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新しいパンチ


 夏休み二日目の午後三時。今この瞬間、学校の敷地の中で活気があるのはボクシング場だけであった。


 午前中に他の部は練習を終わらせているから、当然と言えば当然である。



 今まで一年生だけが練習する時は、二人の先生の内、片方だけだったのだが、昨日から梅田と飯島が揃っていた。


 一年生達は、この日の練習もキツくなるだろうと思っていた。練習前の更衣室では、四人共少し暗い表情だ。


 更衣室は、練習場の向かいの部室である。そこでは練習が終わった先輩達と、これから練習を始める一年生達がそれぞれ着替えているので大混雑だ。



 一年生達を見て三年の兵藤が言った。


「お前ら、クレェ顔してんなぁ」


「……はい。今日も先生が二人いるので、中身の濃い有意義な練習になりそうな気がしますんで」

 健太が答えた。


「ハハハ。確かにそうかもな。……けど俺が一年の時、この時期から部活が面白くなってきたぞ」


 主将石山も話に加わった。

「そうそう、俺も夏休み前までは、ここをいつ辞めてやろうかって毎日思ってたけどな」


 兵藤が二年生に訊いた。

「お前らもそうだっけ?」


「はい。うちらも夏休み前までは辛かったッス」

 最初に相沢が答えた。


 続いて大崎が笑いながら言った。

「コイツなんか、毎日退部届けを持ってたんスよ」


 コイツと言われた森谷は、苦笑いしながら話す。

「ルッセーよ。……でも夏休みの練習が始まったら、退部届けは何処にあるか分からなくなったんですけどね」


 着替えを止めて話を聞いている一年生達に、石山が言った。


「そろそろ梅ッチが沸騰してくるから、お前ら早く着替えろよ」


 先輩達は一年生が着替え易いように、全員壁際に位置を移していた。


 ボクシング部の先輩達はみんな優しいし面白い。その点は一年生全員が思っていた。



 先輩達の半分、否三分の一の優しさが梅田にあれば、もう少し民主主義的な部活になっていたであろう。


 だが、それで選手が強くなるかは別の問題である。



 康平達が着替えを終えて練習場に入ると、民主主義の心を忘れた梅田が竹刀を片手にウロウロしていた。


 沸騰(怒り)の一歩手前だったようだ。流石は石山である。梅田に怒られたキャリアはダテではない。



 梅田は一年生達に言った。


「お前ら、今日から新しいパンチの習得に入るから覚悟しておけ!」


 先生は話を続けた。


「今日はロープ(縄跳び)は無しだ。まずはシャドーを四ラウンドやれ」



 一年生達はラウンド開始のブザーと同時に、シャドーボクシングを始めた。


 そのシャドーボクシングなのだが、最近は最初から自由に動いていい事になっていた。


 足の動きやパンチ、ブロッキングを組み合わせてそれぞれ動く。


 梅田と飯島は、あまりスピードをうるさく言わないが、腰を反る事とパンチを打つ際に肩を回す事はしきりに強調していた。



 一年生がシャドーボクシングをしている間、梅田と飯島は先輩達の指導の後だったせいか、一息入れる感じで談笑している。



 四ラウンドのシャドーボクシングが終わった時、再び梅田が口を開いた。


「お前らはまだ完全ではないが、六対四のバランスとパンチを打つ軸は少し固まってきた感じだ。……そこで、今日から前の手で打つフックを教える。フックは簡単に言えば横殴りのパンチだ。サウスポー片桐は右フック、他の三人は左フックだ。全員鏡の前に並べ!」



 四人は、全身が映る大きな鏡の前に並んだ。



 梅田が言った。

「そこでストレートを打った時のポーズを作れ」


 サウスポーの健太は左ストレート、康平達は右ストレートを伸ばす。


「お前ら、その体勢のままで腕だけ戻せ」

 四人は上半身を捻った構えになっていた。


 飯島が説明した。

「大雑把だが、これがフックを打つ前の溜めだ」


 梅田は、一年生達の後ろをユックリと歩きながら言った。

「そこから前の手でフックを打つんだが、まだ打つなよ! 手はそのままで、曲がっている前足の膝を少し伸ばしてみろ」


 康平達が言われた通りに膝を伸ばすと、捻った上半身が元に戻っていく。


 飯島は、真横からしゃがんで四人を見ていた。その飯島が言った。


「フックの溜めを作った時、もっと腰を反って後ろ足を伸ばしてみろ」


 一年生達が指摘された事を意識してもう一度繰り返すと、四人の上半身は更に勢いよくに戻っていった。


 梅田が説明した。

「前の手で打つフック……面倒臭ぇから、今後前の手で打つフックは単にフックと呼ぶからな。うちの学校のフックは、捻りじゃなく前の膝を使って打つ。分かったな」


 その時健太が質問をした。

「先生、捻りで打つ方が強く打てそうな気がするするんですけど……」


 梅田は、怒った様子ではなかったが説明を拒否した。

「今説明すると長くなるから説明は後だ。今は黙って従え」


「……分かりました」健太はしぶしぶ返事をした。


 再び梅田が話す。

「どこを使って打つかは理解できたようだから、次は実際に打ってみるぞ。溜めを作った時、フックを打つ方の手は、鏡で自分を見て肩の内側にあるのを確認しろ」


 全員、鏡を見ながら手の位置を修正した。



「拳は縦のまま、前の膝を伸ばしながら、少し下から上へ斜め前に突き出せ」


 個人差はあるが、全員梅田から言われたように打った。



 更に梅田は話を続けた。

「打った後だが、これが結構重要だ。パンチを打った方の肩で自分の顎を隠せ。顔は顎を引いて真っ直ぐ前を向く。パンチを打たない方の腕は体から離さずしっかりガードする」


 四人は、鏡を見ながら形を作っていった。


「力んでもいいから、無理してでも形を作るんだぞ」

 しゃがんだ姿勢で飯島がアドバイスをした。


 飯島を見て頷いた梅田が、一年生達に指示を出した。


「大まかな打ち方はこんな感じだ。後は打たせながら細かい所を教えるから、フックだけのシャドー五ラウンドやれ」



 ブザーが鳴り、シャドーボクシングが始まった。


 しゃがんだ姿勢に疲れたのか、飯島は一年生達の後ろにある椅子へ座り直して話す。


「今はパンチのスピードを意識するな。この時間はとにかく形を意識しろ」


 梅田も、飯島の隣に椅子を持ってきて座った。そして四人に言った。


「ゆっくりでいいから、前足の太ももで持ち上げるような感覚で打つんだ」



 鏡の前でフックを繰り返す一年生達に、二人の先生は名指しでアドバイスをする。


「有馬、拳は縦だぞ。そして下から上に突き上げるように打て」


「高田、打つ時のガードをもっと絞れ。溜めを作った時のバランスは六・四ではなく、前七後ろ三だ」


「白鳥、お前に左足を曲げるように言ってたのはこのパンチの為だ。もっと意識しろ」


「片桐、溜めを作った時の前足の向きはもっと左側だぞ。お前の悪いクセだった所だ。この機会に直せ」


 二人のアドバイスを受けながら、一年生達はひたすらフックを繰り返していく。



 五ラウンドが過ぎ、サンドバッグ打ちかと思っていた康平達だったが、練習はここで一時中断した。


「さっき片桐がした質問に、今答えるぞ。体の捻りで打つのが悪いとは言わないが、捻りで打つ場合はどうしても足が踏ん張ってしまう。すると動く相手には打ちにくい。その点、今教えた打ち方はすぐに打ち易い。分かったか?」


 梅田の説明に、健太は納得したようである。



「他に質問したい奴は、今の内ドンドン吐き出せよ」


 飯島がそう言うと、康平が質問をした。


「フックを打つ時、ガードを絞ると凄く窮屈なんですが……」


 この質問に飯島が答えた。


「結論から言うと、窮屈でも我慢しろ。……理由はこうだ。オーソドックス(右構え)同士の戦いの場合に、左フックは相討ちになり易い。口で言ってもイメージが湧かないと思うから、チョット実演する。高田、こっちに来い」


 康平が前に出ると飯島が言った。


「お前、右ストレートをゆっくり打ってみろ」



 康平が言われた通りに、右ストレートを打つ。


 すると飯島は、康平の右側に頭をずらして避けた。


「お前はそこで、左フックをゆっくり返せ」


 康平が左フックを打つと、右ストレートを避けた飯島が同時に左フックを打っていた。


 打ちながら康平は理解したようである。



「これは一つの例だが、他にも相打ちのケースはあるから、打ちにくくても相手のパンチをもらわない為だ。我慢してガードを絞れよ」



 質問は続いた。今度は有馬だ。


「拳は縦拳ですよね。……捻って横拳にした方が強く打てそうな気がするんですが……」



 梅田が答えた。

「有馬、力コブを作ってみろ」


「あ……はい」


 有馬が力コブを作る。


「これが縦拳でフックを打った時の腕の状態だ。腕はそのままで拳を内側に捻ってみろ。すると力コブはどうなる?」


 有馬は、梅田から言われた通りの動作をして言った。


「力コブがヘコミます」


「それが拳を水平にして捻ってフックを打った時の腕の状態だ。縦拳で打つ方が力は入るんだよ」


「……分かりました」


 納得していないような表情の有馬に、梅田は怒らずに言った。


「他にも力が逃げない理由はあるんだが、それは打っていくうちに分かる事だ。次はサンドバッグ打ちだ。さっさとグローブを付けろ!」



 練習場の中には四つのサンドバッグがあり、グローブを嵌めた一年生達はそれぞれ打つ体勢になった。


 ブザーが鳴る前、梅田が言った。


「最初のラウンドは触る感じでいいから、前の膝を使って打つ意識を持て」



 一年生達は、フォームをチェックしながら軽く打った。



 次のラウンドが始まる前、再び梅田が口を開く。


「このラウンドからは思い切り打つんだ。但し、二つの点に注意しろ。まず顎を引いて顔は真っ直ぐだ。そしてガードは絞れ」



 ラウンド開始のブザーが鳴り、康平達はサンドバッグにフックを叩き込む。


 梅田が怒鳴った。

「お前ら、力んでもいいから強く打て」


 飯島が挑発する。

「オメェラのパンチはそんなもんかぁ!」


 このラウンド、二人の先生は色々な事を言ってけしかけた。



 ラウンド終了のブザーが鳴り、インターバル中飯島が言った。


「前の手で打つフックは、プロのノックアウトパンチの中でも七割位の確率なんだぞ」


「ホントですか?」


 有馬と健太は同時に言って、インターバル中にもかかわらず、サンドバッグにフックを何発か打った。康平と白鳥は、左フックの素振りを繰り返した。


「おいおい、これから嫌という程打つんだから休む時は休めよ」


 飯島が笑いながら言った。



 開始のブザーが鳴ると一年生達は一斉にフックを打ち始めた。サウスポーの健太は右フック、他の三人は左フックである。


 飯島の話が効果的だったようで、一年生達は力一杯フックを叩き付ける。



 三十秒程経ち、梅田が檄を飛ばした。

「サンドバッグを俺の顔だと思って打つんだよ!」


 彼は四人に強いパンチを打たせようと言ったのだが、一年生達はどう反応していいか分からなくなり、全員のパンチが止まった。


「どうした? 強いパンチを打つんだよ」


 四人に言った梅田の隣で、飯島がニヤリと笑った。


「お前ら、梅田先生が優しいからサンドバッグを叩けないんだよな」


「…………」


 沈黙する康平達に、飯島が再び口を開いた。


「そうだよな、先生のお陰でテスト期間中も部活が出来るんだから、感謝はあっても恨みはないもんな」



 すると健太がサンドバッグに右フックを打ち始めた。他の三人も釣られて左フックを力一杯叩く。


 梅田は、苦笑しながらその様子を見ていた。



 その後は二人ずつ交代でミット打ちをした。


 ミットを持った二人の先生は、サンドバッグではフックを振り切れないので、打ち終わりのフォームを確認していた。


 ガードが甘かったり、顔の向きが悪かったりすると、梅田と飯島は、すかさずミットで攻撃をした。



 サンドバッグ打ちとミット打ちが終わった後、ストレートだけの形式練習を四ラウンドをした。


 梅田の話では、フックだけのバランスに偏らないようにする為らしい。


 こうして練習は進んでいったが、筋トレの時に新たなメニューが追加された。


 首の補強である。一年生達はまだ慣れないので、簡単な補強から始まった。


 仰向けに寝た姿勢で、頭を起こしながら動かすという簡単なものだったが、康平達は繰り返してるうちに辛い表情になっていった。



 この日、全ての練習が終わった後に白鳥が質問した。


「せ、先生、う、うちの学校のフックは他の学校のフックと違って下から上に突き上げる軌道なんですが、それはなぜですか?」


 無口な白鳥が質問する様子を、康平と健太、そして有馬は黙って見ていた。


 梅田が答えた。

「今日教えたフックは、体のどこを使って打つのか言ってみろ」


「……前足の太ももです」


「その通りだが、太ももでパンチを持ち上げた時の、体全体のパワーはどう働いている?」


「下から上です……!」


「分かったようだな。アッパー気味に打つパンチの軌道は、体全体が生み出す力を効率よく利用する為だ」


 飯島が横から言った。


「他のスポーツの事は知らないが、ボクシングの基本は教える人によって変わり易いからな」



「下から上に突き上げるフックの打ち方は、他にもメリットがあるぞ」


「それは何ですか?」


 梅田の話に有馬が質問した。



「……いや、今回は説明するのをやめておく。こういうのは勿体ぶった方がいいからな」


 言い出しておきながら、梅田は口を歪めて説明を拒否した。



 最後に梅田が一年生達に言った。


「前の手のフックで、倒す確率はかなり高い。飯島先生も俺も、フックは倒すパンチとして教えるつもりだ。……今日はもう終わりだ。トットと帰れ!」



 一年生達は、今日の少ない余暇時間を惜しむかのように、急いで部室に向かっていった。




 夏休みも四日目になった。康平は学校近くの図書館に向かっていた。


 康平の気持ちはかなり重い。何故なら昨日図書館で亜樹と待ち合わせていたのを、康平がすっぽかしたからだ。


 理由は寝坊である。昨日は、ある事情で朝四時に起きてジョギングをした。


 ある事情の説明は、前述したのでここでは説明しない。幸い、家の近くの公園を誰にも会わずに横切る事ができたのだが、安堵のせいか昼十二時まで眠ってしまった。


 亜樹との待ち合わせは午前十時、それも約束したのは康平である。


 慌ててクラスの連絡網を見ながら亜樹の家に電話をしたが、誰も出ない。


 せめて誠意だけは見せようと、十三時に待ち合わせの図書館に着いたが、亜樹らしい姿はどこにもいなかった。


 康平は夜に電話をしようとした。だが、この日電話は妹と母親に占領されていた。待っているうちに康平は眠ってしまった。


 康平は、沈んだ気持ちで図書館に着いた。不思議と亜樹は怒った様子でもなく、ロビーに立っていた。


 亜樹が先に口を開く。

「おはよう! 昨日は寝坊でもしたのかな?」


「……ホント、ゴメンな」


「まぁいいよ。家に電話来てたみたいだし、それと昼過ぎには図書館へ来て私を探したようだしね」


「え、何で知ってんの?」


「お姉様は全てお見通しなの」


「…………」


 沈黙する康平に亜樹が笑いながら言った。


「……ぷっ、嘘よ。ここの図書館のオバサンが話してくれたの。あのオバサンを甘く見ない方がいいよ。一度見た顔は絶対忘れないし、君が昨日私を探した後に、歴史のマンガばっかり見てた事まで教えてくれたんだからね」


「げっ、マジかよ! 怖いな」


「謝罪会見はこれで終わりね。今日から夏休みの宿題を一週間で片付けるからね」



 すっぽかしを許してもらったばかりの康平に反論する権利はなく、彼は腹を括って勉強机に歩いていった。



 宿題を始めてから三十分経った時、康平は眠りの世界へ片足を突っ込んでいた。


 亜樹は康平の肩をシャーペンの反対側でつっつき、優しく起こしてあげた。

「まだ寝るのは早いよ」



 更に三十分後、康平は字を書きながら眠っていた。書いている字は、得体が知れない文字になっている。


「ちょっとロビーで休憩しない? コーヒーおごるからさ」


「ん? あ……悪いな」康平は目を擦りながら答えた。


 ロビーに着いた亜樹は、缶コーヒーを康平に渡すと、心配そうな顔をして言った。


「何処か具合でも悪いの?」


「いや、そんな事はないよ」


「そうかな? 期末テストの前から疲れているようなんだけど……」


「……気のせいじゃないかな」


「それはないわね! 私の勘がいいのは知ってるわよね」


「…………」


 亜樹は本気で心配してくれていた。朝走っている事は内緒にしたい康平だったが、黙っているのは彼女に悪いと思った。


「……あのさぁ」


「ん?」


「まだ誰にも言ってないんだけどな。亜樹には期末テストでも世話になったし、本当の事を言うよ」


 康平は、ジョギングに至る経緯を亜樹に全部話した。



「なるほどね。健太君達も走ってるのかな?」


「……たぶん走ってると思う」


「たぶんて、友達同士の会話が少ないじゃないの?」


「いや、それはないよ。ただ走る事については、みんな何も話さないかもな」康平は即座に否定した。


「梅田先生が誰にも言うなって言ったから?」


「……うまく言えないけど、その後のセリフが気になってると思う」


「何て言ってたの?」


「自分のやった事を話す奴で、強い奴はいないって事だったな」


 亜樹が笑った。

「私に言っちゃって大丈夫? 話を聞かなかった事にしてあげるよ」


「いいよ。……梅ッチも一人位ならいいって言ってたし」


「私も梅田先生の考え方は賛成だな! 口先だけの男は虫酸が走るもんね」


「何となく分かるよ」今度は康平が笑って言った。


「それどういう意味? ……まぁいいわ。話は変わるけど、今日も康平は朝五時に起きたの?」


「いや……四時だよ」


「夏休みなのに何でそんなに早く起きてんの?」


 康平は、朝のラジオ体操に来る小学生達の事を話した。


 亜樹は少し吹き出した後、心配するフリをした。


「大丈夫? 小学生より弱いのにボクシングなんてやっていけるの?」


「余計なお世話だよ! 町内会の小学生って、親達に筒抜けだから恐ろしいんだよ」


「アハハ、それは言えてるかも。……でもそんな生活だったら、また君にすっぽかされそうだしなぁ」


 少し考えていた亜樹が再び口を開いた。


「私、最近スマホ持ち始めたのよね。来れなくなった時、ここに連絡頂戴。光栄に思いなさいよ。まだ綾香にも教えてないんだからね」


 亜樹は、メモ帳に携帯電話の番号を書くと康平に渡した。


「え、いいのかよ?」


「すっぽかされるよりマシだと思うけど」


「あ、いや、だから反省してるって」


 小肥りで眼鏡を掛けた中年女性が、ロビーへヨタヨタと歩いてきた。


「亜樹ちゃん! そろそろ戻んないと、空いてる席を探している人が多くなってきたよ」


「ゴッメーン! すぐに戻るからね」



 中年女性は康平を見て意味深な事を言った。


「頼り無さそうだけど性格は良さそうだね。亜樹ちゃんは、男を寄せ付けないオーラがあって心配してたんだけどね」


「オバサン何言ってんの! 康平、さっさと戻るわよ」


 亜樹は慌てて机に戻っていった。


 女性は康平の方を向いた。


「亜樹ちゃんは誤解され易いけどいいコだよ。それと、図書館でマンガばかり見ちゃダメだよ」


 どうやら、亜樹が言っていた図書館のオバサンのようである。


 康平は、一度頭を下げてから急いで勉強机に歩いていった。



 図書館での勉強を終えた康平は、少し休んでから部活に向かった。


 図書館から学校まで歩いている間、康平は勉強と部活だけの自分の夏休みを思い、一瞬悲しくなった。だがすぐに取り消した。


 去年までのグータラな夏休みを懐かしむ気持ちが無いでもないが、やはり女の子の存在は大きい。しかも亜樹はカッコイイ系の美人である。


 第三者がいる時は毒舌が多くなるが、二人の時は意外に優しい。


 康平は、少し浮かれた気分で学校へ歩いていった。



 練習場に着いて梅田の顔を見た途端、康平の浮かれた気持ちはすぐに現実へ引き戻された。


 その時康平は、あの恐い顔を一種の才能のように感じた。



 練習を始める前に梅田が言った。


「今日は前の手のアッパーとボディーブローを教えるぞ! 全員鏡の前に並べ」



 アッパーとは下から突き上げるパンチで、ボディーブローは相手の腹部を狙うパンチである。


 並んだ一年生達に梅田が指示を出す。


「フックの溜めを作ってみろ」



 二日間重点的にフックを練習したせいか、四人はスムーズに形を作った。梅田は話を続けた。


「ボディーブローとアッパーも、前の膝を使うのはフックと同じだ。まずボディーブローだが、パンチを打つ方の肘を前に突き出すように打つ。その時は、パンチを打つの方の腰骨を少し前にスライドさせろ」


 一年生達は言葉だけで出来る筈もなく、ボディーブローの素振りを五ラウンドやって、何とかコツだけは掴んだ。


 インターバル中、梅田が言った。


「次にアッパーだが、ナックルを返しながらパンチを打つ方の肘を、ヘソの辺りに横滑りさせるように打ってみろ」


 ナックルを返すとは、拳を捻って手の甲を相手に向ける事である。


 全員ボディーブローの時より覚え易かったようで、三ラウンドの素振りでコツを掴んだ。


 今度は飯島が口を開いた。


「これからサンドバッグ打ちだがアッパーは打つなよ。手首を痛めるからな」


 梅田が付け加える。

「ボディーブローは強く打てよ。意識するだけでいいが、顔面を狙うフックとボディーブローは同じ体勢から打て!」



「意識するだけでいい」

と自分から言っておきながら、三ラウンドを過ぎたあたりから梅田が怒鳴り始めた。


 気が短い人から教わる人間は、本当に気の毒である。


「同じ姿勢から打てと、さっきから言ってるだろうが!」


 梅田の怒号が響く。一年生達は、言ってる意味が変わっている事に気付いていた。


 だが、理不尽大王に反抗できる一年生は誰もいない。


 同じ体勢から打つのは意識どころではなく、いつしか死守すべき命令になっていた。



 練習が終わると、梅田も反省したようで頭を掻きながら言った。


「まぁ、その……なんだ、俺も少し(?)気が短い所もあるから、今日のところは許せ。……お前らは怒られ易い顔をしているから、ボクシングは強くなるぞ」


 梅田は、最後に意味不明な弁解をして職員室に歩いていった。



 飯島が一年生達に話し始めた。


「梅田先生は、早く同じ体勢から打たせたいんだよ。同じ体勢から三種類のパンチが打てれば、相手にとっては脅威だからな」


「……はい」


 四人は返事をしたものの、まだ理解していないようである。それを察した飯島は話を続けた。


「具体例を挙げた方が、お前らはもっと意識をするかもな。……三年の石山の得意パンチはなんだ?」


「左のボディーブローですか? 当たると凄い音がしますからね」


 健太が質問のような口調で答えた。



「まぁそれもあるんだが……よく石山はあのパンチで試合が終わるだろ?」


「左アッパーですか?」今度は康平が言った。


 四人は、石山がこのパンチで試合を終わらせるシーンを二回見ていた。



「そうだ。石山は左ボディーブローが得意なんだが、たまに左アッパーへ切り替えるんだよ。相手はボディーを打たれたくないから、こうブロックするだろ」


 飯島はそう言って、右肘を右の脇腹辺りに付けてガードするポーズをした。


「ボディーを守ろうとしてガードが開いた時に、石山の左アッパーが内側から当たるんだよ。同じ体勢から打つから相手には分かりにくい。思わぬところから食らうパンチは効くからな」


 練習が終わって着替えた四人だったが、鏡の前で同じ体勢を意識し、ボディーブローとアッパーを打ちを始めた。



 飯島が慌てて言った。


「お、お前ら今やんなくてもいいだろ。……俺はお前らが帰らないと、鍵を閉めて帰れないんだよ」


 康平達は、飯島に追い出されるような格好で練習場を出ていった。



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