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8 四月二四日(月曜日)
現実世界にもどると、沙織の部屋を再び訪れた。
『現実世界』……という表現は、正確にはまちがいかもしれない。ゲイザーを使用しているときも、現実にはちがいないのだから。しかしゲイザーを非現実、日常を送る場所を現実、と言い表すことが一番しっくりくるのだ。
玄関から顔を出した沙織の顔は、どこかキョトンとしていた。
「あれ、また来たの?」
「これから、出かけるぞ」
有無を言わさず、沙織を連れ出した。
2006年の春ごろまで、沢村学が茨城に住んでいたことは、ほぼ揺るがない。だが、2007年の春には、この草加市に越してきたのではないだろうか。
氷川町までは、車で十五分ほどだ。
いつものように、地図をメモ帳に記してあった。だんだん、うまくなってきていることを実感していた。かなり参考になるほどの出来になっている。
「いいか、キミとおれは、沢村学の大学時代の親友ということにするぞ、いいな」
「え、え、どうしてなの!? 顔も知らないのに」
さきほどからしきりに沙織が疑問をぶつけてくるが、あまり相手にしなかった。
車から降りると、沢村学が2007年当時に住んでいたと思われる家に向かった。分譲マンションのようだった。部屋番号も、しっかりメモしてある。
インターフォンを押した。すぐに応答があった。
『はい、どちらさまでしょう?』
「あ、ぼくは学くんの親友で、紫月哲平と申します」
『は? 学の……ですか?』
「そうです」
ドアが開いた。出てきたのは、三十歳前後の女性だった。声を聞いたときは母親だと考えたが、それでは年齢が合っていない。
「学くんがお亡くなりになったと最近知りまして……お焼香をあげさせてもらえないかと……」
沢村学が死亡していることは確かなはず……。
賭にも近い言動だったが、勝算はあった。
「はい? なにか、おまちがいじゃありませんか? 学は──弟は、ちゃんと生きておりますが?」
あっさりと、賭に負けた。
「え……そ、そんな」
どうにか弁解をしなければならないが、うまく言葉が出てこない。
「ほら、言ったじゃない! 哲平くんは、からわかれたんだよ」
沙織が、おれの肩を叩いて、明るい声で発言した。
「そ、そうだったんだ……そうだと思ったんですよ、あの沢村が死ぬなんて、おかしいと思ったんだ!」
沙織のフォローに、なんとか合わせた。
女性の表情は、しかし怪訝そうだった。
「あの……本当に、学の友人なんでしょうか?」
「そうです、お姉さん。たしか、まえは水戸の松本町に住んでたんですよね?」
「はい……あの、どうぞ、お上がりになってください」
「い、いいんですか?」
そのつもりで来ておいてなんだが、こんなにも簡単に招き入れられたので、念を押してしまった。
「どうぞ、せっかくいらしたんですから」
「お、おじゃまします」
「いまも、実家は茨城にあります。学が高校二年のときに、父の仕事の都合で、祖父母を残して、ここへ越してきたんです」
通されたリビングで、沢村学の姉がそう語った。まったく疑う気持ちはもっていないようだ。
「その後、父と母だけ、茨城のほうにもどりました。わたしは東京のほうに就職しましたので、そのままここに弟と。いまは結婚して、主人と暮らしています」
テーブルにお茶が運ばれてきた。さきほどは冷や汗をかいたが、本当に歓迎されているようだ。沙織がいるからかもしれない。おれ一人では、もっと警戒されていただろう。
「あれ?」
そこでおれは、あることに気がついていた。
「表札は、沢村になってましたけど……」
「え? ああ、主人の姓も沢村なんです」
そう答えると、彼女は微笑んだ。
もしちがう表札になっていたら、引っ越してしまったと思って、たずねることはしなかっただろう。ある意味、幸運だった。
「学くんは、富士見台のほうで独り暮らしをしてましたよね? そっちのほうに、遊びに行ったことがあります」
嘘を並べて、様子を見ることにした。
「ええ。大学生になってからです」
それから、さぐりさぐり自然な流れで会話を続けた。
「そういえば、あなたのこと、知っているような気がします」
彼女は、沙織に向かってそう言った。
「え?」
「会ってますよね、たぶん?」
「あ、ああ……そうかもしれないですよね」
あきらかにそんな覚えはないようだが、沙織は話を合わせてくれた。
もしかしたら、おれたちをなかへ入れてくれたのも、沙織に見覚えがあったからなのかもしれない。そうでなくては、こんなにあやしい二人組を信用はしないはずだ。
「まだ、日本には帰って来ないんですよね?」
頃合いを見計らって、核心をつくことにした。
沢村学が生きている──にもかかわらず、《ゲイザーシステム》に反応がない。残された可能性は一つしかなかった。
日本国外にいる。
「2012年の七月ごろでしたよね、学くんが海外へ行ったのは?」
「ええ、そうなりますね。もうそんなになるんですね……」
お姉さんは思い出すように、そう応じた。
横に座る沙織が、驚いたような顔をしたのがわかった。
「どこでしたっけ?」
「いまは、どこにいるんでしょう。韓国や台湾、インドネシアから手紙がきたこともありましたけど」
アジア各地を放浪しているということだろうか。すでに犯人が死んでいると思ったときは、寺尾幸子の父親のことを考えると、とても心苦しく絶望感に似た感情を抱いていた。だがどうやら、そんな最悪の事態だけは回避できたようだ。
しかしそれは同時に、この姉にとっては残酷な結果をうむことになる。
おれは、やり切れない気持ちに支配された。
と──、そのとき、電話が音をたてた。
「ちょっとごめんなさい」
そうことわってから、沢村学のお姉さんは、部屋の壁に設置されていた受話器を取った。
「ねえ、なんで海外にいるって、わかったの?」
小声で、沙織が囁きかけてきた。
「まあ、いろいろとね……」
答えにもなっていないことを、答えることしかできなかった。種明かしをしてしまえば、おれは殺されてしまうのだ。
「え!? そ、そんな……」
お姉さんの声のトーンが変化したことで、おれも沙織も、ただごとでない異常事態がおきたことを察知した。二人で顔を見合わせた。
「ど、どこなの!? 北九州!? そ、そんなところで……」
力なく、彼女が受話器をもどした。表情から血の気が失せていた。
「どうしましたか?」
「ま、学が……学が、亡くなったって」
感情までが、欠落しているようだった。
電話は茨城の父親からで、今朝、沢村学が北九州で死亡したという知らせだった。
死因や詳細な場所などは、わからないという。
おれは、かける言葉もみつからず、沙織といっしょに部屋を出た。まだ、沢村学の人相を確認するという目的は果たされていなかったが、それどころではなくなってしまった。
なにかわかったら連絡をお願いします、とだけ伝え、携帯番号を書いたメモを渡してきた。
「なんだか、大変なことになっちゃったね」
「そうだな。でも、会ったことがあるのかもしれないな、キミと」
帰りの車内で、沙織と会話を続けた。
「わたしと?」
「あのお姉さんが、見覚えがあるって」
「それは気のせいだよ、たぶん」