第122話 迷走
「ハジメちゃん、お客さんだよ」
「……誰? ああ、あの時のおばさんか」
腐敗臭と絶叫が立ち込める空間へ訪れる者がいた。 ここは街道から少し離れた場所にある、朽ちた一軒家に併設された倉庫。
「失礼し──ウ、ッ……!」
「う、っげェ!?」
ベルマリットは鼻をつまみながら部屋を見渡し、それでも突き抜けてくる異臭に顔を歪めた。 随伴してきた若い男は、耐えきれず吐瀉物をぶち撒けた。
暗い倉庫内には肉片や血液が撒き散らされており、ハジメ自身も血肉や吐物に塗れている。 それでも平然と過ごすハジメは、到底まともな精神状態ではない。 ベルマリットはハジメの尋常ではない壊れ方に、恐怖を禁じ得なかった。
「……で、なに? あんたら俺を罰しに来たのか?」
「いやいや、お客さんだから」
ハジメから湧き上がった異質な殺意に、シノンは即座に説明を挟んだ。
「ああ、そうなのか。 殺し合う必要はないってことか」
フッと、負の感情が掻き消えた。 しかしベルマリットの不安は消えない。
「うん。 とりあえずここは臭すぎるからさ、場所移さない?」
「臭いか? まぁ、臭いか」
ハジメは自分を嗅いで、そこまで臭くないような顔をしながら渋々同意した。
「ああでも、こいつらで実験することが残ってるんだけど?」
壁に繋がれて何やら呻いているヴィシャトールとヴィシャファトを指差し、はじめは気怠く言う。 すでに二人は両前腕と両下腿を失い、殺してくれと懇願するようになっている。 しかしハジメによって早々に舌と口唇を破壊されたため、単語すら聞き取ることはできない。
「悲惨だし、もうやめてあげたら?」
「嫌だね。 勝手にあいつらを殺すようなことがあったら、誰であっても俺が殺すからな」
兄弟がやけに騒いでいるのは、ハジメ以外の誰かに殺して欲しいからだろう。 ただ、喧嘩を売る相手が悪かった。 ここまで狂うことができる人間に手を出したのが間違いだった。
「……ひとまずこっちの要件を片付けて。 すぐ終わるはずだから。 そこで吐いてるのは、ハジメちゃんが探してって言ってた人。 話聞きたいんでしょ?」
「あー……じゃあ、そっちを先にするか」
「え、ええ……。 こちらへ」
もう帰らせてほしい。 ベルマリットは内心そう考えつつも、最初で最後の接触と思い込むことで何とか我慢した。
「ん──で、手短に頼むわ」
「そう、ですね。 ではまず、先日は助けていただいて感謝しておりますのよ。 思うところはありますが、目を瞑っておきます」
「ああ、そう」
ハジメが全く興味なさそうに返事をしたので、ベルマリットはすぐさま次の話へ。
「こ、こちらはアジムア殿です」
「アジムアと言う。 自分は犯罪捜査官として記憶に関わる魔法が使えるのだが……」
「そうか。 じゃあ一つ、消して欲しい記憶があるんだ。 しっかり頼むわ」
「それはいいんだが自分は未熟ゆえ、期待通りにできるかは分からないぞ……?」
アジムアは、大量殺人犯で拷問さえ平然とやってのけるハジメに嫌悪感を抱き続けている。 しかしベルマリットの頼みとあっては断れずやって来て、後悔している最中だ。
「そうなのか。 じゃあ希望だけ先に言っておく。 エマって娘がいるんだけど、そこの二人に随分酷い目に遭わされてから困ってるんだよ。 だから、そのあたりの記憶をパパッと消してくれ」
ハジメはシノンからエマの状況を聞かされている。
エマはヴィシャ兄弟に強姦──では済まないほどの苦痛と恥辱を味あわされ、心身が壊れてしまった。 ひとまず最低限の食事ができる程度には回復しているが、常に何かに怯えて誰とも会いたがらない。 眠れば悪夢で目を覚まして泣き叫び、そして泣き疲れて寝るということを繰り返す。 暗い部屋を出ることもできず、トナライであっても男性というものを見ればフラッシュバックでパニックを起こす。 ハジメが拷問を続けることとエマのことが重なり、シノンも街道から出発できずにいる。
シノンはアジムアに、エマの状況をかいつまんで伝えた。
アジムアは渋い顔を作りつつも、最終的には肯定の意を示した。
「……状況は理解した。 その前にまず、自分の魔法について説明しておく。 いいか?」
「ああ」
「自分の使える魔法は、そこまで万能ではない。 記憶を鮮明に読み取ることは可能だが、記憶を消す方面には特化していない。 だから、目的の記憶だけをピンポイントに消すのはできない」
「続けろよ」
「……記憶を消すためには、その記憶の重さに応じた魔法強度が必要になる。 そのエマという女性に刻み付けられた記憶は相当なものだろうし、それを全部消そうとするなら魔法強度を上げるのは必須だ。 その影響で、今までの必要な記憶すらも消えてしまう。 これは避けられないことだ」
ハジメは返答に詰まった。 いくらか心が壊れていても、そこで悩むくらいの人間性は残されていたらしい。 自身のちぐはぐな様子に、ハジメは最早自身が分からなくなる。
「消える記憶ってのは、数日分とかそんなもんか?」
「身体の傷と違って心の傷は目に見えないし、目に見えないぶん身体の傷よりも重い。 エマの心の傷を身体の傷に置き換えると、死んでしまってもおかしくないほどのものだと考えてくれ。 それを消して全く無かったことにするんだ。 どれほど大変なことか分かるだろう?」
「具体的にはどんなもんだ?」
「数ヶ月……で、済めばいいが」
「はっ、そうかよ」
悪態をつくハジメを、ベルマリットとアジムアは怯えた目で見ていた。 いつ破裂するか分からない爆弾。 ハジメの印象はそのようなものだ。
「どうする? 考える時間が必要だろう?」
「いや、答えは最初から決まってる」
ギィィ──。
扉が開かれ、廊下の光がエマの身体を照らした。
「ひっ……!」
エマは視界に映った男性のシルエットに、あの時の記憶が呼び戻された。
「ぃ、やぁああああッ!? あ゛!? 嫌、嫌、嫌ァ! 触らッ、来ないでよぉ……!!!」
半狂乱で醜く泣き喚きながら、殺人鬼にでも追われているように床を這って部屋角へ。
「やだ、やだぁ……! もう、も゛う……ヴっ……げェッ!?」
吐瀉物を垂れながら、身体を丸めて全身を震えさせている。 顔面の各所から液体を溢れさせ、しまいには失禁までしてしまっている。
「これほどの……」
アジムアは絶句している。
「そうだな」
一方ハジメはエマの様子を見て、それくらいの言葉しか出てこなかった。 可哀想だとか、そのような感情さえ湧き上がらない。
ハジメは本当に自分は終わっているのだと実感するとともに、エマを壊してしまったのも自分だと理解できた。 そして今から、もう一度エマを殺すということも。
「本当に、いいのか?」
「さっさとやれよ。 俺の責任でいいから」
「……分かった」
アジムアは相当の時間をかけて魔導書にマナを注入した。 途中から脂汗をかいているところを見ると、かなりの労力ということが伺える。
アジムアは怯えるエマに近づき、憐憫の視線を投げた。 憔悴しきった彼女に掛ける言葉も見つからず、ただただその様子を眺めるしかできない。 この上さらに、大切な記憶も消してしまうのだ。 ハジメはああ言っているが、罪悪感でアジムアの心が先に潰れてしまいそうだ。
アジムアはグッと目を閉じて魔法を唱えた。
「《記憶抹消》……!」
凄まじいマナの塊がエマに襲いかかった。 エマは白目を剥かせて痙攣している。
「ひ、っ……あ゛……あ……あ……」
声が漏れるたびに、記憶がひとつひとつ消えていくようだ。 アジムアは締め付けられる胸を押さえつけて耐える。
エマの首がカクンと折れた。 そのまま頭部はズルズルと壁を擦り、身体を地面に預けて動かなくなった。
「アジムア、終わったのか?」
「ハァ……ハァ……っ」
「どうなんだ?」
「そちらの希望通り、念には念を入れた……。 これで今回のことは絶対に思い出せない。 というより、彼女の中では無かったことに……なったんだ。 ただ、どんな不測の事態が起こるか分からない。 細心の注意を払ってくれ」
「ああ。 シノンちゃん、あとは頼むわ」
さっさと出て行こうとするハジメには、もはや誰も何も感じない。 壊れてしまっているのだから仕方ないという諦めだけが、彼に向けられる感情だ。
「まだやるつもり?」
「復讐はとっくに済んだけど、やることが残ってる。 今じゃないと……できないことだ」
「……そう。 でもさすがに最後までは付き合いきれないから、期限を決めて。 それまではエマちゃんの面倒を見てあげる」
「あと三日で全部終わらせる。 俺たちの関係も、そこで終わりにしよう」
「うん。 じゃあ、最後までしっかりやりなよ」
「ああ……」
シノンは、何やら感じさせるハジメの背中を見送った。
「自分の記憶も消してもらえばよかったのに」
シノンはエマを抱えると、ベッドに横たえた。 その後、散らかった部屋を綺麗にする。
アジムアは最後まで見守ってから、シノンに声を掛けた。
「自分はこれで失礼する」
「面倒な役目を引き受けてくれてありがとね。 ハジメちゃんはあんな感じだけど、本心じゃないと思う。 どこかではちゃんと感謝してるはずから、それは分かって」
「ハジメの振る舞いを見て理解したよ。 彼は生きづらい性格をしているな」
「ほんとそう。 いつまで狂った振りをしてるんだろうね。 ああでもしないと、精神を保ってられないんだとは思うけど」
「大変だろうが、シノンも達者でな」
「こちらこそ。 ベルマリットにも感謝を伝えておいて。 あと、感謝ついでに──」
シノンは、騒動の最中で見た簡易魔導書の作成方法を伝えた。 アジムアは再度吐きそうになりながらシノンの話す内容に耳を傾けた。 これがどう意味を持つかは分からないが、魔法使いであるハジメやエマのことを考えれば悪い結果にはつながらないだろう。
「では……」
「じゃあね」
アジムアは部屋を出て、ベルマリットの元へと去っていった。 これであとは、身内だけの問題だ。
「シノン、終わったのか?」
しばらくして、トナライが戻ってきた。 彼は街道が荒れている中でもしっかり逃げ切り、今こうして生存している。
「うん、こっちはね。 ハジメちゃんの方は、あと三日で終わらせるらしいよ。 その後のことは聞いてないけど、何かしら考えはあるんじゃないかな」
「この先、二人は付いてくるのか?」
「ううん。 ハジメちゃんはこれで終わりだってさ。 私たちの活動の性質上、またどこかで会うとは思うけどね」
「そうか。 また二人旅か、寂しくなるのう」
「ほんとにねー」
街道の復興が急ピッチで進められる中、ハジメの三日はあっという間に過ぎていった。 その間にエマは目を覚まし、記憶喪失ということで内容は伏せられたまま辻褄合わせが行われた。
ちょうど三日が経過した夜、ハジメがシノンの元に姿を見せた。
「もういいの?」
「ああ、十分だ」
ひどい顔だ。 シノンは声には出さないが、ハジメを見て少しだけ恐怖した。 なんとか次の言葉を紡ぎ出す。
「よし、お疲れ!」
「随分と待たせたな」
「いいよ別に、気にしなくて。 あと、そうだ」
「なんだ?」
「私たちは明後日出発することにしたよ。 明日はハジメちゃんの出発準備を手伝ってあげる」
「……いいのか?」
「エマちゃんと顔合わせもしないといけないでしょ? 明日からエマちゃんに『じゃあこの男と一緒に居てね』って、さすがにそれは酷だし」
「確かに、そうか」
「だからこれは、私たちからの餞別。 エマちゃんには、相談した内容でハジエちゃんのことを伝えてるから。 とりあえず外で湯を沸かすから、大量に水汲んできて」
「水浴びはしてきたぞ?」
「いやいや、せめて10回は身体洗って。 これは命令だから」
ハジメは、シノンが終始鼻声なのは気になっていた。 彼女の態度から、相当に酷い匂いらしい。
「そんなにか?」
「まーじで、終わってる。 服は全部焼いて捨てて。 それほどの匂いだよ」
「分かったよ」
ハジメはシノンに言われた通り、しっかりと身体清掃を済ませた。
シノンやエマは現在、持ち主がいなくなった一軒家を利用している。 ハジメは音を立てずに入り、硬めのベッドに身を預けた。 ウトウトする時間すらなく意識は即座にブラックアウトし、深い深い眠りへと吸い込まれていった。
▽
「じゃあ、ここでお別れだね」
街道を抜けて北に進むと、山が行く手を二つに分けていた。
シノンとトナライは、真っ直ぐに王都を目指す北西のルートを選択している。 ハジメとエマは北東の別ルートから、寄り道をしつつ北上することとなる。
「世話になった、本当に」
「貸しにしておくから、死ぬ前に返してよ」
「……必ず」
「ハジメ、どこかで信頼できる仲間を募れ。 これは必須事項だ」
「心得ておきます」
「エマちゃんも元気でねー」
「お姉さんにはお世話になったっす! トナライさんも、色々ご指導助かりました」
「いいってことよ」
「二人とも無理はするな。 一度関わった限りは、死なれるのと寝覚が悪いからのう」
ハジメは、シノンとトナライに固い握手を交わした。
「じゃあ達者でね」
「ああ」
別れはあっさりと終わった。
シノンとトナライは、振り返ることなく目的地へシルエットを小さくしていく。
ハジメはもっと感傷的になるかと思ったが、少しの寂寥感と安心感が湧いた程度だった。
(どうして俺は安心してる?)
ハジメは心に違和感がこびりついて拭えない。
「ハジメさん、どうするっすか?」
「……え、ああ」
エマの何も感じさせない声で、ハジメは現実に引き戻された。
「俺たちも行くか」
「はい!」
ハジメの進むべき道は、目の前の鬱蒼とした森林地帯の中に続いている。
「移動手段があればよかったんだけどな」
「街が変な集団に襲われたんじゃ仕方ないっすね」
「復興中だからな」
「でも、あたし楽しみっす! 旅なんて初めてなんで!」
「そう、だな……」
「ああっ、ごめんなさいっす! ハジメさんたちは、記憶を失う前のあたしと旅してたんすよね」
「またゼロから始めればいいさ」
(ゼロから、ね……。 街道のことも全部、自分でやっておいて何を言ってるんだか)
「そうっすね。 ハジメさんには、前のあたしがどんな風だったか教えて欲しいっす」
「今と大して変わらないけどな」
「そうなんすかねー。 全然分かんないっす」
(俺が連れ出したことでエマは心身を壊され、その上記憶を消されたんだ。 実質俺に殺されたっていうのに、どうしてそんなに純粋に聞いてくるんだよ。 それに対して俺は……本当に気持ちが悪い)
「新たに思い出したことはないのか?」
(嘘のせいで、そこに嘘を重ねるばかりだ。 こんな迂遠な質問で卑怯だよな……)
「二年くらい前からパッタリと消えてるんですよねー」
「その時と今とで変わったことは?」
「目線の高さは変わってないので、身長はそのままっすね。 あ、でも、魔導印というのは無かったかな。 あと、は……あ!」
「どうした?」
「おっぱいが大きくなってるっす!」
「……そういうところはそのままだよな」
ハジメはエマに懐かしさを感じた。 それとともに、自分の知っているエマはもういないのだと。 何を考えても、ハジメの心は晴れなかった。
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