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新人戦(一日目)


 週は変わり、金曜日になった。この日から新人戦である。大会は三日間かけて行われる。


 初日から一年生達も学校を休み、試合会場へ向かう事になっていた。


 会場は、立花高校の練習場である。


 この学校は設備も充実しており、青葉台高校と共に、よく試合会場に使われている。


 ボクシング部員は、朝九時に一度学校へ集まり、梅田と飯島の車に乗って会場へ向かう事になっていた。


 県予選に出る選手は、殆んど二年生なのでかなり減っていた。初日は試合数が少なく、計量と検診は十一時からで、試合は午後からである。



 康平が学校へ行こうと電車に乗った時、その車両には健太がいた。


 マスクをしている健太に康平が言った。


「お前の風邪はまだ治らないんだな」


「……まぁな。今年の風邪はタチが悪いよ全く」


「試合に来て大丈夫なのか?」


「俺も行かないつもりでいたんだけどな。昨日先生に言ったら、熱が無いなら必ず来いって言われたんだよ」


 健太は鼻声で答えた。


 試合会場に着くと、壁にトーナメント表が貼られていた。


 初日から試合があるのは、フライ級(五十二キロ以下)とバンタム級(五十六キロ以下)、そしてウェルター級(六十九キロ以下)である。この三つの階級は、八人の選手がエントリーしている。



 これを見て兵藤が言った。この日は、三年生も学校を休んで会場に来ていた。


「ライトフライ(四十九キロ以下)とライト(六十キロ以下)、それにライトウェルター(六十四キロ以下)から流れたんだろうな」


「ライトフライは黒木(琢磨)、ライトにはうちの相沢、ライトウェルターは坂田(裕也)がいるからな」


 石山が言っていた三つの階級は、それぞれ四人だけのエントリーである。


 清水が頭を傾げた。


「石山、黒木は国体三位だから分かるとして、何で相沢と坂田も避けられてんだ?」


「坂田は県外の高校へ練習試合に行って、バタバタ倒しまくってるんだよ。その噂が広まったんだろうな」


「じゃあ相沢は?」


「奴は国体予選の時、派手に二人を倒して勝ってるからさ。決勝では負けたんだが、僅差の判定だったからな」



 それを聞いた清水は、相沢の所へ行って肩をポンと叩いた。


「よかったな相沢。他の学校の奴らは、お前が強いって勘違いしてるみたいだぞ」


 相沢は笑わずに答えた。


「気は抜けませんよ。ライト級には、青葉台のキャプテンになった奴も出てきますからね」


「松岡って奴だよな。アイツ、インハイの予選は初戦で負けてたし、国体予選じゃ出ていなかったぞ。……青葉台の事だから、夏休み辺りでメッチャ強くなったのかもな」


「……明日プレッシャーをかけるのはやめて下さいよ。検診前は緊張したくないんですから」



 相沢がそう言うと、清水は真顔になった。


「……そうだな。去年の石山みたいに泣きを見てしまうからな」


 近くにいる有馬が質問した。


「清水先輩、去年石山先輩はどうしたんですか?」


「石山は新人戦の決勝の前に、血圧で引っ掛かって失格だったんだよ」


「石山先輩って、高血圧なんですか?」


「ちげーよ。次勝てば優勝だったから、プレッシャーを感じたんだろうな。血圧はなぁ、緊張してても上がりやすいんだよ」


「どうなると失格なんですか?」



 清水は、血圧計のある方を見て答えた。


「百四十を超えると失格なんだけどな。……今回は大変かも知んねぇぞ」


 十一時になると、点呼から始まり、この日出場する選手の計量と検診へ移っていった。


 体重計と血圧計の所には、立花高校と青葉台高校の女子マネージャーが二人ずつ並んでいた。


 計量の終わった選手は血圧を計るのだが、最初に計った選手は深呼吸を始めた。


 どうやら血圧が百四十を超えたようである。



 それを見た清水は真顔で呟いた。


「あんな可愛いマネージャーに計られたら、血圧も上がっちまうんだよ」


 隣にいた康平が血圧計を見ると、鳴海那奈と立花高校のマネージャーが前に座っていた。


 那奈は青葉台高校のマネージャーで、和風美人と言われるような顔立ちをしている。



 康平が清水に訊いた。


「血圧って、一度計って駄目だったら失格じゃないんですか?」


「県予選じゃ融通がきくからな。三、四回は計り直せるんだよ。……今の奴も女に縁がないような顔をしているから、計っている時に、ときめいちまったんだろうな」


 清水は同情するような顔になった。


 最初に計った選手は、結局三度目の測定で無事にクリアをした。


 九人目までの測定が終わったが、全員が再計測で失格を免れていた。



 十人目は大崎である。


 最初の計測が終わった時、三人は数値を見て一瞬固まった。


 計測した二人のマネージャーは顔を見合わせ、大崎は覗き込むように頭を前に出して数値を見ていた。


 那奈は大崎に笑顔を向けた。


「私の計り方が悪かったかも知れないんで、深呼吸してからもう一度計りましょうね」



 再測した後、三人は再び固まっていた。


 立花高校のマネージャーが席を立ち上がろうとした時、那奈はそれを止めて大崎に言った。


「どうも緊張なさっているみたいですね。……次の方を先に計りますから、ちょっと休んでいて下さい」


 有馬が清水に訊いた。


「大崎先輩はヤバいんですかね?」


「……そうだな。今、立花のマネージャーが席を立ち上がろうとしただろ? あれは、ドクターへ相談しにいくところだったんだよ。そして、ドクターが正式に計って駄目だったら失格なんだよ」


「大崎先輩はまだ二回目の計測ですよね? 何で二回目で相談しに行くんですか?」


「よっぽど高かったんだろうな。……ちょっといいか」


 清水はそう言うと、焦りながら深呼吸をしている大崎の所へ歩いていった。


「お前、一回目の血圧はどうなんだ?」


「百六十ッス」


 清水に大崎が答えた。


「二回目は?」


「……百六十七ッス」


「二回目が高いだと! お前、どんだけあのマネージャーにときめいてんだよ」


「ち、違うッスよ。確かに一回目はそうかも知んないスけど、失格になると思って、二回目は気が動転しちゃったんですよ」


「……よし、今から血圧を下げる方法を教えるから、俺の言うことを訊け」


「そんな方法があるんですか?」


「清水四千年の秘伝だから、効果は抜群なんだよ。まずはアッチの方を向いて目を閉じろ。そして、深呼吸をするフリをしながら、薄目を開けてあの極悪な顔をシッカリとイメージするんだ」


 大崎の向いた方向には、他の学校の顧問と話している梅田がいた。


 そして大崎は、清水のアドバイスを聞きながら深呼吸を繰り返した。



 大崎は、三回目の計測で奇跡的に百四十を下回った。


 全員の検診が終わった後、清水が言った。


「どうだ大崎、ブチ切れた梅ッチ(梅田先生)に計られたイメージをしたら血圧が下がったろ?」


「……実はですね、それはイメージ出来なかったんスが、先生にブチ切れられた先輩を思い出したら鮮明にイメージ出来て笑えてきちゃったんスよ。そしたらリラックス出来ました」


「……そ、そうなのか?」


「先輩は、よくブチ切れられてましたもんね」


「……ま、まぁな」


 清水は複雑な表情になっていた。



 午後一時になると、試合が開始された。


 フライ級の第四試合になった。


 青葉台高校の横山卓よこやますぐるが赤コーナー側のリングに上がると、石山が有馬と白鳥に言った。


「コイツは二年のフライ級じゃ、一番強いからよく見ておくんだ」


「二年生だったんですね。インハイ予選と国体予選では、決勝で石山先輩と戦ってたんで三年生だと思ってました。……気が強そうな顔をしていますね」


 有馬がそう答えると、石山は「顔だけはな」と言って苦笑いをした。


 この大会、リングから五メートル程離れた所に簡易フェンスが作られ、応援する青葉台高校の部員達は、赤コーナー側のフェンス際に集まっていた。


「横山、落ち着けよ」


「横山さん、リラックスリラックス」


 青葉台高校キャプテンの松岡と坂田裕也が声を出すと、横山は頷いたものの、明らかに緊張した顔つきである。



 次の試合に出場する選手は、赤と青コーナー後方にある折り畳み式の椅子に座っていた。


 赤コーナー側後方の椅子には、バンタム級の第一試合目に出場する大崎が座っている。


「卓、深呼吸だ! お前は落ち着けば勝てるんだからな」


 大崎の声に力強く頷いた横山は、大きく深呼吸をし始めた。


 不思議そうな顔をする一年生達に、石山が言った。


「大崎と横山は、家も近所で親友なんだよ」


「だから大崎先輩は、減量しないでバンタム級で出るんですね。……横山さんて、顔の割に気が弱そうですね」


 有馬がそう言うと、石山は、つり上がった眉と鋭い目付きの横山を見て再び苦笑した。


 ゴングの直後にレフリーが「ボックス」と声を掛け、試合が始まった。



アマチュアボクシングの試合は、赤コーナー側の横山がベルトラインとシューズ以外はユニフォーム、ヘッドギア、グローブは赤色に統一され、青コーナー側の相手は青色で統一されている。


 横山は身長が百七十センチを超えていて、フライ級(五十二キロ以下)にしては長身の選手だ。相手は十センチ程身長が低い。



 やや動きの硬い横山が、距離をとろうと左へ回っている時、オーソドックススタイルの相手は、大きな右を振りながら突っ込んでいった。


 緊張していたせいか、横山は反応が遅れ、このいきなりのパンチを貰っていた。


 ガードを固める横山に、相手は猛然とラッシュをかける。



「効いてるぞー」


「チャンスだチャンス」


 相手側の部員達から歓声が沸いている。



「横山さんサイドサイド」


 青葉台高校の裕也達も懸命に声を出すが、横山はロープ際まで押し込まれていった。


 最初の右パンチこそ貰ったものの、横山は固いガードで後続のパンチを防いでいた。


 安全を考慮している為か、高校ボクシングの場合は、防戦一方になると立ったままダウン(スタンディングダウン)をとられる時が多い。


 横山もそれは分かっているようで、ロープを背にしながらも時折パンチを返していた。


 彼が軽い右ストレートを放った時、相手の打った右ストレートが先にヒットした。


 レフリーが両者の間に割って入り、横山にカウントを数え始めた。


 ラウンドは、まだ四十秒を過ぎたばかりだ。



 萎縮しながらファイティングポーズをとる横山に、大崎が声を張り上げた。


「卓、俺と優勝するんだろ!」


 その声を聞いた横山は、大崎を見て二度頷いた。


 そして一度両手を下げ、その場で軽く足踏みをするようなステップをしながらカウントを聞いている。


 カウンター気味に右ストレートを貰った横山だったが、彼自身は軽いパンチを打っていたせいか、ダメージは軽いようである。


 カウントが進むと、横山は再びガードを上げた。レフリーは、カウントをエイトで止めて試合を続行した。


 相手は試合再開と同時に、勢いよく横山へ近付いていった。


 そのままの勢いで、試合を終わらせるつもりのようである。


 横山の左ジャブがヒットした。相手は踏み込もうとした矢先に貰ったらしく、一瞬たじろいだ。


 横山は追撃することなく、スッと下がって回り始めた。



 有馬が石山に言った。


「特徴のあるフォームですね」


「実際に戦うと、懐が深くてやりにくいんだよ。お前と白鳥は、来年戦うかも知れないから目に焼き付けておくんだ」


 有馬と白鳥は、返事をした後に横山の動きをジッと見ていた。


 横山はオーソドックススタイル(右構え)であったが、独特のフォームである。


 ガードは顎の高さよりやや低く、両グローブは前に出している。


 右のグローブを顔から二十センチ位前に出すが、左グローブはもっと前だ。六十センチ程前に出し、伸ばしきる寸前で止めていた。


 両膝でリズムを取るが、膝を柔らかくしているせいか、ゆったりとしたリズムだ。


 そのゆったりとしたリズムに合わせて左右に動く。それと同時に頭の位置も変えていた。


 キビキビしたスピード感は無いが、しなやかな動きだ。


 また横山の左ジャブが相手の顔面に当たった。


 大きく下がった相手を見て、再び有馬が口を開いた。


「手打ちみたいなジャブなんですが、相手はオーバーに怯むんですね」


「左は最初から延び気味だからそう見えるんだろうが、打つ時は肩が入ってるし、ナックルの握りもいいから、食らった時は棒で突かれたようにカツンとくるぞ」


「……そうなんですか」


 石山が答えると、有馬は意外そうな顔で聞いていた。



「ラスト三十! まだお前のチャンスなんだぞ」


「軽いパンチに怯むんじゃねぇぞ! ラッシュラッシュ」


 仲間の声援に押されたのか、相手は強引に突進していく。


 彼が踏み込んでパンチを打とうとした時、横山の右ストレートがタイミングよくヒットした。


 顎を撃ち抜かれた相手は右膝をマットに付いた。すぐに立ったものの、レフリーがカウントを数え始める。


 ボクシングのルールでは、ダウンを奪った選手はレフリーがカウントを数えている間、反対側のニュートラルコーナーで待っていなければならない。尚、ニュートラルコーナーとは、選手達がインターバル中に座る赤と青コーナー以外の白いコーナーの事である。


 オドオドしながらニュートラルコーナーに立つ横山を見て、石山が言った。


「奴は当て勘がいいから強敵だぞ」


「ボックス!」


 レフリーの声で試合は再開されたが、残り時間が少く、お互いクリーンヒットがないまま第一ラウンドが終了した。



 二ラウンド目が始まった。


 横山には、試合開始早々にあった硬さが無くなっていた。


 絶えず摺り足で位置を変え、それに連動し、上半身をくねらせるようにして頭の位置も変えている。前のラウンドよりも動きがスムーズだ。


 そのせいか、相手は的が絞りにくくなり、手数が減っていった。


 また、時折放つ横山の左ジャブがヒットし、相手の前進を阻んだ。


 康平達一年生から見ても、完全に横山ペースの試合なのが分かった。


 顔面へ左ジャブを当てられた相手が怯んだ時、何故か横山はスッと下がっていた。


 相手は気を抜いたのか、一瞬ガードを下ろした。その時、横山が遠い間合いから一挙に踏み込んでワンツーストレートを放った。


 パパーン!


 ノーモーションから放ったパンチは、無防備だった相手の顔面に二発とも直撃した。


 相手は腰からストンと落ちた後、仰向けになって倒れた。


 彼はすぐに立ってファイティングポーズをとったものの、カウントを数えられている最中に一度足をよろめかせた。


 レフリーはそれを見逃さず、カウントをエイトまで数えた後に、「ボックスストップ!」と言って試合を終わらせた。



 石山に白鳥が質問した。


「よ、横山さんは、み、右ストレートが強いんですか?」


「パンチ力自体はそれ程でもないんだよ。……見てみろ。倒した本人が驚いてんだからな」



 有馬と白鳥が横山を見ると、彼は信じられないといった表情でリングから降り、すれ違う大崎と右グローブ同士でタッチをしていた。


 石山が再び口を開いた。


「パンチは並でも、奴はタイミングよく打ってくるんだよ。握りがいいから、右は左ジャブと同じでカツンとくるし、カウンター気味に貰えば、気が遠くなるような感じで効いてしまうぞ」


 その話を聞いた有馬は、怪訝な顔になった。


「インハイと国体予選の時、先輩は奴から圧勝したように見えたんですが……」


 有馬に言われた石山は、インターハイ予選では二ラウンドで、国体予選では一ラウンドで横山にRSC勝ちをしていた。



「インハイの予選の時は苦戦したんだよ。一ラウンド目の終盤、右のカウンターで一瞬効かされたしな」


「そんな風には見えなかったです」


「そりゃ必死に誤魔化すさ。効いてんのが分かったら、相手はかさにかかって攻め込んでくるからな。……ロングレンジ(離れた間合い)での横山は、本当に厄介だぞ」


「ショートレンジ(接近戦)ではどうなんですか?」


「俺とやった時はカラキシだったな。接近してからは俺が打ちまくってRSC勝ちだったんだが、今はどうなってるか、まだ分からないぞ」


「……そうですね」


 有馬がそう答えると、石山はリング上を見ながら言った。


「次は大崎の試合なんだし応援に集中するぞ。アイツは調子にノリ易いタイプだから、軽いパンチが当たっても歓声を挙げてやるんだ。分かったな」



 有馬と白鳥は返事をして、赤コーナー側のフェンス際へ歩いていった。


 セコンドに付く梅田を見て、康平は、隣にいる相沢に質問した。


「大崎先輩は飯島先生が教えてましたよね? どうして梅田先生がセコンドなんですか?」


「……飯島先生はなぁ、不謹慎な事を言って暴走するのを自覚してるから、セコンドを拒否をしているんだよ。アマチュアボクシングはマナーに厳しいからな。いつも見てれば分かるだろ?」


「凄く分かります」康平は心から納得した。



 康平がリング上を見ると、相手とグローブを合わせた大崎が赤コーナーに戻るところだった。


 相手は身長が百七十センチを超えていた。バンタム級(五十六キロ以下)では長身の選手である。



「大崎、判定勝ちでもいいんだからなー」


 飯島はノンビリとした口調でそう言いながら、一回手拍子をした。右クロスカウンターを狙うなというサインだ。


 大崎は飯島を見て一度頷いた。



 試合が始まった。


 大崎は、勢いよく相手に向かって進んでいく。


 相手は、迎え打とうとワンツーストレートを放った。上から打ち下ろすようなパンチだ。


 大崎は、小さくバックステップをして空振りさせた。その後鋭く踏み込み、逆にワンツーストレートを相手の顔面へヒットさせた。


 当たりは浅かったものの、相手はたじろぎ、ガードを上げて守勢に回っている。


 大崎は、更に踏み込んで左のボディーブローを叩き込んだ。


 ベジッと音を立てて、相手の右脇腹へヒットした。



「ナーイスボディー!」


 康平達一年生も、先輩達に混じって歓声を挙げた。


 ロープへ詰まった相手に、大崎が左フックを放った。


 そのパンチが空を切ると、飯島は眉をしかめた。


 ロープ際から脱出し、体勢を立て直した相手は、再びワンツーストレートを放った。


 大崎は、相手の右ストレートを、左へ移動しながらウィービング(潜るような防御)でかわした。


 空振りでバランスを崩した相手に、大崎は再び左フックを打った。だが、彼のパンチも空振りに終わった。



「おおさきぃー、倒す必要は無いんだぞー」


 空振りで少し泳いだ格好になった大崎へ、飯島がユックリと叫んだ。


 石山が飯島に言った。


「大崎の奴、何か力んでますね」


「アイツ、前の試合で友達が倒したから、自分も倒してやろうって思ってんだろうな」


「……そうかも知れないですね」



 単発で強振する大崎を見て、石山が頷いた。



 大崎は序盤にパンチをヒットさせた後、大振りのパンチが目立ち、ミスブロー(空振り)を繰り返していた。


 ただ、相手のパンチは貰っていない。


 第一ラウンドが残り三十秒になった。


 石山が再び口を開いた。


「先生、大崎にアレを打たしてもいいんじゃないんですか?」


「アレって、お前が先週から教えてたヤツだろ? ……立花(高校)の荒川も見てるんじゃないのか?」


 立花高校の荒川選手は、バンタム級で大崎と共に優勝候補の一人である。トーナメントでは反対側のブロックにいるので、大崎が勝ち進めば、決勝で当たる確率が高い。


 石山が後ろを振り返ると、三試合後に出場する荒川は、軽くシャドーボクシングをしながら試合を見ていた。向こうも、大崎の試合が気になっているようである。



 石山が振り返って言った。


「確かに見てますね。……でも、今の相手だったら一発目が当たりそうなんで、アレは分からないと思うんですよ」


 飯島は試合を見ながら腕を組んだ。


「いいや、次のラウンドは打たせないぞ。……打たせるとしたら、あの大振りが直ってからだ」


「え、どうしてですか?」


「もしアレが外れたら、打ち合いになるからな」


「……そうですね。その時は、大崎の回転の速い連打が必要ですからね」


 石山は納得したようである。


 ラウンド終了のゴングが鳴ると、大崎は、肩で息をしながら赤コーナーに戻った。


 梅田はリングの中へ入り、大崎に深呼吸をさせている。



 飯島は、大崎に聞こえるような独り言を言った。


「誰かさんは、一発で倒そうと力んでるから、疲れちゃってんだよなぁ」


 深呼吸をしている大崎が肩をすくめた。どうやら彼も自覚しているようである。


 飯島が独り言を言った。ただ、わざとらしく声が大きい。


「次のラウンド、いつもの連打が出来れば、石山が教えたアレを打たせたいんだよなぁ」


「本当ですか?」


 大崎がそう言って思わず後ろを振り向くと、飯島はユックリと頷いた。



 隣から石山が言った。


「さすがに先生は、大崎をのせるのが上手いですね。奴はアレを打ちたがってましたからね」


「……これでアイツも、いつものボクシングが出来るといいんだがな」


 第二ラウンドが始まると、大崎の動きに変化があった。


 一ラウンド目と違って、あまり前には出ていない。


 膝で早いリズムを取るのは前のラウンドと変わりないが、時折ダッキングを加えながら小さく左右に動いている。


 大崎が右ストレートを空振りした。


 離れた距離から踏み込まずに打っていた為、相手には届いていない。グローブを放り投げるような力を抜いたパンチだ。


 様子を見る相手に、今度は大崎の右ストレートから左フックが空を切った。


 これも、相手には届かない間合いで軽く打っていた。わざと空振りしているようである。


 相手が二発の左ジャブから右ストレートで攻め立てると、大崎先バックステップでかわした後に、右後方へ蟹歩きをして大きく距離を取った。


 両ガードをダラリと下げてから構え直した大崎は、頭を振りながら前へと出始めた。


 そして、二発の左ジャブで距離を詰めて右ストレートを放つ。


 今度は当てるつもりで鋭く踏み込んでいた。同じコンビネーションを打った相手よりも、パンチにスピードがあった。


 これは空振りに終わったが、大崎はバランスを崩さず、上半身を左に捻ったまま重心を落として静止している。


 相手が反撃しようと踏み込んだ時、大崎は後ろへ跳びなから左フックを放った。


 僅かに届かず空を切ったが、一ラウンド目と違って力んではいない。練習で打っていたシャープなパンチだ。



「ようやく力みも取れたようだな」


 飯島はニヤリとしながら呟いた。


 すると清水が話し掛けた。


「今のは先生が教えたんですよね?」


「まぁな。……ただ、アイツはスパーで使う時が無かったから、まだ慣れてはいないんだがな」


「リラックスする為に、わざと空振りするのは誰も思い付かないですよ。……先生のセコい技術は、他に教えてるんですか?」


「……他のはまだ教えてないぞ」


「クリンチワークや泥試合の戦い方は、早目に教えた方がいいですよ。……強敵になれば、使わざるをえない時があるんですからね」


「俺のセコいボクシングを一番習得出来たお前の忠告だからな。有難く聞いておくよ」


 二人は真顔だった。


 ラウンドの中盤になると、大崎のパンチがヒットし出した。



「ポイントは負けてんだからな」


「前出ろ前」


 仲間にハッパをかけられた相手が、ワンツーストレートで反撃すると、大崎は小さく左へダッキングしながら左ボディーブローを放った。


 軽く打ったようなパンチだったが、タイミングよく当たったようで、相手はズルズルとロープ際へ後退した。


 大崎はスッと距離を詰め、ワンツーストレートを顔面に軽く放つと、左へ上半身を捻ってピタッと動きを止めた。左ボディーブローを狙っているような構えだ。


 それに気付いた相手は、体をやや右に折り、右ガードを固めて警戒している。


 大崎がパンチを放つと、相手の顔面が上向きになった。左アッパーがヒットしていた。


 体勢の崩れた相手に、大崎はすぐに追撃をかける。右から左、そして右ストレートの三連打が立て続けにヒットし、レフリーがダウンを宣告した。


 赤コーナー側から歓声が沸いた。兵藤が言った。


「左ボディーを打つ体勢から左アッパー。……石山の十八番だな」


「石山だったら、左アッパーで試合を終わらせるだろ。パワーが違うよ」


「いや、大崎は追撃が早いから同じだと思うぞ」


 清水に続いて石山が言った時、レフリーは試合を続行させた。


 もう一度ダウンを奪おうと、大崎が前に出た。


 だが、相手がガムシャラにラッシュをしてきた為、このラウンドは詰めきれずに終了のゴングが鳴った。



 赤コーナー側の椅子に座っている大崎へ、飯島が言った。


「大崎、次のラウンドは狙っていいぞ」


 そして飯島は二回手拍子をした。右クロスカウンターを狙わせる時のサインだ。



「アレをぶちかましてやれ」


 彼が続けてそう言うと、大崎は右手を小さく上げて頷いた。本人は打つ気満々のようである。


 石山が言った。


「先生、さっき言った事と矛盾するんですけど、この試合はアレを出さなくても充分勝てるんじゃないですか?」


 飯島はやんわりと否定した。


「いや、この試合だからこそ打たせるんだよ。……次の相手は、どっちが勝っても長身のアウトボクサーだからな」


「……もしかして、あの効果を狙ってるんですか?」


「まぁな。この試合で、派手に倒れる程効果は抜群だしな」


「そうですね」


「俺としては、大崎のアレは全部の試合に打って欲しいよ」


 石山が頷くと、清水が話に加わった。



「どうしてだよ?」石山が首を傾げた。


「最後のスパーで、俺は奴にアレを打たれて今でも首が痛くてな。この辛さを、対戦相手にも分かち合って欲しいんだよ」


「そう言えばお前、アレの後の追撃も直撃食らってたもんな」


「アレは追撃の方が強烈だよ。……ただ今の相手だったら、お前がさっき言ったように、追撃の前で終わりそうなんだよな」


 清水が首筋を擦りながらそう言った時、第三ラウンド開始のゴングが鳴った。


 青コーナー側から、相手が勢いよく飛び出した。


 呼吸が整っていないにも拘わらず、再びガムシャラに打って出る。


 ポイントが劣勢なのを自覚しているようである。


 右クロスカウンターを狙っている大崎だったが、不意を突かれたせいか、ロープ際まで後退した。



「今は無理に狙うなよ」


 飯島が早い口調で指示を出す。



 ブロック越しに打たれながらも、左へ無理矢理ダッキングをした大崎は、強引に左ボディーブローを打ち返した。


 直撃はしなかったものの、相手の連打が止まった。


 大崎は、再び左へダッキングをして上半身を左に捻った。


 前のラウンド、彼のこの体勢から左アッパーと左ボディーブローを貰っている相手は、警戒し、大きくバックステップをして距離を取った。



 大崎が構えを戻すと、相手は踏み込んでワンツーストレートを放つ。


 その時、大崎は小さく踏み込んでいた。


 ワンの左ジャブからツーの右ストレートを打ちにいった相手の顔面に、大きく左下へ体を沈めながら打った大崎の右ロングフックがジャストミートした。


 右パンチを正面から浴びた相手は、仰向けで倒れた。


 大崎は、後ろにあった右足を前に出したので、倒れた相手を踏みそうになった。慌ててジャンプをした彼は、バランスを崩していた。


 背中からマットに落ちた相手は、体をうつ伏せにしてすぐに立ち上がろうとしたが、再びキャンバスに崩れ落ちた。


 レフリーは、カウントの途中で試合を終了させた。


 試合会場は一瞬静まり返った。


 相手はセコンドに抱きかかえられ、ようやく青コーナー側の椅子に座る事が出来た。


 リングアナウンスで勝利者の宣告をされて、レフリーに右手を挙げられた大崎は、少し興奮した顔でリングを降りていた。



 飯島が言った。


「石山、お前の言う通り、大崎は追撃を出す前に終わっちゃったな」


「今の相手は、単調で無警戒でしたからね。……これで次の試合は戦い易くなった訳ですね」


「まぁ、そういう事にはなるが、バンタム級の残り三試合は見ておかないとな。……大崎、お前は着替えたら、あそこで俺と試合観戦だぞ」


 飯島はそう言うと、応援席の空いている場所を指差した。



 その後、三つの試合が終わり、森谷の番になった。


 相手は身長が百七十センチあるか無いかで、ウェルター級(六十九キロ以下)としては背が低い方だ。


 サウスポースタイルで、以前はライトウェルター級(六十四キロ以下)で試合に出ていたが、この大会から階級を上げていた。


 石山が兵藤に言った。


「アイツ、国体予選の時はお前に判定負けしたんだよな」


「奴はタフだぞ。何発かいい右フックを当てたんだが、すぐに打ち返してきたしな」


「ガチャガチャ打ってくるような感じだったけど、パンチはあんのかよ?」


「左は体ごと叩き付ける感じで打ってきたから、結構あると思うんだが……。言っとくけど、俺は殆んど貰ってないんだからな」


 石山は「分かってるよ」と言って小さく笑った。


 試合が始まると、森谷は左へ回った。


 そして、外側から山なりの左ジャブを積極的に繰り出す。



 覗き見ガードでブロックしていた相手は、左ストレートで飛び込んだ。


 バックステップで空振りさせた森谷は、右ストレートを突き出した。


 軽く打ったパンチだったが、タイミングよく当たり、相手の前進が止まった。


 これを見た森谷は、すかさず右ストレートから左フックで追撃する。


 相手が辛うじてブロックをすると、森谷はスッと左へ位置を変えて待っていた。



 反撃する為に距離を詰めようとする相手の出鼻へ、森谷の下から突き上げる左ジャブがカウンターでヒットした。


 相手は、顎を上げながらも右フックを強振した。


 森谷は、慌てることなくスウェーバックで空振りさせたが、兵藤が言ったように相手はタフそうである。


 空振りした相手が更に近付こうとすると、森谷の右ストレートが彼のガードに当たった。


 スウェーバックで仰け反るような体勢から、前に戻しながら打ったパンチだったので、強打になっていた。


 更に、向こうが前足を出したタイミングで当たった為、相手は大きくバランスを崩した。


 森谷はこれを見逃さず、左右左右と、四発のストレートですぐに追撃をかける。


 相手は固いガードで防いでいたが、森谷が打ち終わった時に左ストレートで反撃した。


 その時、一瞬間をおいて放っていた森谷の左フックが顔面にヒットした。


 カウンター気味にパンチを貰った相手は、顔の向きが真横を向く程大きく変わった。


 だが、相手は怯む様子もなく、左右のロングフックを振りながら強引に前へと出ていた。



 清水がボヤくような顔で感心した。


「恐ろしい位にタフだなアイツ。今のだったら倒れてもおかしくねーぞ」


 兵藤が頷いた。


「そうだろ? ただ、森谷の出だしはいいようだな」



 相手は頭を振りながら前進し、懸命にパンチを出していくが、森谷は頻繁に位置を変え、時折右ストレートで迎え打った。


 体の捻りを使った強いパンチではなく、単に突き出すような右だったが、サウスポースタイルの相手の出鼻にタイミング良くヒットし、接近させるのを防いでいた。


 相手の出すパンチは全て空を切り、完全に森谷のペースで第一ラウンドが終わった。



 インターバルの最中、飯島がジッと青コーナー側を見ていた。そして彼は小さな声で言った。


「次のラウンドは、相手がガムシャラに出てくるぞ」


 康平が訊いた。


「森谷先輩に言わなくていいんですか?」


「梅田先生も分かっているからな。しっかり指示を出してる筈だ」


 第二ラウンドが始まった。


 相手はガードを高く上げ、走るように近付いていった。


 森谷は右ストレートで迎え打つが、相手はガードをしながら強引に前へ突っ込む。


 揉み合いになり、森谷をロープ際まで押し込んだ。


 その時、レフリーが割って入り、両手で押すゼスチャーをしながら相手に注意を与えていた。


 飯島が一年生達に言った。


「アマチュアはルールが厳しいからな。反則技は覚えておけよ」


 有馬が訊いた。


「あれはプッシング(相手を押す反則)ですよね?」


「露骨に押してたからな」



 飯島が言い終わった時、また試合が中断になった。再び相手が注意を受けていた。


 次は白鳥が口を開いた。


「い、今のは、ロ、ローヘッドですよね?」


「足より前に頭があったからな。ファイタータイプ(前に出て戦うボクサー)だと結構取られ易いぞ」


 リング上では、森谷が再びロープを背負った。


 だが森谷は、フットワークを使わずにジッと相手を見ていた。その場で迎え打つようである。


 森谷が、右肩と右グローブをピクッと動かす。


 相手は反応し、大きくバックステップをした。



「下がるんじゃねーぞ」


「ポイントは負けてんだからな」


 相手側コーナーの応援席から、叱咤する声が響く。


 飯島が試合を見ながら言った。


「前のラウンド、森谷のタイミングのいい右がよく当たってたからな」


「何か森谷は変わりましたね」


 飯島は「分かるか?」と言って、兵藤に視線を移した。


「何となくですけど、石山とスパーで打ち合ってから、少し余裕が出てきた感じなんですよね」


 兵藤が話し終わると、飯島は試合を見ながら頷いた。


「そうだな。石山とスパーをして、接近戦で戦える事が分かったからじゃないか」


 森谷はロープを背にしたまま、右グローブを放り投げるように軽く突き出した。


「アイツ、誘ってるな」石山が小さく笑った。


 森谷が再び右グローブを突き出した時、相手は左へダッキングしてから大きく踏み込み、左ストレートをボディーへ打った。


 森谷は、体を絞るようにしながら左フックを放っていた。


 両者のパンチが、相打ちのタイミングでヒットした。


 相手の左ストレートは森谷の右腕でブロックされていたが、森谷の左フックは相手のテンプル(こめかみ)を捉えていた。


 バチンとパンチの当たる音がした後、相手は大きく腰を落とす。バランスを崩した相手は、後ろ向きで走るような格好になった後に、右グローブをマットに付けていた。


 レフリーが割って入り、カウントを数え始める。


 赤コーナー側の応援席から歓声が沸いた。


 相手はすぐにファィティングポーズをとりながら、四度小さく足踏みをした。効いていない事をアピールしているようである。



 カウントエイトで試合が続行されると、勢いよく前に出たのは相手の方だった。


「うひゃー、向こうはやる気満々だよ」


 清水が苦笑いをした。


「いや、案外追い詰められてるかも知れないぞ」


 飯島がそう言った時、相手はローヘッドでレフリーに注意をされた。



 再び清水が口を開く。


「先生、アイツ、強引に近付こうとしてますね」


「離れたら森谷にパンチを当てられるし、中間距離で手を出せばカウンターが飛んでくる。……向こうにしてみれば、接近戦にすがるしかないんだろうな」


「じゃあ、森谷は離れて戦うんですかね?」


「……何気に打ち合うんじゃないか? 今も迎え打つ体勢でいるしな」


 第二ラウンド、一分が過ぎた。


 ロープ際で、再び森谷が左フックのカウンターをヒットさせた。


 だが、タフな相手はそのまま前に出て近付き、ショートパンチを打ち出した。


 森谷も応戦した為、接近戦での打ち合いになった。


 共に一発ずつパンチをヒットさせたものの、当たりが浅く、両者は更にパンチを繰り出す。


 森谷の左ショートフックが直撃すると、相手は一瞬棒立ちになった。


 森谷は、ショートストレートのワンツーで追撃した。


 相手は、腰からストンと落ちて尻餅を付いた。


 すぐに立った相手だったが、試合再開後、森谷は連打で三度目のダウンを奪い、RSC勝ちになった。


 勝者として右手を挙げられた森谷を見た康平は、カッコよく思うと同時に希望が湧いていた。


 この先輩達と互角にスパーリングを出来る位になれば、自分もあーやって、勝利者として右手を挙げられるようになると思ったからだ。



「コイツ、握り拳作ってるぜ」


 有馬の声が聞こえた。からかうような声だ。


 康平は、自分が無意識に右手を握っていることに気付き、慌てて手を開いた。だが、有馬にからかわれていたのは白鳥だった。


「……あ、いや、凄いなって思って」


 白鳥は恥ずかしいのか、顔を赤くして答えた。


「似合わないんだよね白鳥君。君に握り拳なんてさ」


 続けてからかう有馬だったが、やけにテンションが高くなっていた。どうやら彼も、ヤル気になっているようである。


「ちょっとトイレ」


 健太がボソッと言って、試合場を出ていった。



 残りの三試合が終わり、永山高校のボクシング部員達は、帰り支度をしようとしていた。


 相沢が言った。


「もうすぐ帰るんだが、片桐はどうしたんだ?」


「森谷先輩の試合の後に、トイレへ行くって言ってました」


 康平が答えると、相沢は首を傾げた。


「森谷の試合は、三十分以上前に終わってんだよな。……長くねぇか?」


「ちょっと見てきます」


 康平はそう言うと、健太を探しにいった。


 康平がトイレに着くと、健太はいなかった。


 行き違いになったと思い、康平は試合会場へ戻る事にした。


 試合会場のすぐ近くに階段があった。康平はその陰で、マスクをしたままシャドーボクシングをしている健太を見つけた。


 康平が声を掛けた。


「……風邪は大丈夫なのか?」


 健太はうっすらと汗を掻いていた。ずっとシャドーボクシングを行っていたようである。


「……まぁな」


 健太は、気まずそうに鼻声で答えた。


 そこに梅田が通りがかった。


「片桐、高田、もう帰るからな」



 帰り支度を済ませた一年生達は、梅田の車に乗った。飯島の車は七人乗りで、二・三年生が乗っている。



 学校へ戻る中、有馬と白鳥の家は途中にあったので、梅田は二人を最寄りの駅で降ろした。



「お前らは学校でいいよな?」


 梅田にそう訊かれて、康平と健太は「はい」と返事をした。


 学校に着き、車から降りようとした健太に梅田が言った。


「片桐、風邪を引いた時はシャドーをするんじゃねぇぞ」


「……はい」


 小さな声で答えた健太に、梅田は付け加えた。


「……ただ、風邪が治ってるんだったら、俺のいない所でいいから鼻に詰めているのを外せ」


「え?」健太はギクリとした顔になった。



「明日には風邪が治るんだよな?」


「……あ、はい。し、失礼します」


 健太はそそくさとドアを閉めた。



 駅に向かって歩きながら、健太が口を開いた。


「あちゃー! バレバレだったんだな」


「……シャドーをしてた事か?」


「ちげーって。コレだよ」


 健太はそう言うと、マスクを外した。そして、鼻に詰めていたガーゼを取り除いた。


 康平が訊いた。


「何で鼻に詰めてんだ?」


「……これで鼻声になるだろ」


「お前、仮病だったのかよ?」


「……日曜日までは本当に引いてたんだけどな」


 健太は、頭を掻いた後に話を続けた。


「怖くなったんだよ。月曜日にスパーをしたら、また倒されると思ってな」


「月曜日は先輩同士のスパーで、結局俺達はしなかったんだよ」


「……そ、そうなのか?」


 小さく笑う康平に健太が言った。


「康平、何ニヤついてんだよ」


「お前もシャドーをしてたんだから、先輩が勝ったのを見て、またヤル気が出たんだろ?」


「……ヤル気になったと言うより、恥ずかしくなったんだよ」


「恥ずかしい?」


「……電車に乗ったら話すよ」


 健太は改札口を通り抜けた。


 丁度電車が来ていたので、二人は駆け込んだ。


 空いている席に座った後、健太は話を続けた。


「実はさ、俺がスパーで倒された時って、余り効いて無かったんだ」


「効いて無い?」


「……まだ俺も、効いたって感じは分かってないんだけどな。ただ、あの時はすぐに立てたんだよ」


「…………」


「……カウントを数えられた時、色々考えてたんだよ。立ったら白鳥みたいに、また打たれるなってさ」


「白鳥は立ってから、かなり打たれてたもんな」


 康平がそう言うと、健太はしばらく黙った。



 康平達が降りる下田駅が近くなると、再び健太が話し始めた。


「今日の試合で倒された奴は、みんな立ってたし、立とうとしてたんだよ。たとえどんなに効いててもな」


 ドアが開き、二人は電車を降りた。


「自分自身に腹が立ったんだよ。あの時立たなかった俺にな」


 改札口を抜けて話す健太だったが、意外な表情をする康平に気付いたようである。


「何だよ! 俺の顔に何か付いてんのかよ?」


「そうじゃねーよ。お前も、悔しがる時があるんだなって思ったんだよ」


「……まぁ……その、なんだ、俺なりだが真面目に練習してたつもりだからな」


 照れ臭そうな顔をして健太は答えたが、突然ニヤニヤし始めた。


「そう言う康平だって、森谷先輩の試合が終わった後に、握り拳を作ってたよな」


「……み、見てたのかよ?」


「チラッとな。……似合わないんだよね康平君。オットリの君に握り拳なんてさ」


「有馬の真似すんなよ。……とに角、森谷先輩には優勝して欲しいよ」


「そうだな。先輩にはスパーで歯が立たないんだから、優勝して貰わないとな」


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