左フックオタク
こんな事を訊いたら何か言われるんだろうか?
そう思いながらも、康平が質問した。
「先生、左フックを当てるイメージが分からないんですが、どうやって当てられるんですか?」
梅田は意外にも再びニヤリとして答えた。
「今話す事は、あくまで、一つのパターンとして聞けよ。相手が右パンチを打って泳いだ時だ」
彼はそう言いながら、右ストレートを打ってオーバーに泳いだ格好をした。前のめりになり、伸ばした右の拳は下に落ちている。右顔面は、当然ガラ空きになっていた。今左フックを打ったら当たりそうだ。
「……ストレートを軽く打ちながら、この場面を待つんですか?」
康平が質問すると、梅田は少し苦笑した。
「試合をする奴は毎日練習してるから、待ってるだけだったら、そんな素人みたいなパンチは打たないだろ」
康平はバランス、軸、最近はパンチの引きも毎日うるさく言われながら練習している。こんなパンチを打ったら大目玉だ。相手も打たないだろう。こんな場面はあるんだろうか?
康平は、頭の中が少し混乱していた。
梅田は話を続けた。
「待つんじゃなくて、誘って打たせるんだよ……前に右へダッキングはするなと言った事は憶えているか?」
「……はい」
「理由は?」
「……確か、相手は強い右パンチを打ち易いからでした」
「そうだ。だがな、あえて右へ小さくダッキングして、ピタッと動きを止める。すると、右の強いパンチを当てたいと思っている相手だったら、釣られて思い切り右を打ってくる……可能性はある」
「……可能性ですか」
「絶対は無いからな。……ただ、自分の左下に右を思い切り打った時は、体が流れ易くなる。……試してみろ」
康平は、左下に右ストレートを打つ。確かに、思い切り打ったら体が流れそうだ。
梅田が更に話を続けた。
「ある程度戦える奴は、パンチを打とうと思ってパンチを打つ時、ディフェンスを意識しながらパンチ打つ。だが、相手に釣られて咄嗟に打ったパンチは、無防備に打ってくる場合が多い。だから泳いでしまう可能性はある」
「……何となく分かります」
「そこを、左にウィービング(くぐるような防御)と位置を変えながら左フックを振るんだ」
「じゃあ、これからそれを練習するんですか?」
「まだ、パターンの一つだと言っただろ。確かに高田は、まだまだ左へのウィービングも遅いし、スパーで足の動きがまだ少な過ぎる」
「……はい」
少し俯く康平を見て、梅田は表情を変えずに話を続けた。
「もっと色々考えて、相手を泳がせる可能性を増やすんだ。……他にも、バックステップでギリギリの距離で避け続けた時は、相手が泳いでしまう可能性はある」
「……! そうなんですか?」
「目を閉じて、自分より背が高くてリーチも長い相手と戦う場面を想像してみろ」
康平は目を瞑り、長身の相手をイメージする。たまに森谷とスパーリングをするので、容易にイメージ出来た。直接森谷とのスパーリングを思い出す。
森谷は背が高く顔が遠い位置にあり、懐が深い。森谷は階級が上な事もあり、手加減してパンチを軽く打ってくれる。
だが、強引に距離を詰めようとすると、軽く左フックのカウンターを合わせてくる。
軽く打つと言っても、カウンターは怖い。踏み込みが中途半端になる。足が付いていかないのに、何とかパンチを届かせようと前のめりになり、体が泳いでしまった時が多い。悪いイメージしか思い出せない。
康平は、目を閉じながら頭を抱えた。
「……どうした高田」梅田が怪訝な顔をした。
「森谷先輩とのスパーをイメージしたら、駄目だった場面だけを思い出してしまって……」
梅田が苦笑しながら訊いた。
「気持ちは分かるが、パンチが届かないと泳ぎ易いのは分かるか?」
「……はい。……でも、もっと練習して足が付いていって、コンビネーションも打てれば、体も流れないんじゃないかと思います」
「……それは間違っていないが、まずはどうやったら相手が泳ぎ易いか。そこだけに集中して頭を働かせろ。頭の中では、可能性を広げられるだけ広げるんだよ。高田も考えてみろ」
康平は色々考えたが、何も思いつかなかった。その旨を梅田に伝えた。
梅田が言った。
「急に言われても、普段考えてないだろうから、思い付かんのは仕方ない。……俺も、泳がせるのは、あと一つ位しか思い付かん」
「……そうなんですか。……その一つはどんな事をして泳がせるんですか?」
「逆に訊くが、高田は相手の右パンチを何処を使ってブロックするんだ?」
「左腕や手の甲の方で、ブロックします」
「まぁ、そう教えたからな。左の掌の方でブロックするとどうなる? 想像してみろ」
「……すみません。先生、あまり想像出来ないです」
「相手の右パンチを真正面から受け止めるんじゃなくて、斜めに受け止めて、下に滑らせるイメージだ」
「……それは、パリー(相手のパンチを払うディフェンス)するって事ですか?」
「パリーは有効な防御だが、うちではやらない方針だ。……微妙な違いだが、払うんじゃなくて、下向きに抑える感じだ」
「……何となくですが、パンチが下に落ちて、少しだけ泳ぐような気がします」
「そうだ。確率は少ないが、少しだけ泳ぐ可能性はある」
「……先生、質問があるんですけど、いいですか?」
「どんな事でもいいから言ってみろ」質問される梅田は嬉しそうだ。
「先生が最初に右パンチを打って泳いだ格好をしてくれましたが、あれは僕にも分かり易くオーバーにやってくれたと思うんです。……でも実際、相手はそんなに大きく泳がないと思います。相手の小さな隙でも、左フックを当てられるようになるんですか?」
「泳がせた相手を狙う左フックは、一種のカウンターだからな。長い目で見て反復練習を重ねれば打てる……とは思う。今日、常に左フックを打てるバランスを意識させたのは、その為の第一歩だ。それが出来るようになれば、相手が右を強振してきたり、当てようと思って右を打ってきた時も、左フックを当てられるようになるかも知れん」
康平は、黙って聞いていた。梅田はニヤリとしながら話を続けた。
「……だが、左フックを当てる為の工夫はそれだけじゃないのは言ったよな?」
「はい」
「相手の右ガードを前の方に誘導させて、左フックを狙う方法もある」
「そんな事出来るんですか?」
「相手がある事だから絶対ではないが、これはボクシングの幅も広がるから、やった方がいいな」
「どんな事をするんですか?」
「相手の右ガードに左ジャブを打つんだよ。細かく言えば、相手の右ガードの少し内側に強めの左ジャブだ。相手は高田の左ジャブを、右ガードを前に出して防ごうとする確率が高くなる。その前に、相手の顔面に強い左ジャブが何発かヒットしてたら、効果は大きい」
康平は、興味津々だった。確かに相手の右ガードが前にあれば、横からの左フックが当たり易い。スパーリングでは、顔かボディだけを狙っていた。相手のガードを狙って打つ考え方は、康平にとって新鮮な発想だった。
梅田が更に話す。
「相手の右ガードを前に出させる事だけを考えるんだったら、相手の右顔面を狙って右ストレートを打つ方法もある」
「それだったら、直接相手の顎に右ストレ……、左相手の右ガードを前に出させる為だけを考えるんでしたね」
「そうだ。相手の右ストレートをブロックする格好をしてみろ」
康平は左ガードを上げた。パンチの衝撃でバランスを崩されないように、重心を少し落とす。彼は顔面の左側はしっかり防ぐが、右側のテンプル辺りが空いているのを自覚した。
「先生、ブロックしようとすると、右ガードを前に出さないと防げないです」
「まぁ、これも相手の右ガードを前に出させる可能性がある方法の一つだ。……効率や可能性は別としてだがな。……他に何があるか考えてみろ」
康平は考えてみた。相手の右ガードを前に出させる事は、相手を泳がせる事よりも思い付きそうだ。
少し前に、相沢とのスパーリングで右ストレートを打たれた事を思い出した。相沢は康平の右側に飛び込みながら左フックを打ち出したが、それはフェイントだった。康平が左フックを防ごうと、右ガードを右側に寄せた時、左フックはピタッと止まり、ガードの間から右ストレートを当てられていた。
「……相手がオーソドックス(右構え)だったら、相手の右側に踏み込んで、右ストレートを打つのがいいと思います」
梅田が再びニヤリとした。
「それはあるな。……他には無いか?」
康平は、梅田の顔を見て、まだありそうな気はしていたが、思い付かないようだ。
梅田が助け舟を出す。
「いつも相手の顔面の右側に打っているパンチがあるだろう。……スパーではまだ見てないがな」
「……左アッパーですか?」
「そうだ。……左アッパーもこれから打ち慣れていく事だな」
梅田と話をしている最中、練習を終えた部員は各々帰っていく。永山高校のボクシング部は、全員が一斉に練習をしていくスタイルではない。それぞれがウォーミングアップをして、個々に練習を進めていくスタイルだ。
同級生で、少し待てば一緒に帰れる場合は、ストレッチの時間を長めにして練習の終わる時間を合わせる時も多い。
だが、康平と梅田の話が長くなりそうな雰囲気もあって、有馬と白鳥は先に帰った。健太とはよく一緒に帰るが、今日は用事があるようで、彼も先に帰っていった。
康平は更に訊きたくなった。
「先生、相手の右ガードを前に出させたとして、左フックは見え易いので、すぐに右ガードで防がれるんじゃないですか?」
「そういうのもある。だがそれは、構えている所から、何もしないで、いきなり左フックを打った場合だ。だから、色々動作を加えてのカモフラージュや、他のパンチと組み立てて打つのが必要なんだよ」
「……何となく分かります。……これから練習で、少しずつ身に付けていくんですね」
梅田は人の悪い笑顔になった。
「そういう事だ。……まぁ、具体的な事を一つ位言わないと、やる気も起きんだろ?」
「あ、いや……、でも教えて貰えると嬉しいです」
「さっき、右ストレートで相手の右ガードを前に出させる事を言ったよな?」
「はい」
「言い方を変えれば、自分の右ストレートで相手の右手を防御に使わせる事になる」
「……そうですね」
「相手が自分の右ストレートを何回か右ガードで防ぐようになった時は、相手は自分の右ストレートを、反射的に右手を前に出して防ぐ可能性がある」
「はい」
「それでだ。右ストレートからの速い返しの左フックや、これから教える事だが、右ストレートのフェイントからの左フックが当たる可能性が高くなる。要は、あるパンチを相手に印象付けたら、そのパンチを餌に別のパンチを当てるんだよ。……野球の配球に例えれば、インハイの速球でバッターを仰け反らせた後、外へ逃げるスライダーで泳がせてゲッツーを取るみたいなもんだ」
野球の事をあまり詳しくない康平は、例え話について意味不明だったが、梅田の言いたい事は何となく理解したようだ。ただ、また疑問が湧いてきた。
「先生、今のパターンで左フックを当てるイメージは出来そうですが、そんな簡単にうまくいくんでしょうか?」
「今のままでは、うまくいかん。相手はフットワークとボディーワークを使いながら、パンチも打ってくる。今の高田の状態で通用するのは、ブロックだけに頼って防御する奴だけだ。もっと基礎的な総合力を上げないとな」
「……はい」
「今日から足をもっと使えるように足踏みをさせたり、五、六分目のストレートを打たせたが、その為の第一歩だ。総合力が上がれば、閃きで、打てる瞬間があるかも知れんから、粘り強く練習に取り組んでいく事だ」
「……閃き……ですか?」
「理由は無いのに、何となく当たりそうだと思える瞬間が閃きだ。常にパンチを打てるバランスで動けるようになっていれば、その瞬間にパンチを出せる事になる。常に左フックを打てるバランスを意識させたのは、その為だ」
「先生、……それって誰でも閃くものなんですか?」
「……まぁ、閃く奴もいれば、全く閃かない奴もいる」
「僕は悲しい位に閃かないんですよね。……でもスパー中に、『これは先生に怒られるな』って感じる時があって、その直後にやっぱり怒られる。パンチの閃きも怒られる時の嗅覚も、実戦を重ねる事で研ぎ澄まされるって事さ」
横から話に加わったのは、最後に練習を終えた相沢だった。
「テメェは閃かないんだったら、スパー中も自分でしっかり組み立てるんだよ。組み立て材料は沢山あるんだからな」
梅田は口調こそ激しいものの、怒ってはいないようだ。
飯島も話に加わった。
「そうそう、相沢みたいにセンスなし、運動神経なし、閃きもない奴でも頑張れば戦えるようになるんだから、高田も練習だけは相沢を見習っていくんだぞ」
康平は反応に困って、下を向いた。
「飯島先生、貶しながらのグレーな褒め方、やめて下さいよ。高田が困ってるじゃないですか」
相沢はそう言った後、「練習有難うございました」と大声で挨拶をして練習場を出ていった。
苦笑していた梅田だったが、康平に顔を向けた。
「相沢みたいに全く閃かない奴も稀にいるが、それでも戦い方はあるんだ。相沢は出来なかったが、『ヤの付く左フック』や『勝っちゃったパンチ』も後々教える予定だからな」
梅田は強面で気が短い。康平は梅田がそんなフザケたネーミングの技を出すとは思わなかった。
「……先生、『ヤの付く左フック』って、危ない仕事に関係しているんですか?」
康平の質問に、梅田は人の悪い笑顔で答えた。
「安心しろ。お前が思っているようなものとは関係無いからな。……これは、総合力が上がってから、後に教えていく予定だ」
飯島も加わった。
「梅田先生は左フックオタクだからな。左フックを語らせたら、明日の朝まで終わらないぞ」
「い、飯島先生、そんな事言っていいんですか?」
「梅田先生本人が言ってるんだから、問題無いんだよ。高田は、左フックオタクの梅田先生にロックオンされたんだから、梅田先生を信じて頑張ってみろ」
「はい」
梅田が最後に言った。
「最終的にはボクシングという競技をするんだが、当面は強い左フック、左アッパーを当てるゲームをする感覚で練習に取り組むんだな」




