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オミナス・ワールド  作者: ひとやま あてる
第5章 第2幕 Road to the Kingdom③
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第163話 値踏みの廃村

 馬車が動きを止めた。


「……着きましたね」


 廃村に足を踏み入れた瞬間、オブシディアは理解した。 ここは捨てられた場所ではない。


 踏み固められた地面。 幾重にも重なった足跡。 崩れた家屋の陰に残る車輪の跡。 焼け焦げた跡が、いくつも規則性をもって残されている。 荷を広げた後のような、統一感のなさが見られる。


 風が吹くたび、灰が薄く舞う。 古びた灰なら、湿気を吸って重く沈んでいるはずだ。 しかし、足元を流れるそれらは軽い。 つい最近まで火が入っていた証拠だ。


 廃村ではなく、中継地。 それも、ただの通過点ではない。 選別の場だ。


(ここまでの分岐は皆無で、燻蒸小屋から順調に進んでも到着は夕から夜になる絶妙な距離。 必ず疲労が溜まり、そして必ず足を止めたくなる場所として、ここは残されている)


 よくできている。 よく、できすぎていると言った方が良いか。


 誰も見えないが、確かに見られている。 木の陰か、崩れた家の奥か、それとももっと遠くか。 位置は掴めないが、いることだけは分かる。 そうオブシディアが感じた時、荷台が揺れた。


「降りるぞ」


 ハジメが短く言った。 その声に応じるように、荷台の中で小さな音がした。 エマだった。


 エマは馬車から降りると同時に、膝をついた。 支える間もなく手を地面につき、肩で息をしている。


「大丈夫か」


 ハジメがすぐに近づく。 声に苛立ちはない。 ただの確認作業だ。 それでも、動きは俊敏だった。 迷いなくエマの側へ。


「……だいじょ、ぶ……っす……」


 大丈夫なはずがない、とオブシディアは即座に判断した。 呼吸が浅く、視線が定まっていない。 周囲を見ているようで、実際には何も見えていないのは明らかだ。


「……危ない……」


 エマが小さく呟く。


「……色は?」

「薄いっす……」


  ハジメの問いに、すぐには答えなかった。 しかしそれだけ言って、黙り込んだ。


 オブシディアはわずかに目を細めた。


(色……? いつの間にか魔法を発動した?)


 感知系の魔法を発動した兆候はなかった。 朝出発してから魔導書を展開した瞬間は見なかったが、もしかしたら被っていた毛布の内側で展開していたかもしれない。


(……分からない)


 それが結論だった。 ただ、魔法的な事象が関係していることは確かだろう。


 ハジメがエマを支え、肩から毛布をかけ直す。 その動きは余りにも自然だった。 他の誰よりも優先されている。 その事実がオブシディアの中で印象を強めた。


「ここで一晩過ごします」


 オブシディアの発言に、トーマが周囲を見回しながら露骨に眉をひそめた。 素人目にも、ここが真っ当な場所ではないことが分かる。


「冗談じゃない……」

「冗談ではありません」


 オブシディアは淡々と続けた。


「火は焚かないでください。 罠は見つけても触らないこと。 村内での移動は最小限に。 大声も避けてください。 ここは廃村ではありません。 今なお稼働していますよ」

「何の目的で……?」


 ミミナが弱々しく聞く。


「観察するために」


 それだけで十分だった。


 ミミナは唇を噛み、トーマは顔を背ける。


 リオルが肩をすくめて言う。


「細かい規則が多い場所だね」

「規則を守らない──無主に不要な存在を、早々に排除するためでしょう」

「いい趣味してるわね」

「趣味ではなく、仕組みです」

「なんで、そんな場所に──」


 トーマは一瞬だけオブシディアを見たが、すぐに視線を逸らした。 答えを聞いても納得できないと分かっている顔だ。


 それでいい、とオブシディアは思う。 納得は必要ない。 生き残ることができるという可能性だけあれば良い。


「……なあ」


 トーマは縄を解かれたばかりの腕をさすり、苛立ちながらハジメを睨んでいる。 ここまでトーマとミミナは捉えられた偽装を施されていた。 だから、不機嫌を隠すことなく言葉をぶつける。


「お前、あいつばっかり優先すんなよ」


 声に荒さが乗っている。 矛先はハジメであり、エマだ。


「俺たちの方が動けるだろ。 あんなの、足引っ張るだけじゃないか」


 空気が冷えた。


 ミミナが小さく息を呑む。 エマは反応しないため、聞こえていないのか無視しているのかは分からない。


 しかしハジメは何も言わなかった。 ただ、無言でトーマを見る。 それだけで、言葉は止まった。 リオルとソシエも冷ややかな視線をぶつけている。


「チッ……!」


 トーマは舌打ちし、顔を逸らした。


 誰も説明しない。 なぜエマが優先されるのか。 なぜ守られているのか。 何も語られない。


(意図的に伏せられている。 トーマには語ってやるだけの価値もないというのが彼らの判断。 観察者に悟られたくないという意図が大半だとは思いますが……)


 出会って以降、オブシディアは内心でハジメたちの評価を続けている。 エマの立ち位置はかなり高い。 その価値を共有したくないほどには。 それは恐らくハジメの指示で、少なくともリオルとソシエはそれに従っている。


(不明な資産価値)


 それは、流通において最も扱いにくいものだ。


「……」


 口論の間、御者の男は馬の手綱を握ったまま周囲を見回していた。 オブシディアはそれを目敏く確認していた。 まず、視線の動きが不自然だった。 一定の間隔で、特定の方向を確認している。 何かを探しているのではない。 何かがあることを前提にしている動きだ。


「ここにも来られたことがありますね?」


 オブシディアが背後から声を掛けると、男の肩が跳ねた。


「な、何のことだ……。 俺はただの戦闘要員だ」


 吐き捨てるように言う。


「あなたたちは効率的に狩りをすべく集められた精鋭のはず。 そうでなければ、単なる戦闘要員が御者の任を全うなどできません。 他にも色々とできるのでしょうね。 そしてここに来て見られる怯えは、あなたが飼い犬であり、首輪がつけられている証拠。 飼い主も、ここを見ている」

「飼い主なんて、知らねぇ……。 言われた通りに運ぶだけだ」


 御者の男は絞り出すように言った。 触れられたくないという拒絶が見える。 オブシディアはそれを見逃さなかった。


「知らないではなく、知らされていない」


 男の喉が鳴る。


「あなたも今や見られる側です。 ここに来ている時点で、もう選別の対象になっている」


 言い終えた瞬間、風が止んだ気がした。 しかしそれは気のせいではなかった。 御者の男の背後。 崩れた家屋の奥、何も見えない場所に確かな圧がある。


(いる。 魔法的にも監視されている……?)


 オブシディアの背筋に、冷たいものが走る。


「俺は、運ぶだけだ……」


 御者の男は同じ言葉を続けた。


「言われた通りにやって……それで終わりだ」

「終わり、ですか」


 オブシディアは不敵に笑った。


「ここを通る者に終わりはないかと。 通った時点で、次が始まる。 今回のあなたは、どのような評価を受けるでしょうか」


 御者の男は何も言い返さなかった。


「お、おい……!?」


 ふと、オブシディアと御者から離れた場所で動きが見られた。


 空気を断ち切るように、足音が響いていた。 トーマが慌てた声を上げている。


 崩れた家屋の奥から、誰かが姿を現した。


 女だった。 痩せ細り、皮膚は灰のようにくすんでいる。 衣服は裂け、手首には粗末な縄が巻かれている。 髪はばらばらに乱れ、頬はこけ、唇は割れている。 少なくとも、生きてはいる。


 女は助けを求めるような目でこちらに訴えかけている。 しかしその眼球は異常に速く揺れ、まるで標的を探すような動きを見せている。


「……っ!」


 女と視線の合ったミミナが息を呑んだ。


「助けて……水、を……」


 その一言で、ミミナが僅かに動きかけた。 自分の役割だと、どこかで思ったのだろう。


「動かないで!」


 オブシディアが制する。


 なおも女はふらつきながら、こちらへ歩み寄ってくる。


 その動きは不自然だった。 足取りは不安定にも関わらず、転ばない。 転ばないように調整されているかのように。


 それを見て、ハジメが何か動きを見せようとした。


「待ってください、罠に違いありません」


 オブシディアは即座にそう言い放った。


「お願い……」


 女は止まらない。 震える指先を伸ばし、か細い声を漏らす。


 距離が詰まる。 あと数歩で触れられる。


「助けろよ!」


 トーマが叫んだ。 誰に向けた言葉かは明白だった。


「見てるだけかよ!? お前ら、助けるために動いてるんじゃなかったのかよ!」


 ハジメは動かない。 リオルは笑みをこぼすだけだ。ソシエは武器を抜いていたが、その切先は女ではなくトーマへ向けられている。


 女が、さらに一歩踏み出した。


「えっ……?」


 気の抜けたような声を漏らしたのはトーマ。


 女の足が地面に触れた時、風を切るような鋭い音がした。 周囲の何かが一斉に殺到したようだった。


 女の首元に走る線。 それは見えないほど細い。


 ぼとり。


「ひっ……!」


 ミミナが悲鳴を上げた。 音もなく首が落ちたからだ。


 女の身体はその場に崩れた。 出血はほとんど見られない。 極限まで枯れている。


 空気が沈黙し、誰も動かない。


 風が戻り灰が舞ったかと思うと、重苦しい気配が引いた。 満足したように。


(……試された)


 オブシディアは一瞬で理解した。 あれは人間ではない。 少なくとも、救うべき対象として用意された存在ではない。


 消費される前提の存在。 助ければ、女が情報を抜く。 触れれば、罠にかかる。 見捨てれば、そう評価される。 いずれにしても、どう動くかを見るためのもの。


「……なんだよ……」


 トーマの身体が震えている。 声を掠れさせている。


「なんなんだよ、ここ……!」

「ぅ……」


 ミミナは口を押さえ、吐き気を堪えている。


「行かなかったね?」


 状況を俯瞰していたリオルが楽しげに言う。


「君なら、助けに行くかと思ったけどね」

「見えてたからな」

「何が?」

「俺では助けられない、ってことが」


 ハジメは地中から鋼線を戻した。 オブシディアだけはそれに気が付いていた。


「ちゃんと選べるんだ、安心したよ。 でもさ、全部助けるって言ってなかったっけ?」

「俺は、手の届く範囲で助けるべく動く。 今は、あれが最善だった」


 現実的な回答。 トーマがそれに反応する。


「……最善って、なんだよ」


 誰も答えない。


「助けられただろ……!? 今のはッ!」

「無理だ」


 それだけだった。 トーマが期待する答えは返ってこない。


「助ける前提で作られていない」

「だからって──」

「じゃあ、お前が助けろよ」

「──ッ……!」


 言葉は淡々として、感情がない。 しかしトーマは言い返せない。 ますますそれが彼の不満を助長させる。


(ハジメが、わざわざ対立を明確化させる意図は何?)


 オブシディアは、ゆっくりと息を吐いた。


 ハジメは現実の中の最善を目指している。 理想ではないが、限りなく理想を追っている。 だからこそ、危うい。


(それはそうとして──)


 問題は御者の男だ。 先程から震えている。 あの女を見て、あの罠を見て。


「……あれ、は……」


 男が呟く。


「普通じゃねぇ……」

「ええ。 普通ではありませんね」


 オブシディアは即答した。 しかし男は首を振る。


「違う……。 あいつら、前はあんなやり方しなかった」


 オブシディアの目がわずかに細まった。


「前とは違う?」

「……変わってる、全部が……」


 御者の男の反応は、単に恐怖だけからくるものではない。 彼の知っているはずの道が、いつの間にか別物へ変わっていたことへの混乱が混じっている。


「以前は?」

「もっと、単純だった。 荷を見て、通すか、奪うか、値を付けるか……それだけだ。 こんな、処理済みの人間を置いて反応を見るなんて真似はしなかった……!」

「処理済み?」


 リオルが楽しげに首を傾ける。


 御者の男は、倒れた女の身体を見ないようにして言った。


「使い潰す前提だったろ。 逃げても困らねぇ。 死んでも困らねぇ。だが、誰かが拾えば、そこから相手の内側が分かる。 助けるのか、見捨てるのか、そういうのを見て楽しんでるんだよ」


 トーマの顔が引き攣った。


「人間を、そんなふうに……」

「お前らも荷として運ばれてたんだろうがよ」


 御者の男の言葉に、トーマは言葉を失った。 ミミナも小さく震えている。


「ハジメさん、まだ見られてるっす……」

「場所は?」

「薄いのがあちこちにある感じで、特定までは……」


 オブシディアは、ひっそりと行われるそのやり取りを聞いていた。 エマは何らかの感覚を、濃淡で拾っているようだ。


(その魔法は本当に何……?)


 オブシディアでも、未だ見当がつかない。 ただ、少なくとも今この場では、彼女の疲弊が一つの情報だった。 ハジメが過剰なまでに彼女を守ろうとしているのも、そこに原因があると見える。


(少しずつ、ハジメたちの輪郭が見えてきましたね)


「オブシディア、ここに長居するのは危険か?」


 そんなオブシディアの視線を感じてか、ハジメがそう質問してきた。


「え、ええ。 ですが、すぐに出るのも同じくらい危険でしょう」

「理由は?」

「今の試験で、こちらの反応は見られました。 動けば、次の反応を見られます。 情報を落としすぎるのは避けるべきです」


 それに対して、ソシエが呆れたように吐き出す。


「とりあえず、何をしても見られる」

「はい。 見られる前提で振る舞う必要があります」

「死体はどうするんだい? 燃やす? 埋める? それとも放置?」


 リオルは倒れた女の方を見て、口元に笑みを残している。 この男がずっと何を面白がっているのか、オブシディアには全く理解できない。


「触れない方が良いでしょう。 あれは、置かれた問いですから」

「なるほどね。 無回答も回答になるわけだ」

「ええ。 この場合は無回答が最も無難かと」


 ハジメは倒れた女を見ていた。 表情は変わらないが、瞳の奥に何かが沈んでいる。


(助けられなかった、とは思っていないでしょう。今の彼は、そんな単純な段階にいない。 それでも、切り捨てた事実に思うところはあるようですね。 ハジメは、見捨てることもできる人間)


 それは強さなのか、弱さなのか。 今は判断できない。


「ひとまず、泊まる場所を決めましょう」


 オブシディアは言った。 現状、全体的な動きを取りまとめるのは彼女の役目だ。 こうやって価値を示さなければ、容易に見捨てられてしまうのだから。


「村の中央は避けます。 見通しが良すぎる。 逆に外縁部も駄目です。 逃げる者を狩る場所になっている可能性が高い」

「なら?」

「乾燥台の裏手にある石造りの納屋。 半壊していますが、壁が残っています。 馬車を隠すには不十分でも、人を休ませるには使えます」


 御者の男が顔を上げる。


「あそこは……」

「知っているのですね?」

「前は、値を確認する場所だった。 今はどうなってるか……」

「では今も使えますね」

「使えるって、お前……」

「使われていた場所には、使われるだけの理由があるはずです。 完全な空白よりは安全でしょう」


 男は黙り込んだ。 彼は全てを知らない。 しかし末端として見たものがある。 その断片だけでも、今は価値がある。


「お前、妙な合図を出そうとしたら……分かってるよな?」


 ハジメから忠告され、御者の男の顔が強張った。 これまで何度かハジメによって意識を刈り取られる経験をしているため、逆らう気力は皆無と言って良い。


「だ、出さねぇよ……!」

「好きにさせても良いのでは?」


 オブシディアの言葉に、誰もが頭上に疑問符を浮かべた。


「……どういう意味だ?」

「彼が誰かと繋がっているなら、無理に断てば逆に不自然です。 泳がせた方が、相手の反応を見られる可能性があります」


 御者の男が青ざめた。


「ふ、ふざけんな……! 俺を囮にする気かよ!?」

「あなたに拒否権はありません」


 オブシディアは淡々と事実を述べる。 御者の生殺与奪は全てハジメ次第だ。


「お前は俺たちを害そうとしたんだから、生かされているだけありがたいと思え。 逆らうのなら、殺してくれと懇願するような責苦を与えてやる」

「お、お前ら、本当に人間かよ……」


 トーマが嫌悪を隠さず顔を歪めた。


「今さら?」


 ソシエも冷笑するようにそう言った。


「無駄話は終わりだ」


 ハジメはエマの肩を支えたまま、オブシディアの示した納屋へ向かう。


 その背中を見ながら、オブシディアは思う。 この一団は危うい、と。 理想、揶揄、合理、無知、恐怖──様々な行動原理が衝突し、混じり合うことなく漂っている。


「……最後に値を決めるのは、入口の奴らじゃねぇ」


 御者の男が低く呟いた。


「では、誰ですか?」

「知らねぇよ。 ただ、外で付いた値は仮で、全部目安だ。 無主に入れば、また変わる。 高くなることもあるし、当然その逆もな」

「では何によって決まるのですか?」

「最終的には誰が欲しがるか、だ」


 男は掠れた声で続けた。


「魔法使いが欲しい奴、魔導書が欲しい奴、情報が欲しい奴、殺したい奴、守りたい奴。 そういう連中が見て、勝手に値を付ける。 だから、ここで大人しくしてりゃ安全ってわけでもねぇ」

「……」


 オブシディアは黙った。 彼女の知る無主交易圏とは少し違っていたからだ。


 オブシディアはその場所を、法の外側にある均衡地として理解していた。 しかし御者の言葉が正しければ、そこは単なる中立地ではない。 価値が流れ、競られ、変質する場所。 人も物も情報も、そこへ入った瞬間に別の名前を与えられる。


(私の知識は、完全ではない……)


「じゃあ、今の俺たちにはもう値が付いてるのか?」

「確実に、な。 さっきの対応も評価されたと思うぜ」


 御者の男は村の闇を見た。


「ただし、それがいくらかは知らねぇ。 誰が見てるかも分からねぇ。 俺は末端だ。 運ぶだけの犬だ。 値を決める側じゃねぇ」

「犬にしてはよく喋るけどね」

「喋らなきゃ死ぬだろうがよ……」


 御者の男は生存のため、価値を示そうとしている。 オブシディアたちが彼に対して行なっている値踏みも、謂わば無主交易圏の作法に近しいものがある。


「宿泊向きじゃないね、ここ」


 リオルの言葉を、全員が内心で肯定した。 しかし他の場所を探す気力は誰にもなかった。


 壁は崩れていたが、とはいえ内部は思っていたより広い。 風化した羊皮紙、破壊された木箱、床や壁際に残る血痕。 何かがここで行われていた。


「今夜はここで我慢してくだい。 観察されながら夜を越すための場所として、警戒は怠らぬよう」


 ミミナは力なく座り込み、震える手で自分の腕を抱いた。 トーマは納得できない表情のまま壁際へ下がる。 その顔には、恐怖よりも不満が色濃く残っていた。


 オブシディアは御者の男を見た。 男はまだ震えている。 本物の恐怖か、何かを隠すための演技か。 今はひとまず判断しない。


「ハジメも触れてないけど、あいつは縛らず放置?」


 ソシエが尋ねる。


「縛れば捕虜だと分かります。 ここでも御者として置いておく方が自然です」

「逃げるでしょ」

「逃げるなら、それも情報になります」

「お前、俺をどこまで使う気だよ……」

「使えるところまでです」


 オブシディアが平然と答えたことに対し、トーマが嫌悪を剥き出しにした。


「お前はそっち側でいられていいよな? 俺たちの気も知らないくせによ」

「最低な選択肢を選べない者から死ぬ場所ですからね」


 その言葉に、トーマは黙った。 納得したわけではない。 言い返すだけの材料を持つだけの年齢に達していないのだ。


 オブシディアは納屋の外へ視線を向け、外の闇よりも深そうな無主交易圏へ思考を巡らせる。


(ここはすでに、無主交易圏の只中。 私たちは市場を流れる荷でしかない。 生き残るためには、自ら価値を示さなければならない)


 ここでは一つだけ、確かなことがある。 知らないうちに値が付く世界では、黙っていれば安く買い叩かれる。 であれば先程の試験を傍観したことは、どう評価されるのだろうか。


(私が、流れを読むしかない。 流される側ではなく、流す側に回るしかない)


 たとえその流れの先で、自分自身にも値札が付いているのだとしても。


 夜は長かった。 しかし誰も深くは眠れなかった。 眠った者も、眠りに落ちたというより意識を一時的に手放しただけに近い。


 オブシディアもまた、壁に背を預けたまま浅い眠りを繰り返していた。


 やがて朝が来たが、鳥の声はない。 納屋の隙間から細い光が差し込んでいるだけだ。


 最初に動いたのは御者の男だった。 納屋の外へ出ようとしている。 ハジメの視線がそちらに向いたが、オブシディアは片手で制した。


「私も行きます」


 御者の男は嫌そうに顔を歪めたが、逆らわなかった。


 納屋の外に出ると、廃村は前夜と変わらぬ顔をしていた。 ただ一つだけ、違っていた。 そこに女の死体はなかった。 首も、身体も、血痕さえも消えている。 まるで最初から何も起きていなかったかのように。


「片付けられてやがる……」

「見られていただけではなく、管理もされている」


 オブシディアはそう言いかけて、言葉を止めた。


 石の上に、細い木片が置かれていた。 片側が斜めに削られ、焦げ目が三つ。 その下に、灰で薄く線が引かれていた。


 オブシディアの呼吸が、一瞬だけ荒くなる。


(デルビーニュの符号……?)


 家の者でも、全員が読めるものではない。 内々の荷渡しで使われていた古い符号だ。 商人に読ませるためではなく、デルビーニュの中でだけ意味を持つもの。


 そこに刻まれていた内容は、短かった。


 長兄。 カレド。 父、白。 そして最後に、切断を示す線。


(父ではない……)


 長兄がカレド・マシスと通じている。 老いさらばえた父に代わり、実権を握りつつあるのが兄だ。 長女と次女は、オブシディアを快く思っていなかった。 ならば、彼女たちも無関係とは限らない。


(事実とは限らない。 けれど、誰が何の意図で、このようなものを……)


 オブシディアを誘導するために置いた可能性が高い。 そもそも、この情報がここにあること自体がおかしい。 彼女たちがこの廃村へ来ると知っていなければ、置けない。 知っていたとしても、早すぎる。


「おい……それは何だ?」


 御者の男が木片に気付いた。 読めてはいないが、異質なものだとは理解した顔だった。


 オブシディアは木片を拾わず、鋭い視線で御者を見た。 黙れ、と。 言葉にはしなかった。


 御者の男は口を開きかけ、すぐに閉じた。 彼も分かっている。 ここで余計なことを言えば、自分の価値が下がることを。


「……俺は何も見てねぇ」

「賢明です」


 オブシディアはそう言って、灰の線を靴底で消した。 木片だけは拾い、何気ない仕草で茂みにばら撒く。


(私の存在は、すでに共有されている)


「では戻りましょうか」


 オブシディアは表情を作り、何事もなかったように納屋に戻る。


(私は完全に切り捨てられていない……? あるいは、そう思わせたい誰かがいるのか。 情報を残した者の意図を考えなければ……)


 無主交易圏は、未だ姿を見せていない。 しかしその手は、もう首元に触れている。

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