2/犯行
卯月閂がそこに訪れたのは、四度目だった。高級な住宅街の一画にある、荘厳で貫録のある佇まいを醸し出す背の高いマンションだ。その女――園山理沙がここに住んでいたことは以前から知っている。二年前、彼女が卯月閂の息子を車で撥ね殺してしまった際、その後の色々な手続きやらなんやらで住所は把握しており、自分でも目的は明瞭としないまま実に四度、気分気まま勝手にふらふらと、マンションの前までやってきては、天を仰ぐように顔を上げては高い高いそれを見上げ、白亜の外装に目を奪われながら悲嘆の溜息を吐いた。
今日もまた、気がつけばここに来ていた。結構な距離があったはずだが……腕時計を見やれば、買い物をしようと家を出たのは六時で今は八時、二時間の移動を経て無意識にここへ訪れていたようだ。どうやら夢遊病の素質があるようだと、卯月閂は薄らで自虐的な笑みを浮かべた。
星が一切ない夜空にマンションは良く映え、窓から射す明かりが星の代わりにように煌めく。
たが、何の感動も、込み上げる感情もない。ここに園山理沙が住んでいた、それだけで忌々しい。
もう二年の月日が経った。恐らく彼女はここから引っ越したはずだ。ならばここに来ても意味はないではないか。わざわざ過去を彷彿とさせる場所へ来るなど、苦行でしかない。
そう思い、マンションを背に車通りの悪い車道を横切ろうとした、そのときだった。自分が勘違いをしていることに気づいたのは。卯月閂はこのことをすっかり想定していなかった、もう会うことはないと考えていた。普通に、忘れていた。
黒いスーツ姿の男と二人で、笑い合いながら歩む園山理沙の姿を偶然発見したとき、卯月閂は心底驚いた。驚きを通り越して驚愕した。
事件から二年、卯月閂は事故に関するあらゆる出来事を極力思い出さないようにして、危うい精神バランスながらもどうにか生きてきた。特にこの女のことはとりわけ思い出さぬよう、心を無にして記憶の奥底へ追いやっていた。もし思い出してしまったら、きっと復讐と憎しみのマグマが沸々と煮えるのは間違いないのだから。
けれど、出遭ってしまった。彼女を目撃し、最初は引っかかるような気持ち悪さが唐突に現れた。続いて記憶が蘇りはっとして、女が何者か一瞬理解できなかったのにも関わらず、ぐっと全身が熱くなるのを感じた。ゴキブリを見つけたときの反射に似ているのかもしれない。生理的に、本能的にこいつは敵だと、近づいてはならないと警告が赤く発せられていた。
「……いたのか」
「――え?」
すれ違いざま、卯月閂が発した言葉を聞き取れず、またあのときの男だと気づかないまま彼女は首を傾げた。
「まだ、ここに住んでいたのか」
なんで? 率直な疑問だった。そんなはずはないと、思いたかった。だが彼女の怯えた表情を見るに、それは望めないようだ。
卯月閂は、二年前の事件のとき住んでいた家から別の家へ引っ越している。街も違う。息子が生まれてからずっと変わらず同じマンションで生活していたのだが、そこにいる限り息子の幻影が目に焼き付いて離さなかった。どこにでもいて、今にも声を掛けてくれるような錯覚が襲うのだ。堪えられるわけがない。
仕事も変えた。子供を失った卯月閂にはかなり同情的な会社で、寛大な対応もあって皆心配してくれたが、逆にそれが苦しかった。
毎朝、息子と共に家を出て会社に向かっていた。その記憶は消えず幻となって蘇ることもしばしばあり、その度に息子はもういないんだと認識せざるをえず、革靴を履くと段々目頭が熱くなって涙が滂沱と止まらず、不快感が襲い嗚咽してしまうこともよくあった。
息絶え絶えに会社へ出勤するのにはもう限界だった。だから退職を申し出た。
そう、卯月閂の生活は一変したのだ。けれど、園山理沙は依然と相変わらず同じように生活している。そんなことが、あっていいのか? 信じられなかった、嘘だと思いたかった。
――だけど、現実だった。
彼女は落ち着きを取り戻した様子を見せると、「ええ、まあ」と平然に、何の悪びれもなく答えた。どうして引っ越さなければならないのか、まるで理解できていない様子だった。しかし、その声は微かに震えが混じっていた。恐怖が拭えたわけではないのだろう。当然と言えば当然だ。自分を憎んでいるに違いない男が、唐突に眼前へ現れたのだから。
「……何か、用があるのですか?」
気丈に振る舞いつつも、弱気な感情が見え隠れする声音で言った。
「警察を呼びますよ?」
確か、彼女の兄が警察関係者だという話を聞いたことがある。故に彼女は事件後、かなり動揺し狼狽していたが、頼りになる助っ人に従っていた節があった。
園山理沙は美人だ。二十代後半でまだ独身だが、二重の眼は大きく小顔で、茶髪が良く映える。胸も大きくスタイルもかなりいい。多くの男が言い寄ったに違いない。隣にいる男もその一人だろう。
「知り合い?」
笑顔が優しい整った顔立ちの若い男は、園山理沙に訊く。前に、ちょっと、と彼女は答えると、彼は「じゃあ俺は邪魔だね、帰るとするよ」と彼女の肩に手を置いてからそう言って、踵を返して去っていく。
「ちょっ……」
驚いた様子で彼女は振り返り腕で宙を仰ぐと、男も急に歩みを止め、
「そうそう。俺、外車の新車買ったんだ。今度運転させてやるよ。おまえ、外車に憧れてただろ。じゃあな」
約束を言い残し、背を向けながら手を振り今度こそ夜の闇へ消えていった。
卯月閂はしばし呆然とその様子を眺めていた。女は少し罰の悪そうな顔で俯いていたが、開き直ったのか、やがて瞳を爛々と輝かせて、
「私もあの事故でたくさんの物を失ったわ。別にいいじゃない、車の運転ぐらい。あなたの息子だって不注意に歩いてたんだから。あれくらい、ちゃんと警戒していれば避けれたはずよ」
強く鋭く、まるで自分は悪くないと言うように、声を荒げて放った。
「…………」
卯月閂は彼女の怒号に怖気付いたのか、しばらく口を開けなかった。鋭い視線で睨みつけてくる彼女に、数秒後。
「……免許は、まだ……」
やっとの思い出振り絞った言葉は、それだった。彼女はまだ、免許を取得していないはずだ。
「そんなの、別になくたっていいじゃない」
何かが壊れる、音がした。
コナンの園子的な。