一年生同士のスパーリングと二年生のアドバイス
火曜日。この日最後の授業が終わった時、亜樹が後ろの席にいる康平に話し掛けた。
「もうすぐ期末だけど、康平はテスト休みが無いから大変だよね。……でも、自分で選んだんだから頑張って」
康平は土曜日の夜以降、なんとなくではあるが、亜樹が以前よりも少し優しくなったと感じていた。
「あ、あ、ありがとな」
「何ドモってんのよ! 私、変な事言って無いでしょ!」
ただ、ドモった時だけは、確実に怒りっぽくなったのも感じていた。
「きょ、今日から健太とスパーリングなんだよ」
「……それで緊張してたのね。ドモる時は、理由を言ってからドモって欲しいわね」
「無茶苦茶だよ……けど、緊張は少し解れたかな」
「何よりだわ。……でも、友達を殴れるの?」
「……自分でも意外なんだけど、それは抵抗ないかな。先輩とスパーリングした後も普通に話してるし」
「……ちょっとショックね。……でもスポーツだから、そういう感覚なのかな。……じゃあ、何で緊張してるのよ?」
「スパーリングは実戦練習なのもあるけど……同級生に倒されたくないからかな?」
「分かんないなぁ。……やっぱり康平も男の子って事なのかしら。……私が話し掛けたからなんだけど、練習早く行った方がいいかもね」
康平が急いで部室に行くと、有馬と白鳥、そして大崎が着替えを終えて無言でバンテージを巻いていた。
無言でバンテージを巻く事に、康平も違和感は無かった。バンテージを巻き終えたら、苦しい練習が始まるからだ。
康平もバンテージを巻いている時間は、誰とも話さず、自分の身体を虐める練習で重くなる気持ちと葛藤し、少しでも集中して頑張ろうという気持ちを奮い立たせる時間だった。
ただ、この時はいつもより緊張感があった。
いち早くバンテージを巻き終えた大崎は、練習場へ行こうとしたが、足を止めて三人に言った。
「お前ら固くなんなよ。……参考になるかは分かんねぇけど、俺なりのスパー活用法を聞いてみるか?」
三人は動きが止まり、興味津々な顔で「はい」と返事をした。
大崎が話し始めた。
「スパー(リング)は勝負じゃ無いんだけど、ずっと石山先輩とスパーやって、俺は一度も勝った事は無いんだよ。今まで二回倒されてるし、一度は肋骨ヒビ入れられてるし、たまにストップで止められるし、最後まで出来ても判定だったらまず負けてるな」
三人は、どう答えからいいか分からず、黙って聞いていた。
大崎は話を続けた。
「だから勝ち負けの基準を変えたのさ。石山先輩には負けてもいいから、このスパーで自分が打ちたい三つのコンビネーションを二回ずつ打てたら俺の勝ち、打てなかったら俺の負けってな。続けていくうちに、俺にとってスパーはやりたいコンビネーションを試す場所って感じになったよ。……熱くなり易い俺が偉そうな事は言えないけど、スパーの時は、相手との勝ち負け以外を目的にした方がいいと思うぞ」
大崎は、小気味のいいコンビネーションブローを駆使して戦う選手だ。彼の言う事に説得力があった。
三人にとって、大いに参考になった。そして、何よりも先輩として、自分達の為に真面目に話してくれた大崎の心遣いが嬉しくなった。
「有難うございます」
「……お礼を言うのは、練習の成果が出てからでいいからな」
三人が心からお礼を言うと、大崎は照れながらそう言った。
有馬がボソっと言った。
「健太にも聞かせたかったですね」
「片桐か、……アイツは何気に大丈夫だと思うぞ。何となくだけどな。……そろそろ行かないとヤバいから、お前らも急ぐぞ」
康平が練習場に入ると、健太はシャドーボクシングを行っていた。ただ、スパーリング前なので激しいものではなく、フォームチェックをするように、ゆっくりとしたものだ。
健太は普段お調子者で、基本的にノーテンキだ。
はたから見ると飄々としているように見えるが、健太と付き合いの長い康平は、彼も少し緊張しているように見えた。
シャドーボクシングが終わると、有馬と白鳥のスパーリングが始まった。
互いにゆっくりと左へと回りながら十秒程対峙した時、有馬が左ジャブを繰り出した。練習で打つ強いジャブだ。
両手でブロックする白鳥に、すかさず右左右のストレートで追撃する。
これもブロッキングで凌いた白鳥が、距離の詰まった有馬へ左フックをボディーがら顔面にダブルで返した。
背中を丸めて打たれる面を小さくした有馬は、ブロックしてこれを防いだ。
距離を取ろうとロープ際まで下がった有馬に、白鳥は目隠しワンツーストレートで追撃する。
有馬は大きく左に避けると、白鳥は少しバランスを崩した。白鳥のガードの上から左ジャブを二発打って動きを止めさせた有馬は、ワンテンポ遅らせた右ボディーストレートを浅くヒットさせた。
二人は大崎のアドバイスを意識して、習ったコンビネーションブローを積極的に出していた。
スパーリングかラフにならず、引き締まったものになった。
意外そうな顔をした梅田と飯島は、二人で何か話していた。
二ラウンド目の終盤、疲れもあったか、二人共パンチを打った後、身体がそのまま前に突っ込んでクリンチが多くなった。
普段なら、梅田か飯島の声が響く場面なのだが、二人は黙って観察しているようである。
ラウンド終了後、スパーリング用のグローブを付けようとした康平に、梅田が言った。
「高田、お前は今日から十六オンスを使え」
「えっ、じゃあ、僕もですか?」
「片桐は十四オンスでいい。十六オンスは高田だけだ」
スパーリングは実戦練習だ。永山高校では安全を考慮して、ライト級以上のスパーリングは十四オンスのグローブを使用する事になっていた。
「高田は何気にパンチがあるからな。万が一を考えてだ」
「……分かりました」
飯島にも言われて、健太は十四オンスのグローブを付けた。
ラウンド開始のブザーが鳴った。
普段から康平は健太と形式練習で向かい合っていた。だが、この時康平は違和感を感じた。
間合いがやけに遠い。一度の踏み込みでは届かないような気がした。
大崎のアドバイスを意識して、当たらなくてもコンビネーションブローを出そうと思い、二発の左ジャブから右ボディーストレートを繰り出す。
健太は左後方に大きく下がり、難なく空を切らせた。遠い間合いのままだ。
この時健太が、右ジャブのワンステップで一挙に距離を詰め、左のボディーを放つ。練習で打っていた、前に伸ばすようなアッパーだ。
運良く康平の右腕に当たったが、強い衝撃があった。
康平が左フックをボディーから顔面へと返すが、グローブが大きいせいか、本人もじれったくなる程遅く感じた。康平が顔面へ左フックを打った時は、健太はすでに大きく間合いをとっていた。
健太がすぐに、目隠しワンツーストレートで反撃する。形式練習で、頻繁にこのパンチを練習していた事もあって、康平は辛うじてブロックで防いだ。
先輩達とのスパーリングを見て、健太の踏み込みの良さは、康平も分かっていた。だが、いざ対峙すると想像以上だ。
康平がパンチを出すと、健太がスッと距離を取り、健太が遠い間合いから踏み込んでパンチを放つと、康平がブロックで防ぐという展開が続いた。そして、二ラウンド終了のブザーが鳴った。
梅田と飯島は、このスパーリングも黙って見ていて、二人で話し合っていた。
練習が終わり、一年生達が柔軟体操をしていると飯島が話し掛けた。
「有馬と白鳥と高田はどうしたんだ? 今日は練習通りのパンチを打ってたじゃないか?」
「今日練習前に、大崎先輩からアドバイスを貰ったんで、そのお陰だと思います」有馬が答えた。
「大崎も、後輩を気に掛けるようになったか。……どんなアドバイスかは訊かないが、大崎も人として成長してるんだったら、俺も嬉しいぞ」
飯島はそう言うと、大崎を見てニヤリとした。
「だ、誰でも言えるアドバイスをしただけですよ」
大崎は照れ臭そうにそう言うと、飯島から目を逸らした。
飯島はニヤついた顔のまま、柔軟体操をしている森谷に視線を向けた。
「森谷も何か言ってやれよ」
「……俺からは特に……。まだアドバイス出来る程強くないんで……」
「……森谷め、上手く逃げたな。……残るは相沢か。……お前も特に無いよな?」
飯島は、シャドーボクシングを終えたばかりの相沢に、意地の悪い顔で訊いた。
「……先生、俺、頑張れってしか言えないです」
「……そうだな。お前が言えるのは、それ位しか無いよな」
飯島は、わざとらしく悲しい表情になった。
「先生、ちょっとはフォローして下さいよ」
オーバーにツッコミを入れる相沢を見て、大崎と森谷は笑った。意外な事に、梅田も自然に笑っていた。
帰りの電車は、康平と健太に加えて森谷も一緒に乗った。
森谷は、康平達と同じ中学の出身だ。大人しい性格と、ゲーム好きな事もあって、電車で一緒になった時はよくゲームの話をしていた。
森谷が口を開いた。
「相沢は話すと軽い感じだけど、アイツの頑張れは物凄い意味があると思う」
「相沢先輩は、シャドー(ボクシング)も含めて、練習量が凄いですからね」
健太が答えると、康平も頷いた。
「……お前ら、最初にブロックを習った頃、どれ位で覚えた?」
「……たぶん、三日から五日あれば形式練習で使えたような気がします」
答える康平を見て頷いた後、森谷は話を続けた。
「普通の奴はそうなんだよ。……相沢は、身に付くのに一ヶ月掛かったんだ。相沢は形式練習でブロックすると、身体が強張ってガードの上から顔をニョキって出してたんだよ。顔面が無防備なブロックなんて、あり得ないだろ?」
康平と健太は、森谷の話をイメージして、思わず吹き出してしまった。
恐縮する二人に森谷が小さく笑った。
「今のは笑っていい場面だから気にするな。笑えないのは、此処からだからな。相沢は毎日二時間、家でブロックだけのシャドーをして、何とか身に付けたんだよ」
「ブロックだけのシャドーって、退屈じゃないですか?」
「片桐もそう思うだろ? 俺も十分以上やったら飽きると思う。相沢の根気とメンタルの強さは凄いと思うし、友達の俺も尊敬してる所さ。……他の何気無い動きも、陰で物凄い積み重ねがあって出来ているんだと思うよ。……まぁ、アイツはお前らに面白い先輩として見て欲しそうだから、いつも通りに接してやってくれよ」
暫く三人は黙っていたが、下りる駅の一つ前の駅に止まった所で、森谷が再び話し始めた。
「……悪いな。俺、今はスタイル改造中で頭の中が整理出来てないから、上手いアドバイスとかは出来ないな。……ただ」
「ただ?」
「パンチを当てるパターンが一つでも出来ると、自分が強くなった気がして、ボクシングが面白くなるぞ。……俺はまだ一つだけどな」
「百パーセント当たる必殺パターンですか?」康平が訊いた。
「ハハ、そんな凄いものは無いよ。七割……いや、五割当たればいいだろうな」
「……五割ですか? パターンてどんなのがあるんですか?」健太が、興味深そうな顔をして質問した。
「まぁ、俺のは感覚的だから上手く言えないんだよ。石山先輩や相沢だと、ガードの上からでもパンチが強く当たった直後に、そのパンチをフェイントにして攻撃したりとかかな。清水先輩だと左ジャブで突き放して、常に相手が強引に突っ込むのを右カウンターで狙ってるって感じだろうな……清水先輩は、相手が右カウンターを打ち易い位置に来るように、相手の顔の左側へジャブを多く打って誘導しているよ」
「森谷先輩のアドバイス、聞いてて為になるし面白いですね」
健太に言われて森谷が笑った。
「なんだかんだで、アドバイスにはなってたんだな……口で言うより実際やるのは百万倍大変だろうけど、……まぁ、お互い頑張ろうって事さ」
康平と健太は電車から降りて、駅の反対側に家がある森谷と別れた。
二人は無言のまま歩いていたが、健太が話し始めた。
「お互い髪が伸びたから切らないとな」
「……そうだな。そろそろ綾香のプレゼントを考えたいから、今度デパートにでも行かないか?」
「じゃあ、亜樹も誘わないか? 綾香の好みを聞けるかも知れないし」
「……でも、亜樹は自分で考えてって感じだったぞ」
「大丈夫だって。亜樹は何気に面倒見がいいから、お前が困っているフリをすれば……」
健太は、何か言いたそうな表情の康平に気付いた。
「……悪かったな。康平は友達にそういう駆け引きみたいな事するの、嫌がるもんな」
「いいよ。……他の人だったら、そういうのがあっても友達なんだろうけど、友達を騙すような事はチョットな……。でも、亜樹も誘ってみようか。一緒に買い物するのは彼女も喜ぶと思うからさ」
「夏休みの時も楽しそうだったし、そこん所は、女の子なんだろうな。康平から訊いてみてくれよ」
別れ際、健太がニヤニヤしだした。
「駆け引きの苦手な康平君は、ボクシングは大丈夫なのかな?」
「……苦手なのは、友達の中での駆け引きだけ……じゃないかも知れない……ヤバいな」
考え込む康平に健太が言った。
「森谷先輩の話を聞いて、思い付いたのがあったんだよ。また来週の火曜日、リングで会おうぜ」
「何言ってんだよ。明日も学校で会うじゃね〜か」