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2 四月十三日(木曜日)
会社では、営業部に所属している。そのため、外回りが多い。関東近郊の住宅街を、たった数人でカバーしなくてはならないのだ。その日も、家々を地道に訪問していく予定だった。
大概の家は、出てもくれない。出てくれたとしても、いい顔をする人は少ない。つまらないうえに、迷惑がられる仕事……転職は何度も考えているが、この不景気の世では、そんな勇気も消えてなくなる。唯一の救いは、営業ノルマが厳しくないことぐらいだ。
それもこれも、詐欺まがいの訪問販売が横行しているからだ。うちの会社は、それに関しては大丈夫だと自信をもっている。浄水器メーカーにも、ガラクタ同然のものを高額で売りつけているところもあるという。うちであつかう製品は、安くはないが、機能からすると妥当な値段だ。社長の人柄もよく、不正をはたらくような会社ではない。
社長いわく、作業着で訪問する業者は、インチキが多いという。すぐ作業に入れるということは、契約者に考えさせる時間をあたえないということだ。だからうちでは、営業はスーツでおこなうことになっている。
今日は午前中から、埼玉県の草加市に来ていた。外回りには、会社の車を使用する。社名ロゴの入ったダサい車から降りると、訪問のために家々をまわっていく。一戸建てが多い地区だった。しかし、わずか行ったところには、十五階ぐらいのマンションもある。
ふと、電柱に眼がいった。そこに記されている町名と番地に心当たりがあった。
マンションをもう一度、視界に入れた。
そうだ、あんな形だった。
けっして意識したわけではないが、来てしまったらしい。
雨宮沙織──初恋の相手……。
学生時代の淡い思い出だ。中学生のとき彼女が転校してきてから、ずっと好きだった。高校、大学もいっしょで、つきあっていた時期もある。大学生のときだ。しかし恋人同士だったのは、ほんの一年半ほどだけ。卒業するころには、友人とも呼べなくなっていた。
最後に会ったのは、いつだっただろうか? もう過去の人だったのに……。
こんな偶然があるのか。そちらに足を運びたい衝動を、どうにか抑えた。住んでいる部屋はわかっている。しかし、いまさら再会したところで、なにがあるというのだ。
邪念を振り払って、最初に訪問することにした家のインターフォンを押した。
すぐに、五十代ぐらいの男性が玄関から出てきた。見覚えのある人物だった。だが、何者かまでは思い出せない。
「はい? どちらさまでしょう?」
平日の昼間なのに在宅しているとなると、リストラでもされたのだろうか。
「こちらのお宅では、水道のお水は──」
浄水器の話をいつもの営業トークで進めていくが、やはり男性のことが気にかかった。表札には『寺尾』と書かれているが、まったく心当たりがなかった。
「どうしましたか?」
トークの途中で急に沈黙してしまったことに、男性が不審をもったようだ。
「どこかで、お会いしたことはありませんか?」
たまらずに、たずねてしまった。
「え、いえ……ないと思いますが……」
浄水器の売り込みを再開したが、熱が入らなかった。結局、やんわりと断られて、その家をあとにした。
それから、何軒まわっただろうか。午後三時を過ぎていた。もうそろそろ切り上げようか、というころになって、ようやくひらめいた。
「あ……」
あれは、どうしただろう?
そうだ!
ジャケットの内ポケットをさぐった。ポロポロとした感触が指に伝わる。あのとき渡されたチラシを入れっぱなしにして、クリーニングに出してしまっていたようだ。
いまのいままで、このポケットを使用することがなかった。
慎重に紙を取り出す。ダメだった。ボロボロで読むことができない。たしか、未解決殺人事件の情報提供を求めるビラだったはずだ。
これを配っていたのが、さきほどの寺尾さんだ。
反射的に寺尾家をめざしていた。最初に訪問した一戸建てにもどってみたが、留守のようだった。
「寺尾さんですか?」
突然、声をかけられた。となりの住宅から、その家の主婦と思われる中年女性が出てきたところだった。
「は、はい……」
「セールスマンの方?」
そうなのだが、知り合いだと嘘をついた。
「この時間はいませんよ。いつも、池袋の駅までビラを配りに行ってますよ。平日でも、休みの日でも」
やはり、あのときの男性が寺尾さんだ。
「気の毒よねぇ。お嬢さんが殺されて、犯人はいまも捕まっていない。奥さんは、その事件のショックもあって、鬱になってしまって……」
「お気の毒ですね……」
なんと言っていいかわからず、そう口にすることしかできなかった。
「仕事もやめて、実家で所有していた山林を売却した資金で、いろいろ活動なさっているようで……」
二、三分、話し込んでから、主婦は買い物に出かけなきゃ、と言ってその場を去っていった。
車で会社に戻り、就業時間が過ぎると、おれは池袋に立ち寄った。主婦の話によれば、寺尾さんは夕方から、遅いときは午後八時ぐらいまで、ずっとビラを配っているそうだ。まだ駅前にいるかもしれない。
池袋東口。人の流れをせき止めようとでもするように、寺尾さんが道行く多くを相手に紙を手渡していく。おれは近づいて、あの日のように受け取った。
さきほど会っているが、むこうは気づいていないようだった。これだけの人込みのなかでは、セールスで訪れただけの男の顔を思い出すことは困難だ。
ビラに書かれていることを、くまなく読んでみた。あのときは適当に眼を通しただけだったが、詳しく読んでみると、事件の詳細なことが脳に入ってくる。
被害者の名前は、寺尾幸子。当時の年齢は二三歳。住んでいたのは、東池袋のアパートだった。職場は、ここからほど近いところにあるレストラン。アルバイトだったが、将来カラーコーディネーターになるため、資格の勉強に日夜励んでいた。
殺害されたのは、六年前──2011年の一月十二日。アパートにいるところを刺殺され、さらに部屋を放火された。寺尾幸子は殺される一ヵ月ほど前に、自分はストーカーにつきまとわれている──と、父親や友人に話をしていたという。
だれか目撃者はいませんか!? どんな些細なことでもいいので、連絡をお願いします! そういう必死な文面が、A4の紙一面を埋めていた。
おれは、なにを考えているのだろう──そう疑問をもった。いけない。深みにはまるな。使ってはいけない。あのシステムのことは、忘れたはずなのに。
知らず、細い路地に入り込んでいた。有名な家電量販店の裏側、線路に面した通りに抜ける。それなりに人の姿はあったが、表通りにくらべれば、あきらかに少ない。
使用したいと思えばいい。ヤコブと名乗った声は、そう言っていた。
思えばいいのか!?
そのとき、どこからともなく、レーザーポインターの微光が額を射抜いた。
〈バン!〉
* * *
意識を取り戻して最初に気になったことは、おれが狙撃されたときの目撃者はどうしているのか、ということだった。いかに麻酔銃とはいえ、銃声も聞こえているし、倒れた人間を見れば、おおごとになるのではないか? 初めての夜は、ほかにだれもいない道だったからいいものの、今日はそういうわけではない。
「おれが撃たれたところを見ていた人は、どうしてるんだ?」
『君が気にすることではない。安心するがいい。こちらでうまく処理している』
声が答えた。
それ以上むこうからは、なにかを伝えるつもりはないらしかった。
こちらが黙っていると、永遠に沈黙が続く。あくまでもこのシステムは、おれだけが使っていくものなのだと実感した。ヤコブは、わからないことがあったときにだけ、補佐をしてくれるのだろう。
「寺尾幸子。2011年一月十二日。当時の年齢は、二三歳。生きていれば、いま二九か三十歳になっていると思う」
こんな感じでいいのだろうか?
『それでは、個人データが大雑把すぎる。同じ名前の人物が複数いる場合には、検索できない』
「その日に、何者かによって殺害されている」
刹那、闇だった空間に地図が映し出された。
しかし、日本列島の大きさから拡大されない。
『時刻は?』
死亡したのがどれぐらいの時間なのか、ビラには記されていなかった。とりあえず、適当に設定するしかなさそうだ。
「午後一時」
ズームアップをはじめた。関東、東京、豊島区、東池袋。一軒のアパートらしき建物が表示された。一階の部屋が点滅している。ここが、寺尾幸子の住まいだったのだろう。
「質問していいか?」
『なんだね?』
「この場所に、ほかにだれかが出入りしていたとか、そういうのはわからないのか?」
人物から場所を特定するのではなく、逆に場所から人物を探り当てることもできるのではないか……おれは思った。
『場所と時刻を指定すれば可能だ。そして最後に《人物不特定》と、つけたすのだ』
「場所は、このアパートの部屋。時刻は、午後一時から……そうだな、午後七時まで。人物不特定」
ビジョンの左上部に、時間を示すタイマーが表示された。十三時から早送りで進んでいく。その時刻以外、画面に変化はなかったが、十六時二十分のところで、部屋のなかの丸い点が二つになった。べつのだれかが入室したようだ。
十七時──正確には十七時二分に、その点は消えた。
「ストップ!」
タイマーが止まった。
「この侵入者が、だれなのかを知る方法はないのか?」
『人物データ参照』
ヤコブの声で、画面に数字の羅列が映し出された。何桁あるのだろう。数えるのも面倒なほど並んでいる。
『個人データを数字化したものだよ』
「名前は?」
『それは、わからない』
「どうして?」
まさか個人情報保護の観点から、などとモラル的なことを言い出すつもりだろうか?
『残念だが、神のごときシステムにも欠点はあるものだよ。わかるのは、個人を識別できる数字化したデータだけなのだよ』
「でも、名前から居場所を特定できるんだから、人物の名前や年齢は、データに入っているはずだ」
おれは至極真っ当なこと言っている──そう思った。すぐに、この非現実なシステムを自身のなかですでに消化してしまっていることに、軽い驚きもおぼえた。
『無論、そのとおりだ。あらゆる個人情報に関することが数字には込められている。だが、そのデータを文字として翻訳することができない。設計上、そういう機能がないのだよ。欠陥と言われても、否定はできない』
それはつまり、このシステム──もっといえば、それを使える立場にいるおれも、けっして万能ではないことを思い知らされた。
『しかし調べる方法は、いくらでもある』
「それは?」
『私は、補佐をするだけだよ。それを答えることは、その範疇を超えている』
ならば自分で考えろ、ということか。
「この数字の人物は、いまどこにいる?」
画面が反応した。
日本、関東、埼玉、草加市。マンションの一室が拡大されていた。見覚えがあった。
「雨宮沙織、二七歳……」
いや、もう新年度をむかえている。彼女の誕生日は、いつだったか。
「とにかく、今年で二八歳になる。紫月哲平の元恋人」
やはり、同じところが映し出されている。
寺尾幸子の死亡した日に、幸子の家を訪れていたのは、沙織だ。
それは、どういうことなのか?
寺尾幸子を殺したのが、雨宮沙織だということだ。いや、その可能性が高いということ……そんなことがあるだろうか。
あの沙織が、殺人を!?




