4/隠蔽
人殺しは、生まれて初めてだった。右手にすんなりと収まっていて、今や女の首にそっと刺さっている鉛筆削り用のナイフは、何年か前に出逢った少年の落とし物で、肌身離さずずっと持ち合わせていた物だった。スーツ姿の時は胸ポケットに、休日の時は肩にかけるショルダーバックに入れていた。鞘は手製で、革作りだったがもう入れることはないだろう。凶器として使ってしまったのだから、しょうがない。これを持っていると何だか強く在れる気がして、少年心が蘇ったような感覚があったのだが、処分してお別れだ。
近くにある公園の茂みの、永く使われていなさそうな倉庫があったのを思い出し、裏に隠そうと考えたが倉庫の鍵が開いていたため、そこに隠した。
そして気づいたら、知らない道を歩いていた。まさに茫然自失の状態で、世界が灰色に見え、心底世の中に絶望していた。覚束ない足取りで塀を頼りに歩いていると、四人組の若者に囲まれていることに気づいた。酔っているように歩いている私が、格好の獲物だったのだろう。
路上カツアゲだ。
勇気ある若者だと感心していると、どうやら武器の類は一切所持しておらず、素手で私を脅した。ナイフで女を殺したばかりの私からしてみれば、かなり滑稽であり、再び心で褒め称えた。なんて私は卑怯で姑息なのだろうと、戒められているかのようにも感じた。
くちゃくちゃと、ガムを噛む音が緊張感を和らげている。
四人組の一人、筋骨隆々で逞しい肉体美を持つ、ボクサーと言わんばかりの若者が前に出ると、突然ヒュッと宙を切り、風を鳴らして拳を振った。
私は驚いて塀にもたれかかるように尻餅をつくと、パーカーのフードを被った若者が「財布を渡さきゃ、殴るよ」と棒読みで放った。
私は視界が不安定になるほどに混乱していた。考えがまとまらず、立ち上がることもできず殴られるのも秒読みだった。
駄目だ。何もできない。殴られるのは痛いだろうなぁ、嫌だなぁ。思いながらも、彼らを見上げることしかできなかった。
「きみたち、何をしているんだ?」
あまり感情の籠っていない、淡々とした言葉が奏でられたのはそのすぐだ。若者の背後に、黒塗りの乗用車が停められており、そこから青年が顔を覗かせている。やがて男は車から降りると、
「警察なんだが」
と告げて警察手帳を取り出した。
「やべっ」
呟きは一瞬。青ざめた顔で彼らは一目散に駆け逃げた。
「あなた、大丈夫ですか?」
スーツ姿の警官は、私に手を差し伸べて声をかけた。その手に私の左手を添えると、ぐっと引っ張られ、すんなりと立ち上がる。だが恐怖と困惑、悲観などで世界が滲み、刑事の姿も歪む。
これも運命なのかと、悟らずにはいられない。どうやら神は、私を手放したらしい。蜘蛛の糸すら、天から降りてこない。
息子を轢いた女を殺し、その後チンピラに絡まれて最後は刑事。悪魔に導かれるかのように、不運は次々と襲うものだなと、私は深い絶望に苛まれた。
しばらく何も考えずぼーっとしていたからか、気がつけば刑事の車に乗車していた。ただのパトカーではない、覆面パトカーのようだ。黒い乗用車だが、椅子の心地よさがなかなかの高級車だと告げていた。覆面パトカーは自由なのだろうか。
ああ、そうだ。確か刑事に「駅まで送りますよ」と提案され、それを承諾したんだ。助手席のドアを右手で引き、何の緊張もなく乗った。私は思い出し、外を見やる。だがこの地はあまり詳しくなく、ここがどこかさえわからない。
突然、刑事が口を開いたのは五分もしないうちだった。
「右手の血、どうされたんですか?」
ぎくり、とは不思議としなかった。右手からは、赤い絵の具のついた筆を、ぴっと垂らしたような血紋が付着しており、その鮮血は今にも滴り落ちそうだった。
「ああ」
間抜けな返事。私は再び、悪魔に誘われている想像を懐いた。私の人生は、そんなに楽しいか?
「その血、さっきの奴らにやられたものではありませんね」
確信しているかのような口調に、「まあ」と私は応じる。
濃紺の闇に染まった街を、人間の光が淡く染める。景色をぼんやりと眺めながら、車はしばらく沈黙に包まれた。
鳩尾の中で、黒い闇のような沼が、どぶどぶと、脈打っているように胸が締め付けられる。
「卯月さん、何か事件に巻き込まれたんじゃないですか?」
赤信号で停止した後、刑事は遂に言い放つ。私はいつ刑事に名前を名乗ったか忘れていることに、驚いた。
まるで黙秘権を行使しているかのように黙りこくっていると、
「いえ、違いますね。事件を起こした、が正解でしょう。その血の付着には見覚えがある。刃物を、人に使ったんじゃないですか?」
と続けた。疑う段階ではなく、確信している表情だった。
「あなたはさっき、僕が右手を差し伸べたら左手を乗せた。おかしいんです。向かい合っている状況で左右違う手を握り合ったら、引っ張りづらい。まあ僕は、あなたが最初から右利きだと知っていたんですが、左手を伸ばすのはなぜだろうと思ったんです。そうしたら血が付いている。あなたはきっと無意識だったのでしょうが、後ろめたいことをしたんですよね」
彼の分析眼は、なかなかのものだった。情状酌量の余地なく、誤魔化すこともできない。白を切ることは、もはや不可能だ。
やはり、世界は不条理だ。
私にはどうやら、一生運が恵まれることもないらしい。生きてて楽しいことなんて、あっただろうか。これ以上、一縷の幸福さえ望むのは、無駄だろう。
そう思い、諦めた。
すべての経緯を自白することにしよう。もしかしたら、同情してくれるかもしれない。
女と会い、我を忘れて、気がついたら鞄からナイフを取り出して――敵の首元を深く突き刺していたことを、嘘偽りなく話そう。
息子の仇である女と出会い、話をしている内に気が動転してしまったこと、我に返れば、いつも持ち歩いていたナイフで首元を刺してしまい、殺害してしまったことを。