亜樹のアルバイト先
練習が終わった。
この日、四人の一年生達は、一緒に学校から出た。
康平が健太に訊いた。
「俺は図書館へ行くけど、お前はどうする?」
「俺はいいよ。期末まではまだ余裕があるし、今日は遊びまくろうと思ってさ」
有馬が話に加わった。
「だったらあのゲーセンに行こうぜ。安いし、遊びまくれるじゃん」
「そうだな。白鳥も行くか?」
「お、俺はスーパーで、て、手伝う予定になってるから」
隣の県から来た白鳥は、親戚の家に下宿している。その家が経営しているスーパーを、彼はよく手伝っていた。住まわせて貰っているお礼として、あくまで自主的にである。
「……そうか。じゃあ俺と有馬で遊びまくるか」
健太がそう言った時、図書館へ向かう康平は、三人と別れる事になった。
康平の顔を見て、健太と有馬がニヤついていた。
「どうしたんだお前ら? 俺の顔に何か付いてんのか?」
「いや、康平は頑張るなぁと思ってさ」
不自然な程の笑顔で健太が答えた。白鳥は何か言いそうになったが、有馬に遮られた。
図書館に着いた康平は、ロビーで弁当を食べ終わると、空いている机を探し始めた。
その時康平は、自分の顔をジッと見ている人が多いような気がしていた。
(ご飯粒でも顔に付いてんのかな?)
彼は口の辺りを触ってみた。何も付いてはいないようだ。
壁際の机に座った彼だったが、急に睡魔が襲ってきた。ノートを開いた彼は、いつの間にか眠ってしまっていた。
康平の前の席に誰かが座った。椅子を引く小さな音で彼は目を覚ました。
綾香だった。
「ごめんね、起こしちゃった。部活の後にご飯食べると、結構眠いんだよね」
綾香が優しく言った。
康平が時計を見ると、午後一時半を過ぎていた。一時間程眠っていたようだ。
綾香が訊いた。
「……今日は、スパーリングでもあったのかな?」
「そうだけど。何で分かるの?」
「鏡……見てきた方がいいかも」
綾香はそう言うと、視線を左斜め下に逸らした。
「ごめん、ちょっとトイレ行ってくる」
立ち上がった康平は、下を向きながらトイレに行き、そこの鏡で自分の顔を見た。
両目の周りが青くなっていた。
(パンダみたいだ)
康平が、練習場の鏡で見た時は何でもなかった。時間が経ってから青くなったようである。
彼は、道で別れる時の有馬と健太の顔を思い出す。二人はニヤついていた。
(あいつら気付いてたんだ)
温厚な康平だったが、彼は舌打ちをした。奴等がこうなった時は、自分も黙っていようと思った。
極力目立たないように、彼はそーっと机に戻った。
綾香が言った。
「私の隣に座れば? 壁に向かっていれば、みんなに顔が見られないしね」
「そうだね」
康平は綾香の隣へ席を移し、勉強を始めた。
二時間程経ち、二人はロビーで休憩する事にした。
綾香は水筒を持っていた。
康平が訊いた。
「結構前から水筒だったよね。誕生日プレゼントの為に節約?」
「そうね。それに、亜樹にはクリスマスプレゼントをあげる約束だから」
「……俺達のはいらないからさ」
「……そうよね。亜樹にも負担がかかるし、康平と健太もお返ししなくちゃいけなくなるし、……クリスマスプレゼントは、私と亜樹だけでこっそり交換する事にするわね」
綾香はそう言って水筒に口を付けた。
康平は、喉が渇いてはいなかった。ただ、勉強中も度々軽い睡魔があったので、自動販売機にお金を入れて、缶コーヒーのボタンを押そうとした。
「ちょっと待って!」
綾香に言われた康平は、ボタンを押す寸前で指を止めた。
「……訊きにくいんだけど、目の周りが青くなってるって事は、康平って今日は結構打たれたんだよね?」
「……確かに結構貰ったよ」
康平は素直に答えた。頭も少し痛い。
「だったらコーヒーはやめた方がいいと思うよ。それって刺激物だし」
「なるほどな」
康平はそう言って、下の段にあるスポーツドリンクのボタンを押した。
「……口煩くてごめんね」
「いや、そんな事無いよ。……でも詳しいんだね」
「兄貴がそうしてたからね」
「俊也さんも、打たれる時があったんだ?」
「それはあったわよ。高校一年の時はしょっちゅうだったわね。家に着いた途端、「アイツ、いつかブチのめしてやる」ってブツブツ言ってたけど」
言い終わると綾香は苦笑した。康平も、俊也は気が短いのを知っていた。彼も釣られて苦笑いになった。
綾香が康平に訊いた。
「康平は打たれた日って、そういう気持ちにはならないのかな?」
「思った事も無いよ。まだまだだなっては思うけど」
綾香は少し安心したような顔になり、クスッと笑った。
「やっぱり康平って、おっとりなんだね」
「……そっかぁ。そうだよね。きっと俊也さんみたいに、負けず嫌いにならないと駄目なんだよな」
「私は今のままでいいと思うよ。……康平には、あまりギラギラして欲しくないって言うか……。今日は五時で閉館だし、もう一頑張りしようよ」
時計は三時四十分を過ぎていた。康平と綾香は、机に向かって歩いていった。
図書館が閉館になり、二人は入り口にいた。
綾香が口を開いた。
「今から、亜樹がアルバイトしている喫茶店へ行ってみない? プレゼント代が心配だったらやめるけど……」
「それは大丈夫だけどさぁ。……き、喫茶店てあまり入った事無いし、結構値段するんじゃないの?」
康平が尻込みしていると、綾香が小さく笑った。
「大丈夫よ。あそこの喫茶店は何度も行ってるし、値段も缶ジュースよりは少し高い位だったからね」
二人は喫茶店へ行く事になった。
亜樹が働いている喫茶店は、図書館から歩いて五分程で着いた。
看板には「独珈香」と書かれてあった。
綾香はそれを指差し、「これって、どこかって読むんだ」と説明した。
大きくはないが、レンガ造りの洒落た店だ。
二人は中へ入った。
「綾香ちゃんいらっしゃい。今日は友達も一緒なんだね」
綾香に話し掛けるマスターは中肉中背で、髪をオールバックにし、口許の髭を整えていた。お洒落な人だと康平は思った。
「彼氏って言った方がよかったかな?」
マスターは、そう言いながら二人に水を出した。
「友達ですよ友達! 彼は高田君。同級生なんですよ」
「俺は島田だけど、マスターでいいよ」
康平は頭を下げた。
彼が頭を上げた時、島田と目が合った。島田は、康平の目の周りが、青くなってる事に気付いたようである。
島田は小さく微笑んだ。
「綾香ちゃんと同級生って事は一年生だよね? この時期のスパーは、辛抱する時なんだよ。がんばってな」
目を丸くする康平に、綾香が説明した。
「マスターは、ボクシング部のOBなのよ」
「……まぁ、俺は大した事無かったけどね。それはそうと、亜樹は今休憩中で家に戻ってるけど、六時には戻ってくるよ」
島田はメニューを渡すと、
「ゆっくりしていってね」
と言いながらカウンターへ歩いていった。
二人はメニューを見て選んだ。
「今、亜樹にラインするからね」
そう言いながら、綾香は携帯電話をバッグから取り出した。
しばらくすると、綾香の携帯電話に着信音が鳴った。
「亜樹はもうすぐ戻って来るって」
亜樹の家はここから近いらしく、五分程すると、彼女は店に戻った。
「マスター。お客様のサービスも大事ですから、私、時間まであそこに座ってもいいですわね?」
亜樹が丁寧口調でそう言うと、島田はわざとらしい顰めっ面で、
「うちはお客様へのサービスを一番大切にしてるからな。雑談も交えて頑張ってきなさい」
と言って重々しく頷いた。
その直後、二人は小さく笑い合った。亜樹の親戚である島田の店は、彼女にとって働き易いようだ。
綾香と康平は、四人用のテーブルに座っていた。亜樹は空いている椅子に座った。
「康平も来てたんだ」
「私が誘ったのよ。……でも亜樹、戻るの早くない?」
綾香が時計を見ると、まだ五時四十分だった。
「いいのよ。時間をもて余すより、友達と話してた方がいいからね。……それより康平、私がいなくても、ちゃんと勉強できたの?」
言い終わった亜樹は、康平の顔に気付き、小さく吹き出した。
「ごめんね康平。笑っちゃいけないんだけど、まるで……」
「パンダみたいってんだろ?」
笑いをこらえながら謝る亜樹に、ふて腐れた顔で康平が頬杖をつく。本気で怒ってはいなかった。
「勉強だったら、ちゃんとやったよ。……一時間位は寝てたけど」
「マンガ本に逃避しなかったんだ。……まぁ、綾香もいたしね」
康平が何か言い返そうとした時、島田は二人にドリンクを持って行こうとしていた。
亜樹がそれに気付き、「マスター、私が持っていくわ」と言って立ち上がった。それから彼女は、島田に一言言って一度奥の部屋に入った。
上着を脱いで出てきた彼女は、白のワイシャツに黒のベストとスラックスの格好で出てきた。
亜樹がトレイを持って、二人のテーブルの前に来た。
康平が頼んだのはオレンジジュース、綾香はカプチーノだった。
亜樹は「これは私のサービスよ」と言いながら、他に二つのティラミスをテーブルに置いた。
「……ごめん。気を遣わせちゃったのかな?」
綾香が心配そうな顔をすると、亜樹は小さく首を横に振った。
「違うのよ。ここのティラミスは本当に美味しいんだ。私のオススメ。お二人には、当店の常連になって頂くように、私の判断でサービスさせて頂いたしだいでございます」
最後は丁寧口調になった亜樹が、自分でクスッと笑った。そして、「ゆっくりしていってね」と言いながらカウンターの方へ歩いていった。
しばらくすると、急に客が入り始めた。
亜樹はテーブルに案内し、水を出しながらメニューを渡して注文を受ける。
次々と入る客に、彼女は慌てず、手際よく対応していった。
亜樹は背筋が真っ直ぐで、姿勢がよかった。長身の彼女に、ウェイターの制服が似合っている。
康平は、彼女を見て格好いいと思った。
「亜樹に見とれちゃった?」
ボーッと亜樹を見る康平に、綾香がクスリと笑った。
康平は慌てて否定した。
「ち、違うよ。……格好いいとは思うけど」
「そう。亜樹って、何をやらせても様になるのよね。私もあの位背が高かったからなぁ」
綾香は身長が百六十センチと少しある。女子としては低い方でない。ただ、彼女はバスケットボール部員だ。選手として、自分の身長を低いと思っていた。
「無い物ねだりなのは分かってるんだけどね」
綾香はそう言いながら頬杖を突いた。
亜樹が他の客のオーダーを全て持っていき、店の中は、再び落ち着いた雰囲気になった。
康平と綾香の座っているテーブルに、亜樹が近付いた。
「どうしたの二人共。さっきは私を見てたけど、……もしかして見とれちゃった?」
亜樹が冗談半分で訊いた。
「私も康平も、亜樹を格好いいって見てたのよ」
「……そうなの? 可愛いって言われないのは少し残念ね」
「亜樹は背が高いから、ウェイターの制服が似合うのよね。ウェイトレスの制服は無かったの?」
「ウェイトレスの服は、……サイズが合わなかったのよ」
亜樹は少し顔を赤らめた。
「……そっかぁ。亜樹のウェイトレス姿、見たかったわね。康平もそう思ったでしょ?」
「え? ……あ……うん、まあね」
康平の顔も少し赤くなった。
「あ、あんまり赤くならないでよ! こっちが恥ずかしくなるじゃない」
亜樹の顔が更に赤くなった。
康平は理不尽だと思いつつ、「ご、ごめん」と言って下を向いた。
一挙に来た客が帰り出し、また新たな客が入り始めた。
康平と綾香は店を出る事にした。
レジに立つ亜樹に綾香が言った。
「ティラミスご馳走様。とっても美味しかったよ」
「そうでしょ! 綾香は大歓迎だから、いつでも来てね。……康平も、たまには来てよろしくてよ」
綾香は笑いを堪えていた。康平は苦笑しながら店のドアを開けた。
康平は、新たに入る客と肩がぶつかった。
「す、すいません」
康平はすぐに謝り、頭を下げた。
ぶつかった相手は、身長が百八十センチ位の男だった。髪は少し茶色に染めていて、ファッション誌に出ていそうなヘアスタイルだ。顔も劣らず整っていた。
「俺の方は大丈夫だから、気にしないで」
男は優しくそう言うと、カウンターに座り、島田と話し始めた。常連客のようだ。
二人は店を出る。綾香が怪訝な顔をして言った。
「……あの人、何処かで見たような気がするのよね」
「格好いいもんね。……もしかして芸能人?」
「違うのよ。…………! 思い出したわ。亜樹が初めて付き合った人よ」
「……確か、変な噂を流されてすぐに別れたって人?」
「そう。私達の一つ上で、今高校二年生よ」
康平は驚いた。ラフな格好で制服を着ていないのもあって、同じ高校生には見えなかった。一瞬のやり取りだったが、彼には落ち着いた雰囲気があった。
綾香は話を続けた。
「私、あの人あんまり好きじゃないのよね。亜樹と別れた後、すぐに別の人と付き合ってたし……」
康平は無言のままだった。別れ際、綾香が再び口を開いた。
「フフ、亜樹が心配なのね。でも亜樹は見掛けと違って、……じゃなくて、見掛け通りにしっかりしてるから大丈夫よ」
康平は、何か言い返そうとしたが、何も言えなかった。