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熱烈な応援と裕也の変身

 青葉台高校の松岡が、赤コーナー側の階段からリングに上がった。


 永山高校のボクシング部員達は、応援する為に集まった青葉台高校の部員達にスペースを譲った。


 松岡が強豪校の新キャプテンという事もあってか、永山高校の三年生達は、相沢と一緒に少し位置を変えた。立ったまま観戦するようである。


 康平と健太も、松岡と体重が近い事から、先輩達と一緒に試合を見る事にした。



 清水が指を折りながら数え始めた。


 兵藤が訊いた。


「清水、お前何してんだ?」


「青葉台は、部員が何人残っているか数えてたんだよ。……三年がゴッソリ抜けて、二年が二人に、一年が六人か」


「俺達と同じ学年には、六人もいたからな」


「ホント、迷惑だったよ。殆んどの奴が、それなりに強くなりやがってさ」


 しかめっ面で話す清水を見て、兵藤は小さく笑った。


 試合が始まった。


 二人共、身長が百七十センチ前後で、左足を前にしたオーソドックススタイル(右構え)である。


 共にフットワークは使わず、ガードを固めてゆっくりと前に出る。


 中間距離(お互いのパンチが届くか届かないかの距離)になると、二人は積極的にパンチを繰り出した。


 序盤から激しい打ち合いになった。


 共にガードを高く上げていたが、お互い相手のパンチを防ぎきれず、相互のパンチが度々ヒットした。


 中間距離での打ち合いのせいか、ストレート系のパンチが多い。


 パンチが当たる度、その高校の応援場所から歓声が湧いた。


「ナーイスパーンチ!」


「追撃だ追撃!」



 裕也は次の試合に出る為、赤コーナー後方の折り畳み椅子に座っていた。


「松岡さん、打ち負けてないよー」


「打ち終わりは気を付けて!」



 青葉台高校の部員達も応援していたが、裕也の声が特に目立った。


 兵藤が康平に言った。


「坂田はいい奴なんだろうな?」


「いい奴ですけど……何で分かるんですか?」


「自分が次の試合に出るってのに、あんなに一生懸命応援してるからさ。……大抵の奴は、自分の試合の事で頭が一杯になるもんだけどな」



 康平は、自分の事そっちのけで応援する裕也を見て、友達が困っている時、自分の事以上に悩む彼を思い出した。


 真っ直ぐ過ぎる性格から誤解され易く、特定の人間達からは煙たがられていたが、裕也は康平にとって、かけがえのない友人の一人だ。



「ホント、いい奴ですよ」


 康平がそう言った時、青葉台高校の部員達から歓声が湧き上がった。


 松岡の左右のストレートが二発ヒットし、相手は大きく下がっていた。


 すぐに追撃をすればダウンが取れそうなチャンスだったが、松岡はゆっくりと前に出ていった為、相手は体勢を立て直してしまっていた。


 一度は下がった相手だったが、すぐに松岡へ向かっていく。


 再び打撃戦になった。


 強いパンチではなさそうだが、共に休む事なくパンチを繰り出す。


 相手のパンチがヒットしたところでゴングが鳴った。


 第一ラウンドは互角のようである。


 お互いうっすらと鼻血を出しながら、それぞれのコーナーへ戻っていった。



「ナイスファイトー!」


 青葉台高校の部員達が、それぞれ大声で激励した。


「松岡さん、打ち負けてないッスよ」


 裕也の顔を見た松岡は、肩で息をしながら大きく頷いた。



 石山が言った。


「相沢、お前だったら勝てるけど、どっちが勝っても明日は打ち合いになるぞ」


「そうですね。勝つにしても、もっと横への動きを入れて、打たれないようにしますよ」


 康平と健太は、先輩達の会話を聞いて不思議に思った。勝つのが決まっているような言い方だったからだ。



 第二ラウンドになっても打ち合いは続いている。


 相手はボディーへパンチを散らし始めた。時折、右ボディーストレートが松岡にヒットした。


 一分を過ぎた辺りから、松岡に疲れが見え始める。


 手数は多いものの、パンチのスピードが落ち、空振りした時は体が流れ気味になった。



 残り三十秒を過ぎた時、相手の右ボディーストレートから顔面へのワンツーストレートが、立て続けにヒットした。


 ズルズルと後退した松岡に、レフリーがダウンを取った。


 相手高校の応援団は大歓声だ。


 カウントを数えられている松岡は、ファイティングポーズを取った。ガードをオーバーな程高く上げている。


 松岡に戦闘意欲がある事を確認したレフリーは、「ボックス」と言って試合を続行させた。


 相手が猛然とラッシュをかける。


 鼻からの出血が多くなった松岡は、口で息をしながら果敢に応戦した。


 相手の右ストレートが一発ヒットするも、松岡はすぐにパンチを打ち返して追撃を防いだ。


 第二ラウンド終了のゴングが鳴った。



 第三ラウンドになると、相手も疲れたのか、フットワークを使って回り出した。


 本来アウトボクサー(離れて戦うボクサー)でない相手は、慣れない足取りで位置を変え、時折パンチを放つ。


 ポイントが劣勢の松岡は前に出るが、追い足が悪く、打ち合いに持ち込む事が出来ずにいた。



 後ろ足を引きずるようにして前に出る松岡を見て、清水が言った。


「もしかしてアイツ、怪我でもしてんじゃねぇか?」



 ラウンド中盤、打ち合いになった。


 松岡は、二ラウンドまでの打ち合いで体力を消耗していたが、懸命にパンチを繰り出した。


 逆転を狙う彼の気迫に押されたのか、相手は大きく下がった。


「チャンスチャンス」


「まだいけるよー」


 青葉台高校ボクシング部員達の声援が会場に響く。


 松岡は右足を引きずりながら追い掛け、パンチを放った。


 だが、自ら打ったパンチでバランスを崩した彼は、つんのめるようにして両グローブをマットに付けた。スリップダウンだ。



 石山が言った。


「清水、お前が言ったように、松岡は足が悪いっぽいな?」


「だろ! ……ただアレは、怪我じゃなくて故障かも知れねぇな。青葉台の連中、あの足を見ても、何も無かったように応援してるからな」



 試合は判定になった。


 リングアナウンスで、相手側の勝利を宣告された時、松岡はガックリと肩を落とした。


「ナイスファイト!」


「松岡さん、惜しかったです」


 青葉台高校の一年生達は、リングを降りようとした松岡を励ました。


 うつむき加減だった松岡は、キャプテンとしての自覚からか、表情を引き締めて言った。


「次は坂田の試合だからな。応援気合い入れっぞ!」



 リングに入った裕也は深呼吸をしていた。


 緊張している表情ではあったが、上がってしまっている程ではない。前の試合、ずっと大声で応援していたので、単に呼吸を整えているようである。


 リングアナウンスで名前と高校を呼ばれた両選手は、それぞれリングに向かって小さく頭を下げた。


 レフリーに誘導されて、両者はリング中央に歩み寄ってグローブを合わせた。


 二人共、左グローブの手のひらを上向きにし、それをお互いに右グローブで上から軽く被せる。


 これは、どの試合でも行われている作法のようなものである。



 赤コーナーに戻った裕也は、リング中央に背を向けた。そして、小さく前に蹴るような足踏みをしながらゴングを待っていた。


 ゴングが鳴ると、裕也はサッと振り向き、対戦相手へゆっくりと進んでいく。


 相手は、裕也よりもやや背が低い右構えである。


 二人がリング中央まで進んだ時、相手はいきなり左のロングフックを放った。


 小さなバックステップでこれを空振りさせた裕也は、すぐに踏み込み、二発の左ジャブを繰り出す。


 踏み込んだ時、マットからキュッと摩れるような音がした。


 相手が頭の位置を変えた為、二発の左ジャブは空振りに終わった。


 突き出した左グローブは、伸ばした時と同じスピードで構えた位置にピタリと戻っていた。


 鋭い左ジャブに、観客席から「オーッ」というざわめきが起こった。


 シャドーボクシングをしていた時の裕也は、ガードを窮屈な程締めていたが、今は少し緩めにしている。


 全身を小刻みに震わせるようなリズムを取りながら、裕也は左へゆっくりと回り始めた。


 試合開始から二十秒経った。裕也は速い左ジャブを繰り出すが、右パンチはまだ出していない。


 更に十秒程経った頃、裕也の左ジャブが相手の顔面にヒットした。


 相手の頭が小さく後ろにブレる。


 その瞬間、今まで微動だにしなかった裕也の右グローブが、矢のような速さで、相手の顔面へ向かっていった。


 打ち下ろし気味に打った為、裕也は上半身をやや前に倒して打っていた。


 パンチは僅かに外れたが、真っ直ぐに伸びた右ストレートは、打った時の軌道をなぞり、真っ直ぐに顎の横へピタリと戻る。


 同時に、やや前に倒していた上半身も、パンチを引きながら構えた角度へ戻った。


 予備動作のない、まるで精密機械のようなパンチに、会場が再びざわめく。



「はぇー右だな」


「アレは当たったら倒れるぞ」


 観客席からの声が康平にも聞こえた。


 相手は、裕也の速い右ストレートに驚いたのか、慌てて大きく下がった。


 裕也は無理に突っ込まず、摺り足で、相手との距離を保ちながら前に出る。


 そして、丹念に左ジャブを突いた。ノーモーションで速いパンチだ。


 相手は反応しきれないようで、ガードを固めてこれを防いだ。


 動きの止まった相手に、裕也はガードの上から右ストレートを叩き込んだ。


 バシンと大きな音が会場に響き、相手はガードをしたまま仰け反った。


 苦し紛れに相手が大振りの左右フックを打つと、裕也はバックステップで空を切らせた。キュッと摩れるような音がした。



 裕也は、インター杯県予選の時と全く違うタイプのボクサーになっていた。


 ガードを高く上げて前傾姿勢だった構えは、棒でも飲んだかのように背筋をピンと伸ばし、アップライトスタイルになった。


 ドタバタしていた足運びは、摺り足で、洗練されたフットワークへ変わっている。


 何より変わったのは、二つの拳から繰り出されるパンチである。振り回すように打っていた左右のパンチは、予備動作なしに最短距離で目標を貫くストレートになった。



 相手は、裕也の右ストレートをブロックしてから腰が引き気味になっていた。


 それを見て清水が言った。


「ありゃー、右がよっぽど強かったんだろうな」



 相手はガードを上げて強引に突っ込み、左右のフックを振り回した。


 腰が引けたままでパンチを打っている為か、大振りの割に威力は無い。


 裕也は背中を少し丸め、上半身の前面を覆うようにブロックして難なく防いだ。


 相手が左フックから右フックを打とうとした時、裕也の左ジャブがカウンターでヒットした。


 後ろによろめきながら右パンチを振り抜いた相手に、裕也はゆっくりと距離を詰める。


 守勢にまわった相手は、ロープを背にしていた。


 裕也の右パンチを極度に警戒してか、ガードこそ上げているものの、体が萎縮して固まっている。


 裕也は、数発左ジャブを繰り出した後、ボディーに右ストレートを放った。


 これは相手の腕に当たったが、すぐに裕也の右ストレートが襲いかかる。パンチの引きが速いので、二発目の打ち出しがかなり早い。


 ガードの下がった相手の顔面にヒットした。


 相手は完全に効いていた。全身の力が抜け落ち、無防備のまま、ただ立っているだけの状態になった。


 レフリーが慌てて駆け寄り、ダウンを宣告した時、裕也は既に三発目の右ストレートを叩き込んでいた。


 これも顔面に直撃し、相手は棒立ちのまま横倒しに倒れた。


 相手に立ち上がる気配はなく、レフリーはカウントの途中で試合を終了させた。



 突然の、しかも戦慄的なKO劇に、会場は静まりかえった。


 裕也はセコンドに笑顔を向けたが、横になったままの相手選手が気になったのか、時折そちらを心配そうに見ていた。


 相手は、担架で運ばれてリングを下りた。意識はしっかりしているようで、ドクターに声を掛けられた時、小さな声であったがハッキリと答えた。


 それを見た裕也は、ホッとした表情で他の部員達と話をしていた。



 清水が兵藤に言った。


「アイツ、試合じゃストレートしか打たなかったな」


「フェイントも無いし、ワンツー(ストレート)も全く打たなかったし、全部ただのストレートだったな。この大会まで、ストレートだけを徹底的に磨いてきたんだろうな」


「あの速い右ストレートのトリプル(パンチ)を、全部強打で打てるって事は、余程体幹が強えんだろうな」



 相沢が話に加わった。


「俺は体重が増えても、ライトウェルター級には上げたくないッスね。アレは来年になったら、もっと化けますよ」


 永山高校の先輩達は、裕也を高く評価していた。


 ライトウェルター級のもう一つの試合も、一ラウンドで決着がつき、すぐに森谷の試合になった。


 彼は赤コーナー側である。


 相手はリングへ上がると、歩きながら、絶えず細かいパンチを繰り出していた。



 兵藤が言った。


「アイツ、最初から出て来るぞ。昨日の試合も、いきなりラッシュで、一ラウンドRSC勝ちだったからな」



 試合開始のゴングが鳴った。


 相手は走って前に出た。そして、いきなり右パンチを振るった。


 森谷は、相手が最初から出てくるのを想定していたが、まさか走ってくるとは思わなかったようで、慌てて左グローブを上げてブロックをした。


 相手は、赤コーナー近くのロープに森谷を詰め、そのまま連打を続けた。


 防戦一方になった森谷だったが、最初の右パンチ以外は、余裕を持ってブロックしているようだ。



 清水が言った。


「足がついていってねぇぞ。基本が出来てねぇんじゃねぇか?」


 清水が言った通り、相手は自分のパンチに下半身がついていってなかった。その為、鋭さは感じられず押すようなパンチだ。


 ただ、手数は呆れる程多い。まるで、試合が一ラウンドしか無いかのように、休みなくパンチを繰り出す。


 相手が右パンチを空振りした時、大きく体が流れた。森谷はこの隙を見逃さず、左フックから右ストレートで反撃した。


 右ストレートが軽くヒットすると、相手はドシンと尻餅をついた。


 相手はすぐに立ち上がった。足が揃った時に当たったらしく、ダメージは無さそうである。



 試合が再開されると、相手は勢いよく前に出た。そして、ガムシャラにパンチを出す。


 届かない間合いからパンチを打ち出す相手を見て、石山が言った。


「飯島先生、相手は戦い慣れていないようですね」


 飯島が答える前に、清水が口を挟んだ。


「あの高校って、出ると殆んど負けてますよね? この三年間で、勝ったのを見たのはアイツが初めてですよ」


「森谷がうちの高校じゃなかったら、俺は迷わず相手の子を応援するだろうな」


 飯島のピントのズレた答えに、石山と清水は、不思議そうな顔をしている。


 飯島は話を続けた。


「向こうの顧問から聞いたんだが、あの高校はリングが無いんだ。それに、顧問は経験者じゃなくてな。教える人は誰もいないんだよ」


「リングが無いんですか? じゃあ、スパーとかは何処でやるんですか?」


 清水が訊いた時、ロープ際にいた森谷の左ジャブがヒットした。


 相手は少したじろいだが、森谷は畳み掛けずにカウンターを狙っていた。


 再び攻めた相手に合わせて、森谷は左フックを放った。だが、それは空振りに終わり、逆に相手のパンチを二発貰っていた。


 押すようなパンチだったせいか、大きく仰け反ったがダメージはなく、すぐにパンチを打ち返した。


 そのまま打ち合いになったが、共にクリーンヒットはなく、ラウンド終了のゴングが鳴った。


「相手の高校は、スパーが殆んど出来ないんだよ。練習場所も体育館の隅だしな。去年まではサンドバッグも無くてな、体育で使うマットを丸めて代用していたんだよ」


 飯島が再び話し出すと、石山が質問した。


「……そうなんですか。……そう言えば、あの高校は結構部員がいるようなんですが、どうして試合に出るのは彼だけなんですか?」


 相手選手の座っている青コーナーの後方には、学校のジャージを着た生徒が十人程いたが、一ラウンド中、大きな声を出して応援する者はいなかった。



「真面目に練習していたのは、あの選手だけだったんだよ。一日も休まずにな。他の生徒は殆んど練習してないから、試合には出られない状態なんだよ」


「指導者がいない。練習場所も無い。そんな環境だったら、モチベーションも下がっちゃいますね」


 インターバルが終わる頃になると、兵藤も話に加わった。


「練習自体はハードだったじゃないですか? 一ラウンド中あれだけラッシュしたのに、今は呼吸も整ってますからね」


「向こうの顧問が言ってたんだが、一人で出来る体力トレーニングは人一倍やってきたようだから、体力は恐ろしい程にあるみたいだぞ」


 飯島がそう答えた時、第二ラウンド開始のゴングが鳴った。


 一ラウンドと同様に勢いよく前へ出る相手に対し、森谷は、左ジャブで相手を突き放しにかかった。


 速い左ジャブが相手の顔面にヒットした。だが、相手は怯む様子がなく、果敢に前へと出る。


 スッと右後方に位置を変えた森谷は、再び左ジャブで迎え打った。


 これもまともにヒットして相手の顎が上がった。しかし、パンチを貰いながら放った相手の右パンチが、森谷の顔面を捉えた。


 効いている様子ではなかったが、つんのめるように打った相手に押される形で、森谷はロープ際まで後退した。


 森谷がそこで足を止めて応戦した為、打ち合いになった。


 打ち合いと言っても、手数は圧倒的に相手が多い。森谷はガードを固めてこれを防ぎ、相手の打ち終わりや、バランスの崩れた隙を見付けて反撃した。


 バチンと音を立てて、森谷の左ショートフックが相手のテンプル(こめかみ)にクリーンヒットした。


 一瞬よろめく相手だったが、すぐに打ち返した。がむしゃらに打った五発のパンチの内、浅目ながらも二発が森谷の顔面のヒットした。


 第二ラウンドが終了した。


 このラウンドは、ロープ際での攻防に終始した。


 手数が少ないものの、ロープを背負っている側の森谷は、タイミングのいいパンチを何発か当てていた。だが、休みなく攻める相手のパンチも同程度にヒットした。


 飯島が呟く。


「今のところはイーブンかもな」


「俺は森谷が、少し勝ってるように見えるんですけど……」


 清水が反論すると、飯島は苦笑しながら答えた。


「だからイーブンなのさ。俺達は、森谷が身内っていう色眼鏡で試合を見てるからな」



 第三ラウンドが始まった。


 ゴングと同時に森谷は前に出る。このラウンドは攻勢に出て、一挙にポイントを取るつもりのようだ。


 相手は前の一・二ラウンドと同様に勢いよく前に出た為、リングの中央で激しい打ち合いになった。


 ずっとラッシュを続けてきた相手は、息が上がっていた。苦しそうに口を大きく開けながらも、尚もパンチを繰り出す相手を見て、兵藤が言った。


「アイツ、すげぇ根性だな」



 右ストレートを空振りした森谷は、上半身を左に捻ったままピタッと動きを止めていた。


 相手が左パンチを打とうとした時、森谷はそれに合わせて左フックを放った。彼の得意とする左フックのカウンターである。


 だが、お互いの左パンチは空を切り、続けて打った相手の右パンチが森谷の顎を捉えた。彼は一瞬腰を落とした。


 すぐに打ち返す森谷だったが、相手のパンチが先にヒットした。更に、二発のパンチが追い打ちをかける。


 堪らず後退する森谷へ、相手は足をバタつかせ、つんのめりながらパンチを放って追い掛けた。


 ロープ際でラッシュを浴びる森谷に、レフリーはダウンを宣告した。



「森谷、まだ挽回出来るぞ!」


 兵藤がそう叫んだ時、セコンドの梅田が大声で指示を出した。

「森谷、足だ足。フットワークを使うんだ。いいな」


 レフリーがカウントを数えている最中、森谷は意外そうな顔で梅田を見た。


 飯島も声を張り上げる。

「梅田先生を信じて足を使うんだ」


 森谷は、飯島を見て小さく二度頷き、ガードを高く上げた。


 カウントはエイトで止まり、試合は続行になった。


 ゆっくりと左へ回ろうとする森谷に、突進した相手が右パンチを放った。森谷は辛うじてブロックで防ぐ。



 梅田が声を張り上げる。


「違う違う、もっと派手に動くんだよ! カニ歩きを多く使え!」


 森谷はガードをしながら、左側へカニ歩き(反復横飛びのような足運び)をして、大きく距離を取った。


「一発パンチを打ったら、すぐに大きく動け」


 梅田の指示で、森谷はその通りに動いた。


 森谷の打ったパンチは相手のブロックに当たった。飯島も叫んだ。


「よ〜し! それを繰り返すんだ」



 森谷は、中間距離で放つカウンターを得意とし、迎え打つのが本来のスタイルだ。


 必要に応じて摺り足で位置を変えるが、今のように大きくフットワークを使うアウトボクシングは練習していなかった。


「ポイントはヤバいのに、今アウトボクシングをして大丈夫なんですか?」


 兵藤が質問をした時、突っ込んでいく相手に、森谷の右ストレートがヒットした。決して強打ではなかったが、タイミングがよかったせいか、相手の前進が阻まれた。その隙に、スーッと森谷が大きく位置を変えた。


 慣れないながらも忙しく動く森谷に対し、相手は足が付いていかなかった。時折左右のストレートが、相手の顔面にヒットした。



「森谷の焼き付け場のアウトボクシングも、基本が出来ていない相手には有効みたいですね」

 兵藤が納得した顔で言った。



「……残り三十秒か」


 飯島はそう呟いた後、リング上に向かって声を張り上げた。


「森谷、一発当たったらパンチをまとめろ! ポイントはまだヤバいんだからな」



 森谷の、右パンチをフェイントにした後に放った左ストレートが、相手の顔面を突き上げた。


「畳み掛けろ!」飯島が怒鳴った。


 顔が上向きになった相手へ、森谷は左右のストレートを連打した。


 相手はガードを上げて追撃を防ぐ。そして、ガードの上を打たれながらも強引に前へと出る。


 少し距離が縮まり、相手が右パンチを放とうと前足を大きく踏み込んだ時、森谷の左ショートフックのカウンターがジャストミートした。


 相手の腰が大きく落ちる。大股になっていた彼は、四股を踏むような格好になって踏ん張った。


「効いてる効いてる」


「チャンスだ森谷!」


 永山高校の先輩達の声が会場に響く。


 だが、先にパンチを出したのは相手の方だった。


 スピードも威力も無い右パンチを、森谷はスウェーバック(仰け反るような防御)で難なくかわした。


 相手は自らのパンチでバランスを崩し、マットに両手をついた。


 スリップダウンになった。立った相手は足がよろめいていた。明らかに効いている。


 レフリーは迷った表情になったが、試合を続行させた。だが、それと同時に終了のゴングが鳴った。


 試合は判定になった。


 リング上にいた両選手は、それぞれのコーナーに戻り、グローブとヘッドギアをセコンドから外して貰っていた。


 その間、係員が各ジャッジから採点表を集め始めた。


「この時間は結構長いんだよな。微妙な判定だと、心臓に悪いぜ全く」


 呟く清水に健太が訊いた。


「森谷先輩は勝ちましたよね? 一ラウンド目は倒したし、ダメージも相手の方があるようですし」


 そう答える清水が、一言付け加えた。


「俺も勝っていて欲しいとは思ってるんだがな」



 採点結果が出たらしく、係員が合図を送ると、レフリーは選手をリング中央に呼び寄せる。


 大会本部席を正面にして、レフリーを挟み、三人は手をつないで一列に並んだ。


 マイクにスイッチの入った音がした。


『只今の競技は、青のコーナー、木村選手の判定勝ちです』


 レフリーに右手を上げられた相手(木村選手)は、顔をクシャクシャにして上を向き、左手でガッツポーズを作った。


 木村がリングを勢いよく降りようとした時、レフリーはそれを止めて注意した。


「君はダメージがあるんだから、リングはゆっくり降りなさい」


 リングを降りた森谷は、

「すいません。負けてしまいました」

と言って、深々と頭を下げた。



 有馬が小声で話す。

「大崎先輩、森谷先輩はあまり悔しそうに見えないんですけど……」


「森谷は、感情を表に出さないからな。……だだなぁ、試合に負けた悔しさってのは、時間が経つほど湧き上がってくるんだよ」



 梅田は、試合を担当したレフリーと壁際で話をしていた。


 試合のラウンド毎のポイントが掲示板に表示された。僅か一ポイント差での敗北だった。


 森谷は掲示板を呆然と見つめていた。


 レフリーと話し終わった梅田は森谷に言った。


「一ポイント差でも負けは負けだ。お前は実力で負けたんだよ」



 全部の試合が終わり、この日も一年生達は梅田の車に乗り込んだ。


 助手席に乗っている健太が、運転中の梅田に話し掛けた。


「森谷先輩の試合は運が無かったですね」


「負けたのは実力なんだよ。左ショートのカウンターが当たって、決定的なチャンスに森谷が仕留められなかったのも、二ラウンドが終わるまで、俺が相手の欠点を見抜けなかった事もな」


 梅田は、自分の事も含めて実力と言っているようである。彼は話を続けた。


「レフリーと話してたんだが、三ラウンド目の決定的なチャンスも、森谷が軽いパンチでも出してれば、レフリーは試合を止めるつもりだったんだよ。相手は完全に効いていたからな」


 康平が質問した。

「その事を、森谷先輩は知ってるんですか?」


「この事は森谷に言うなよ。まずは森谷自身、何が足りなかったかを、自分で考える事が大事だからな」


 梅田はそう言うと、黙って運転を続けた。


 同じ学年の黒木や裕也の強さを目の当たりに見たせいか、一年生達も押し黙ったまま座っていた。



 昨日と同じく、有馬と白鳥を途中で下ろす為に、梅田は車を止めた。


 ドアを開けた有馬が言った。


「黒木や坂田の試合を思い出してたんですが、あいつらに比べたら、俺達はまだまだなんですよね」


「当たり前だろ! お前らは足りない所だらけで、まだまともなスパーも出来てないんだからな」


 有馬は「そうですよね」と言って車を出ようとした。


「……ただなぁ」


「ただ?」


「足りない所を少しずつ埋めていくとな、いつの間にか戦えるようになってるんだよ」


 有馬は、ドアを開けたまま首を傾げた。


「ドアを閉めて少し中にいろ」

 梅田は話を続けた。


「いいか? ボクシングはなぁ、将来さきが見えなくても、馬車馬のように練習出来る奴が強くなるんだ。そういう奴は、いつか恐ろしく化ける。黒木や坂田は気にするな。今は自分が強くなれる事を信じて練習に打ち込め。分かったな」


 一年生達は返事をしたものの、声は小さめだった。


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