彼女はゴリラになれない
清潔感が鼻腔にまで満ち満ちる、束の間の空間に落ちた一言。
「私、ゴリラ女子になるよ、おにいちゃん」
「な、何をバカなことを!」
暇つぶしといえばスマートフォンしか知らないようなかわいそうな妹が、実際、まさに今スマートフォンを細い指先で弄っていた妹が、そのくりくりとした目を輝かせて言った。安っぽい丸椅子を蹴倒し怒鳴った僕に、「ひうっ」と肩をすくめた。
その愛らしさに引き起こされた申し訳なさが、僕の心を鎮火する。落ち着け、良い兄とは、可憐な妹の数少ない望みをキチンと叶えられる兄である。もし、タピオカを飲んでみたいと言われれば、タクシーで東京中のタピオカ専門店を駆け巡るだろう。
おほんと咳払いして、不安げに見上げてくる妹にすまんと頭を下げ、椅子を起こした。彼女のベッド脇で、僕は顎をさする。
ゴリラ女子。
はて。それはいったいなんなのか。
何か聞いたことのあるような気もするが、それは小学生の罵倒としての言葉ではなかろうか。僕の愛すべき妹は、被虐体質では絶対にありえないし、石ころ一つぶつかったくらいで死にそうな女の子だ。
ならばもしや。
瞑目し、ひたすら唸る僕の心に、突拍子もない想像がひらめく。もしや、言葉通りの意味ではあるまいか。だとしたら、流石にそればかりは僕にも叶えようがないし、彼女はゴリラ女子にはなれない。
唇を震わせながら、最悪の想定を問いかける。
「まさか、拳を地面についてドシリドシリと歩く、あんな不格好に憧れるのか……?」
「不格好……?」
妹の怪訝な声色が突き刺さる。
「それ、おにいちゃんの見た画像が悪いだけじゃないの? 普通にかっこいいもん!」
「なん……だと…………?」
今ここに、ホモサピエンスの『普通』が崩壊した。焦りが冷や汗と伝う。
もはや、我が愛しの妹には、ゴリラのナックルウォーキングがモデルウォークか何かに見えているのかもしれない。彼女はきっと、生物の垣根を超え、ゴリラのメスになろうとしている。
なぜ急にそんな事態になったのかは不明だが、考えられるとすれば、この前動画配信サービスで一緒に見たキングコングの影響だろうか。全世界では名作として語り継がれる作品も、この外界と隔離された一部屋では情操教育によろしくなかったのだ。
もう、頭を抱えるしかない。
「なぜだ、なぜそんな修羅の道に堕ちた……」
「修羅って。そりゃ厳しいかもしれないけど、男の人ならそう珍しくもないんじゃないの?」
「そうか、そうなのかもな。きっとお前が言うならそうだ……」
今なら、明日世界がオムライスに包まれると言われても信じられた。
母さん、天国の母さん。ごめんなさい。
僕はどうも、妹の育て方を間違えたようです。齢十二にも満たないあの子を、畜生の道へと導いてしまいました。
潤む視界で、改めて妹を見た。
とてもゴリラとは程遠い、白い印象の身体だ。背もたれを起こしたベッドに身を預けている彼女だが、その清潔な白さに吸い込まれて消えてしまいそう。
儚げな面立ちは、どこか母に似ている。
……そういえば、母もテレビ画面に映るゴリラをかっこいいと言っていた。
妹の異常性癖が遺伝かと思うと一転、母親へ中指を突き立てたくなった。
「どうしたのお兄ちゃん、すごい顔して……」
「これはね、家族を天秤にかける苦悶の表情だ……」
「メロドラマ?」
恐るべしゴリラ。その筋骨たくましい腕は家族の縁すら引き裂くらしい。
様々な思いに、頭の中をカレーライスの如くかき混ぜられながら、そういえばカレー屋さんにもゴリラの看板を掲げる店があるなと思い出しながら、さらにうんうんと唸る。
「万一、万が一……」
「万が一?」
言葉を捻り出す僕に、彼女はこてんと首を傾げる。
「ゴリラになるとして、どうやってなるんだ?」
「うーん、どうするんだろう?」
もしか、彼女の言うゴリラとはゴリラ的概念なのかもしれない。現実的に考えてそちらの線の方が濃厚だ。ゴリラ的概念とは何かという問題はあっても。
彼女は質素な部屋の中で視線を彷徨わせ、枕元のナイトテーブルに置かれたカゴに目を止めた。
「まず、バナナを食べます」
彼女の手が、無造作につかみ取る。それは黄色くハリのある一房。バナナ。
「それで?」
「……バナナを食べます」
「食べた後は?」
「…………バナナを食べます」
なら、ゴリラとちゃうな。
バナナを食べるだけでゴリラになれるならアスリートの99%はゴリラだ。彼女はおそらくゴリラ気分になりたいだけ。彼女の枕元には果物が溢れんばかりだから、今度ゴリラはリンゴも食べると教えてやろう。
「そして、最後には」
うん、最後には?
「マッチョになります」
ならゴリラやないかい!
ところてんのように身体中から生気が抜けていって、僕は抜け殻になった。ぐでんとなる僕に、妹はおたおたとする。あぁ、そんなに腕を動かすと危ないよ。
「大丈夫、大丈夫だよ」
自分に言い聞かせるように繰り返した。
「お前が夢の果てに動物園の檻に入るとしても、お前のお願いはなんでも叶えてやるから……」
「おり? 何言ってるの?」
「だってお前、ゴリラになるんだろう。コンクリートジャングルには、キングコングでも住み着けないんだよ」
「いや、ゴリラじゃないよ。…………ねぇ、もしかしてだけど、わたしが本物のゴリラになりたいんだと思ってる?」
「え?」
……違うのか。
妹はぽかんと口を開けた後、くすくすと口を隠して笑った。布団の上に落としていたスマホを拾い上げて、すっすっ、と操作する。
彼女が見せる画面に映っていたのは――
「わたしがなりたいのは、ゴリラ女子だよ?」
美しいプロポーションの、マッチョ女子だった。
◇◆◇
僕の勘違いがよっぽど面白かったのか、妹は季節外れのニット帽で目元まで隠して、笑いを堪えている。僕は一寸いたたまれなくて、頭をぼりぼりとかいた。
いやしかし。
「お前が楽しかったのなら、良かったよ」
「んふふ。そういうことにしてあげる」
ふむん。やはり生意気ぶったところも可愛い。
ようやっと落ち着いて目元を拭う妹。幸せそうな彼女を少しでも見られるのなら嬉しい。喜びにみじろぎして、靴底がリノリウムの床にきゅっと擦れた。
妹はその後、ゴリラ女子の魅力というのを話してくれた。スマホの中には、学校もないものだからと有り余る時間で収集した、たくさんの画像があった。
それはある意味で僕の予想通り、概念的なものであるらしく。彼女はその、活力あふれる様に惚れ込んでしまったそうだ。なるほど、と。僕は内心唸ってしまう。彼女らしいと思った。
話にひと段落ついて、ふぅ、と妹が一息つく。
「それで、お兄ちゃん」
「ん?」
目を伏せた彼女が言う。その声色は、静かな響きをもって僕の無力感を揺すった。
「わたし、ゴリラ女子になれるかな」
「あぁ。あぁ、なれるとも」
彼女の目を真っ直ぐに見て、僕は答えた。彼女はそこから僕の心を覗いて、ゆったりとうなずいた。
何をバカなことを、僕はしているんだろう。
「僕はもう、帰るよ」
情けなくて情けなくて、仕方なかった。
「うん、今度はいつ、お見舞いに来てくれる?」
「すぐに来るよ。今度はプロテインを持ってくる」
「ありがと」
ふらふらと手を振る彼女に手を振り返す。憐憫の視線を他の患者たちから受けながら、僕は病室を後にした。
廊下に出ると、顔馴染みになってしまった看護婦に会釈される。『なってしまった』とは失礼かもしれないが、母についでの妹の入院、そのおかげと考えるとやはり、『なってしまった』なのだ。
本当に、とんでもないものを遺伝させてくれた。やはり、母には中指を立てるのがふさわしい。
僕は、プロテインによく似た飲み物を頭の中で検索しながら、帰路についた。プロテインなんて飲ませても仕方ないのだから。
彼女は、ゴリラになれないのだ。