられた教会で、割れたステンドグラスや崩壊した壁面から相当な年季を感じさせる。 しかしハジメはそんな


「はな、放して……」

「黙ってろです」

「……ゔッ!」


 ハジメが雑に転がされた先では、三人の人物が待機していた。 そのうち一人はベルナルダンで見たことのあるタージ。 残りの男女二人はハジメの記憶には存在しない。


「ご苦労、フエン」

「は、はい、ツォヴィナール様」


 まずは女性の方が口を開いた。 フエンにツォヴィナールと呼ばれた女性は大胆にも祭壇に腰掛けながら、その真っ青な長い髪を床まで流している。 服装はパレオのようで、静謐さを感じさせる白で胸と下半身を覆っている。 彼女の脚を組んだ体勢からは白い太ももが露出させられるが、そこには何故か卑猥さを感じさせない。 なにより彼女から発せられる神々しさがハジメに圧倒的なプレッシャーを与え、そんな煩悩さえ生じさせない。


「ハジメ=クロカワ、まずはそなたの勘違いを正しておこう。 レスカは生きておる」

「……え」

「聞こえなんだか? レスカは死んでおらんと言った」

「ほ、本当なのか……!? ど、どこにいるんだ! なぁ、早く会わせ──」


 興奮して痛みも忘れて立ち上がり、ツォヴィナールへ食ってかからんばかりのハジメ。 そんな勢いは、ツォヴィナールの指の一振りによって鎮められる。


「……!? ……ッ!?」


 ハジメの顔面が大きな水球で覆われている。


 突如生じた呼吸困難。 ハジメは慌てて水球を破壊しようと踠くが、水という液体に対してそれは意味を成さない。


(……し、ぬ……)


 ハジメの意識が飛ぶギリギリで、バシャリと水球が爆ぜた。


「ゲホッ……ゴホッ……! ハァ……ハァ……」

「それは不敬だぞ、クロカワ。 この方をどなたと心得ている……!?」


 ここにきてパーソン司祭が口を開いた。 苦しむハジメを見下ろしながら怒りに震えている。 しかし苦しみに喘ぐハジメの耳にはそんな怒りは届かない。


「お前、落ち着くです。 場合によっては死んでいた、です」

「ッ……? ハァ……ハァ……」


 数分掛けて、ハジメは普段通りの思考を取り戻した。 濡れて衣類がビシャビシャだが、その不快感が現実に引き戻してくれていると言っても良い。


「落ち着いたですか?」

「う、うん……ごめん」

「ならいいです。 でも次はないかもです。 あの方は神。 そう弁えて行動するです」

「か、神……?」

「そなたによって現世に顕現させられた存在。 業腹ながらな」


 そう不機嫌そうに言い放つツォヴィナールからはやはり、人間離れした威圧感を拭えない。


(神……。 なんでここに神が? いや、俺のせいで? 分からん……)


「あ、あの……」

「ツォヴィナール。 ツォヴィナールでもナールでも、呼び方は何でも良い」

「ナ、ナールさ──様。 レスカが無事っていうのは……?」

「無事かと言えば、無事ではない。 ただ、死の間際でそこに在る。 それだけのこと」

「も、もっと詳しく教えてもらえれば……」

「おい」


 ツォヴィナールの雰囲気が一気に険しいものになり、ハジメは思わず口を噤む。


「なにゆえ妾がそなたの疑問全てに応えてやらねばならん? 弁えよ、人間。 ここはそなたの居た満たされた世界ではない。 求めれば得られるなど、今後そのような幻想にも等しい考えは捨てよ。 代価なくして得られるものなどありはせん」

「……」

「一つ言っておくが、レスカの命を永らえさせたのは妾だ。 そのような奇跡を前にしてもなお、そなたはその態度なのか?」

「……! す、すいません……」

「フエン、仔細はそなたが伝えよ。 妾を煩わせるな」

「はい、です」

「パーソン」

「はっ」

「そなたはその男に言語と礼節を叩き込め。 いくらアラマズド神の意志が介在しているとはいえ、あれでは醜くてかなわん。 神の一端に触れている以上、最低限の会話すら成立させられぬ猿であっては困る」

「畏まりました」


 ツォヴィナールが指示を残して去ると、ようやく空間を支配していた重圧が消えた。


「クロカワ。 私はこのクレルヴォー修道院で司祭をしているパーソンという。 ツォヴィナール様よりお前を暫し預かれとのお達しだ。 だがその前に事実確認も必要だろう。 まずはフエンから話を聞いて現状把握に努めよ。 エスナも外で待機しているだろうからな」

「えっと、はい……」

「お前、さっさと行くです」


 事情が飲み込めないままハジメはフエンに連れていかれ、そのまま修道院の外へ。 ここは人の手が入ることで緑が過度に生い茂らず、なおかつ周辺を覆う神聖な空気によって一個の完成された空間として仕上がっている。ハジメはそんな様子とツォヴィナールの神の力に繋がりを感じながら、フエンの後について歩く。


 森を抜けると、昼間にも関わらず黒い色褪せたコートを纏うエスナの姿があった。


「ハジメ、目が醒めたのね」


 風が吹く。


 二人の来訪を確認して、エスナが右手で乱れた髪を掻き上げた。


「エスナ……?」

「そんなにこの手が珍しい?」


 エスナの手が黒い。 指の先から、恐らく肘を超えた上の方まで。


「これは、そう。 色々あったの。 ハジメと同じで、ね。 とにかく、レスカを助けてくれてありがとう。 ハジメは、私の思った通りの人間だった」

「助ける、なんて……俺は、何も……」

「まぁ、感傷に浸るのは程々にして。 ここからは未来の話をしましょう」

「エスナ。 まだ全部は伝えてないのです」

「あら、そう。 じゃあ、レスカがどんな状況なのかも知らないのね?」


 コクリとフエンが頷く。


「じゃあフエンちゃん、話してあげて」


 それは、ハジメが気を失う直前から。


 その時フエンは激しいマナのうねりを見たという。 それは一つに紡がれてレスカに注がれ、レスカの命を呼び戻した。 正確に言うと、死の直前に時間を固定したと言うべきか。 但しこれはツォヴィナールが説明した内容で、なおかつ彼女が実行した奇跡である。


「ナール様、説明してるし……」

「それはお前があの方の気分を害したからです。 本来はとても優しいお方なのです」

「……時間、固定って?」


 ハジメは自らの愚を晒すまいと次を促す。


「それは──」


 レスカの死を受け入れられないハジメの祈りが、付近にあるクレルヴォー修道院──そこに座すツォヴィナールへ届いた。 そこからレスカの蘇生されるまでの過程はツォヴィナールによって語られなかったが、ハジメの周囲を覆うマナを消費する形で行使された超常によって奇跡は成就したらしい。


「ところで、今レスカは?」

「教会の奥で安置してるです。 ツォヴィナール様の奇跡で死を超克したとはいえ、それは一時的な結果に過ぎないのです。 もし万が一にでもそれが解かれれば、レスカは死んでしまう。 だからツォヴィナール様の元で管理することになったのです」

「管理? なぜ管理が……?」

「それはお前が礼節を弁えてツォヴィナール様から聞け、です。 多分だけど、お前の魔法とも関連してるはずです。 だけどお前の心象はマイナススタートだから、せいぜいパーソンから礼節を学べ、です」

「とにかく、レスカは無事……か」


 ハジメは天を仰いだ。 ラクラ村を追われてから本心から気を休めることができなかったが、ここにきて一つ心のつっかえが取れた気がした。 もちろんレスカの命は無事と言い切れる状態ではないが、それでもハジメはギリギリのところで踏み留まった──やるべきことをやり切った。


(俺自身の力じゃない。 今この状況さえ、誰かの助けがあってのものだ。 だけど、俺は最後まで一つのことをやり切ったんだ……)


 ハジメは目頭が熱くなる。 しかし、それと同時に失ったものを想起して悲しくなってしまう。


(フリックさん……ベルナルダンは、もう……)


「フエンちゃん、ありがとう。 続きは私が話すわ」

「任せたです」


 フエンはやるべきことが残っているのか、話すだけ話すと修道院へ戻って行った。


 残されたハジメとエスナだが、そこにはなぜか緊張がある。 それはエスナの右腕が変色していることに起因するものだろうか。 それともハジメが暗い話を予期しているからだろうか。


「……リバーは?」


 緊張に耐えられなくなり、ハジメから切り出した。


「うん……えっとね。 リバーさんはもう居ないの……」

「そう、か……」


 レスカの死を知った時ほどの衝撃はなかった。 しかし、それに相当するほどの痛みがハジメを襲った。


「何があったか、聞いても……?」

「そうね。 まずはこれを見て」


 エスナはコートの前を広げて右肩あたりをハジメに見せつけた。


 エスナの右腕を侵食する黒色は指先から肩口にかけてのっぺりと広がっており、ちょうど肩関節を覆うような位置で終わっている──というより押し止められている。 というのも、黒色の端から樹脂状に伸びた細い部分が血管のように脈動しており、それが生きた何かだということを訴えてきているからだ。 その黒色はエスナの右腕を指先から肩口まで侵している、という表現がぴったりなのだ。


「ッ……!」

「まぁ、驚くよね。 そうなんだ。 私、魔人になった……ううん、なりかけてるみたいなの」

「それってどういう……」

「あの日ね──そう、雨の降ったあの日。 私のお父さんの姿をした魔人がラクラ村まで降りてきた。 元々それを想定してリバーさんは私に特訓をつけてくれていたし、私も心の準備ができていると思ってた。 でも──」



          ▽



 あの時、エスナは魔人化した父の姿を初めて目の当たりにした。 すると途端に戦えなくなってしまった。 それがなぜだかは分からない。 父の姿に懐かしさを覚えたのか、それとも父の姿に恐怖を覚えたのか。 とにかく、震えが止まらなくなってしまったのだ。


「リ、リバーさん……どうしよう、私……」

「……仕方ありません。 エスナさん、ここは撤退を! あれは私とフエンさんで相手します」

「でも、そしたらリバーさんが……」

「早く!」


 エスナの動揺を、魔人ヤエスは見逃さなかった。


 本来のエスナなら──意識を正常に保っていられている状態なら、そんなことにはならなかっただろう。 しかし魔人は抜け目がなく、狡猾で、残忍で、エスナの隙に入り込んだ。


 魔人の腕がエスナに触れる。


「しまった! エスナさん、接続リンクを切って──」


 リバーの声が届くより早く、エスナは白い空間にいた。


『エスナ』

『お父さん?』


 そこには懐かしい父の姿があった。


『ああ。 僕だよ』

『お父さん、どうしてこんなところに?』

『分からない。 だけど、エスナもこっちに来た方がいい』

『うん。 だけど、後ろの人は誰……?』


 ヤエスの背後には、彼と同じ姿をした人物が立っていた。 その者の身体は薄暗く燻んでおり、ずっとヤエスに何かを囁いている。


『この人は……僕の友人だ。 後で紹介するよ。 だから……』

『うん……』


 エスナはボンヤリとした意識の中、ヤエスの言葉に従う。 なぜだか父の言う事全てが正しいと思ってしまっていたからだ。


『エスナさん、そっちへ行ってはなりません!』


 白い空間に響く、リバーの声。


 エスナが背後を振り返れば、そこには空間に不釣り合いなピエロがいた。


『あれ、リバーさん? どうしたんですか?』

『そっちへ行っては駄目です。 戻れなくなる』

『そっち? どっちのことですか?』

『……エスナさん、これまで私と行なっていたことを覚えていますか?』

『急にどうしたんですか? 覚えていますよ。 私はリバーさんと魔法の特訓をしていたんです』

『何のために?』

『何の……ため? そこに理由が必要ですか?』

『エスナ、こっちへおいで。 その人との話は、また今度にしよう』


 優しげなヤエスの言葉がそこへ割って入った。 よく観察すればそこに焦りが生じていることが分かったはずだが、今のエスナには困難なことだった。


『そ、そうなの? 分かったわ、お父さん。 じゃあリバーさん、また』

『エスナさんはそれでいいんですか?』

『えっ? 何ですか?』

『私のことを好き言ったのは嘘だったんですか?』

『……え、あれ……』

『エスナ、その人の言葉を聞いては駄目だ』

『分かってる、けど。 どうして駄目なの?』

『どうしても、だよ。 その人は悪い人なんだ』

『悪い? リバーさんが?』

『そ、そうだよ』

『なんでお父さんが、リバーさんのこと知ってるの?』

『なんで、って……。 僕がエスナのことをよく知ってるからだよ』

『悪いって、なんでそんなこと言うの?』

『それは……』

『やはり、5年のブランクでは無理がありますねぇ?』


 リバーがエスナに近づく。


『エスナ、その人は──ッ!?』

『退ケ!』


 ヤエスを押し倒して、薄暗いヤエス──魔人もエスナに接近し始めた。


『お父さん!?』


 驚くエスナをよそに、リバーと魔人が彼女を挟んで対峙する。


『エスナ、コッチヘ来イ!』

『エスナさん、ここ数週間を思い出してください。 魔法の特訓は魔人を見据えてのものでしたが、それでも楽しい生活だったはずです』

『黙レ、人間! 邪魔ヲスルナ!』

『このような方など、エスナさんを迫害してきた村人と同じではありませんか』

『エエイ、黙レ黙レ!』

『あなたはレスカさんを守って、私との楽しい生活を手に入れるのではなかったのですか?』

『人間、殺スゾ!』

『でも、お父さんが……』

『あなたの父ヤエスは、5年前の雨の日に死んだ。 そうでしょう?』

『じゃあ、あれは……?』

『あれはまやかしです。 本当のお父さんなのであれば、このような乱暴な人と付き合うことなどなかったはずでしょう?』

『人間、ソレ以上喋ルナ!』

『そう、だよね……。 お父さんは、こんな人とお友達になんか……』


 エスナの選択は、空間の破壊を齎した。 ボロボロと端から崩れて失われていく白い空間。


『クソ、斯クナル上ハ──ッ!』


 魔人の最後の叫びは、現実で彼の行動を早めることに繋がった。


「……ぐッ……かは、っ……!」


 魔人の左手がエスナの右腕を掴んでいる。 そして一方の左腕が、リバーの胸部を貫いていた。


「えっ……」

「がァ……エス、ナさん……今の、うちに……!」


 驚きで動けなくなっているエスナの耳に、断末魔のようなリバーの声が。


「え、で、でも……。 それだと、リバーさんが……」


 戦え。 リバーはそう言っている。


「ハ、離セ!」


 もがく魔人。 見れば、その身はリバーの影魔法によって雁字搦めにされており、魔導書すら無理矢理に閉じられている。 これでは魔人といえど魔法発動は困難だ。


「レスカさん、を……その手で……守りなさいッ!」


 ハッとするエスナ。 覚悟を決めた彼女は、迷うことなく魔法の座標指定を開始した。


「ヤ、ヤメ──」

「《断絶セヴェレンス》……!」

「──ガハッ!?」


 水の断絶障壁が魔人を貫く。 しかしその程度では魔人を真っ二つにするには至らない。 水の障壁は魔人の身体に食い込む形で留まり、それ以上進まなくなっている。


「リバーさんから離れて! 《断絶》、《断絶》、《断絶》──」

「ガッ! ギャアッ! ィギ!?」


 何度エスナが魔法を放とうとも、それは致命傷には至らない。 なぜなら同じ属性に対して攻撃を通すには、かなりの攻撃力が必要になってくるからだ。 それにエスナは攻撃に寄せた性格でもないし、そもそも魔人は核を砕かなければ本当の死を与えることはできない。 ヤエスはヤエスで核を厳重に守っていることもあって、エスナの連続攻撃も本当の意味では効果的とは言えないのだった。


 攻撃を受けながらも、ヤエスはリバーを殺すことを諦めていない。 ヤエスは膂力でリバーを貫いている腕を蠢かせ、リバーの内部臓器を蹂躙する。 貫いている位置が胸部だけあって、その魔の手は容易に心臓へ至り、リバーの命を秒単位で縮め始める。


「ぁ……が……」


 虫の息のリバーと、それを追い立てるヤエス、そして必死にやめさせようとするエスナの無茶苦茶な攻防が繰り広げられる。


 リバーがヤエスを留めているお陰でエスナは攻撃を受けずに済んでいるが、それもどこまで保つかといった状況だ。


 いつ一変してもおかしくはない極限の状態。


 ヤエスに天秤の針が傾く直前、フエンの登場が流れを変える。


「《穿弾ピアシング・バレット》」

「ァ……?」


 ヤエスの頭が揺れた。 かと思えば、無数の細い弾丸がヤエスを蹂躙し始めた。 それらはヤエスの身体を容易に貫通し、抜けていく。 優位属性の風は水属性の防御を簡単に掻い潜る。


 これはまずいと思ったヤエス。


 魔人──世界を害する魔の存在意義は、生物の中でもとりわけ人間を滅ぼすことに執心している。 だからこそだろうか。 ヤエスは個の生存を即座に諦め、より多くの人間を害する方へ思考の舵を切った。 それは理性を捨てた存在だからこそ可能な選択だった。


「……!」

「きゃッ!?」


 何かを感じ取ったリバー。 彼は即座に影を解くと、それをエスナに巻き付けて勢いよく放り投げた。


 エスナが飛んだ先は、見事にフエンの側。


「逃げ──」

「《浮遊フロート》!」

「リバーさん……!」


 フエンはリバーが言うより早くその意図を汲み、流れの中でエスナを引き上げると、背後も見ずに逃げに徹した。


 直後。


 臨界に達したヤエスの核が膨れ上がり、爆ぜた。


 全ての生物を侵す魔の波動。 それはヤエスを中心に拡散し、ラクラ村を容易に飲み込んだ。


「私の伸ばした手は届かず、リバーさんは波動に飲まれてしまった。 あの時魔人に触れられた私の右腕は黒く染まり、抑え切れるようになるまでかなりの時間を要したわ。 今も私を蹂躙しようと必死で暴れているけど、私がお父さんと接続した時に入ってきたリバーさんの残滓が私を人間に繋ぎ止めてくれているの。 リバーさんは死んじゃったけど、私の中で生きてくれている。 だから私は狂わずに、こうしていられるのよ」


 それを聞いて、ハジメは何も言えなかった。


 色々と失ってしまったエスナと、何一つ自分のものは失わずに生きているハジメ。 これで何かをやり切ったなどと思い上がっていることが、ハジメにはあまりにも恥ずかしかった。


「魔人の最後の足掻きでラクラ村は滅んでしまったわ。 そこからベルナルダンまで影響は波及してきたみたいだけど、例の魔物は死んで、オリガ=アウローラは私が殺した。 魔物の核はゼラ=ヴェスパに持っていかれちゃったから、痛み分けって形で今回の騒動はケリが付いたのかな。 その間もハジメがずっとレスカを守ってくれたから、こうして皆んな無事でいられてるの。 だからねハジメ、これからもレスカを守ってあげてね」

「なんでそんな、最後、みたいな……」

「こうなってしまった以上、私は人間社会には居られないの。 私はこれからトンプソン様のところへ行って、やるべきことを見つけるつもり。 だからここでお別れ。 レスカが元気になったら、会いにきてくれると嬉しいな」

「レスカが、って……。 エスナもここに……」

「それは無理なの。 どうして私がこんなところにいるか、分かるでしょ?」


 ハジメは周囲を見渡す。 しかしエスナを阻むものなど何もない。 もしあるとすれば──。


「魔人はね、神様に近づけないの。 神様に守ってもらってるレスカに対しても、ね」

「そん、な……!」


 そんな時、ガサガサと葉が揺れる音。


「フエンちゃん、挨拶は済んだ?」

「ツォヴィナール様から聞けるだけのことは聞いてきたです。 すぐに出られるです」


 現れたのはフエン。 彼女は背中に大きなリュックを抱えている。


「ごめんね、ハジメ。 ハジメが起きたら出発するつもりだったの。 最後に感謝の言葉だけは伝えておこうかと思ってね」

「待っ、て……。 待ってくれ。 エスナ、それでいいのか……!?」

「神様が守ってくれてるそうだから、心配してないわ。 それに、あの子にはハジメが付いてるんだから。 一目見たい気持ちはあるけど、心強い味方に守ってもらえてるなら、私は全てを任せて次に進める。 だからハジメ──」

「でも……」

「──あなたが居てくれてよかった。 じゃあ、またどこかで」

「あ………………ああ、元気で……」


 エスナは後ろ髪を引かれる思いを振り払いながら、気丈に前を向く。 そしてそのまま振り返らずに北へ進んでいく。


「お前、町には近づかないことを薦めるです」


 最後にフエンが言い残すと、彼女たちは本当にここから去っていった。 ハジメはそれを見送りながら、膝から崩れ落ちるほかなかった。


 ハジメが彼女たちと一緒に進めないのは、何の力も持ち合わせていないことに起因する。 付いていったところで足手纏いなのは分かっているし、何よりこれからの明確な目的が定まっていない。


 この別れは、次に進める人間とそうでない人間の境目をハジメに強く意識させるものだった。

本作を読んで「面白い」「続きが気になる」と思われましたら是非ブックマークをお願いします。

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作者の執筆力に繋がりますので、ギモン・シツモン・イチャモンなど、良いものも悪いものもどうかご意見よろしくお願いします。

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