痛いパンチの秘密
次の日。四人は、永山高校近くの図書館で勉強していた。メンバーは、亜樹と綾香に康平、そして弥生である。健太はいなかった。
亜樹は、相変わらず弥生に独占されている。
康平は昨日の事が気になり、それとなく亜樹を見たが、変わった様子は無い。彼は少し安心した。
四人はロビーで休憩していた。
綾香が口を開いた。
「今日も健太は来なかったわね。……ねぇ康平、健太って誕生パーティーには来るのよね?」
「奴には言ってるし、……多分節約もしているから大丈夫だよ」
答えながら康平は、昨日健太がゲームセンターに行った事は、内緒にしておこうと思った。
「なになに、誕生パーティー? それっていつなんですか?」
弥生がソファーから身を乗り出す。康平はなぜかギクリとした。
綾香が十二月二十五日に誕生パーティーがあるのを説明すると、弥生はニヤリと笑った。
「二十五日かぁ、だったら私もそれに出る資格はあるわね」
「ゲッ! 弥生も俺と同じ誕生日なのかよ?」
「ゲッて何よゲッて。私の誕生日は七月二十五日よ」
「……何だよ、全然違うじゃん」
「私には月の誕生日っていうのがあんのよ。今作ったけど」
亜樹と綾香が吹き出した。康平は呆れ顔になった。
「月の誕生日ってお前、一体幾つになんだよ」
「ごちゃごちゃうるさいわね。……という事で、私も参加させて貰うけど、プレゼントはいらないからね」
弥生は何が何でも出るつもりのようだ。亜樹と綾香は、苦笑しながらそれを受け入れた。
翌日の月曜日。康平は学校に行く途中、健太と出くわした。
「よかったな康平。目の周りは治ってるみたいだし」
「やっぱりお前、気付いてたんだな?」
「そう言うなって。……俺もあの後、左目の周りが青くなったんだよ。たぶん一ラウンド目に、右ストレートを貰った時のだろうな」
康平が訊いた。
「ところでさぁ、相沢先輩のパンチって、やけに痛くなかったか?」
「それは俺も思ったよ。それと、ストレート系は速くないんだけど、なぜか分かりにくいんだよな。いつの間にかグローブが目の前にある感じなんだよ」
健太も康平と同じ感覚だったようだ。
康平は「やっぱりお前も感じてたんだな」と言って頷き、更に話を続けた。
「話は変わるけどさ、来月の二十五日は、綾香の家にお前も行くんだよな? 図書館にしばらく来なかったから、綾香が心配してたぞ」
「勿論行くさ。亜樹と綾香も、誕生日プレゼントを用意してくれるんだからな」
「……それでさぁ、弥生も来るって話になったんだよ」
健太の顔色が変わった。
康平と同じく、健太も弥生を苦手としていた。小さい頃、ガキ大将のような存在だった弥生に、泣かされた記憶があったからだ。
彼はお調子者の性格だが、義理堅いところがあった。
「マ、マジかよ! ……でもまぁ行くよ。俺も綾香にプレゼントするんだからな」
放課後の部活が始まった。
康平は、自分も動きながら、相沢のシャドーボクシングを見ていた。
相沢は口の前に両拳を置く構えだ。ただその両拳は、最初から強く握っていた。
康平達一年生は構えを習った頃、両拳は軽く握るか、握らないようにと教わっていた。無駄に力が入るからだ。
相沢のシャドーボクシングにスピード感は無い。フォームを意識しながら動いているようだ。
彼が左ジャブと右ストレートを打ち始めた。
康平達がストレート系のパンチを打つ時、手の甲が上向きになる程度まで捻りながらパンチを伸ばす。
だが、相沢は全く捻らず、縦拳のままのパンチだった。
康平は、五ラウンドのシャドーボクシングを終えて、サンドバッグ打ちをする為にグローブを嵌めた。
この五ラウンドのシャドーボクシングは、二ヶ月位前から飯島が作ってくれたメニューだった。
康平が、四ラウンドのサンドバッグ打ちを終えた時、飯島にミット打ちをするように言われた。
康平がチラッと相沢を見ると、彼はまだシャドーボクシングを続けていた。
二人がシャドーボクシングを始めたのは、同じラウンドからだった。相沢は、次のラウンドもシャドーボクシングをしようとしている。これで十ラウンド目だ。
高校ボクシングの試合は、一ラウンドの時間は二分である。だが永山高校のボクシング部は、一ラウンド三分で練習する。スタミナ強化の為ではない。技術習得の為、時間に余裕を持たせる為だ。
相沢を意識する康平に、飯島が話し掛けた。
「どうした高田? 相沢のシャドーは、見とれる程華麗じゃないんだがな」
その声は相沢に聞こえたらしく、彼は苦笑しながら息を整えていた。
康平が質問した。
「飯島先生、相沢先輩のパンチは固いし、ストレート系がとても分かりにくいんですが、どうしてですか?」
「そうか。奴のパンチは食らいたくないって訳だな。……よし、このラウンドは勉強の時間だ。グローブを外せ」
飯島はそう言うと、自らもミットを外して壁に吊るした。
康平もグローブを壁に吊るすと、飯島が口を開いた。
「ところでだ。お前は、相沢のシャドーを見て何か気付いたか?」
「拳を最初から強く握っているのと、ストレートが縦拳でした」
「じゃあ固いパンチは分かってるな?」
「それは分かるんですが、最初から強く握ってると、前腕の内側が疲れてくる気がするんですけど……」
「試したのか?」飯島はニヤリとした。
「ええ、さっきのシャドーで一ラウンドやってみました」
「それは慣れもあるんだが、ちょっとした工夫もあるんだよ」
飯島は、自分も拳を固く握った。
「小指の握りだけ少し弛めるんだよ。お前もやってみろ」
飯島に言われて、康平は構えながら小指を弛めた。
「そのままストレートを打ってみろ」
言われるままに、康平は左右のストレートを伸ばす。
彼は全部の指を強く握った時より、前腕、特に内側の張りが減ったような気がしていた。康平は、その事を飯島に話した。
「ただ、前腕の張りが少し減っただけなんだがな。だから相沢は、練習の前後、前腕のストレッチを入念にしてるだろ?」
「言われてみればそうですね」
「固いパンチの理由は分かっただろ? ……まぁ相沢のパンチはドスン系(切れより重さのあるパンチ)だから、余計に痛く感じると思うがな」
飯島が話を続けた。
「ストレート系が分かりにくいって話なんだが、縦拳の他に、何か気付かなかったか?」
康平が訊き返す。
「他に何かあるんですか?」
「……分からなかったら、相沢のシャドーを見てみろ」
康平は相沢のシャドーボクシングを見るが、彼のストレートは縦拳以外、何も気付くものはなかった。
飯島が助け船を出す。
「秘密はパンチだけじゃないぞ。構えを見てみろ」
康平が相沢の構えを見ると、彼は何か気付いたようだ。
「両腕を、体にピッタリ付けて構えるんですね」
「お、気付いたな。それが分かりにくいストレートの秘密さ」
康平が首を傾げた。
「……先生、それだけだと分からないんですけど」
「フフフ、秘密ってのは、勿体ぶって話す権利があるからな」
ラウンド終了のブザーが鳴った。
飯島が相沢に大声で言った。
「あいざわ〜! お前の少ないベールを脱がせるからな」
「先生、ストレートの事ッスか?」
「それ以外、お前の秘密なんてあるわけないだろ? 痛いパンチは話しちまったしな」
「勘弁して下さいよ。もう脱ぐベールが無くなっちゃうじゃないですか」
二人のやり取りに、大崎と森谷は笑っていた。
康平にとって相沢は先輩だ。彼は笑うに笑えなかった。
二人の会話を聞いていた健太が、梅田の許可を貰って飯島に近付いた。
「先生、僕にも教えて下さい」
「お前も、相沢のパンチは余程貰いたくないんだな?」
飯島はそう言うと、健太にも教え始めた。
「…………という訳だ。ここまでは高田にも教えてたんだが、片桐も理解出来たな?」
健太は興味深そうな顔をしながら、「はい」と返事をした。
飯島が説明を続けた。
「さて、相沢の構えは体にピタリと腕を付ける事と、ストレートが縦拳の事だ。さっきも高田に言ったんだが、それが分かりにくいストレートの秘密なんだよ」
「先生。やっぱり、それだけじゃ分からないですよ〜」
康平が言い返すと、健太も頷いた。
「……やっぱり分からないか。俺の実演が必要なようだな」
飯島はそう言いながら、グローブを付けた。
「俺がパンチを打つから、お前らは構えてろ」
(もしかして殴られる?)
警戒する二人に飯島が笑った。
「寸止めで打つから安心しろ」
康平の前で飯島が構えた。相沢そっくりのフォームだ。
飯島が左右のストレートを伸ばす。構えた所から、グローブがスーッと康平に伸びる。
分かりにくいと康平は思った。
「じゃあ、体から腕を離してパンチを打つぞ」
飯島は、再び左右のストレートを打ち始めた。
飯島がパンチを出す直前、グローブがピクッと動いた。寸止めだったが、康平は、ブロックする姿勢をとった。
「おっ、反応出来たようだな。次は拳を捻りながら打つぞ」
飯島が右ストレートを伸ばした時、彼の右肘が大きく開く。体全体のシルエットが変わった。康平は、左へダッキングをして反応した。
「オーバーに実演すると分かるだろ? じゃあ、次は片桐の番だな」
康平の納得した顔を見た飯島は、健太にも三種類のパンチを放った。健太も康平と同じ印象を受けたようだ。
「縦拳にするのは脇が開かないようにする為だし、体にガードを付けるのは、パンチを打つ時、グローブがブレないようにする為だ」
説明を終えた飯島に、健太が質問した。
「相沢先輩のストレートが、分かりにくい秘密は分かりました。だったら僕達も、先輩のストレートを真似ればいいんじゃないですか?」
「それは必要無いと思うぞ。お前らのパンチはそんなに脇が開かないし、第一打ちにくいだろ?」
今度は康平が訊いた。
「先生。そんなに打ちにくいんだったら、何で相沢先輩はその打ち方なんですか?」
彼は夏休みの時、内海に言われて覗き見ガードに構えを変えた。その際、フォームを固める為、ガードを体にピタリと付けていた。
パンチが打ちにくかった彼は、構えに慣れると、ガードを体から少し離して構えるようになった。
飯島は、悲しい顔付きになった。
「相沢がパンチを習い始めた頃は、どうしようもなかったんだよ。奴が運動オンチなのは知ってるよな」
「……はい。先生から聞きました」
康平は、相沢に気を遣い、小声で答えた。
「パンチを打つ時、グローブが思いっきり下がるし、脇も大きく開く。グローブの握りは甘くて効かないし、おまけにスピードも無いときてる」
飯島は話を続けた。
「俺は根気強く言い続けたよ。アイツは「分かりました」て返事はいいんだが、次の瞬間、思いっきり変なパンチを打ってくるんだよ。なんにも悩んで無いような顔をしてな。俺は一日に、何回アイツを見捨てたことか」
飯島の話は、いつの間にか自分の話になっていた。彼はその時の様子を思い出して腹が立ったのか、どんどん声が大きくなっていった。
(ヤバイよ。絶対先輩に聞こえてるよ)
気まずくなった康平と健太は、説教を受けているように下を向きながら聞いていた。
二人はチラッと相沢を見た。彼は黙々とサンドバッグを打っていた。ただ、パンチがやけに力強い。
飯島が質問した。
「お前ら、相沢のパンチを速いと思うか?」
「……そんなに速い方ではないと思います」
健太が小声で答えた。
「だから梅田先生は、相沢に今のフォームを教えたのさ。スピードの無さを、打ち方で補う為にな。ところで相沢は、一日の練習でどの位シャドー(ボクシング)をするか知ってるか?」
康平が答える。
「長いとは思ってましたが、何ラウンドなんですか?」
「十五ラウンドだ。最初に十ラウンドで、終わりの方で五ラウンドだよ」
シャドーボクシングは、一人で行うトレーニングだ。
仮想の相手にパンチを繰り出し、ディフェンスを行う。パンチを打っても、対象物が現実にあるわけではなく、当然拳に感触は無い。目的を持っていなければ、退屈で根気のいるトレーニングだ。
「凄いですね」
康平と健太は、声を揃えて感嘆した。
「相沢は、一年の夏休み前から、毎日十五ラウンドのシャドーをするようになったんだ。……奴はよくやったよ。フォームが固まるまで、毎日梅田先生に怒られながらな」
飯島の口調が穏やかになり、サンドバッグを打っている相沢は、リズミカルな動きで、コンビネーションブローのテンポが早くなった。
飯島は話を続けた。
「根気強く怒る方の梅田先生も大変だったと思うぞ。……まぁ、徹底したフォーム改造のおかげで、今の相沢は、他の学校からは強いと勘違いされるし、新人戦では間違って優勝しちまうしな」
相沢が左フックを空振りし、転びそうになる程バランスを崩す。大きなサンドバッグを空振りする人間は、初心者でもなかなかいない。
ラウンド終了のブザーが鳴った。
相沢が苦情を言った。
「先生。貶す(けなす)か褒めるか、どっちかにして下さいよ。サンドバッグが打ちにくくなるじゃないですか」
「ん? お前は貶す方でもいいのか?」
「あ、やっぱり褒めて下さい。俺は褒められて伸びる子なんで」
「さっきはあんなに褒めてただろ? 前のラウンド、お前は一生分褒められたと思うぞ」
「褒め方が屈折し過ぎですよ」
次のラウンドが始まった。
飯島が康平と健太に言った。
「お前達に訊きたいんだが、ボクシングで一番効果的な練習は何だと思う?」
「一番疲れるのはスパーですけど、もしかしてシャドーですか?」
健太が答えた。
「何で分かったんだ?」
「いや、今までの話の流れから、シャドーって事になるじゃないですか?」
飯島は答えが合っていて面白くないのか、寂しそうな顔になった。やはり屈折している。
「……他のトレーニングも大事だが、まぁそういう事だ。シャドーは地味だが、スパーを冷静に出来るようになれば、本当に有効なトレーニングなんだよ」
「……スパーを冷静に、ですか?」康平が訊いた。
「そうだ。さっき片桐がスパーは疲れるって言ったろ?」
「はい。サンドバッグを思いっ切り打っても、スパーとは疲れ方が違うんですよね。スパーだと、全身が疲れるって言うか、精神的にも疲れる感じなんです」
健太が答えると康平も頷きながら言った。
「サンドバッグだと、五ラウンド以上打てますが、スパーだと、二ラウンドでヘトヘトになります。パンチの数は、サンドバッグより少ないんですけど」
「スパーは相手も打ってくるからな。恐怖で体が無意識に力んじまってんだよ。それに、サンドバッグではしない動きもしなきゃならないしな」
「それは何ですか?」
「相手の動きに反応する事さ」
「ディフェンスですか?」
「それだけじゃないぞ。相手が位置を変えただけでも、向きを変えたり色々反応しなくちゃならないからな」
「……そうですね」
康平がそう答えると、飯島は、一瞬大崎を見た。遅れて練習を始めた彼は、五ラウンド目のシャドーボクシングを行っていた。
「次のラウンドは大崎のミット打ちだから、勉強の時間はこれで終わりだ。最後に何か訊きたい事はあるか?」
康平の顔を健太がチラッと見た。康平が頷いたのを確認した彼は、飯島に質問した。
「シャドーボクシングって、本当に有効なトレーニングなんですか? やっぱりシャドーより、スパーの方が疲れるし実戦ですから、そっちの方が有効な気がするんですけど」
「確かにスパーは、モロに実戦なんだから有効だ。ただ、打たれた時は、頭が痛くなったりするだろ?」
「……はい」
「だからうちは、連日のスパーをやらせないんだよ。ボクシングはダメージを負うスポーツだからな」
「でもシャドーって、あまり疲れないし、まだ実感が湧かないんですよね」
健太は尚も食い下がる。飯島は、怒らずに説明を続けた。
「それはお前がまだ、相手をイメージしきれてないんだよ。グローブも着けずに、自分の好きなタイミングでパンチを打つだけだったら、そりゃ疲れないだろうな」
「イメージはあまり湧かないです。先生に言われて、向かい合ってシャドーをするようにしてるんですが……」
「スパーを思い出しながらイメージしてみろ」
康平も話に加わった。
「スパーって、緊張してるし、あまり思い出せないんですよね」
「それでもだ。少ない記憶からでもいいから、無理にでも思い出してシャドーをしてみろ。今から始めれば、きっとスパーに生きてくるからな」
このラウンド、残り三十秒になった。それを見た飯島は二人に訊いた。
「ところで、お前達はヒットマンスタイルって知ってるか?」
「フリッカージャブを打つスタイルですよね?」
健太が答える。漫画本を見て知っているようだ。
「そう、そのフリッカーを打つモデルになった選手のジムは、全くサンドバッグを打たなかったらしいぞ」
「本当ですか?」康平と健太の声が重なった。
「本当さ。練習はシャドーがメインで、あとはミットとスパーだけだ。それで五階級も制覇したスーパーチャンピオンがいたんだよ」
二人の目が丸くなる。飯島は話を続けた。
「日本人の世界チャンピオンでもいるぞ。もっとも彼は、体を痛めて、シャドーしか練習が出来なかった訳だが、それでもこの練習を有意義に使って栄光を掴んだ訳だ」
ラウンド終了のブザーが鳴ると、飯島は、ミットを嵌めながら再び口を開いた。
「空振りした後に打たれた時、相手に何を打てばいいか分からなくなった時、大きく避け過ぎて反撃が遅れた時なんか、色々思い出す事があるだろ?」
「あまりいいシーンじゃないですね」健太が答えた。
「お前達のいいシーンは、殆んど見てないからな。だからシャドーで反省しながら動くんだよ。パンチを打ったら、打たれたパンチを貰わないように動く。すぐに反撃できるように、小さくディフェンスをする。そして、自分の頭の中でいいシーンに変えていくんだよ」
二人は飯島の話で、イメージし易くなったようである。
ラウンド開始のブザーが鳴った後、飯島は最後に付け加えた。
「俺か梅田先生に断れば、シャドーのラウンドを長くしてもいいからな」
重複するが、シャドーボクシングは相手を仮想し、ひたすら一人で行うトレーニングだ。根気と忍耐が必要である。
飯島の話で、このトレーニングの大切さを知った二人だったが、すぐにシャドーボクシングのラウンドを増やす勇気は無かった。