メロスは激怒した。 メロスには政治が分からぬ。 だが人一倍筋肉を鍛えていた。
メロスは激怒した。
メロスには政治が分からぬ。
だが人一倍筋肉を鍛えていた。
あと邪悪にも敏感であった。
「この騒ぎは何事か」
邪知暴虐なる王が城内の騒動に気付いた時点で、実質的には“詰み”であった。
恐るべきメロスが分厚い城門を蹴破り、襲いくる衛兵を蹴散らしながら謁見の間にまで到達しつつあったのだ。
メロスの鍛え抜かれた肉体には雑兵どもの振るう剣や槍など物の数ではない。
突き込んだ槍の穂先が折れて刺さり自滅する兵まで出る始末であった。
「貴様が王か」
とうとうメロスが王の前まで辿り着いてしまった。
その巨躯は優に二メートルを超える。
全身が鋼のような、否、鋼鉄以上に頑強な筋肉に覆われていた。度重なる粛清と悪政の蔓延った国に残る程度の弱兵では傷ひとつ付けられぬのも道理というものであろう。
その威容を目の当たりにした愚王はただただ歯の根を恐怖で鳴らすばかりである。それでも逃げようとしないのは仮にも王者としての矜持ゆえか?
否、そうではない。
背を向けて逃げようとした瞬間に拳で頭を潰されるか、それとも首を捩じ切られるか。その過程がなんであれ、逃げる素振りを僅かにでも見せた瞬間に己の命が終わるのだと、生物としての本能が伝えてくるのだ。
そも、王が過度の圧制を敷いたのも生来の臆病さが反転したが故。
この状況にあって立ち向かう気概などあるはずもなかった。
「な、何が望みだ。金か、名誉か。そんなモノならいくらでもくれてやる。だから余の命だけは」
「愚かな。このメロスをそのような餌で釣れるとでも思ったか」
メロスの返答は実に簡潔であった。
つまりは巨岩の如き拳による制裁である。
王は判断を誤ったことを後悔する間もなく死ぬはずであった、が。
「まあ待て、メロスよ。すぐに熱くなりすぎるのが貴様の悪い癖だ」
「……セリヌンティウスか。なにゆえ俺の拳を止める。返答次第ではただでは済まぬぞ」
確かな殺意を秘めた拳が王に届くことはなかった。
メロス唯一にして最大の強敵であるセリヌンティウスが、その得意とする柔の技によって拳の向かう方向を逸らしたのである。ちなみに王の代わりに殴られた玉座は塵すら残さず消滅した。
「この王は確かに愚かなのだろう。だが、この男をこの場で始末しても国は救えぬ。まさか政治の分からぬ貴様に代わりが務まるとも思えんしな」
「……ぬぅ、然り」
メロスとしてもセリヌンティウスの忠告には頷くしかない。
メロスには政治が分からぬ。
その圧倒的な力によって愚かな為政者を排除するのは容易いことだが、それで現状以上に国が乱れては本末転倒である。
「故に、王よ。今日は見逃そう。だが一度だけだ。もし今後も悪政が続くようであれば、その命、我ら二人が頂戴しに参る」
「愚かな王よ。セリヌンティウスに感謝するのだな。次はないぞ」
それだけ言い残すと、メロスとセリヌンティウスの二人は返事を待つことなく立ち去るのであった。
「おお……」
王は泣いていた。
命が助かった喜びと、それを遥かに上回る恐怖とで涙を流していた。
その後、王は命惜しさに善政を敷くようになったという。
国は大いに富み、民の笑顔が絶えぬ平和が訪れた。
だが忘れてはならぬ。
努々覚悟せよ。人々が平和を当然のものと驕り、世が再び乱れたならば、必ずや恐るべきメロスが現れて愚行の報いを受けることになることだろう。おしまい。