意識を矛盾させろ
あれから二週間程経った。
一週間に二回のペースで、一年生達のスパーリングが行われた。曜日は火曜日と土曜日だ。
康平と健太が相沢と、有馬と白鳥は大崎の相手をする。
県の新人戦を優勝した二人の二年生は、一月にある地方のブロック大会を控え、週に三度のスパーリングだ。ここで優勝すれば、春の全国選抜の大会に出場する事が出来る。
木曜日は、相沢と大崎、そして森谷を加えてのスパーリングだった。ただ、重い階級の森谷は、軽く打つ条件でのスパーリングである。
新人戦で優勝する事が出来なかった森谷は、週に一度しかスパーリングをしないスケジュールだ。
新人戦後、森谷の練習内容に変化があった。彼はシャドーボクシングの前にリングへ入り、その中を後ろ向きで、三ラウンドひたすら走っていた。
土曜日の練習が始まった。健太がその事を飯島に質問した。
「先生。森谷先輩のあれは、一体何の為の練習なんですか?」
「森谷は今、奴の希望でスタイル改造中なんだよ。それで梅田先生がメニューを作ったのさ。奴が希望したスタイルは、俺と梅田先生が意図していたものとは違っていたんだがな。……ただ、本人が自主的に改造しようとしているんだから、意外といい方向にいくかも知れないぞ」
「最近、先輩の練習を見て思ったんですけど、やっぱりアウトボクシングを徹底するんですか?」
「……それは、スパーをした時のお楽しみさ。……それは置いといて、お前はこれから相沢とスパーだからな」
健太は慌ててシャドーボクシングを再開した。
全員のウォーミングアップが終わり、最初に大崎と有馬がリングへ入った。
目を大きく開けながら戦っている有馬は、打ち終わりにパンチを貰わなくなっていた。
だが、大崎の上下を打ち分ける攻撃に、有馬は背中が丸くなり、防戦一方になるシーンが多くなった。
「有馬、足だ足! 簡単にロープへ詰められるな!」
梅田の声が練習場に響いた。
二ラウンドが終了し、有馬と白鳥が入れ替わる。
開始のブザーが鳴った。
身長の低い白鳥は、小さなダッキングをしながら前へと出る。
「いいぞー白鳥ー。そのリズムで前に出るんだ」
のんびりとした口調で飯島が言った。
身長が百六十センチの白鳥に対して、大崎は五センチ程高い。
大崎は左右に忙しく動き、頻繁に左ジャブを突く。
長身の有馬に対しては距離を詰めていた大崎だったが、白鳥に対してはアウトボクシングに徹するようだ。
距離が十分に離れると、大崎が先手で攻撃し、ブロックをした白鳥が反撃する展開が続いた。
一ラウンド終了後、飯島が二人に言った。
「白鳥はもっと先手で攻めたいなぁ。大崎はピンチの時を想定して、動きながらカウンターで迎え打ってみろ」
二人は息を整えた後、「はい」と返事をした。
二ラウンド目が始まると、白鳥は大崎の練習台にならなければと思ったのか、積極的にパンチを出すようになった。
だが、それに反比例して頭の動きが少なくなる。
出鼻に大崎の左ジャブ、右ストレートがヒットした。
「白鳥。頭を動かしながら打たないと、大崎にバレバレだぞ」
飯島の声に白鳥は反応した。左へ小さなダッキングをしながら、右のパンチを繰り出す。慣れない動きでバランスを崩し、パンチが大きく流れた。
「いいぞ白鳥。フォームは気にしなくていいから、今みたいな感じでパンチを出してみろ」
飯島の声に頷いた白鳥は、曲がりなりにも、動きながらパンチを繰り出した。
ただ白鳥は、度々出鼻にパンチを貰っていた。
ラウンド終了後、飯島が呟いた。
「……白鳥には、あの感覚を覚えて貰わないとな」
健太と相沢がリングへ入る。
手合わせした最初のラウンドこそ、健太の踏み込みの良さに先手を取られる場面の多かった相沢だった。だが、彼が右ボディーストレートとフェイントで牽制するようになってから、健太の思い切りのいい攻撃は、鳴りを潜めていった。
「横の動きだ片桐! 前後だけだったら捕まってしまうぞ」
梅田の声に、辛うじて右へ動いた健太が右ジャブを打とうとした時、彼の顔面へ相沢の右ストレートが浅くヒットした。
ダウンの宣告はない。
健太が更に右へ回りながら右フックを引っ掛け、サウスポーからの左ボディーブローで反撃した。
二つのパンチをブロックした相沢は、左フックをフェイントにして、右ストレートを内側から突き出した。
左フックに釣られて開いたガードの間から、健太の顔面に直撃した。
健太がすぐに左ストレートから右フックを打ち返した為、スパーリングはそのまま続行となった。
普段の健太は、お調子者で飄々としている。だが今の彼は、打たれても果敢に打ち返していた。
康平は心の中で、負けられないという気持ちが湧き上がった。
(今回のスパーは、もっと先手で攻めるぞ)
彼は健太のスパーリングを見ながら、大きな踏み込みを意識したシャドーボクシングを心掛けた。
健太のスパーリングが終わり、康平がリングの中へ入る。
スパーリングの開始前は、いつも構えたままで待っている康平だったが、今回はステップイン(踏み込み)を繰り返しながら開始のブザーを待った。
飯島が声を掛けた。
「今日はいい感じだな。……とに角思い切りやってみろ」
開始のブザーが鳴った。
グローブを合わせた後、康平は左ジャブを伸ばす。
遠い間合いで届かなかった為、ステップインをしながら、更に二発のジャブで距離を詰めた。
康平が二発目の左ジャブを伸ばした時、相沢の左ジャブと相打ちになった。相変わらず固いパンチだ。
康平は構わず右ストレートから左フックを繰り出した。忙しく位置と頭を動かす相沢に、パンチはどちらも当たらなかった。
二人の距離が離れた。
康平は、すぐに二発の左ジャブを放ちながら距離を詰める。
相沢は左へダッキングし、ボディーから顔面へ、左フックをダブルで打ち返した。
相沢が顔面に左フックを放った時、康平は同じタイミングで左フックを打っていた。お互いのパンチは、共に右ガードへ当たった。
二人はバランスを崩す。大きくよろけたのは相沢の方だった。
康平が、すかさず目隠しのワンツーストレートで追撃する。
相沢が左へダッキングしながら体を預けた為、クリンチになった。
ブレイクの後、相沢の動きが活発になった。
小さなダッキングを増やしながら、左へ回り始めた。フェイントも多くなる。
的の絞れない康平は戸惑った。
先手で攻めると決めていた彼は、左ジャブを打ちながら距離を詰めようとした。
相沢は左へ移動しながら左ジャブをスッと伸ばす。康平の出鼻にヒットした。
一瞬バランスを崩す康平に、相沢は追撃せず、再び距離を取って左へ回り始めた。
「相沢。ポイントを取りたかったら、ここでパンチをまとめるんだよ」
梅田の声に、相沢は小さく頷いた。
前へ出る康平に、相沢の左ジャブが再びヒットした。
前進の止まった康平に、相沢は三発パンチを上下に打ち分けた後、距離を大きく取った。
辛うじてブロックで凌いだ康平に、飯島が言った。
「高田。頭を動かさないと、相沢に出鼻を合わせられるぞ」
康平は頷きこそしなかったが、小さなダッキングを時折加えて前に出る。
だが、パンチを打とうと踏み込んだ時、また相沢の左ジャブを貰っていた。
彼は、頭を動かしながら攻撃したつもりだった。
康平も白鳥と同様に、パンチを打つ時、頭の動きは無くなっていた。
飯島は、何も言わずに梅田へ視線を向けた。梅田がそれに気付き、二人は小さく頷き合った。
二ラウンドのスパーリングが終わった。
目を大きく開けて集中するようにしていた康平は、打ち終わりこそパンチを貰わなかったが、出鼻に相沢のパンチを度々ヒットされていた。
だが、強いパンチではなかったので、康平にダメージはあまり無いようだ。
梅田が一年生全員を呼んだ。
「お前達に教えたい事がある。しばらく後になるから、今日のスパーを反省しながらシャドーを続けてろ」
大崎と相沢は一月に地方大会がある。梅田と飯島は、二人のミット打ちを優先的に始めた。
一年生達は全員がリングに入り、シャドーボクシングに取り掛かる。
健太は横への動きを多く取り入れ、白鳥が頭を振りながらパンチを放つ。
有馬は派手にフットワークを使って動いた。康平も再三出鼻にパンチを貰った事を思い出し、白鳥のように、頭を動かしながらパンチを繰り出す。
インターバルになると、梅田が口を開いた。
「有馬と高田は、今まで通りのシャドーをしてろ」
有馬は素直に応じたが、康平は戸惑った。彼を教えているのは飯島だったからだ。
飯島が言った。
「高田は今から梅田先生が教えるから、指示に従うんだぞ。それと、片桐が俺の担当になるからな」
それから四ラウンド後、大崎と相沢の練習は、サンドバッグ打ちに変わった。
梅田が再び一年生達を呼んだ。
「お前達は、出鼻にパンチを貰う時が多い。スパーの時は防御七、攻撃三の意識をしろ」
健太が質問した。
「受けに回るって事ですか?」
「いや、今まで通り先手で攻めるんだ」
一年生達は、戸惑った様子で顔を見合わせた。
梅田が再び口を開く。
「意識するだけでいい。……先手で攻める。但し、感覚は防御七攻撃三だ」
「……そんな事って出来るんですか?」健太が訊いた。
「それを今からやるんだ。片桐、グローブを嵌めろ」
健太がグローブを嵌めると、梅田も左手にグローブを嵌めていた。
「軽くゆっくりでいいからサンドバッグを打て。たまに俺が左フックを打つから、それを避けろ」
梅田はそう言うと、サンドバッグの横に立った。
健太が、軽くゆっくりとサンドバッグを打ち始める。
「防御七、攻撃三だぞ」
梅田はそう言いながら、時折左フックを放った。
健太は、バックステップでこれらをかわした。
「慣れてきたら、パンチのスピードを速めてみろ」
梅田に言われて、健太のパンチが速くなる。
ラウンド終了のブザーが鳴った。
健太は、梅田のパンチを全部かわしていたが、彼に余裕は無いらしく、バックステップだけで避けていた。
梅田が訊いた。
「どうだ。分かったか?」
「……何となくですけど、分かったような気がします」
「それでいい。感覚的なものだからな。次は高田だ」
康平がグローブを嵌め、サンドバッグの前に立った。
開始のブザーが鳴り、康平がパンチを打ち始めた。
彼は、梅田がいつ左フックを打ってくるか気になり、チラッと見た。
その時梅田が注意した。
「俺を見るな! サンドバッグを見ながら俺を視界に入れろ」
康平が左ジャブを打とうとした時、梅田が左フックを振っていた。康平は、辛うじて右腕でブロックをした。
「そうだ。慣れないうちはブロックでもいいから、とに角防御をしろ」
梅田が褒める時の声は大きい。
康平は、防御七を意識しながらサンドバッグを叩き続けた。
有馬と白鳥のサンドバッグ打ちも終わり、梅田が四人に言った。
「フォームチェックをする時は別だが、これからは、防御七攻撃三の意識でシャドーやサンドバッグ打ちに取り組んでいくんだ。分かったな?」
一年生達が返事をした時、飯島が「あっ」と声を張り上げた。
有馬が訊いた。
「先生どうしたんスか?」
「今日、学校へ行こうとした時、ゴミを出すようにカミさんから言われてたんだが、すっかり忘れてたんだよ。……生ゴミが入ってたから、帰ったら怒られるんだろうな」
飯島は暗い顔になって答えた。続けて彼は一年生達に言った。
「ボクシングに関しては、梅田先生が言ったように、防御七攻撃三で戦うんだ。夫婦喧嘩の時は、防御九攻撃一を意識しろ。その一の攻撃も、反撃じゃなくて、せめて言い訳の一つでも聞いて下さいという気持ちで話すんだ。それが、夫婦喧嘩を無難にやり過ごす秘訣だ。分かったな」
ふざけているような話だが、飯島の顔は真剣だった。
彼の奥さんが怖い人だと知っていた一年生達は、同情しながら返事をした。