第150話 ひとつめのしるし
「火は──……。 駄目だ、この先が分からん……!」
ハジメは中身の変化した魔導書を開き、そこに描かれた意味を理解しようと頭を捻っていた。
ベッドに潜っては毎晩のように解読を試みるが、全くもって具体的な言葉が出てこない。 このもどかしさは、すでに一週間以上燻っている。
「火は、燃える……? 違う、こんな簡単なことを言いたい訳じゃないんだ! 欲しいのはもっと根本的な、根源的な……!」
勢い余って次のページをめくった瞬間、冷たい空気が頬を撫でた気がした。 墨のにじんだ曲線が幾重にも重なり、月明かりを受けて揺らめいている。
そこに当然、文字はない。 あるのは、かつてこの地に生きたであろう人間たちの仕草だけだった。
「水には、やけに目を奪われる……。 なんでだ?」
川辺に腰を下ろした男女が、地に器を並べている。 器は月のかけらのように浅く、透明なものがその底に静まっている。 人々はそれを覗き込み、何かを確かめるように額を近づけていた。
子どもたちが濡れた石畳の上で笑っている。 彼らの周囲に水が跳ね、踏みしめる足跡が光をまといながら滲んでいく。 今この瞬間を掴みとっている水のようだった。
女たちが夜明けの井戸に身を屈めている。 底の見えぬ暗い水面を前に、彼女たちは声を発しない。 両の手を胸に当て、冷たい縁へと指を滑らせている。
戦に疲れた兵が泉に膝をつき、両手を沈めている。 手から滴るものは血か、汗か、涙か、それとも単なる水か。 区別はつかない。 水は、何も発さずそこにあった。
年老いた僧が滝の前に立ち、瞼を閉じている。 水飛沫は風を受けて舞い、僧の肩や頬を濡らす。 その姿は、祈りの言葉がまだ形になる前の沈黙そのものだった。
いくつもの場面が、ひとつのページの中で折り重なっていた。
器、足跡、井戸、泉、滝。
水というものが、人間の営みと共にあったというだけ。 その素朴で、しかし抗いがたい記憶。
意味は、掴めない。
それらは、水そのものが人と世界の間に在り続けた痕跡。 静かに刻み込まれている。
「助言を仰ぐか」
翌日ハジメは理学研究所に赴き、魔導書の内容について意見を求めた。
「本当に、何かが書かれているのかい?」
しかし誰も、魔導書の中身を視認できていなかった。 最初は冗談かとも思ったが、エマやデミタスでさえハジメの魔導書を読めなかった。
「どんな内容かな?」
そう問われても、ハジメは内容を言葉として表出できなかった。 言葉を発そうとすると、脳内のイメージが霧散してしまうのだ。
「だから、えっと……水が、その……」
辿々しく、失語のような動きを見せるハジメ。 さぞ奇妙に映ったことだろう。 しかしながら、研究員はそこに疑問を投じ、興味を持ってくれているようだった。 ハジメは少し安心できた。
(俺にしか見えないし、俺にしか理解できない内容。 つまりこれは、俺自身が解決しなければならない課題だ。 内容を誰かに伝えることさえ駄目なのか?)
何かしらの見えない外圧を感じ、ハジメは不安に見舞われた。 常に何者かから監視されているような印象さえ覚える。
「魔導書は魔法使いの本質を形にしたもの。 だからこそ性格が反映されているし、成長の先にはその者の願いが見える。 魔導書は単に魔法を使用するための媒体ではなく、その者の分身。 自分のことは、やはり自分にしか分からない。 つまり、そういうことなのだろう」
ハジメが悩みに悩んで手に入れた、自分を見つめるという行為。 それをこうも簡単に言葉にされてしまうと、何を悩んでいたのかと馬鹿馬鹿しくなる。 しかし、そこに自らの力で行き着くことができたというのもまた事実。
「そう、だよな。 ありがとう、色々と考えてみる」
「困ったらいつでも歓迎する。 ハジメは貴重な資料なのだから」
研究員らしい言葉を投げかけられたが、ハジメはそこに不快感を生じなかった。
(みんな見てくれてる。 それぞれの見え方は違うみたいだけど、別に構わない。 俺は一人で全てを解決する必要はないと、そう理解できるからだ)
ひたすら魔導書に向き合った。 これは単なる道具ではない。 振るうだけが力ではない。 見つめ直すこともまた、それを扱う者に課せられた使命だと、ハジメは知っている。
「火は、水は、風は、土は……。 これらを明確に規定する何かが、この世界にはある」
自分に言い聞かせるように呟いた声が、夜の帷へと吸い込まれていった。 それでも、心の奥底で引っかかっているのは……水。 他のどの属性よりも、抗えない感情がそこにあった。
「水は流れるし、形も変えるし、流れないときだってある。 ……でも、それだけじゃない。 そんな当たり前を刻むために、この魔導書が存在するわけじゃない」
人間は、37兆個の細胞の集まり。 細胞とは、細胞膜が海を包み込んだ世界。 水の記憶は生命のはじまりと結びついている。 起源を掴むこと。 それこそが、この魔導書を正しく読むということだと、直感が告げていた。
その時だった。 魔導書に描かれた線が、ふっと呼応するように揺れた。
「……え?」
ページの中に、複雑に絡み合った紋様が浮かび上がる。 混沌としか言い表せない書き殴りにしか見えないそれも、次第に紋様が分かたれ、強調され、一枚の絵画が幾重にも展開していく。 太古の誰かが水という現象を刻み残した記憶。 それが、ハジメの眼前で蘇った。
──流れる。
川のような長い線が走る。 細い線がいくつも寄り添い、混ざり、分かれ、また寄り添う。 境目など、最初から存在しない。 それは、拒絶のない世界の形。
(境を越える……他と混ざることを恐れていない線だ。 まるで、誰かと誰かが言葉もなく心を寄せ合うように)
──染み込む。
流れの先には、淡く滲む大地があった。 水は静かに降りながら、境界を溶かしていく。 硬さも輪郭も、すべてを曖昧にしながら沈み込み、ひとつに溶け合う。
(受け入れる。 拒まない。 境をつくらず、触れたものすべてを飲み込む)
──波紋を広げる。
誰かの指先が水面をなぞった瞬間、小さな揺らぎが生まれ、ページの端まで広がっていく。 声にならない声が、確かにそこにあった。 その震えは、誰かの心が世界に触れた証のようだった。
(水は、触れたものを無視しない)
──返す。
月明かりが水面に抱かれ、白い輪郭をふわりと返す。 描かれた線が光を放ち、夜空の奥底に眠る感情が浮かび上がる。 嬉しさも、哀しさも、恥ずかしさも、怒りさえも、水は拒まない。
(それだけじゃない。 受け取るだけじゃなく、返している……感情そのものを)
──包み込む。
雨の中、人々が寄り添い、笑い、泣き、黙って空を仰いでいる。 傘はなく、輪郭は次第に雨に溶け、誰が誰かもわからなくなる。 孤独も喜びも、雨の線のなかでひとつに混ざっていく。
──削る。
最後の場面は、長い時を刻む流れ。 細い線が岩を穿ち、世界の形を変えていく。 弱々しくさえ見える。 なのに、形を変えるほどの力を持っている。 水は変わらない。 変わるのは世界のほうだ。
「っ……!」
ハジメは息を呑んだ。
それぞれの絵は独立しているのに、ひとつの脈絡をもって胸に沁みてくる。 流れ、滲み、揺らぎ、返し、包み、削る。 水は誰も拒まず、ただそこに在り、世界を記していく。
「……そうか」
呟きが漏れた。
「水は、繋いでるんだな。 人と、世界と、時間と……感情まで。 かつての誰かが流した涙も、笑いながら流した滴も、戦場で滲んだ汗も、ただの雨も。 全部がこの世界のどこかで混ざり合い、形を変え、巡ってる。 人々の痛みも、喜びも、怯えも、やさしさも受け取って、それらをどこかへ運び続けている)
そこにあるには、生きた証そのもの。
ページの上で、揺れる線が一瞬、呼吸をするように波打った。 その瞬間ハジメの中に、水という存在の奥深さが刻まれた。
「……あれ?」
水が、彼を映していた。 そのページは、見事な水面を作り出していた。
ハジメの顔が揺れていた。 波紋がひとつ、またひとつ広がり、形を崩し、戻す。 懐かしい記憶が、胸の奥でほどける。
『水の中に僕が居るのは、なんでなの?』
幼い日の問い。母の答えが蘇る。
『きっと、水はね、世界を忘れないようにしてるのよ』
そのときは理解できなかった言葉が、いま胸を貫いた。
「つまり、水は──」
思考の欠片がひとつずつ線を結び、形になっていく。
水は流れながら、すべてを記憶する。 形を持たず、触れたものの姿を抱き取り、どこへでも移ろう。 それは関係を保ち、繋ぎ、伝え、溶け合い、感情さえも受け止める。
ハジメの瞳に、涙が滲んだ。 悲しみでも喜びでもない。 ただ、理解したという感情がそこにあった。
その涙が一滴、魔導書の水面に落ちる。 波紋がハジメの姿を崩し、淡い光が文字を形づくる。
「水は、世界を覚えるんだ」
──《水は、映す》──
それは祈りのように、けれど確かな一文だった。 ハジメが答えを手にしたのではない。 世界が、ハジメと語り合った瞬間だった。
水面に映るハジメは、もう魔法を振るうだけの存在ではない。 見聞きし、理解し、記す──観測者の顔がそこにあった。
「……これが、答えだったんだな」
そのページは水面のまま、揺らめき続けていた。 映すものとしての本質が、ハジメを見返していた。
この夜、ハジメは理解した。 涙は、心が世界に触れる瞬間。 悲しみの涙は欠けたものを映し、喜びの涙は満ちたものを映す。 同じ水でありながら、その温度は心の向きによって変わる。
「だから人は泣くんだ。 単なる反応じゃない。 これは、魔法の名残なんだ」
ハジメの頬を伝った涙が、白く光りながら消えた。
光はハジメの心に──。
「水は、映す。 そして、忘れない」
──言葉となって、刻まれた。
ハジメの周囲には、無数の雫が浮かんでいた。
▽
「ハジメさん、こんな時間に何すか……?」
夜に部屋まで呼び出されたエマは、寝ぼけ目でボサボサの髪を掻いている。
「これを見てくれ」
ハジメは魔導書を左手に持つと、右の手のひらを上に向けた。
意識を集中させる。
「えっ……?」
ハジメの手元には、小ぶりな水球。 在るのはただ、それだけだ。
「どうだ?」
「え、っと……先に魔法を発動してたっすか?」
「いや、魔法は発動してない。 水属性の魔法使いが通る、当たり前の所作だ」
「ハジメさん、水属性になったっすか? ……まさか沼女の影響?」
「まず、その沼女呼びをやめろ。 俺は自分の力でこれを勝ち取ったんだ」
「……話が見えないっすけど、成果が出たってことっすね?」
「ああ。 おかげさまでな」
「それは良かったっす。 けど、今あんまり頭が働いてないんで、明日でもいいっすか……?」
「あ、ああ。 すまん、興奮してつい、な」
「ずっと渋い顔してたっすけど、ハジメさんが元気ならそれが一番……ふわぁ……。 じゃ、寝るんで……」
興奮冷めやらぬハジメは、夜通し水で遊び続けた。
これは、実に初歩的な成長段階に発現する、魔法になる前の魔法。 神が行使する奇跡だと考えられるが、魔導書を開かなければ発動できないため、奇跡に近い何かということになる。
一回の所作で生み出せる水は、それほどの量ではない。 水球の大きさを変えられるわけでもなければ、形が変わるわけでもない。 水球を作る、ただそれだけだ。 それだけなのに、ハジメはどうにも嬉しさが込み上げて仕方がなかった。
水属性のページを完成させた時、四つのしるしが刻まれたページにも変化が起きていた。 水を示すしるしが、くっきりと色濃く強調されるようになっていた。
残すは火、風、土。
ハジメは水属性と同じように、他の属性が描かれた絵画に触れてみた。 しかし、同様の変化は生じなかった。 三つの属性は原風景を示したまま、その先へと進むことはなかった。
「条件を満たしていない、ってことか……?」
ハジメは水属性に関しては深い関心を覚えていた。 それが影響したのか、魔導書はその期待に応えてくれた。 一方、水属性以外には未だ十分な理解を持てずにいる。 その中でもやや気にかかるのは、土属性や闇属性だろうか。
「土と闇は自分で使ってた魔法だけど、気になるのはそういうことか? いやでも、今更魔法を奪うってことはできないみたいだしな。 魔法を借り続けることが、開放条件だってのか? それとも、水属性のこの魔法をどうにかすると、次に繋がるとか? ……こればっかりは手探りになるな」
一つの解答を得たハジメは、やるべきことをこなす。
「今一度、思い返してみるか」
最重要は、レスカの救命。 これが原点で、信念で、信条だ。
エマのことは、人生を賭けて守らなければならない。 これは責務だ。
悪神の蠢動は、止めなければならない。 これは避けられない宿命だ。
「この三柱が原則で、他は余計だな……」
ハジメは使命を明確化し、最速での目的達成を目指す。
魔石への理解と、魔石爆発の応用。 魔石を武器として使用するだけでなく、爆発後に停滞するマナを使用すればアリスト村でのマナ操作を再現できるかもしれない。
マナ鋼線の応用。 本来触れなければ効果を発揮しないハジメの魔法を、間接的に他者へと作用させる。 これが最も現実的で、ハジメの役割を特別なものへと押し上げてくれるだろう。 同じく、武器や魔導具を通じての近距離魔法使用も考慮せねばならない。
その他、選択肢はいくつか増えた。 カンベルド要塞都市であれば、試行を妨げる者は居ない。
「──ってな感じで、色々やらないと」
「はぁ、はぁ……。 終わってすぐ、なのに……真面目っ、だね」
ラフォンは事を終えて満足気に頬を染め、息荒くハジメにしなだれ掛かっている。 当然、二人とも衣類の一切を纏っていない。
ハジメはラフォンとの関係を切らなかった。 しかしその関係を明確化していた。
「……ラフォンは、これでいいのか?」
「う、うん……。 ハジメさんの、役に立てる間だけでもいい、から」
「ごめんな」
「い、いいの。 でも、その瞬間だけは、ちゃんと愛して」
(とんでもないクズ男になっちまった。 性欲の捌け口にしておいて、「これでいいよな?」って強要してるんだからな。 これじゃ、誰かと長く付き合うとか到底無理だ。 割り切った関係で逃げ道を作り続けるとか、なんて卑怯者だよ)
「ああ。 じゃあ、続きやるか」
「は、早くない!? でも……いいよ? ん、っ……ぁ──」
夜は更けていく。 そんな中、エマは本日も夜警の業務をこなしていた。
「エマ、気が抜けているぞ」
「あ、申し訳ないっす……!」
ラフォンがハジメの部屋に未だ出入りしているのを知って、エマは宿に居づらくなった。 ただ、それがどうしてかは分からない。
「何を考えてる?」
本日のエマのペアはヴィライ。 彼も夜警を多くこなしているだけあって、組まされる機会は少なくない。
「えっと、将来のこととか?」
「なんだそりゃ。 ま、ここに居る限りは安心だろ。 無茶しないけりゃ、夜警やってるだけでも十分裕福に暮らせるしな」
「それはそうなんすけどねー」
「どこに居たって、死ぬときゃ死ぬ。 ここは設備が整ってるだけ安心だが、環境難易度はそこらの町村とは比較にならねーからよ。 将来とか考えすぎるだけ無駄だろ」
これくらい割り切れたら楽なのに。 そう思うエマだが、それほど人生経験もない。 また数年間の記憶喪失は、自分の生き方さえ曖昧なものへと変えてしまっていた。
「お前、今後もハジメと行動すんだっけ? 最低限の方向性さえ決まってりゃ、そんだけで十分じゃねぇかよ」
「あたしの役割はハッキリしてるっすけど、何がしたいかが不明瞭で……」
「見てると、ハジメは落ち着いてられない性格っぽいよな。 あいつに着いてったら、何かしら楽しいんじゃね? 安全安心かどうかは別にして、な。 どう生きたいかだけ考えてろよ」
「ヴィライさんは、どう生きたいか決めてるっすか?」
「そりゃあな。 そこそこの刺激と、そこそこの裕福さ。 この二つがあればいいだろ。 現実的だしな」
「そんなに簡単に決められるっすかね……?」
「だが、夢なんて見るなよ? 夢見た奴から先に死ぬからな。 俺は、それを何度も見てきた」
エマはヴィライの返答を聞き、改めて考えさせられた。 生きている意味と、どう生きたいかのかを。
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