第42話 刺激されるものたち
ピクリ──。
ゴリラの魔物はマナに乗せられた意識を具に感じ取った。
「ゴァアアアアアッ!」
強大な叫びが上がった。 それは魔物の意志によるものか、それとも本能に従っただけなのか。
魔物は瘴気を放つ死体を引っ掴むと、雄叫びもそのままにナックルウォークで走り出す。 オリガに切断された魔物の腕は既に再生しており、またその肉体は異形化深度の高まりによって更に凶暴な姿へと変貌している。 それはまさにナワバリを持つボスの姿であり、個で中級魔法使いにも劣らない力を獲得していた。 そんな魔物の一歩一歩が大地を揺らし、多くの魔物を引き連れて目的地を目指す。
それらの向かう先は、災禍の著しいベルナルダン。
現在ベルナルダンにおいて展開されている戦場は二つ。 一つは町中でのゼラを中心とした殺戮現場、そしてもう一つは──。
「『断罪』!」
夜の暗さに光が際立つ。
ここ数十分で周囲は一気に暗くなり、本格的に夜の時間となっている。
ひとたび発動してしまえば、相手を確実に滅ぼすオリガの必殺。 それは二本の十字架を形作り、グレッグとカミラを射殺さんと降り注いだ。
(これがカルミネの言っていた例の魔法ですな。 ……まったく、いきなり本気とはこちらのことを何も考えていない。 これだから増長した魔法使いは面倒なもんで)
そんな絶望の一撃を見てもグレッグは顔色ひとつ変えなかった。 カルミネから齎されていた情報もあったし、実際に目にしてみてそこまで脅威を感じなかったためだ。 それにグレッグからすれば、オリガはまだまだ魔法使いとしてはヒヨッコだ。 彼女は攻撃力こそ素晴らしいが、言ってしまえばそれだけなのだ。
(予想通りだが、ここで手札を一枚切らされるのは厄介です……な!)
このまま何もしなければフレッグとカミラは当然のように死ぬだろう。 しかしそれは、彼らが単なる一般市民だったらの話。
まずグレッグが動いた。 彼はポケットから直径5cmほどの球体を取り出すと、勢いよく二本の十字架に投げつけた。 この時カミラは完全にグレッグを信用しており、空中姿勢のまま矢筒から矢を取り出し、姿勢を崩さないままオリガに向けて言を引き絞っていた。
十字架と球体の接触、そしてカミラの攻撃は同タイミングだった。
オリガは自身の魔法に絶対の自信を持っている。 それは今まで彼女の断罪が回避されたことがないからであり、またそれによって仕留め損なった経験もゴリラの魔物くらいなものだからだ。 だからグレッグとカミラの行動も何ら意味のないものと切り捨ててしまい、その慢心が隙を生んだ。
球体に触れた十字架が音も無く消え去った。 オリガがそこに驚くより早く、カミラの矢がオリガの左鎖骨あたりに突き刺さっている。
「ぐ……ぅっ──」
グレッグはオリガに範囲攻撃が無いことを知っていた。 と言うより、彼女は断罪を多用する傾向にあり、滅多なことがない限りそれ以外の魔法は使わない、と。 だからグレッグとカミラは予め作戦を立てていた。 もし断罪が来ればグレッグがそれを阻止し、その間にカミラが攻撃する。 それはそのままの形で適用され、しっかりとオリガの身体を穿った。
「──ぅう……雑魚のくせにィい!!!」
オリガは痛みも気にせず矢を引っこ抜きながらブチ切れた。 血液が舞い、一瞬彼女の視界を覆ったが、それが明けた時にはグレッグとカミラの姿が無い。
ヒュン──。
風切り音。 オリガの耳でそれが聞こえた次の瞬間には、続く矢が彼女の肩を貫いていた。
「が……!?」
ゼラの攻撃によって周囲の建物は砕け、ばら撒かれた瓦礫などによって身を隠す場所がいくらでもある。 カミラはその何処かに身を隠しながら、曲射でオリガを狙い、そして見事に命中させていた。 直接狙いをつけて撃ち抜く場合とは違って精度はやや落ちているが、それでもカミラの矢は敵をしっかりと傷つけた。
「あ゛ぁッ! あーしを傷つけやがって! 絶対にただでは済ませないッ! 『光鏡』!」
オリガは憤りつつ回復ポーションを呷り、索敵のために複数の反射鏡を周囲へ展開させた。 しかしここで問題なのが、空間的リソース。 その問題が彼女の行動を制限し、苛立ちを増大させる。
魔法には、環境影響を多大に受けるという性質がある。 たとえば現在のような夜の時間帯であれば、オリガの光属性魔法は空間に光のリソースが不足しているため魔法発動速度が落ちる反面、闇に光が際立つため威力が増したりもする。 一方この時間帯は空間に闇属性を象徴するリソースに溢れているため、闇属性は威力を増し、ゼラの《負力解放》が効果を最大限まで発揮している。 光と闇属性の関係は互いに特効であるため、とりわけ時間による影響は顕著に出る。
現在、オリガは自身の魔法を十全に機能させることが困難だ。 《断罪》が一瞬の煌めきに威力が凝縮されているのとは異なり、闇の中において《光鏡》は継続的な光源効果を必要とするため、必要なマナも操作性も高く要求される。 それは彼女が《光鏡》以外に集中力をあまり回せないことを意味しており、二人の敵と視界の悪い環境で戦い抜くには条件があまりにも悪い。
オリガは《光鏡》を可能な範囲で配置した。 しかし距離を離すことで光の反射が届きづらく、また暗闇によって敵の姿を捉えきれない。
(どういうわけか、あーしの魔法が漏れてる……腹立つなぁ。 そうじゃなきゃ断罪に反応できるわけないし、今ここの対応も辻褄が合わない)
オリガは外面こそ怒り狂っているが、内面は冷静そのものだ。 勿論傷つけられたことに対する怒りはあるが、それは魔法が対応されたことに起因する──謂わば彼女の落ち度であり、憤りをぶつける相手は彼女自身だ。 それでも、今まで一撃必殺であらゆる敵を屠ってきた彼女のプライドを大きく傷つける程度にはグレッグとカミラは存在感を発揮している。
(カミラ単体なら雑魚。 問題はグレッグの方。 阿呆なハンターがコソッと漏らしてくれたからグレッグが土属性ってのは知ってるけど、さっきのあれは魔法じゃないから力量が分からない。 今が夜じゃなきゃもっと知れるんだけど……)
静けさが空間を支配している。 ここから派手な戦闘に繋がるというオリガの予想は外れ、町中からの喧騒以外に彼女の周辺では物音ひとつ聞こえない。 なおかつ彼女の周囲を巡回させている光鏡も人間の姿を映し出さず、緊張の時間が続く。
(どういうこと? こっちが態々隙を晒してやってるんだから、さっさと攻撃して来ればいいのに。 まさかあーしの考えが読まれてる……?)
オリガは敢えて相手に先手を許し、カウンターで攻め切るつもりで警戒を続けている。
カミラは肉体能力を超える特別な力を持ち合わせていない。 勿論彼女の“鷲の目”はオリガにとって厄介だが、夜間でそれは十全に機能しないだろうし、オリガが極限まで集中力を高めれば、一般的な人間の範疇を超えないカミラの矢を躱し切るのは容易だ。 もしカミラがダスクのような強化能力持ちなら、ただの矢も必殺の一撃に変わるが、オリガが二発受けた限りは特別な力を感じない。 もしそんな力を持っていたならこれまでの二発に込められていただろうし、そうでないのだからカミラは警戒に値しない。
(持久戦ってこと? 確かに、聞いてる通りのグレッグの能力ならそっちの方が勝率は高そうだけど、まさかこっちがこのまま動かないとでも思ってる? それなら馬鹿すぎるんだけど)
オリガは無駄が嫌いだ。 だからこそ彼女は一撃で決め切るような魔法を多用するし、その性格が彼女の魔法を更に瞬間火力の高いものにする。
殺るならスパッとコンパクトに。 それがオリガの持論のため、このような持久戦は彼女にとっては苦痛であり、そんな無駄な時間を過ごすくらいなら魔法をふんだんに使う方を優先する。 なおかつマナポーションの蓄えも十分にあることから、オリガは作戦を変更した。
(今のところ、カミラが主砲でグレッグが補助って布陣のはず。 面倒臭いのはグレッグの方だけど、攻撃力に振った性格じゃないなら無視していいかな。 どうせこの付近に隠れてこっちの動向を窺ってるだろうし、こっちが索敵にリソースを振ってると思ってるここが攻撃の好機)
オリガは魔導書にマナを限界ギリギリまで込める。 これから発動させる魔法を考えると、ここでマナを出し渋るのは間違いだ。 敵が持久戦を所望するなら、その戦略を崩すことが勝利への早道。
(ゼラも楽しんでるみたいだし、あーしも無茶苦茶にしてやるっての!)
マナポーションを一気に呷り、オリガは空いた瓶を叩きつけながら獰猛に魔法を唱えた。
「《連続魔法》──《光爆》ォオオ!」
《連続魔法》は、魔導書に込めたマナが枯渇するまで絶え間なく魔法を発動させる妙技。 オリガがハジメと戦闘している最中は、魔法発動のたびに魔導書にマナを込めるという面倒極まりない段階を踏んでいた。 それが一般的な魔法発動方法だし、連続させてまで戦わなければならない状況があるなら戦い方を考え直すべきだ。 そもそも連続して魔法を発動させなければならない状況が少なく、そこにマナを割くくらいなら別の手段を考えたほうが圧倒的に早い。 例えば攻撃力の高い魔法を使用したり、もしくは戦わないことも選択肢としては上がるだろう。 だからこそ、こんな魔法を習得しているのはある種の変態であり、こんな用途を見出している時点で真面ではない。
オリガの右掌には光を帯びた魔導書、そして左掌には圧縮された光球。 これでは敵に居場所を知らせているようなものだが、ここから巻き起こる事態を考えればそんなものはもはや関係の無い話だ。
光球が撃ち出され、着弾地点の直径約10メートルほどが空爆の如く砕け散る。 拡散された光は周辺を照らし、なおかつ破壊を撒き散らすそれは、索敵と攻撃を一挙に熟す。
「あはは! 最初っからこうやってれば良かったじゃん!」
射出された直後、オリガの掌には次なる光球が待機している。 彼女は手当たり次第に光球を撒き散らし、破壊の限りを繰り返す。 すると、爆発の陰で人影が動いた。
「そこかッ! さっさと死ねってのォ!!!」
オリガは理性の外れた獣の如く、あらん限りのマナを放出し、破壊し、そしてポーションでマナを魔導書へ供給する──そんなループを延々と繰り返す。
「……あ゛ぁ?」
奇怪な状況にオリガの顔面が歪む。 爆発に飲み込まれたはずの人影は被弾の直後にも移動する様が見てとれるのだ。 どうやら爆発に巻き込まれてもなお動けるようで、敵と思しき影は西へ西へと移動している。
(どうして効かない? さっきの防御手段の応用? もう一人はどこ? 西への移動はあーしを引き離すため? まぁ、そんなことは──)
「殺せば関係無いでしょ!」
オリガの中に様々な疑問が浮かぶが、そんなものは全て攻撃力で叩き潰せば良いという思考が彼女の疑問を無かったことにする。
「死ね! 死んじゃえ!」
なおも敵は西に移動している。 恐らくその方角に彼らの意図する何かがあるのだろうが、過剰なほどに自分の力を信じているオリガは攻撃を諦めない。
敵が離れたことでそろそろ攻撃の精度が下がってきたこともあって、オリガはグレッグの思惑通りそちらを追いかけた。
「グレッグ、あれでいいのかい?」
オリガの様子を背後から見守るカミラ。 その側ではグレッグが地面に手を突いて何かを行なっている。
「今はゼラから引き離すことが目的なんで。 あんさんの攻撃じゃオリガを殺れないのは承知でしょうや」
「そりゃあね。 ……で、あんたはそのままオリガを引っ張っていくのかい? 奴も馬鹿じゃない。 消耗を狙うってのも限界がありそうだけどね」
「引き離した上で差しに持ち込めば、あっしにも勝機はありやす。 その中であんさんが近くに居るかもしれないというプレッシャーを与え続ければ、少なくともあっしからオリガが離れることはないでしょうや。 とにかくここであんさんの役目は終わりなんで、あとは好きに動くといい」
「そうかい。 それじゃ、あとは頼んだよ。 ところで、回復ポーションの手持ちはないかい? 言い値で買い取るよ」
「あいにく、自分の分しか持っていませんな。 あっしより命の価値が高そうな人物になら譲っても構いやせんが、少なくともベルナルダンには居りませんな」
「そうかい」
グレッグはオリガを追うように西へ。
「まったく……魔法使いってやつは、どうしてああも自分勝手なのかね」
若干の不平を漏らしつつ、カミラは町へ急ぐ。
町からは火の手と悲鳴が上がっており、カミラは直感以外の部分ですら言い知れぬ不安を感じ取っていた。 普段であれば彼女の直感は不吉を敏感に感じ取るのだが、今回に限ってはそんなものすら無視して危険の接近が彼女に警鐘を鳴らしている。 しかしそれが何かは分からない。 町に近づくことが危険なのか、それともグレッグから離れることが危険なのか。 予想できない状況に、彼女は自らが最も重要だと信じる行動に走るしかなかった。
「……ふぅ、これで邪魔者は撒けましたな」
カミラとは正反対の西へ向かいつつ、グレッグは嘆息する。
未だにグレッグの視線の先ではオリガが暴れており、近づけば彼とてただでは済まないだろう。 そんなことは分かっていつつも、グレッグは彼女の索敵範囲ギリギリまで近づき、魔法の操作性を向上させる。
現在グレッグが行なっているのは、泥を用いた人形作成だ。 これによってオリガはそれをグレッグたちだと誤認し、攻撃を続けている。
グレッグはカミラと合流してから、まず町の西に自身のマナを混ぜた泥を広範囲に散布していた。 現在はそれを遠隔から操作して人間を型取り、それを動かすことでオリガの認識を誤魔化している。 存外これは効果が出ているようで、夜の闇も相まってグレッグの予想以上に彼女は引っかかってくれている。
オリガは人形を敵と認識して光爆で攻撃を繰り返し、それでも敵が倒れないことに疑問を抱いているが、それも当然だ。 光爆によって人形は砕け散っているが、グレッグの巧妙なマナ操作によって付近の泥から別の人形が立ち上がるため、永遠に倒れない敵が演出され続けているのだ。 しかしそれもそろそろ終焉。 爆発によってマナを混ぜた泥のリソースが尽きかけているので、これ以上彼女を騙すことは難しい。
ここまでオリガが単純なトラップに引っかかり続けていたのは、彼女が攻撃によってマナを辺り一帯に撒き散らしているからだ。 またグレッグのマナ操作が一度土中を介していることもその要因だ。 カミラを使ってオリガを怒らせたことも、姿を隠して範囲攻撃を誘導したことも、そして西の地までオリガを運んだことも、これらは全てグレッグの予想通りに事が運んだ結果であり、これは奇跡でも何でもなく策略による賜物だ。
グレッグは呟く。
「さて──」
準備は整ったとばかりに、グレッグは大量のマナを土中に放った。 それは地面の遥か深みへ一度沈み、オリガの足元に向けて一直線に上昇する。
オリガが泥人形を砕きまくってくれたお蔭で、彼女の周囲には飛散した泥──未だグレッグのマナを含んだ武器が散らばっている。 オリガはちょうどそれらの中間に位置取っており、グレッグがマナ操作をやめて人形を動かさなくなったことで彼女の攻撃の完遂を感じているはず。 そんな絶妙なタイミングでグレッグの魔法が機能した。
「──《泥団子》」
「ぁ……?」
グレッグの泥は周辺の地面を纏めてこそぎとりつつ、直前に彼から放出された──この瞬間にオリガの目の前にまで飛び出したマナ目掛けて一気に集結を始めた。
突如オリガの周辺が闇に包まれる。 町から発せられる火災の光源すらも失われ、あとは泥が彼女を覆い尽くすだけだ。
(最善は窒息で殺害できること。 次善は自爆攻撃で対応させること。 そして三善は……)
「《操土》」
グレッグは成り行きを見守りつつ足元の地面を泥の形状に変化させ、掌に握り込む。
「……うっざ、まじで全殺し確定」
集結しつつある泥の中心からオリガの声が漏れた。それは敵──現時点で彼女の中でグレッグと確定している──の攻撃に対して諦めから出たものではなく、続きがあることを予期させるもの。
瓶が地面に転がる。
オリガの左の五指と掌に、計六つの光球が現れた。 それらは即座に周囲へ拡散すると、彼女が巻き込まれることもお構いなしに泥の内壁に触れ、そして爆ぜた。
轟──。
狭範囲に集中した六つの爆発は容易に泥の覆いを突き破り、激しい爆発を以てオリガへの拘束を霧散させる。 当然それによってオリガは甚大なダメージを被ることになったが、直前で口に含んでいた回復ポーションを飲み干しつつ痛みに耐え、明滅する視界の中で敵を探す。 この爆発は攻撃でもあり光源でもあるため、オリガの目の端に光に照らされたグレッグの姿が映し出された。
「そこかぁあああ──ゴがッ!?」
オリガは獰猛な叫びと共に敵を抹殺せんと身体をグレッグに向け、左の掌には無数の光球。 しかしグレッグが僅かだけ早かった。 グレッグの手にはマナの込められた泥が握られており、彼はオリガへ駆ける勢いに乗せてそれをそのまま彼女の顔面へ叩き込んでいたのだ。 泥は彼女の顔面を覆うと、鼻から口から内部へ侵入し、生物に必要な機能を著しく喪失させる。
(勝っ──)
グレッグの思考が中断された。
気づけばグレッグは全身の痛みを抱えながら地面に転がっている。 彼が何が起こったのかと痙攣しつつ身を起こすと、破壊され尽くした大地の中心で顔面を抑えて悶え苦しむオリガの姿があった。 どうやら彼女は付近で爆発を放ったらしい。
「自爆攻撃、とは……。 だが、あれでは魔法使用は、不可能……」
グレッグがこうもダメージを負っているというのに、同じ攻撃を受けたオリガはなおも立ち尽くしたままだ。 しかしグレッグの泥によって呼吸器の全てを覆われているため、魔法発動に必要な詠唱は到底困難だろう。
グレッグは魔導書すら地面に転がしてしまっているオリガを見て、少し警戒心を下げて彼女を観察する。
(反撃は予想外ですな……。 しかし、あとはトドメを刺すだけ……)
オリガを確実に仕留めなければ危機は去らないため、グレッグは震える身体を押して立ち上がる。 予想以上にグレッグのダメージ蓄積が大きいようだ。 無数の爆発を超至近距離で受けてしまったのだからそれも当然だろう。
「……何!?」
魔導書を構えたグレッグの前で、オリガが徐に右腕を振り上げた。 かと思うと、彼女はそれを勢いよく自身の首に叩きつけた。 その際、彼女の人差し指が喉仏の下あたりをスグリと貫き、外界と気管が交通している。 つまり、疑似的な気管穿刺よって呼吸が可能になったのだ。
窒息死を回避したオリガはグレッグの意図を察したように足元の魔導書を引っ掴むと、その場から勢いよく駆け出した。
向かう先は真っ直ぐにベルナルダン方面であり、オリガがゼラの救援を要しているのは明白。 グレッグはそう判断して追いかけようとするが、思うように身体が動かない。
「予想以上に、判断が早い……《泥弾》!」
グレッグから撃ち出される弾丸を、オリガは背後を見ることなく回避して見せた。
(あーしを傷つけやがって! 許さない……殺す殺す殺す──)
オリガは口に出せない憤りを内面に抱えつつ、それでも思考とマナ感知は冷静に、打開手段を探す。
オリガの鼻腔から咽頭、そして気管入口部にはグレッグの泥が詰められている。 これはグレッグの手元から離れた状態でもその場から動かないように意思が込められており、これには彼の魔法技能の高さが伺える。
マナは使用者の身体から離れるほど操作性が困難なシロモノであり、超長距離からも操作できるグレッグを付近に置いておくことはオリガにとって致命的だ。 これ以上呼吸をやられるわけにはいかないし、足でも取られて仕舞えば一巻の終わり。 一方でグレッグの魔法力が操作性に振り切っているということは攻撃力がないことを暗に示す材料のため、彼女は半ば彼を無視する形で足を走らせる。 それでもオリガは自身のプロポーションを汚されたことへの怒りが収まらず、グレッグを殺したいという意志は彼女へ無意識にマナを集めさせた。
「《滑泥》」
《操泥》の応用。 身動きが取りづらいグレッグだが、足元にマナを込めて地面を操作することで身を動かさずとも泥の移動だけで全身運動を可能にする。
「……んん?」
グレッグが徐々にオリガへ迫り、未だに彼の泥が彼女の呼吸器を支配していることは把握できている。 なので魔法発動など本来不可能なはずなのだが、なぜだかオリガはマナを周囲から吸収している。 グレッグはその現象に疑問を浮かべる。
魔法使いが消耗したマナを回復する手段は二つ。 一つは自然に身体が環境からマナを吸収するのを待つこと。 そしてもう一つはマナポーションや魔物肉などの摂取によって体内へ取り込む方法。 前者に関してはリラクゼーションを行う出会ったり、マナの多い環境に身を置くことでやや回復速度を高めることは可能だが、魔法使いの意志でそれを早めることは不可能だとされている。 そこが解明できれば魔法使いの運用方法も大きく変わるということで要研究対象の分野なのだが、現状成果は出ていない。
また本人のマナに関しても、濃度の濃いものでなければ他の魔法使いには感知されないし、大気中のマナが動く様など到底感知できるはずもない。 可能なものとしては密な濃度を保った瘴気くらいなものであり、オリガの周囲で彼女に向けて渦巻くそれは謂わば瘴気のような振る舞いを見せているのと同義である。
(殺す殺すコロス殺すころす殺すころすコロス殺すころす殺す──)
この時、オリガの思考はもうそれだけに占められていた。 彼女自身、なぜその方向へ走っているのかも分からなくなり始めており、身体は前に向きつつも彼女の意識は常に後方のグレッグに向けられていた。
「──殺ス!」
その叫びとともにオリガは急停止し、まず首だけが180°真後ろにグリンと勢いよく回転した。
「なにッ!?」
普段冷静さを欠かないグレッグだが、目の前の状況は彼をひどく驚かせるには十分な情報を備えていた。
まず、オリガから声が発せられたことが異常事態。 なにせ彼女の喉頭から咽頭にかけて泥が密に詰められており、口と肺を行き来する空気はないはず。 だから彼女から声が出るはずなどないのだ。 そしてもう一つの問題があり、それは彼女の前頸部──先程彼女自身で交通させていた皮膚と気管の部分が大きく横に裂け、傷口が真っ黒な唇のような形状を保っていたことだ。
「許サナイ殺スゥウウ!!!」
驚いているグレッグの先でオリガの身体が首に遅れて彼に向き直り、首の唇が唾液のように血液を撒き散らしつつ濁声を上げている。 唇が形成されたことでその上部に接続されているオリガの頭部は意識を失ったようにピクリとも動かなくなっており、まるで唇が本体で頭部は飾りかのような印象を受ける。
正直に言って現在のオリガの外見はグロテスク以外のなにものでもないのだが、グレッグはこれを見て恐怖と共に関心を抱いていた。 これこそグレッグが危惧していた事態であり、一方で観察を期待していた現象でもある。
人間の魔人化──そんな異質がグレッグの目の前で巻き起こっていた。
▽
「……ん」
「どうしたです?」
「出発するわ」
「もう大丈夫なのです……?」
「完璧には程遠いけれど、呼ばれちゃったから」
「誰にです?」
「誰というよりは思念に、ね」
「……?」
「フエンちゃん、移動は任せるわ。 現場に着いたら全部私がなんとかするから」
「さっきから言っている内容が意味不明、です」
「着いたら分かるかも……いいえ、分からないかもしれないわね」
旧ラクラ村南西の山を越えた深い森の中。 そこに彼女らは居た。
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作者の執筆力に繋がりますので、ギモン・シツモン・イチャモンなど、良いものも悪いものもどうかご意見よろしくお願いします。