オーダーメイド①
翌日で期末テストは終了した。
康平が部活に行くと、梅田はいなかった。康平が飯島に話を訊くと、梅田は数学のテストの採点と、赤点になった者への補習の準備等で忙しく、今日は部活に来れないという事だった。
梅田に教わっている部員は、彼がいない時でスパーリングが無い日は、シャドーボクシングやサンドバッグ打ち、形式練習(相手に特定のパンチを打たせて返し技の練習)が練習メニューとなる。
この日は全員が揃い、一斉に練習となった。
シャドーボクシングを終えた康平と有馬が形式練習をしようとした時、飯島が言った。
「梅田先生から伝言があってな。有馬と高田は形式練習無しだ。有馬は左ジャブ、高田は左フックを強く打つのを意識して、サンドバッグ十ラウンドだ」
昨日、梅田と飯島から自分達のプランがある事を聞いていた二人は、返事をしてすぐに取り掛かった。
ラウンドの最中、飯島が言った。
「有馬の左ジャブと高田の左フックは、他のパンチを混ぜながらでいいんだからな」
最近の練習は、一月下旬に行われる地方大会に出場する相沢と大崎が優先して行われている。相沢は、十ラウンドのシャドーボクシングの後、森谷と組んで形式練習を行っていた。大崎は、五ラウンドのシャドーボクシングの後に、飯島と五ラウンドのミット打ちを行った。飯島が担当する健太と白鳥のミット打ちはその後になった。
最初は健太のミット打ちになった。
ラウンド開始のブザーが鳴った。康平はミット打ちが気になり、パンチが散発的になった。
「高田、サンドバッグに集中しろ……いや、ミットが気になるんだったら、シャドーをしながら見てろ」
飯島は、苦笑しながら康平に言った。
康平はシャドーボクシングをしながら健太のミット打ちを見ていたが、飯島はミットを下に向けたまま、なかなかパンチを打たせない。
「片桐、もっと視線を下に向けろ。自分の前足の先が視界に入るまで視線を下げるんだ」
ラウンドの最中にも拘らず、健太が質問した。
「先生、上の方がボンヤリと見える感じで怖いんですけど」
飯島がわざとらしい独り言をいった。
「片桐が、楽して戦えるこの癖を身に付けないなんて、俺は悲しいなぁ」
「え、そうなんですか?」
飯島はニヤリとした。
「食い付いてきたな。……お前は踏み込みがいいからな。相手との距離を、自分の前足と相手の前足で測るんだよ」
「……言っている意味は、大体分かります。……ただ、そんな正確に測れるんですか?」
「ん~、まぁ大体は測れるぞ。話はズレるが、よく世界戦で、サウスポーとオーソドックスが戦う時、相手の外側に前足があるといいって聞くだろ?」
「……はい。利き腕のパンチが内側から当て易いような事はよく言ってました」
「おっ、分かってるな。……自分の前足が視界に入っていれば、前足の位置取りで優位に立ち易いんだよ」
「……はい。何となく分かります」
「ん~。まだやる気のボルテージが上がってないなぁ。……お前達は、何処からパンチを打つと習った?」
「……足です」
「そうだ。……まぁ、殆んどの選手は足からパンチを打つ。今までみたいに、上半身だけを見てたら分かりにくかった相手のパンチが、足まで視界に入れると分かるという話さ」
「……でも、上がボンヤリとしか見えていないと、ダッキングやブロックするのが怖いです」
「慣れないうちは、バックステップだけでいいんだよ。……言い忘れてたが、自分の前足を視界に入れるのは、ロングレンジ……つまり、踏み込まなければ当たらない距離での話だ。相手と近くなったら、いつも通りでいいぞ」
「……それだったら、出来そうな気がします」
「そうか。今日はロングレンジからのストレートだけのミット打ちだ。パンチは軽めでいいからな」
健太は「はい」と返事をしたが、取り敢えずやってみるといった感じで、ミット打ちを始めた。
最初こそ戸惑っていた健太だったが、慣れてくるとテンポ良く左右のストレートを打っていった。
次のラウンドの始まる前、飯島が健太に言った。
「俺の下半身の動きに反応しろよ。自分の前足が視界にあれば反応出来るぞ」
飯島はミットを下に向けた状態で、小さく腰を落とすと、気付いた健太が小さくバックステップをした。
「片桐、バックステップはもっと大きくだ。スパーだと萎縮する分、ミットの時は出来る限り大きくだぞ」
健太が頷いた。
数秒後、下向きだった飯島の両手のミットが垂直になった。
健太がワンツーストレートを放つと、ワンの右ジャブは当たったが、ツーの左ストレートはミットの端に当たった。
「パンチは気にするな。今は自分の視線を意識するだけでいいんだ」
飯島はそう言いながら、小さくステップインすると、健太は大きくバックステップをした。
「いいぞ片桐。お前にとって、大きなバックステップは後々武器になるからな」
梅田と同様に、飯島も褒める時は声が大きい。
健太の視線を意識したミット打ちは、四ラウンドで終わった。
次は白鳥のミット打ちになった。すると、飯島は大きなボディープロテクターを付けていた。そして、両手にハメているのはミットではなく、なぜか古い十六オンスのグローブだった。
白鳥とスパーリングをしている有馬は、ミット打ちが気になったようで、サンドバッグに打つパンチの数が減った。
「有馬は、もう一ラウンドでサンドバッグ打ちが終わるんだから、そっちに集中してろ」
飯島に言われた有馬は、返事をして左の強いジャブをサンドバッグに打ち出した。
「今日の白鳥は、接近戦の練習だ。一つずつパターンを覚えるぞ。……まずは俺が見本を見せるから、白鳥はロープ際でガードを固めていろ」
飯島は、白鳥をロープに詰めた位置で話を続けた。
「今回はロープ際でしか使えないパターンだが、相手がガッチリガードをしてた時だ。水平にした左の前腕を、相手の両ガードに押し込んで、相手がパンチを打てなくさせるんだ」
飯島が見本を見せた後、彼は白鳥と位置を入れ替わった。
「白鳥、左手の高さは目の高さだ。それと、この体勢になったら、すぐに攻撃に移るんだぞ」
「ど、どうしてですか?」
「今のお前は左腕だけで相手の両腕を潰しているから、凄く有利な状態だ。これも長くやると、相手が気付いて無理矢理パンチを打とうとしてくるから、相手がもがく前に攻撃してしまえって事さ。……ん、どうした白鳥?」
「お、押すと、プッシング(相手を押す反則)や他の反則を取られないんですか?」
「勘違いするなよ。前腕で相手の胴体を押すのは反則だが、ガードだったら大丈夫だ。プッシングも、相手がバランスを崩すまで押さなければ、反則にならないから安心しろ」
「は、はい」
「じゃあ、攻撃に移るんだが、最初は右アッパーをガードに打つんだ」
「……ガ、ガードに打つんですか?」
「そうだ。このアッパーはフェイクで、狙いは次の左ボディーだ」
白鳥が右アッパーから左ボディーブローを打ち込んだ。
「右アッパーは、もっと引きを意識しろよ。それと、ボディーを打った後はすぐに位置を変えるんだ。今回は身体を沈めながら右へ動くぞ」
飯島はそう言いながら、左フックをユックリと放つ。白鳥はそれを潜って右へ位置を変えた。
「特にオーソドックスを相手にする時だが、俺の左フックを潜った後、すぐに頭を上げるなよ」
「……あ、相手から、み、右を打たれ易いからですか?」
「分かってるじゃないか。だから低い姿勢の所から追撃するんだが……。今回はやめておくぞ。今日は、左腕でガードを押し込む体勢から右アッパーから左ボディーまで反復するぞ」
飯島は話を続けた。
「左腕で押し込むまでが大変だからな。この体勢を作るのはこのパンチだ」
彼は説明しながら、寸止めで白鳥の胸に左ジャブを放った。
「む、胸に打つんですか?」白鳥は首を傾げた。
「そうだ。胸だと相手に当たり易いからな。……それと、カウンターが来てもいいように、左肩上げて打って、自分の顔を守るんだぞ。パンチは引きよりも重さを意識して相手の体勢を崩すんだよ」
「……お、押すパンチと考えていいんですか?」
「……押すパンチじゃないぞ。押すパンチを意識して打つと、不自然になってそれこそプッシングを取られる可能性があるからな。体ごと叩き付ける感じなんだが、……細かく言えば、踏み込む左足が着地する前に、左ジャブを伸ばし切る感じだ」
ボディープロテクターを付けている飯島の胸に、白鳥は左のパンチを打ち続けた。ラウンド終了のブザーが鳴って飯島が言った。
「段々いい感じになったな。次のラウンドからは、左パンチを打った後の形作りだ」
ラウンド開始のブザーが鳴り、飯島が話し始めた。
「さっきの左パンチは、相手がロープ際にいる時に打つんだ。このパンチで相手のバランスを崩して、左腕を前に出す体勢を作る。……イメージは大丈夫か?」
「は、はい」
「じゃあ、俺がロープ際にいるからやってみるぞ」
飯島は、ガードを固めてロープ際に立った。白鳥は戸惑っていた。
「どうした白鳥? 相手がロープ際にいる時はあまりないんだから、躊躇しないでパンチで押し込むんだ」
「せ、先生のガードが邪魔で胸に当てられないです」
「……俺の言い方が悪かったな。パンチの高さが胸の辺りと言いたかったんだ。ガードの上からでもいいから、左パンチを打って距離を詰めてあの体勢を作ればいいんだよ」
「分かりました」
白鳥がガードにパンチを打った後、曲げた左前腕を水平にして、飯島のガードを押さえる。
「ちょっと能率が悪いなぁ。白鳥はパンチを打った後、構えてる所まで引いてからあの体勢を作っただろ? パンチを突き出した後は、左は引くんじゃなくて、ダイレクトにあの体勢を作るようにすると効率がいいぞ」
飯島が見本を見せると、白鳥は理解したようである。
左のパンチを胸の高さに打って飛び込み、水平にした左前腕で飯島の両腕のガードを押さえた直後、軽い右アッパーから強い左のボディーブローを打って、身体を沈めながら右へ位置を変える。この一連の動作だけを三ラウンド繰り返した。
ラウンド終了のブザーが鳴った瞬間、飯島がチラッと有馬を見ると、彼は立ったままミット打ちを見ていた。飯島の視線に気付いた有馬は、慌てて左ジャブを打ち始めた。
飯島が小さく笑った。
「おいおい、今から休憩だぞ」
「あ、ヤベ」
「……高田もそうだが、スパー相手が何を覚えようとしているか気になるのは分かる。スパーで打たれるかも知れないからな。……ただ、今のお前等は自分磨きが一番大事なんだ。実戦で使える技や感覚を、少しでも身に付ける事に集中するんだぞ」
「……分かりました」有馬は小さな声で返事をした。
飯島は苦笑した。
「……まぁ、打たれなくないのは分かるから、観察するんだったら、俺や梅田先生にバレないようにする事だ」
「はい、そっちも頑張ります」有馬の声が大きい。
「……何か心配になってきたぞ。あくまで大事なのは、自分の向上なんだからな」
飯島は、慌てて付け加えた。